トランキライザ(後編)



「猫が――」
 クリスタルガラスの盤上で、マナカは僕に言った。正確に言えば、チェスの駒――僕から奪った僧正――を掌の上で転がしながら。チェスをするとき、僕たちは殆ど会話をしない。
 …無論、僕たちは普段だって、一般的に言うところの『一般人』に比べたら余程、会話らしい会話なんてものをしないのだが。何か目的を持ってチェスをする人が多くはないのと方向性にそう差異はないように思う。
「迷子の子猫がいるんだ」
「猫? 何処に」
 マンションのベランダから見掛けたのか、或いは玄関の前にまで入り込んできた猫を拾いでもしたのか、と思い僕がベランダに目を遣りながら訊くと、彼は首を振って笑う。細い目が一層細くなる。
「そうじゃなくて、そういう話さ」
「ああ、例え話」
 騎士を斜め手前に呼び戻しながら僕は話の先を促す。
「それで?」
 そんなに長くもないくせに耳に掛かる髪が気になったのか、細くて黒いそれを項の方に追いやって、
「うん。猫がいてね、その子は一緒にいた子とはぐれたらしくてね…、迷子なんだよ」
「迷い猫」
「そう。にゃあにゃあ鳴くの」
 『にゃあにゃあ鳴く』猫を想像して、僕は何故だか少しだけ可笑しくなった。僕の脳裏に浮かんだそれは、絵本に出てくるような、擬人化された猫だったからだ。
「それで、ミィがその子に会ったのさ」
 盤面を見つめたまま、マナカはまだ握ったままの僧正を僕の顔に向ける。自分の指の代わりらしい。
「なんで僕なんだ」
「まあ、いいから聞きなさい」
「聞こう」
「子猫が会ったミィは、犬なんだよ。犬の姿をした、犬」
 『犬の姿をした犬』とは、なんとも微妙で奇妙な表現だが、僕は何も言わずに、沈黙を持って先を促すことにする。僕は人間の三井でなくて、犬のミィになった。犬なのに猫みたいな名前だ。そして擬人化された子猫に合わせて、擬人化された犬。僕の内心の苦笑を横目に、白いセータの袖口でクリスタル製の僧正を拭きながら、マナカは続けた。
「ミィは訊いた。『どうしたの。迷子かな。お家は何処?』」
 何か…、そんな歌があったな、と僕は思っている。そして僕が思った通り、マナカは言った。
「でも、子猫は何も応えない。にゃあにゃあ鳴くんだよ」
「その子の名前を聞いても分からないんだろう?」
 僕が相槌の代わりに言ってやると、マナカはうっすらと微笑んで、
「そうそう、そうなんだ」
「それで?」
「ミィは何度も訊くんだけれど、子猫は鳴くばかりで全く要領を得ない。ミィは――」
「困ってしまって…?」
「そうそう。わんわん鳴くんだよ」
 機から見れば、少しばかり可笑しい光景だ。にゃんにゃん鳴いている子猫の横で、犬の僕が手を焼いて困っている。だがそれが、どうかしたのだろうか。
 そこで一旦、マナカは息をついた。僕は次の言葉を待ったが、彼はチェスの盤面に視線を落としたまま、沈黙してしまう。…話の筋が見えてこない。
「ミィはさ」
 マナカが口を開いたのは、僕が黙って兵士を進め、マナカが騎士を動かし、僕が再び兵士を進めてからだった。ほんの三つの動作が行われる間に、世界では数分の時が消費されている。
「今の話、何かおかしいと思う」
「何かって、なに」
「僕は思ったよ。どうして誰も指摘しないのか。もしかしたら当たり前過ぎるのかな、って。こんなことを考えるのは僕だけかな」
「その子が泣いてばかりで何も答えてくれないから、僕は困ってるんだろう」
 すると上目遣いの視線で、マナカは囁くように言った。
「ミィ。僕は当たり前の話をしているんだよ」
「おかしいのか? 迷子相手にどうしたらいいか、ちょっと困ってるだけだろう?」
「だから。これは当たり前のことなんだ。きみであるところのミィが…、今、ここに、僕の前にいるミィだから、そう思うだけのこと。迷子の子猫に手を焼いているミィは、そうじゃない」
「そうじゃない、って…、犬と猫ってこと――」
 口に出した瞬間、分かった。それだけのことなのだ。子猫は最初から、『にゃあにゃあ鳴いて』いたのだ。確かに迷子だったに違いないが、犬である僕は、『にゃあにゃあ鳴く』子猫が、家を訊いても名前を訊いても分からない、自分に分かる言葉で答えてくれないから、困ってしまったのだ。
 ああ、そういうことなのかもしれないな、と、その刹那に僕が思ったのは確かだ。当たり前のことなのだが、僕たちは時にそういう安易な勘違いをしてしまう。大元の切っ掛けが一本道であるために、その脇にある横道を全く無視して話を進めてしまうきらいが、自分にないとは決して言えないものなのだ。
「分かっただろう? ――チェック」
 女王が僕の王の斜め横に立った。僕の視野の隅には、マナカの僧正が刃物を構えている。逃れることは出来そうになかった。
「駄目だよ、ミィ。いつも斜めが空いている」
 それが何処までマナカの真意なのか量り知ることが出来ないまま、僕は更に彼から2戦の負けを認めた。そのどちらの敗因も、女王に斜めを見透かされたものだったのは、不足の至るところだとしか言い訳のしようがない。

