トランキライザ(前編)



 冷たい雨がしとしとと降り続いていた。車から降り立った僕は、駆け足で駐車場から建物に入る。
 こうして逢瀬のようにマナカの家に来るのは、未だに割と気恥ずかしいものだと思う。4ヶ月ぶりのことだ。仕事先が変わったのが、4ヶ月と1日前…、それ以来、姿を会わせることはおろか、電話ですら話してもいない。僕の側が元々、仕事上の雑事に終われる毎日で、週末の予定を週の初めに立てておかないと、土曜日曜を問わず、いつ急な仕事が舞い込むとも限らないような忙しない生き方をしていたせいで、マナカとの約束事をねじ込むことが少なかったのだ。
 彼も僕の多忙さは承知していて、それになにより彼自体も僕と同じような忙しさの日々の中に生きているような人種だったものだから、僕と彼とはソーシャル・ワーカーの渦中の中で互いの存在を意識するような恋仲だったと捉えていいものだと思う。それだけに、互いが互いを私人だと思っていたのかどうかすら、怪しいように思えてならない。かといって、私的な時間を過ごしていて、それを無碍に邪魔されるのに黙って従うほど、僕たちは愚かな社会人ではないつもりだ。だから、順風満帆とは決して言えないけれど、僕は少なくとも満足していた。人の欲望に限りがないことを思えば、そういう意味での『満足』は、最低限の喜びが得られている、という意味合いになってしまうのだろうけれど。
 現代人にとってみれは最早、珍しいのだろうが、マナカは、携帯電話というものを持っていない。彼の部屋に固定電話があるけれど、彼にとっては、携帯電話は全く必要のないものだという。既に現代人のコミュニケーション・ツールとなって等しいアイテムに関し、それは少し、普通ではないことだと思う。多分、日を置くこともなく連絡をしたがるのが、当たり前の人となりなのだろうと思うのだが、僕とマナカに関して言えば、そういう一般常識というものは通用しない。少なくとも僕はそう思っているし、マナカも同じような認識をしているのだろうと思う。
 マンションのエントランスで、7階の部屋番号を呼び出す。インターフォンが鳴り、
「はい」
 いつもの応答が聞こえた。彼は地階からの応答には絶対に自ら先んじて名乗り出ない。
「僕です。お久しぶり」
「ミィ。久しぶり。どうしたの?」
 僕が呼び掛けると、名乗らないうちからマナカはそれが僕だと認識し、途端に声が明るくなる。
「どうしたのも何も。来たくなったから来たのだけれど」
「うん。おいでよ」
 ガチャリ、と多少慌てて受話器がフックに戻される音が響く。少し浮かれさせてしまったようだ。これは僕の側が少々、確信犯めいた行動に起因することであるので、僕もそう悪い気はしない。むしろ、未だに彼が僕のことを『ミィ』と呼ぶことに、気後れを禁じえない。マナカが昔飼っていた猫の名前と、僕の苗字『三井』が同じ発音で呼べるから、という妙な理由で、もう数年、僕は彼に猫呼ばわりされているのだ。最も、表面的に見れば両者引きも切らずに猫扱いをしているのだから、決まりが悪いというか、性質(タチ)が悪いというか。
 エレベータで上る。彼の部屋の前に着き、サイドチャイムを鳴らす。それが鳴り終わるよりも前に、ドアが開いてマナカが顔を出した。
「お帰り」
 真っ白なアクリルのセータのマナカは、その服に色素が染み込んだのでは、と思ってしまうほどに肌が白い。耳の端が隠れるほどしかない髪が真っ黒なものだから、余計白く見えるのだが、それが不健康そうに見えないのが不思議でならない。元から細い目つきである彼の瞳が僕を捉えると、その目元が下がって、チェシャ猫のような笑みを作った。僕は彼の笑みを、彼の部屋でしか見た記憶がない。それくらいに、実は貴重な笑顔を僕は知っている。
「なに…、どうしたの、改まって」
 コートのポケットに手を入れたまま僕が首を傾げて見せると、彼は明らかに照れた様子で笑った。
「いいだろう、お帰り、で」
「別段、否定をするつもりはないけれど」
 しかし、4ヶ月ぶりなのだ。言外に含めたつもりで僕が返すと、
「まだ、心の準備が出来てないんだ、きっと」
「心の準備」
「そう、きみに会う準備、ね」
