R(アール)



 身体の熱が収まらない。
 最終時限の授業は始まっただろうか。彼らは教室に戻ったのだろうか。自分の出席はどうなっているのだろう。巧く出席簿を誤魔化してくれるだろうか。今、自分がここにいるのだとばれていないだろうか――。
 こんなときにまで自分は如何にも学生らしいことを考えている。ベッドの上で重く溜め息をついた瞬間、鍵の開く音がして真咲はハッと息を飲んだ。
 今のこの姿を見られたくないと、少年が咄嗟にシーツを身体に巻きつけると同時に、扉の開く音。
 斜向かいに見えた、背の高い男の姿。カジュアルとフォーマルの中間のような雰囲気の、薄手のジャケットにパンツの青年は、その向かいでオブジェのように固まった少年と視線を合わせることとなった。
 ほんの一瞬、動きを止めた青年は、しかし表情一つ、目の色一つ、変えることなく足先を進め、後ろ手で扉を閉める。
「まるで連れ込み宿だね」
 彼の第一声はそんな不躾なもので、真咲はそれまで、自分がこの部屋で何をしていたのかを知られてしまったのだと気づいた。
「金を払ってまで学校で事に及ぶ必然性が感じられないな。一々細かい詮索はしないけれど、利点らしい利点が思いつかない」
 独り言を言うように、真咲とは視線を合わせずに呟いた青年は、
「…ああ、それとも――、彼らは彼らなりにスリルを味わいたいのかもしれないね。それはそれで面白くないけれど」
 そこで再び真咲と視線を交錯させた。それまでずっと、顔色を窺うように青年の顔を見つめ続けていたことに、ようやく真咲は思い至る。その姿に見覚えがあるような気がしたからだ。だが、正確な記憶がない。
 そのもどかしさが、白衣を腕に掛けた青年の様子を今頃になってようやく視覚で認識し、あと一歩で恐怖に摩り替わろうかというギリギリの淵となりつつある。
 この学校で唯一ベッドのある部屋の、鍵の持ち主。真咲を散々弄んだ彼らが帰り際に確かに施錠していったのを、真咲は目と耳で、見て、聞いている。もしや彼らが戻ってきたのかと思ったのだが、そんなことはこれまでになかった。だから、真咲は動き始めた頭で、この男が何者なのか、ゆっくりと思い出す。
「先生は――」
 嗄れそうな喉を震わせるようにして、真咲は発声する。事実、細い真咲の喉はまさに、か細く震えていた。シーツを掻き上げている腕も、情けない程に震えていることに、彼自身は気づいていないのだが。
「先生は、ぼくを見て何も思わないんですか」
「何も思わない?」
 何を訊いているのだ、と言わんばかりの至極意外そうな顔をして、若い保健医は真咲を見遣る。彼の名前を真咲は思い出せない。
「何も思わないなんていうことはないさ。ただ…、下らないね。全く、下らない」
 肩を竦め、首を振ってみせた。間違いなく故意の仕草…、だが、それは次に発せられる言葉の布石でしかない。
「それとも、きみのことを色狂いだねとでも言って欲しかったのかい。何人を相手にどれくらい情事に耽ったのかは知らないが、そんなことを知ったところで何になる?」
 俯く少年に、冷たい声で続ける。
「よしんばそれが本当だとしたなら、今頃、僕は既にきみにその横へ誘い込まれているだろうに」
 最早、泣きそうな顔つきになりつつある真咲は、
「だったら――」
「だったら?」
「抱いてくれ、と今、ぼくが言ったら、先生はぼくのことを抱いてくれるって言うんですか」
 精一杯の皮肉だった。だが、
「お断りだ」
 青年の反応はあくまで素っ気無い。
「僕はきみには関心はないよ」
 ゆっくりと歩みを進めると、真咲の顔に己のそれを寄せる。殆ど見ず知らずの男が眼前に迫る緊張に、真咲は身を竦めた。動かない真咲に、そのまま青年は口付ける。
「だから、こんなことをしても何も感じないし、何も思わない」
 数秒も掛からなかっただろう。数瞬で、青年は一歩身を引き、口元だけで笑った。
「――卑怯者」
 あまりに予期せぬ彼の行動に、動けないまま唇を拭おうともせず、真咲は呟いた。一体、この男が何を考えているのか分からない。
「卑怯者で結構。僕はきみの何倍も卑怯だね」
「そういうことを、自分で言わないでください」
「きみが言ったんじゃないか。だったら、何の不都合もないことだろう」
 青年の笑みが深くなる。
「早く着替えたらどうだい。横を向いててやるから」