 結局、4ヶ月ぶりに僕はマナカの布団に潜り込んだ。
 そういえば、マナカはいつも布団の中で丸くなって眠る。それに気付いたのは、僕がマナカ本人に頼まれて、僕がいる時には彼の隣で付き添うように寄り添うように眠るようになって直ぐのことだった。一人で眠るのが怖い、なんて甘っちょろい頼み方を彼がしたはずもなく、ただ最初のときに、それを僕がするのが当然のことであるかのように、こっちへおいでよ、とマナカが手招きをしたに過ぎない。そのときに僕が拒否をしなかっただけのことだ。彼がいつの間にかに一人で布団の中で寝息を立てている時だって、彼の頭が外から見えることは決してなく、盛り上がった掛け布団の形は必ず縦長に丸みを帯びた。
 それがまるで母体にたゆたう胎児の鼓動を感じさせる震えを伴ったものであるのに僕が小さな畏怖を感じるに至るのには、やはりそう大した時間は必要ではなかった。マナカ当人の恐怖や悪寒を交えた感情…、そんなものが彼をしてその膝を抱えさせたのではないだろうとは、ただの僕の分析に留まるところなのだが、けれども何も知らない者が、僕とマナカが隣り合って眠る様を見たならば、なんとも奇妙な光景が眼前にはあるだろう。それはよく見れば、人間の胎児が最高の安堵を共にして眠りを享受する、というよりもむしろ、己の存在を何か目に見えないものから守りたい…、そんな漠然とした目的意識を持って、外敵から己の存在をひた隠しにでもしようとする、そんな非人間的な本能による図形の描写であるような錯覚を無意識にマナカが作り出しているのが、実はあまりに明確であるのだ。
 説明をしようとすればするほど、僕は筆を費やさなければならない。結局のところ、何を表現しようにも彼の鼓動を感じ取ることの出来ない状況下では、それは何の意味も持たない。そもそも、僕とマナカ、という二者しか存在しない空間内においては、何を為すにもそう多くの言葉を費やす必要はない。ただ、そこに第三者の疑問の入る予知が必要ないというだけのこと。極単純なことであって、けれども僕は、こうして何らかの形をもってして言葉に置き換えなければならない。それはある意味では僕の使命なのだ。
 マナカが子猫で、僕が犬なのかは、全く比喩の上での話でしかない。そして、何らかの形で、僕が子猫の言葉を読み取って、汲み取って、その時に最も適した答えを返してやることが出来るかどうかなんて、そんな難問に挑まなければならない道理もなければ義理もないのだ。マナカはそういうつもりで僕にあんな話をしたわけではない。何かをしなければ救われない、そういう話をしているわけではないのである。
 僕は、マナカの長年の相方ではない。犬と子猫が相容れなかったに違いないように、微妙なすれ違いをしている部分をどれくらいまで修正することが出来るかは未知数だ。けれども、それに気づくことが出来ないわけではない以上、僕はきっと、少なくとも、そのすれ違っていた部分を近づけるためにはどうすればいいかを考えるだろう。考え続けるのだろう、きっと。


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