 僕の肩口にまだ残っていた雨の雫を軽く手で払うと、マナカは背を向けてキッチンに歩いていった。
「今、お湯沸かしてるから」
「流石。用意がいいね」
「手際がいい、って言ってよ。いつものでいいね」
 サンキュ、と返しておいて、僕はそのまま真っ直ぐ居間に向かった。殺風景な8畳のフローリングはそのままマナカの仕事場で、奮発して購入した起毛のカーペットが足裏に心地良い。身の回りに頓着しないマナカの代わりに僕が買ったもので、マナカよりもむしろ僕のお気に入りなのだ。
「仕事中だった?」
 コートを脱いで、小さなソファの背に掛ける。ケトルの様子を見てきたのだろう、マナカは直ぐに追ってきた。僕が訊くと、彼は小さく首を振る。
「ううん、そうでもない」
「そうでもない?」
 部屋の隅に置かれたデスクの上に、15インチの液晶ディスプレイが鎮座している。もう5年も前になるモデルのパソコンは、静かにモータ音を響かせていた。ディスプレイにはやはり少々旧式のOSのデスクトップ画面が映っていて、僕がそちらに目を向けた瞬間にスクリーンセーバに変わる。それを見ながらマナカは、
「いつもと同じ。仕事をする時間が決まってるわけじゃないから」
「気楽なものだね」
「楽じゃないさ」
 僕のような多忙さと、マナカのような多忙さとでは、全くその質は異なる。極々簡単に言えば、僕の仕事は足腰を棒にして街中を動き回ることで、それは多種多様ある仕事の中の一つに過ぎないとはいえ、自分一人を生かしていくのに不可分とならない程度の路銀は常に持っている。一方、マナカの仕事はディスプレイの前に座って、キーボードを自分の思うままに叩き続けていればいい。しかし実のところ、そんな程度では簡単に生活が出来るほどの収入が得られようはずもないのが、その筋の世界の約束事だ。しかし、マナカにはそれしか出来ることがないのだ。
「取り敢えず、今のところはちゃんとしてるよ」
 キッチンから、相変わらず抑揚の振幅が小さい声が返ってきた。
「よく言うよ…、全く」
 僕が嘆息している間に、マナカはカップを二つ持って戻ってきた。普段、一人では飲まないというコーヒーが二人分。
「はい。ちゃんと取り置きしておいたよ」
「サンキュ」
 カップに口をつけると、何より最初に苦味が舌の奥を突いた。どんな状況下でもやがては胃を重くするくらい濃いコーヒーは、僕には欠かせない。窓の外は曇天が未だ空の全てを覆い尽くしている。本当に、世界の全てが重苦しい空気で包まれているのではと錯覚させるような空だ。そんな天候も完全に我関せずで、淹れたてのコーヒーをマナカは苦そうな顔で飲んでいる。
「うん…、苦いね」
 彼の言葉が表情そのままだったので、思わず僕は吹き出しそうになった。
「だったら飲まなきゃいいのに」
「だって、ミィだけってのは嫌だからさ」
「なにが」
「別に。ただ一緒がいいだけ」
「自分が嫌いでも?」
「そう」
「そういうものかな」
「そういうものだよ」
 至極当然のことのように、また頷いてみせた。そうして会話が一段落すると、途端に周囲が静かになる。雨粒が窓ガラスにぶつかる、小さな音がBGMで、テーブルに陶器のカップが置かれる硬い音が、そうではないはずなのに僕とマナカの間の空気を暗に表しているように思えてしまって、僕は再び口を開いた。
「変わりはなかった? …まあ、マナカのことだから大丈夫だとは思うけれど」
「うん」
 予想していた通りの返答と、首肯が一回。
「4ヶ月ぶりだぜ? こうしてても、感慨が湧かないのが不思議なくらいだ」
「本当…、考えてみれば久しぶりだ」
 今更思い至ったような面持ちで、マナカは口元をほころばせる。
「でも、ミィは4ヶ月前のミィのままだ」
 そう言われて、なんだか照れ臭いような素直に喜んでいいのか惑う。マナカは手元のカップを両手で包み込んで、視線を心持ち下に落とし、ポツリと言った。
「僕も、何も変わらないし、ね」
 すう、と背筋を撫でられたような気分になった。嫌な予感がする前兆だ。
「今のところ…、というか、相変わらず一人でも困ることはないってこと?」
 僕が訊くと、マナカはあっさりと頷いた。
「少なくとも、僕は今の生活で何も困ったことはない」
