R+(アール・プラス)



 鍵が開く音が聞こえ、間もなく、乾いた音を立ててドアが開くと、見慣れた長身の青年が入室してきた。保健室にひとつしかない、教員用の机と椅子、そこに腰掛けていた真咲は、口許に添えていた手をだらりと下げた。
「保健室で喫煙とは、感心出来ないね」
 真咲が座る椅子の横から立ち上る紫煙と、その銘柄特有の甘い香りに反応してか、殆ど代わらないことが多い教師の表情が、その日は明らかにいつもとは違う角度で曇る。まだ、若い、という言葉が似合いそうな青年の、フルネームすら本人から名乗られていない真咲だったが、真咲とて、武藤、という保健医の苗字、それ以上に彼に興味があるわけではない。
 最近では、本職の保健医らしく白衣を身にまとう姿をあまり目にしていなかった。真咲の学級の副担任である彼が、他県に出張に行ったという話を、2週間ほど前に担任の教師から耳にしただろうか。普段の武藤の教員生活にも、元より興味が薄い真咲は、彼の不在によって必然的に常時、空っぽとなる保健室が、都合の良い休憩所となるに過ぎなかった。
 無論、それは、真咲ひとりだけの都合には合わせてはもらえなかったのだが。
「…別に、先生に褒めてもらいたくて吸わないわけじゃないです」
 生徒と教師、という二者が相対してなお、真咲は最早、動揺する必要を感じなかった。少なくとも、この男は自分の敵ではない。それだけは、取り敢えず、分かっている。そして、それと同じくらい、今のところは、彼は、自分の味方でもない…、それも。
「煙草を吸わない人間が皆、褒められるわけじゃない。それは大人の場合だ。きみの場合は子供なりの好奇心? それとも、早く大人になりたい背伸び?」
「高校生を捕まえて、下手に莫迦にするのは止めてください」
「ふん…、相変わらず、口だけは達者だね」
 そう口にする青年の視線は、今日のところは乱れてはいないベッドに向けられている。部屋の主が不在のために放って置かれたままのベッドを、邪気丸出しに少年を弄び更に放置するような輩が、一応はいなかったということだ。
 だからこそ、こうして、放課後の保健室で、のうのうと真咲は煙草を吸っている。慣れもしない煙を吸い込み、美味くもない香りを吐き出す行為。そのあまりに無意味過ぎる行為が、無意味な時間を消費するには丁度良いバランスをもって、真咲の心を平生へと導こうとする。
「キャスターか。また、甘ったるいものを吸っているね」
 武藤は真咲のシャツの胸ポケットに目を遣り、ソフトケースを長い指で摘み上げて眺めた。真咲よりも拳ふたつ分も背の高い保健医を、座ったままで見上げるには、真咲は余程、首を傾げなければならなかった。
「自分だって吸うくせに」
 ふう、と煙をゆっくり細く吐きながら、真咲は答えた。自分のような自堕落な奴など、放っておいて欲しい、と思う反面、だったら、こうして必ず戻ってくる人間がいる部屋で、どうして隠れるようにして喫煙などしているのか、という反論が自答のように込み上げる。
「僕は一応、きみよりはずっと歳を食っているからね。…無理して格好つけて吸っているのがみえみえだよ、九条。格好悪い」
 まあ、それでも…、と武藤は付け加えるように、言った。
「煙草で男の男臭い匂いを紛らわせるよりは、ずっと、いいかな」
 危うく、この男の頬を張るところだった。一瞬、真咲の頭に血が上りそうになったが、それはいつもの武藤の人を小馬鹿にする物言いの延長戦なのだと直ぐに気づき、真咲は短くなってきた煙草を一息、吸う事で心を静めた。
 武藤はジャケットの内ポケットから自分の煙草を取り出して、ゆっくりとした動作で火を点けた。黙ったままの真咲の横で煙を吸い、真咲のそれよりも濃い紫煙を吐いた。真咲が灰皿代わりにしていた空き缶に灰をひとつ落とすと、そっと呟くように、言う。
