R-(アール・マイナス)



 廊下に通じる扉からノックの音がして、ベッドの上にいた真咲は慌ててシャツのボタンを嵌め終えた。
「開けてくれ。…いるんだろう」
 扉の向こうから聞き覚えのある声がして、少年は小さく息を呑む。
 欲望を処理した少年たちの退場と引き換えになるようにして、あの保健医が戻ってきたのだ。
「…今、行きます」
 緩慢な動作でベッドから降り、上履きを突っ掛けると、入り口に向かう。足元がおぼつかないのがはっきりと感じられて、彼は小さく唇を噛んだ。
「ああ、やはりきみか」
 長身の青年と視線が合うなり、真咲の脳裏にあった、保健医の皮肉げな口調が蘇った。相対した瞬間から、真咲の視線は見上げることが決定付けられる身長差がそこにはあって、仕方なく、彼は俯くしかない。
「毎週毎週、飽きないね、彼らも…、久しぶり」
「――…」
 真咲を虐げた彼らが保健室の鍵を手に入れるために、保健医の青年に金を握らせていたことを、先日真咲は知った。真咲たちの醜態を知る唯一の大人。それが判明してなお、真咲が辱められる場は変わらない。
 そして今、最悪の形で再会したに等しい真咲に対し、男は子供が繰り返した悪戯を咎めるような軽い口調で嗜めるのみなのだった。それに半ば拍子抜けを覚えつつ、お久しぶりです、と返事をすることも、馴れ馴れしく呼ばないでください、と突っぱねることも出来ず、ただ真咲は沈黙していた。
 と…、不意に青年の腕が真咲の胸元に伸びた。
「なっ…、にを…」
 するんですか、と言い掛けた真咲の声が尻すぼみに消える。その手は彼のシャツのボタンに触れていた。一番上のボタンが何処にも留まらずに浮いている。青年は真咲の身体を上から下に眺め、小さく鼻を鳴らす。
「これ、全部間違ってるよ」
 咄嗟に、嵌めようとしていたシャツのボタンを互い違いにしていたのだ。しかし彼はそれに気づけなかった。下から上にボタンを嵌める癖のある真咲は、時折、最後になって自分の犯した小さな間違いに気づいて意気消沈するのだが、今日ばかりは全く笑えない。なんだか子供扱いされたようで。
「ふん…、しかし一応、今日は間に合った、というわけかな」
「言わないでください」
 手の甲で青年の腕を払いのけ、真咲は黙って居住まいを正した。当然、シャツの下は素肌のままで、しかも先程の無防備な行為の名残が色濃く停滞しているはず。今にもそれを男に指摘されるのではないかと、真咲は正直、気が気ではなかった。
「先生が来るって知っていたら、こんなところにいつまでもいたくなかった」
「そうかい。だが僕も、一々自分の城に入るのに、きみにお伺いを立てるのはおかしいだろう」
「…自分の鍵を持っているくせに」
「何を言ってるんだい。自分の鍵で普通に開けて入って、またきみが裸でいたら、お互い困るだろう?」
「ッ…、莫迦保健医」
 一気に赤面して呟く真咲を尻目に部屋の奥へ足を進める彼は、相変わらず面白みのない茶系の色のジャケットを片手に、もう片手にコンビニのものらしいビニル袋を提げている。
 机の上にそれを置くと、自らは椅子に座り、
「飲むかい、きみも」
 真咲に短く問う。
 様々なことが次第に嫌になりつつある真咲は、シャツの裾を仕舞うのも面倒に思え、ボタンがしっかりと一番上まで掛かっているのだけは確かめて、おずおずと歩み寄った。
「…何ですか」
 真咲が訊き返すと、彼は袋の中からアルコール飲料の缶を取り出すのだった。
 学校の中で見掛けるにはあまりに不謹慎なその物体を目に留めて、真咲は思わず絶句する。
「先生…」
「うん?」
 全く悪びれる様子もなく、微笑みすら浮かべて缶を二つ掲げてみせる青年に、真咲は不信感もあらわに追及の手を示す。