 そう断言するマナカは、…確かにもう随分長いこと、このマンションの敷地から外へは出ていないはずだ。僕の知る限りで、という範囲内であれば、少なくとも3年近く。外界に出ずに、一体どのようにして生活出来るのか、と思う人もいるかもしれない。しかし、最早、人が生きるということには、その当人の『生活』に関する労力は必要ないのだ。電話回線が繋がっていれば、情報検索サイトを用いて世界でたった今、何が起きているのか、何が起ころうとしているのかなど直ぐ様分かる。外部との連絡は電話、電子メール、ファックスで遣り取りが出来る。通信回線の不備がなければ、リアルタイムでの映像を送りながら、ディスプレイを介して他者とのコミュニケーションが可能。電気、水道、ガス、新聞、放送局の視聴料、そして彼の住む部屋の家賃は、収入を特定の銀行の口座に振り込ませるようにしておけば、そこから引き落とさせればいい。食料は勿論のこと、家庭生活で消費する雑貨はオンライン通販が可能、荷物を玄関にまで届けてもらうことも出来る。何処かに行って、何かをする。その必要性が、マナカの思考回路からすっぽりと抜け落ちているかのように、彼の世界はまるきり、彼の生活空間の外側に向こうとはしていない。
 コミュニケーション不全症候群。僕がマナカの性質を称してそう呼んでいる。一言で言えば、他者との接触を好まない。出来ないのではなく、積極的にしないのだ。『困ったことはない』とマナカが言う言葉には、『生きていく上で』困ったことはない、と言外に含まれている。己以外の誰かが生活物資を届けなければマナカは野垂れ死んでしまうわけだから、少なくとも排除、廃絶とまでは行かないのが救いだ。でなければ、こうして彼の部屋にこの僕が上がり込むことなど許されないに違いない。マンションのエントランスで虚しくインターホンの呼び出し音だけが響く情景を想像して、僕は思わず息を飲んだ。
 僕の知るところではないが、マナカの住むエリアの宅配が、ある特定のドライバによってされているものであったとしたら、その人物一人さえ存在していれば、マナカにとって、他の人間は全て、いようがいまいが、全く関係がないということになる。そういう捉え方を、マナカは無意識にしているということなのだ。これは誇張ではなく、現実的感覚であり、異常なことではないように、僕は思う。どんなに普遍的な人間であっても、一般的な人にとって、日常的に直に人と接する相対数というものは、実に少ないものだと確信出来る。そしてそれが、生きていく上で絶対的必然的に求められる対象として限定される数となると、想像以上に小さな値となって見えてくるのではないだろうか。その最たるものが、現在のマナカの生活スタイルであり、彼が滅多に外界と接触しないことが通常ではないけれど、異常ではないと僕が思う根拠だ。
 そしてこの時、通常でもなく、異常でもあり得る精神が何処に存在するかというと、言うまでもなく僕の側なのだ。誰が何に依存しているかということについて真剣に述べる場合、マナカが僕に、というのは厳密には正しくない。確かにマナカは僕がいなければ『ほぼ』生きていくのは難しいと言える環境の中で生活しているのが現状なのだが、それをもう数年にも渡り支え続けている僕の行動が、通常であると果たして言い切れるだろうか。
 現代人の行動原理として、『何のためにそれをするのか?』というものがある。他人のために何らかの行動をするとき、それが己に対し利益をもたらすものでない場合、その行為には意味があるのか、価値があるのかを問いただしたくなるのが本質となりつつあるらしい。僕の場合、僕はマナカの保護者でもないし、当然身元引受人にもなった覚えはない。恋人というものが相手の生活を援助し保障する役目に成り代わる話を、僕は婚姻という形でしかないと思い込んでいたし、僕は男女の間でなら法律上成り立つ、そのような間柄を意識してマナカを支えてやっているつもりもない。では一体、僕が僕を動かす要因は何処にあるのだろう。