「酒と煙草と女は、付き合いを解消するまでに途方もなく浪費する」
 真咲は窓の外を見たまま、相槌を打つ。
「それ、先生の座右の銘ですか」
「そうだよ」
「嘘ばっかり」
 意思に反して、つい、くす、と息を漏らし、真咲は笑った。
 ふと、訊いてみたくなる。
「先生には、彼女とかいないんですか」
「カノジョ?」
 武藤の眉が、僅かに内側に曲げられる。
「それは、その言葉、そのままの意味で捕らえていいのかな。それとも」
 とん、と空き缶で灰を落とす間の間を取り、彼は続けた。
「きみに、それらしい返答をするべきなのか…、どうなのかな」
「はぐらかさないでください」
 最早幾度目なのかも数える気にならない彼のからかいを真咲が振り払うと、
「いたよ」
 あっさりと武藤は答えた。
「いた…、過去形なんですね」
 思わず、不思議と自嘲じみた笑みが少年の口から漏れた。
「そんな失敗した、みたいな言い方をするなんて先生らしくない」
「僕らしく?」
 ふん、鼻を鳴らし、
「分かったような口の訊き方をするじゃないか」
 咥え煙草の姿勢で武藤は真咲の顔を覗き込む。
「別に、莫迦にするつもりはありませんけど」
「いたよ、確かに…、もう十年も前だけれどね」
「十年」
 それは大体、自分と同じくらいの年の頃ではないだろうか、そう思っていると、
「そう、丁度、十年か。僕がきみと同じ学年だったときだ」
「それ…」
 そんなことはないだろう、と考えたことがあったわけではないが、それでも意外な思いがした。
「僕も、この学校の出身だったからね。その子も、クラスこそ違ったが、同じ学年で」
「仲、良かったんでしょうね」
「中間を飛ばした憶測だね」
「ぼくの勝手でしょう。先生なら、そういう世渡りはソツなくこなしてみせそうだから」
「ふん…、世渡りね」
 再び時間を掛けて煙草の灰を伸ばすと、
「仲は、良かったよ。確かに」
「自分で言うんですか、それ」
「言うさ。間違いのないことだからね」
 過去形でのみ、真咲の言葉を否定しないところには、いつも小さな裏側がある。それを知っていた真咲は、鎌を掛けるつもりで言及する。
「…別れたんですね、直ぐに」
「直ぐとは失礼な。そこそこ、お互いが飽きない程度には続いたさ。だが…」
 一泊置いて、彼は言う。
「ただ仲が良いこと…、同性の友情と、異性の友情が違うように、個人と個人との愛情なんて、割と無機質なものに過ぎない」
 何かが歯に挟まったかのようなものの言い方をする。
「落ちたんだ、そこから」
 そこから、の部分で、武藤は指に挟んだ煙草で、窓ガラスの上の部分を指した。
「落ち…、事故ですか」
 どうせ今と同じで、貴方が冷たいものの言い方ばかりしたせいで、仲が悪くなって別れたんでしょう――、
 そんな進言をするつもりでいた真咲は、唐突な話の展開に言葉を失う。
 武藤は頷きも、首を振りもしなかった。
「違う。自分で落ちたんだよ。飛び降りたんだ」
 その一言の衝撃に、真咲の脳内にあった情景は反転する。彼は息を呑んだ。
「僕らは、ずっと、隠れて会っていた。学校の中でも、外でも」
 武藤は何故か、妙な言い回しをもって、表現する。
「それなりに、僕らは楽しかった。大人たちに隠れて、微々たるが悪いことも散々やった。逃避行のように学業から離れて遊んでばかりだった時期もあった。けれども、表面的にはお互い、普通の学生であることから逸脱しないギリギリのラインとも共存出来るよう、無駄な努力をした。でも、自分たちだけで生きていけるような完全な自由がない僕らには、自ずと限界があることを忘れていた」
 認められない恋の種類があることは真咲も認識しているが、確定的となったのは武藤の次の言葉だった。