 肩の下までシーツが落ちていることに気づいた真咲が、慌てて顎の位置までシーツを引き上げる。羞恥心で顔が熱くなる。きっと、赤くなっているだろう。
 青年は半分、遊んでいるのだ。弄んでいるのと変わらない。
「…言われなくとも」
 真咲が普通の精神状態でいたのならばそれは当たり前の話で、誰かがこの部屋に入ってくる前にすべきことがそれだったのだ。けれども、情事の後の倦怠感の強さはいつになっても慣れることがなかった。
 青年は丸椅子に座ると、引き出しを開けて煙草の箱を取り出す。
 サイドフレームに掛けっぱなしだったシャツを羽織り、掛け間違いだけはせぬようにボタンをはめる。あからさまな視線を感じたわけではないのに、真咲は焦りに似た緊張を指先に感じている。ベッドから降りぬままにスラックスを履く。
「…校内は、全館喫煙禁止ですよ」
「校内で不純な行為をしていた奴に言われたくないね。きみだって普段、煙草くらい吸うだろう」
「吸いません」
 しばらく、沈黙があった。
 紫煙をゆっくりと吐き出し、青年は口を開いた。
「きみは、不思議に思わなかったのかい」
「――何が」
「普段、生徒が保健室の鍵を手にする機会はない。一応、薬物を保管している部屋だからね。何か必要があったときには、誰かしらの職員が対応する決まりになっている。なのに、きみたちはこの部屋に自由に出入り出来ている」
 真咲の頭の中で警鐘が小さく、しかし鋭く鳴った。何か、真咲にとって致命傷ともなり得る情報を、青年は口にしようとしている。それにもう真咲は勘付いているのに、正解だと思いたくないとも思っている。
 そしてやはり、青年はそれを、口にした。
「難しい話じゃない。つまり…、『誰かしらの職員』の手引きがあった――合鍵を渡した、ということだ」
「――ッ」
 既に青年は、蛇足を口にする雰囲気を漂わせている。
「僕は、きみのクラスの副担任だけれど、滅多にホームルームなんて出席しないから、知らなかっただろう」
 そう言うと、彼はポケットの中から五千円札を取り出した。
「二週間、好きな時間帯に貸し出すという契約さ。薬物と刃物にさえ触らなければ何をしていても僕は干渉しない決まりで、ね。あまり巧い商売じゃないな。急に校内で怪我人が出でもしたら、どう言いくるめて時間稼ぎをすればいいか、いつも気が気でならないよ」
 レンタル料、というわけか。
 ――ということは、つまり、
「――先生が」
 彼は、最初から、
「貴方が仕組んだんですか」
 全部知っていた――。
「僕じゃないさ。こんなことを以前からしていたわけじゃない。発起人はきみを気に入って手慰みものにした彼らの方だ」
 『彼ら』。青年は確かにそう口にした。やはり彼は、殆どを知っているのだ。
 真咲がベッドの上でシーツに包まっているのを目にした瞬間、青年は全てを察していた…、或いは、扉の鍵を開ける前から、部屋の中に真咲が一人、残っていることに勘付いていたのかもしれない。
 そう思った途端に危うく、また、先程の震えが蘇りそうになる。
「これはきみにやろう。本来ならきみが受け取るべき物だ」
 青年は札を指に挟んでひらりと振ったが、真咲は首肯などしなかった。冗談じゃない。
「…いりません、そんなもの。口封じのつもりですか」
「何を言っているんだ。口封じをしたいのは、きみの方だろう。お互い様さ。言っただろう、僕はきみには全く関心はないって」
 無言で、真咲は青年を睨みつける。
「仕方ないな…、じゃあ、これは預かっておこうか。――いつか、何かの役に立つかもしれないしね」
 何処か不貞腐れたような表情を作りつつ、青年はポケットに札を戻す。彼のものの言い方の意味を計りかねていると、
「そんなに綺麗な顔をしているんだ…、その気になれば、客なんて幾らでも作ることが出来るだろう。僕よりも稼げるんじゃないのかい、この学校で」
 自分でもどの言葉に反応したのかは分からなかったが、真咲は物凄く嫌そうな顔をしていた。そんな風に、揶揄丸出しの台詞を口にされることに憤りを感じたのか、…それとも。
「――何を言うんです…、そんなこと、…嫌だ」
 そう、嫌だったのだ――、
 何が、嫌なのだろう。
 男なのに『綺麗な顔』などと言われることか。
 売春夫のようなことが似合う、と遠回しに言われたことか。
 そんなことを言われるようなことをしていた、自分がか。