 マナカが今のような生活スタイルを固定させるに至った経緯を、僕は知らない。僕がマナカと現在のような、ある意味では反社会的な関係になる以前に、既にマナカは外部とのコミュニケーションを必要としていなかった。僕がこうして『お帰り』と彼に出迎えられるような身分になり得たのは、ほぼ完全に奇跡と呼んで差し支えないのではないかと思ってしまう。だが、その『奇跡』の真意について、僕はマナカに尋ねることが出来ないでいる。『どうして僕なのか』と。それは愚問であり、邪推でもある。通常、人が他者の存在を求めるという欲求が、そのままマナカに当てはまることはないだろうと今では得心しているのに、その根本の部分で僕は小さな迷いを胸の奥底に抱えたまま、彼を支えようとしている。
 誰かがマナカを支えてやらなければならない。『支える』とは、彼を生かすということだ。彼は、他者との無駄なコミュニケーションを望まない、つまりは僕がマナカの隣にいることは『無駄ではない』のだと確信している。だから、縛られているのは、この僕だ。依存にも似ていると言っていいだろう。救いを与えなければならない僕は、本当はマナカ自身に救いを求めている。たった二人の存在のみで世界が構築され、そして世界が閉じてしまいかねない可能性を排除したいという望みを、僕は心の何処かで有しているというのだろうか――。
「ミィ?」
 声を掛けられて、はっとした。
「――いや、なんでもない」
「なんでもない?」
 本当に?とでも言いたげな表情で覗き込んでくるマナカに、
「なんでもない」
 僕は鸚鵡返しにそう答えた。そう、なんでもないよ。
 なんでもないし、なんともないことだ。これまでもそうだったし、そしてきっと、多分、これからも僕たちは変わらないのだろう。どちらかが変わろうと思わない限りは少しも変わるはずもないのだろうし、けれどもそう思うことはないのだろうと、僕は半ば諦めにも似た感慨を含んだ溜め息を堪えつつ、思うのだった。
「ねえ、今日は泊まって行けるのかな」
 マナカは少し、期待を込めたような、願望を含んだような声で訊いた。
「ああ…、どうかな」
 ゆっくりと瞬きをして、僕は答えた。焦らすつもりはなかったし、実際、そうしても構うところはなかったのだけれど、マナカの眉根が寄せられたように思えた僕は、こう返事をし直す。
「チェスで僕に勝てたら、というのは?」
「チェス?」
 テレヴィラックの中に入っているクリスタル製のチェス盤を見遣って、マナカは多少憮然とした顔で僕を見た。何を言うのか、という顔だ。
「チェス、僕に勝てなかったくせに」
 前に別れる前の晩、何回戦も対戦をして一度も僕が勝てなかったことを言及された。そのときも僕は自分が勝つまで止めないと意地を張り、結局根気の負けたマナカが『体調不良』で最終戦の不戦勝を僕にプレゼントしたのだった。その数分後、倒れるようにして僕たちは眠りに落ちた。
「また勝つまでやるつもり?」
「そんな、4ヶ月前のことを、今更蒸し返さなくても…」
 言い返し掛けて、やめた。僕は、そういうことをするためにここに来ているのではない。この部屋は、マナカにとっての楽園ではないし、僕はそれを知っている。時と場合によっては、僕はこの場所にいなければいけないのだ。これは責任感でも、義務でもない。おそらくそうだと、僕は自覚している。義務や責任を持ってしてしていたことが、そんなものが必要のない、全く当然のことであるとして己の内に吸収されたとき、その対象は相対する自分にとって、どのようなものに変化するのだろう。
 『来たくなかったから来た』来訪の際にそんな言い訳が通用するのは、この世界で僕だけだと自負している。マナカは最低限のコミュニケーションしか望まないのと全く同じくらい、最低限のコミュニケーションを望んでいる。その最低限のボーダーライン上にいるのがこの僕で、他の誰とでも成立しない、僕とマナカの奇妙な関係は、今後もライン上の遣り取りとして続いていくのかもしれない。
「――じゃあ、雪辱戦。勝つまで、居るよ」
 それまで、帰らないから。マナカもそのつもりで――。
 僕はそっと、マナカに申し出た。彼の返事は、聞くまでもない。


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