「それが周りに発覚したのは、あいつの側だった。情報は不確定で、けれど、殆どの大人たちは当然、反発した。それが本当のことだったらとんでもないことだと諭そうとした。ふたりの考えを直に聞いて、許そうとする者は、いなかった。あいつよりも幼くて弱かった僕は、全てが明るみに出るのが、自分が矢面に立たされて糾弾されるのが怖かった。だから、あいつは、周りの誰にも、自分の相手のことを告げなかった。ただひとり、周囲の大人の言うところの不確定な『罪』を背負って…、全てを背負ったまま、彼は僕の前からも、世界中の誰の前からも、姿を消した。僕らの関係は、そこで終了した。
 本当のことを知っているのは、僕一人だけだ」
 そこに至り、ようやく真咲にもおぼろげにかつての武藤たちの事情が飲み込めた気がした。
「きみに話したのが、最初だ。きっと、最後になるだろう」
 聞き手によっては、苦渋でしかない、ひとつの物語の欠片。それがたった今、目の前に零れている。
「――なんでこんな話、ぼくにしたんですか」
「たまたまさ。きみが吸っていたのがキャスターだった、それが理由といえば、理由だが」
 学生時代に大人に隠れて喫煙し合う、というのは、確かに少年たちの冒険と悪戯の一種ではあるが…、しかし、
「だからって…、そんな話をして、ぼくが」
「心外だな。こんな話、始めたのはきみの方が先だろう」
「だって、ぼくが、先生に、同情するとでも思ったんですか」
「同情?」
 本当に、心外だ、というような顔をして武藤は言う。
「『こんな話』を同情してもらいたいがためにするような奴が、何処にいる?」
 それは現にもっとも過ぎる言い回しで、真咲は咄嗟に言い返せなくなる。
「逆に僕は言いたくなる。こんな話、黙って聞いているような奴は、そいつを慰めたいがために黙ってるんじゃないかってね」
 新しい煙草に火を点けて、武藤は言う。
「僕がどうしてきみにこんな話をしたのか、きみは聞きたいんだったね。じゃあ言おう。こんな下らない話、十年も昔の話だ。今となっては、ただ、過去であるというだけの話だが、それをただ思い出すことしか出来ない、という悔いを正したいわけじゃない。そんな、無駄なことばかり覚えている人間の無能さ…、まあ、精神的なプロテクトでもあるのかもしれないけれどね、それをアウトプットしてもやはり、それは語り手にとっても聞き手にとっても無駄な昔話、それ以上でも以下でもない」
 青年の吐き出す紫煙は、彼の言うところの『過去』ででもあるかのように、直ぐに霧散する。しかし、彼が口にする『過去』は、一度、口にしたが最後、空気の震えをもって他所に蔓延する忌まわしいものなのだ。
「消えないんだよ、こういうものは、どうしたって」
 武藤は、真咲から顔を背けて、窓の外を見ている。真咲と視線を合わせないその表情は、いつもと変わらない無表情なのか、それとも、真咲が煙草を吸っているのを見つけた瞬間に見せた曇ったものであるのかは、分からなかった。
「だから…、もう遅いことだが、きみには、こう言っておこう」
 こちらを振り向いたその顔は、もういつものもので、続けられた言葉にも、
「忘れてくれ」
 特別な感情が込められているようには聞こえなかった。無論、それは意識されたものであることが明らかで、真咲には何も答えることは出来ない。その感情のコントロールは、ある意味、真咲に向けられた一筋の優しさ、のようなものなのだろうか。真咲には、そのときには分からなかった。
「当時、僕がもっと大人だったら、周りの不分別な大人たちと戦うことも出来ただろう。それが出来なかったということは、僕がただ、幼くて、弱かったというだけのことだ。…だから、これはただの昔話だ。本当にあったことなのか、それとも僕がそれらしい話をでっちあげているだけなのかもしれない。だから、きみはこんな話、覚えている必要はない」
 しばらく、沈黙があった。
「そうだ…、今日、きみに会えたら、これを渡そうと思っていたんだ」