「いいんですか、こんなことして。他の先生にでも知れたら、即刻、辞めさせられますよ」
「分かってるさ、こんなことが良いことか悪いことかくらい。分かっていてやろうとしているんだから、それなりの覚悟はしてのことだ」
「だからって」
 ここが学校でなければ、こんな子供のような追及はしないだろう。しかし…、場所が場所というものではないか。それが他者に発覚したときのリスクが大き過ぎる。放課後の校内で飲酒喫煙をしていたことが発覚した日には、停学の一月やそこらでは済まないだろう。
「だから、なんだい。確かにこれは犯罪だよ。未成年に飲酒を勧めて、公共の場である学校で昼間に飲酒をする。社会的に言っても明らかに悪だろう。しかし、県や国のお偉いさんが飲酒運転で毎日捕まる時代だぜ? 何処の誰だって、自分に対してはこう言い訳する。『これくらいのこと、ばれなければ大した問題じゃない』とね」
 しかし赤い顔をして堂々と帰るとでも言うのだろうか。
「そこは子供か大人かの違いだ。こんな安いアルコールで酔っ払うようなら、最初から変な度胸試しみたいなことはしないよ」
「ふうん…、じゃあ先生は」
 真咲は試すように言ってみる。
「ぼくが、貴方がここで酒を飲んだことを誰かに言っても、やっぱり何とも思わないっていうんですね」
「ああ」
 半分茶化すためだった言葉に、まともな返事がきて、真咲は面食らう。そんな彼の目の前で、青年はポケットから煙草を取り出して火を点けると、深く吸い込んで紫煙をゆっくりと吐き出した。
「大体が、人を殺した奴だって、中にはこう思ったりする。『これくらいのこと』――」
 その先を、彼は言わなかった。
 『ばれなきゃ大した問題じゃない』? それこそ不謹慎ではないか。
「冗談だよ」
 そう思っていたら、あっさりと撤回してみせる。それも彼の話し方なのだと、真咲は思い出した。
「とんだ不良教師だ」
「不良で結構」
 その目が、『そういうきみはどうなんだ』と今更ながら問い詰めている。
 真咲にも一応の常識というものがある。構内で姦淫行為。目の前の男の裁量次第で、真咲を含め、数名の生徒の退学が確定するだろう。その後の彼らへの社会的貶めは想像するだに恐ろしいものすらある。
 そんな真咲の思案が伝わったのだろう、青年は煙草を銜えたままの口で言い放った。
「彼らは僕を金で買ったつもりでいるかもしれないが、そんな考えは甘過ぎる。きみたちが今後、穏やかな学生生活を送れるか否かは、僕の気分次第だということに気づけなかったのはあまりに愚かだが…、実際にしている行為も十分に愚かなのだから、かえって言葉を失うというものだ」
 言葉の端々に青年特有の残酷さが垣間見えてきて、真咲は胸が苦しくなってくるのを感じた。
「先生…」
「無理だよ。僕は既に彼らに買収された身だ。その彼らに身体を売っているきみは、彼らと同罪だ。僕はきみたちを諭すつもりもなければ、赦すつもりもない」
 真咲は彼の言葉を耳にしながら、自分の呼吸が乱れるのを自覚していた。彼の『告訴』を取り下げるためには、いざとなったら、この男にも自らの身体を開き渡さなければならないときが来るのだろうか、との危惧を感じ始めていたからだ。
「全くの中立…、いや、関心がない立場にある。本来ならば健全な青少年の将来を懸念しなければならない身分だが――」
 真っ直ぐに真咲の目を見遣る保健医は、…そこで、ふっと息をついた。
「前にもきみに言った通り、僕はきみたちの行いに対しては、何も関与しない。好き勝手にすればいい、というのが本心だ。…まあ、僕もこんなところで今後の生活を危うくなんてしたくないからね。ここで好き勝手される分には、ある程度なら問題ない」 そして手に持っていた缶を机に置くと、笑みを口許だけのものに変えた。
