かみなり



 目が覚めると、微かに風が頬を撫でていた。視線を横にずらすと、ベランダに通じるドアが細く開いていて、カーテンが緩く緩く揺れている。部屋に流れ込む朝の微風は、真夏の昼間のそれとは全く掛け離れた、意外だと言っていいくらいの冷ややかさを感じさせてくれる。熱々のホットケーキをフォークで切り取って、唇を尖らせて息を吹き掛けるときみたいに、期待値が低いことは分かっているのに、何故かそんなものに頼りたくなってしまう自分がいる。
 眠りに就く直前に隣にないことを確認したはずの頭が、僕の頭の横にあった。僕のヨルは、僕の視線から表情を完全に隠すことに成功していた。一枚しかないタオルケットを僕から奪うように身体に巻きつけて、向こう側を向いてしまっている。腰から下が全部見えていて、ふくらはぎの白さが透明な朝の空気に映えていた。
「おはよう」
 そう、唇の動きだけで呼び掛ける。声には出さないように、彼を起こさないように。タオルケットで上半身がすっぽりと覆われてしまっている少年は、眠っているのか起きているのか分からない格好で、猫みたいに丸くなって僕の反対側にいた。その向こうには、真っ白な壁しかない。
 音を立てないようにゆっくりと起き上がった僕は、ゆっくりと洗面所に行って、細く水を出してうがいをする。喉が少し痛かった。僕はひとつ咳をして、それから小さく息をついて、今朝の気持ちの重さを思い出そうと試みる。結果は直ぐに出た。

 昨夜、ヨルと喧嘩をした。
 切っ掛けなんて、些細なこと。

 夕方。仕事から帰ってきた僕は、まず、お帰りなさい、と出迎えてくれたヨルの頭をひと撫でしてやった。僕より頭一つ分背が低いヨルは、子猫が喉をくすぐられるときのような、まんざらでもない笑みを口元に浮かべて、
「お帰りなさい」
 ともう一度言った。僕もまんざらではない顔をして、ただいま、と捨て台詞のように口にして、奥の部屋に進み、着替えをする。空になった弁当箱をヨルは受け取って、流しに置く。
 僕は冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出して、テーブルに置いた。コップを持ってくるのを忘れたことに気付いて振り向いたとき、そこにはヨルが立っていた。
 ヨルは膨れっ面を作って、
「その音、キライ」
 そう呟いた。呟いたのだけれど、僕にはれっきとした抗議の声に聞こえて、何の音が嫌だったのかと、
「嫌い?」
 と問い返したのだった。そのとき、僕はただ何の気なしにテーブルにペットボトルを置いただけだったから――無論、ガラスのテーブルの上に物を置くとあっては、例えばがらすのコップを無造作に置いたときなどよりはよっぽど静かな音がしたはずで――、罪悪感など抱けるに至ってはいない。
「キライなの、その音!」
 ヨルはそう繰り返す。同時に指を示されて、ようやく僕はヨルが嫌いな音の正体が「中身の満たされたペットボトルをガラステーブルに勢いよく置いたときの音」なのだと気付く。
 事実はただ、ガラスのテーブルの上にペットボトルのお茶を置いたときに、思っていたよりも大きな音が響いた、というくらいのこと。僕にとっては些細なことだったとしても、ヨルにとっては些細なことではなかった、そういうこと。
 そこでようやく僕は、
「あ、ああ、ゴメン」
 一言謝ったが、ヨルの頬は表面積を増したままだ。
「なに…、どうしたの。何が不満なの」
 顔を覗き込んで訊いてみたけれど、今度は思い切り顔を背けられる。
「別に!」
「ねえ、ヨル、僕、変なこと言った?」
「…」
「ヨル」
 彼の髪に伸ばした手が、ぱしん、と払いのけられる。
「ウルサイ!」
「ヨルってば」
「シツコイ! キライ!」
 仕舞いには僕のことまでキライだと言われる始末だった。それきり、その日の会話は終わってしまい、なし崩しにコミュニケーションが途切れた。ヨルは部屋の隅に座って分厚い小説を読み始め、僕は今夜折角作ろうと決めていたオムライスを諦めて買い置きのパンを食べると、夜の反対側の隅っこで分厚くない小説を二冊読み、時間を進ませた。
「明日あるから、先に、寝るよ」
 ヨルの返事はなかった。パラ、というページをめくる音だけがして、
「おやすみ」
 布団を半分空けて、僕は横になった。

 顔を洗って歯を磨いて部屋の様子を窺うと、ヨルは見覚えのある姿勢のまま、丸く固まっていた。
 ふと、鼻に微かな刺激を感じてキッチンを見渡すと、流しの横に小さなカップがあって、その脇には小さなメモカード。手に取ると一言だけ、書かれていた。
「アサゴハン」
 カップに入っていたのは千切りのタマネギで、一体これはどういうことなんだろう、彼流の嫌がらせなんだろうか、と思いながら、僕はケトルで湯を沸かした。コンソメスープのブロックをカップに放り込んで、湯を注いで溶かしてタマネギを食べた。殆ど生のタマネギは、とても辛くて切なくなった。朝からこんな気持ちにさせられたんじゃあ、堪ったものではない、と思うけれど、夜中にタマネギを刻むヨルの気持ちはこんな中途半端なものではなかっただろう。
 僕は簡単に二人分の弁当を作る。洗ってあった弁当箱を取り出して、タイマー予約して炊いておいたご飯を詰めて、レンジアップした冷凍のおかずを詰める。5分で済んで、小さな方の弁当箱を部屋のガラステーブルに置き、服を着替えて、車の鍵や財布をポケットに収めて、そこでようやくヨルの横にしゃがんで呼び掛けてみた。
「起きてるんでしょう、ヨル」
 少年は、応えない。
「昨日はゴメン」
 少年は、答えない。
「ヨルがキライだって言うことは、しないようにする。だから、僕が気付かないことがあったら、直ぐに言って。何でも、言って。そうするから。僕は、ヨルの言うこと聞くから。ヨルがイヤだって感じること、僕も嫌だから。ね」
 少年は、応えない。
「帰ってきたら、話、しよう」
 少年は、答えない。
「ヨル」
 少年は、答えない。
 僕は、溜め息をついた。壁時計を見遣り、もう一度小さく息を吐く。もうそろそろ、出掛けなければいけない。次にヨルの顔をみられるのは、また、夕方だ。
「もう、行くよ」
 諦めて僕は腰を上げ、けれど再び膝を折り、ヨルの耳元に唇を近づける。
 そのまま、何も言わずに彼の耳に唇を触れさせた。何も言わずに。
 立ち上がる。そうして、声を出す。
「行くね」
 ヨルは、やはり答えてくれなかった。
 その代わりのように、細い細い髪が、さらり、と鳴った。
「行ってきます」
 僕は声を掛けて、玄関に向かう。返事なんてないことは分かっているし、返事を期待するわけでもない。
「イッテラッシャイ」
 そんな声が聞こえたような気がした。それは気がしただけだと僕が確信出来るくらいの錯覚で、多分、子猫を飼っていたなら、毎朝出掛けるときに子猫は僕に鳴き掛けてくれて、僕はその声を見送りの言葉なんだろうな、と錯覚するんだろうな、というレベルの、他愛のない妄想のようなものだったのだろう、きっと。


目次


Copyright(c) Kazui Yuuki all rights reserved.

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送