 そういうと、武藤はポケットから小さなボトルのようなものを取り出し、真咲の手に握らせた。
「…なんですか、これ」
「アトマイザだ。香水とか、化粧水とかを携帯する」
 どうしてそんなものを、としげしげと真咲がそれを見つめていると、保健医は小さく笑った。
「もう今更の話だけどね、――きみたちの蒼い香り。本人たちは意外と分からなかったりするものだが…、校内でそんなものを発散させていたら、気づく奴は直ぐ気づく」
 それだけで真咲は彼が何を言わんとしているかが把握出来た。同時に、今までそれに気がつかずにいたことに羞恥を覚える。
「先生」
「甘いんだよ。きみはもしかして、今、僕のことを少し見直そうとか、そんなことを思っていなかったかい」
 ふ、と武藤は小さく笑う。
「だからきみは、いつまでも受身なんだ。僕にすら、誘っているんじゃないかだなんて揶揄されることになる」
 常套手段を用いるように言葉で真咲を辱める遣り方は、顔を合わせるごとに増していくのだが…、口許に小さな笑みを貼り付けたまま、武藤は言う。
「大丈夫さ、それは特別製だ。蒸留水で3倍に薄めてある。男子生徒が香水をつけていたって可笑しい時代じゃない。むしろお似合いなくらいだ」
 そういうことを言いたいんじゃない、そう言うために真咲が口を開く前に、
「――きみの考えた恥ずべき痕跡を隠すには丁度いい」
 この教諭の企みが、まるで読めない。あくまでも焦らすように遠回りなものの言い方をされるのが、しかし真咲は事実、焦れったくて仕様がないのだった。
「先生」
 だからこそ真咲は、言わずにはいられないのだ。
「なんだい」
「もう、止めにしましょうよ」
「なにを」
「だから…ッ」
 真咲はアトマイザを握り締め、武藤を見た。
「先生は、ぼくを、どうしたいんですか」
 真咲は問うた。
「前に先生は、ぼくのことなんてどうでもいい、と言った。けれども、その次には興味が湧いた、なんて嘘をついてぼくの気を惹こうとするみたいなことを言う。…全然、貴方の考えが分かりません」
 ふん、と鼻を鳴らし、
「まだ、そんなことを言うのかい」
 武藤は、すっと顔から笑みを引く。
「益々、心外だな。嘘をついて? 全部、事実さ。きみが気づかないだけだ」
「…何をです」
「きみに興味があるのは事実だ。きみのことなんてどうでもいい…、それもまた事実。そういうだけのことじゃないか。至極、明確だ」
 期待をしていなかったと言えば、嘘になる。けれども、ほんの少しでも、この保健医に気遣いの言葉を投げ掛けてもらえたら、自分は僅かに救われるのではないか…、真咲は、そう念じていたのかもしれないのだ。
 真咲は沈黙し、息を呑み、顔を俯けた。
 だが…、
「先生は」
 俯いたまま、真咲は口を開いた。
「先生は、前にも、ぼくに、言いましたよね」
「何をだい」
「ぼくのことなんて、どうでもいいって。今も、そのときと、同じことを言った。ぼくのことなんて、どうでもいい…、そんな言葉、僕に関心がない奴じゃないと、口にはしないと思う」
「九条、何が言いたい?」
「この間、先生は、ぼくに言った。あいつらから、ぼくを買ってやろう、って」
 青年の目を見る。視線は、逸らされない。
「まさかと思っていたけれど、あれから二週間して、先生がいない間、ぼくも一人でいられた。あのときの先生の言葉が、本当なんだって、分かった」
 恐る恐る、だが、言葉ははっきりと、真咲は言った。
「先生は、ぼくのこと、本当に、買ったんですね」
 幾らで、などということは間違っても口にしたくはなかった。それは何故だか、凄く…、聞くのが恐ろしい答えを、武藤が持っているのではないか、という思いがあったからだ。以前に彼は、保健室の鍵を二週間で五千円で貸した、と言っていた。武藤の返事が言葉で返ってこないのが、その闇の部分を不自然に強調しているようで、真咲は怖かった。