「これは元々、科学の実験に使用するからと他の先生に頼まれて、お使いをしてきた帰りのものだしね」
 その言葉に内包された不謹慎さはなんら変わるところがないのだが、無意識にほっと息をついていた。それが安堵のものなのかどうかなんて、真咲には分からない。
「僕は常々ね、教師なんていうのは記号に過ぎないと思っている」
 唐突に話題が変わる。己の冷や汗を感じつつ、何を言い出すのかと真咲は訝った。
「きみたち生徒を受け持つ担任の先生方を始め、『教師』という人間には本名や本人の人格なんて生徒からは決して重要視されない、彼らそれぞれを識別するための標識だ。彼らはまだ普段から複数で生徒に接触する機会が多いから、名前で呼び分けられるだろうが…」
 そこで一度彼は軽く息を付く。
「事務員、用務員、それに僕…、保健医なんかは、その際たるものだね。僕らに個別の名前なんて必要ないんだ。学校という閉鎖的な空間の中で、ただ記号として役目を全うする日々…、これはなかなか、退屈だよ。僕に求められるのは、僕が出来る仕事ではなくて、『保健医』が務められる仕事に過ぎないんだからね」
 そこで彼は真咲の目を見て、言った。
「僕はたまたまきみのクラスの副担任も務めているから、きみのことを知っていたわけだけれど…、きみはどうかな」
「どう、って」
「きみは、僕の名前、知っているかい」
 そう言う彼と多くの交流を持った記憶のない真咲は、それでもおぼろげな記憶の棚から一人の男の名を引き出す。
「…武藤」
「当たり。だがそこまでだろう。クラス担任でも、授業の受け持ちでもない教諭の下の名前を知っていたら、逆に不自然だ。同じように僕も…」
 ちらりと真咲の胸元に目を遣り彼は言う。日中の授業中であれば、生徒の胸ポケットにはめいめいの名札が付けられているのだが、今は真咲も外していた。
「きみは『九条』という名の男子生徒だ、としか知らない。九条…、珍しい名前だが、きみの男友達だって、高校生にもなって名前できみのことを呼んだりはしないだろう。きみがこれから大人になって――」
 高校生に向かってその言い方は可笑しかったのか、一瞬言葉を切って笑みを浮かべた後、武藤は続ける。
「社会に出て、余程特殊な職業にでも就かない限りは、人間の個々を識別するための名でしか認識されなくなる。社会とはそういうものだ。個人個人のアイデンティティーが幾ら重要視されているように彼方此方で叫ばれたところで、人類の大多数は人間としての一個体に過ぎない…、分かるだろう?」
 一体、この男は真咲に何を話そうとしているのか。未だ話の道筋が正確に伺えない真咲は、それでも曖昧に頷いた。
「人と人との繋がりも、実はその記号の上っ面を舐めているようなものだ、ということさ。今はインターネットが普及して、何処でも誰でも、世界中の人と交流を持つことが出来る。会ったこともない、声を直に聞いたことのない相手と、親密な仲を築くことだって可能だろう。けれど、その多くもやはり、本名を打ち明けあうことは少ない――」
「何が言いたいんですか」
 ついに痺れを切らして真咲は言った。
「焦るなよ」
「焦っていません。ただ」
「ただ?」
「こんな…、人を苛めるようなことはやめて欲しい…、それだけだ」
 こんな遠回りに焦らすような遣り方でなく、どうせ最後に屈辱を受けるのならば、覚悟が出来ている今のうちにして欲しい。そう思って告げた彼に、
「何を言ってるんだい」
 武藤は肩でも竦めかねない呆れた声で言う。二本目の煙草に火を点けた彼は、
「漫画やゲームじゃないんだ、何か護らなければならないものを奪われているのでもなければ、相手の言いなりになり続けることなんて、単なるその本人の気概のなさ、それだけのことじゃないか」