 過去に遡って己を戒めることが出来ない、自分がか。
 そして、未来に転じても淫らな性質を排除することが出来ないに違いない自分がか。
「嫌。嫌ね…、ふん…」
 真咲の思考をトレースでもしたのか、鋭い息遣いで煙を吐き出した青年は、言う。
「本当に嫌だと思っていたのなら、一発や二発、殴ってやれば良かったんだ。女子供が相手のことじゃない、余程の体格差か柔術経験の有無でもない限り、抵抗する相手を犯すことなんてそうそう容易く出来ることなんて出来やしない。だからこれは、ただきみが最初から抵抗するのを諦めていたのか、そうでなければ男に犯されるのをきみ自身が望んでいたか、…それだけのことだ」
「…違います」
 反射的に、と言ってもいいくらい即座に、真咲は応える。
「違わないね。今のきみの返事を聞いて確信した。きみは男に抱かれることを望んでいる。男に犯されて悦んでいる。身体の中心を貫かれることを愉しんでいる」
 ダイレクトに男の返答が来る。
「違う――」
 真咲は否定することしか出来ない。中身のない、言葉だけの否定に真実が込められることがないくらい、男には直ぐに悟られるだろう。
「違わないな。きみを見ていれば分かる。きみの目は、男を求める娼夫の目だ。今のきみの目は、男を求めていた者の目だ」
 何故、彼は分かるのだろう、と真咲はふと思っていた。
 もしかすると――、
「酷いことを――言うんですね」
 もしかすると、青年もこちら側の人間なのではないだろうか、
 ふと、そんな考えが脳裏を掠める。
 幻想に違いない考えに、真咲はすがりたくなっている。
「酷くなんかないさ。これは事実なんだ。僕の推測だが、間違いなく、事実だ。――そうだろう?」
 もう、一切の否定は無駄でしかない。
「本当に、…酷い人だ、貴方は」

 青年が更に煙草を一本吸い終わるまで、真咲は黙ってじっと待っていた。
 自分から動いてこの場の空気を動かすのは何故か躊躇われた。この部屋から出て行ってくれないだろうかと、自分に都合のいい考えを思い浮かべていると、それを悟ったかのように青年は提案する。
「まあ、気が済むまで寝ていればいい。放課までは僕は戻らないつもりだし、それにその方がきみも良いだろう?」
「…何がです」
 椅子から立ち上がり、真咲に背中を向けようとする青年に、少年は尋ね掛けていた。もうこの男と会話を続けることは精神的に苦痛であると分かりかけているのに、言葉を投げ掛けるのを止められない。
「皆まで言わせないでくれよ。後始末を手伝うつもりはないんだ」
「――ッ」
 案の定、莫迦莫迦しい、とでもいいたげに、遠回しの揶揄をされた。服を着直したから、全部が全部元通り、とはいかない。当然のことなのだ。
 しかし、本当に、何から何まで把握されている。本物の黒幕然とした青年に、少年は何も言い返すことが出来ない。
「それじゃあ、ごゆっくり」
 きつい皮肉をたっぷりと真咲に投げ続け、名前も忘れた青年は部屋から退場する。また、重い溜め息をつきかけた真咲だったが、気を抜くには早過ぎた。
「そうそう」
 扉の取っ手に指だけ掛けて、上半身だけで振り返って青年は口を開いた。
「ここにきみがいることにどんな理由があるのかは、最初にも言ったが詮索はしない。…だが、どうやらきみは抵抗が出来ないようだからね、ひとつ、教えておこう。最後の手段がある。取って置きの方法だ」
 そこでようやく、青年は本物の笑みを浮かべた。決して表面に貼り付いたものではない、優しく、残酷な、本物の笑みがそこにあった。
「小さな瓶に、体液を詰めて校長にでも送りつけるのさ。『この持ち主に犯されました』とでも手紙を付けて」
 唖然として真咲は口元を弛緩させる。
「――莫…ッ迦じゃないですか。そんなもの、何処から手に入れてくるっていうんです」
 もう、青年は立ち去ろうとしている。その背中に投げた最後の抵抗の言葉に、けれど応えられた青年の言葉で、真咲は完全に凍りついた。
「決まってるじゃないか。十分にあるだろう? ――まだ、きみの、身体の中に」
 それだけ言って、彼の背中で扉が閉まる。
 ――再び、室内に静寂が戻った。
 少年の嗚咽が小さく響き始めるには、それほどの時間を要しなかった――。


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