 だが、真咲は問い質すことを止められない。
「どうしてそんなこと、したんですか。ぼくはものじゃない。誰かのものじゃないんだ。金なんか、ただの約束事で、この保健室だって、ただの口止め料で金が動いていただけのことなんだ。それなのに、どうして、一番大人のはずの貴方が、まるで莫迦みたいに真に受けて、あいつらに金なんて払ったりしたんですか。どうして」
 言葉の端々が不安定になりつつある真咲を制するように、武藤は短く答えた。
「九条、それは…、答えなんて、単純なことだ」
 先ほどの不似合いな饒舌さはなくなり、端的な、しかしいつもの遠回りな言い回し。
「それは、ある意味、僕がきみたちよりタチの悪い子供かもしれないということだ」
「子供?」
「興味の湧いたものを、その興味がなくなるまで、自分の一番近くに置いておきたいという欲求」
 単純にして、複雑過ぎる、正でも負でもない、心の流れ。
「子供らしいだろう? ただそこに、大人が使う提携と策略が働いただけのこと。…ただ自分の自由になるものを弄びたいという輩になんて、探せば代わりは幾らでもいる。何にでも空きやすいのが子供で、何にでも執着するのが、大人だ。それだけのことだ」
「だからって、こんな…ッ」
 ひくり、と真咲の喉が鳴った。それが嗚咽を堪えたためであることは明らかで、その情けなさに真咲は、自分で、自分を殺したくなる。
 同時に、ぽつりと、こんなことを思った。

 こんな自分を、一度、この男の前で、殺してしまいたい。

 自分が決定的に壊れ始めているのが、自分でも分かった。
「――先生」
 真咲のそれからの言葉は、きっと、理性で考えるものとは、全く違っていたはずだ。
「なんだい」
「先生のさっきの話、…本当だと思っていいんですね」
 自暴自棄になるのとは違う、諦めではない…、自分は、彼に、自分を委ねようとしている。
 自分と同じくらいに哀れなのだと分かってしまった、この男を、赦そうとしている。
「九条――」
「嫌です、先生」
 だから真咲は、その感情のまま、相手の言葉を否定し――、
「名前で、呼んでください。他の奴と一緒じゃなくて、ぼくのこと、名前で」
 同時に、彼自身を、肯定する。
「知ってるんでしょう?」
 これまでと全く違う真咲の反応に、武藤は一瞬、途惑った表情を見せた。
 だが、それでも、
「…真咲」
 彼は、すんなりと答えを口にした。
「そうです。ぼくの、名前です」
 真咲は、頷いた。そして頷いたまま、震える言葉を続ける。殆ど、前は見えなかった。
「忘れないでください、先生」
 もう、自分では涙腺が緩むのを止められなかった。眦から溢れ、頬を伝う涙をそのままに、真咲は告げる。
「言葉で嘘をついてもいい、ぼくのこと、考え足らずだって莫迦にしてくれても構わない。だから――」
 今までに流したことのない涙だった。嬉しいものとも、悲しいものとも違う。感じたことのない感情が、真咲の一番奥底から、彼の全てを壊そうとしているかのような震えをもって、
「先生のしたことが、本当に、今、先生が思うことの通りにしたことなんだったら、ぼくのこと」
 喉が鳴る。嗚咽が止まらない。けれど、堪えはしなかった。
 この男の前でなら、泣いてしまってもいい。ようやく、そう思えたのだ。
 だから、真咲は、告げた。
「ぼくのこと、貴方のものにしても構わない。…本当に、貴方ひとりだけのものにしてください」
 武藤の答えは聞こえなかった。その代わりに、ゆっくりと眼前を影が差した。
 目の前に青年の掌が近づくのを捉え、真咲は目を閉じた。
 まだその手に握り締めている、小さな香水瓶。それと同じ香りが、微かにした。


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