 まるきり他人事のその口調に、
「ッ…、それが出来れば、最初からしています」
 真咲も言い返さずにはいられない。
「先生は知らないでしょう。あいつ等はね…、科学準備室から硫酸なんかをくすねてきて、ぼくを脅すんですよ。…ほら」
 真咲はシャツの腕を少し、捲ってみせた。腕に垂らされた薬品のせいで、炎症を起こし、爛れているのが、はっきりと分かる。
「試験管をぼくの目の前で揺らしてみせるんです。『これをお前の目の中に注ぎ込んでやろうか』なんて笑って言うような奴らなんですよ」
 真咲が告げると、武藤はそれこそ莫迦にしたように笑う。
「莫迦だな、きみは。そんなことをされるんだったら、それこそ堂々と糾弾してみせればいい。」
 そしてゆっくりと首を傾げてみせた。
「いや…、それこそ被害妄想かもしれないな」
「どうしてです」
「その『硫酸』が、ここの…、保健室の備品だという落ちだって、十分に有り得るじゃないか」
 そういうと武藤は立ち上がって、備品棚に向かう。保健室に硫酸があるわけないじゃないかと真咲は思ったが、武藤の動向を黙って見つめていた。多くの薬品が常備されている棚は鍵が掛かっていたが、その横の診察机の上にある救急箱を開け、
「これだよ」
 そこから彼はひとつの壜を取り出した。
「過酸化水素水。いわゆるオキシドールという奴だ。消毒薬だが、酸性が強いから皮膚についたら炎症を起こす。…硫酸は強い加熱性があるから、そんな炎症じゃ済まないよ」
 オキシドール。そんなものが目くらましに使われていたのか。
 真咲は思わず肩を落としていた。
「だから僕は、前にきみに言っただろう」
 罪人を慰めるような目つきのまま、また元の口調に戻った武藤は言う。
「二週間で五千円、彼らが僕に払う口止め料だ。これは全く高くはないが、決して安くもない。彼らがきみに固執する度合いが、これだけで分かるだろう。…結局のところ、身体を慰めてもらいたいというきみの欲求が根底にある限りは、恐らく何も変わらないんだ。作り話めいた命運を語って聞かせるつもりはないが…、此処だろうが何処だろうか、きみの目を見ているだけで分かる。きみが、そういう男なんだってね」
 それだけのことなんだ、と青年は言う。
「だったら――」
 真咲は吐き出すように言った。
「どうしろって言うんですか。ぼくは自分を変える術を知らない。仕返しを恐れて、公に突き出すことも出来ない。あいつらがぼくに飽きるのを待つだなんて悠長な話は一番嫌だけれど…、でも、ぼくにはそうするしかないんだ」
 もう、溜息をつく気にもならなかった。最初から分かっている。
「だから、分かってるって言うんだ。何も変わらない、これからも」
 だが――、武藤は、諦観しかけていた真咲を見遣り、小さく笑った。
「なに…、簡単な策が、ひとつある」
 煙草を灰皿に擦り付けるようにして火を消すと、突っ立ったままの真咲を見て、
「僕が彼らから、きみを買ってやろう」
 ――そう、言うのだった。
「な、に…」
 今度こそ、本当に、言葉を返すことが出来なかった。
「きみたち一介の生徒なんかに構うほど暇ではなかったが…、そこまで冷めているきみを、どうして彼らが固執したがるのか、興味が湧いた」
 真咲の眦には途端に涙が溢れ出す。
 こんな言葉を口にする人を、自分は知らない。
 この青年は、自分に何を言っているのか。何を言おうとしているのか。
「だから――、教えてくれないか、九条」
 分からない。分からないが…、
「きみの、名前を」
 その声を聞いたとき、この間とは違う種類の感情が、自分の頬を濡らしたように、彼には思えたのだった。


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