ポラロイドカメラ



 その春、僕たちは長い間親しんだ学校から卒業したのだった。
 冗長な式を終えて、最後の学級会を終えて、最後の放課後を楽しもうと画策する級友を横に、静かに校舎の裏庭に足を運んだ。
「ユウキさん」
 そう声を掛けられて振り向けば、そこには旧知の友人が一人、立っていた。
「やあ…、久しぶり」
「お久しぶりです」
 有り触れた言葉に、彼は密やかな笑みを連れて答えた。いつものような、莫迦丁寧な口調で。それが世界で一番尊敬する相手でも、旧知の友人を相手にしたところでも、全く同じなのは常時少しばかり寂しいでもないのだが、僕はそれを今更、表情には出さない。
「式には出なかったね」
 どうして、とは訊かなかった。そういう奴なのだ。誰もが彼のそういう性質を知っているし、何かを卒業する、ということに対し、何か盛大なイヴェントをもってしてしか実感することの出来ないくらい想像力に欠けた人間でもないつもりだ。
 無論、何かを卒業することというのは、俗に言う『イヴェント』ではないことは重々承知しているし、それはむしろ各々がその後に何を感じることになるか、という、本を読み終えたときに感じる充実感をどう胸の内に反芻するか、といったことに似た余韻にも似た叙情なのだろうと思う。
「探してくれていたんですか、僕のこと」
「そうでもないよ。でも、そう言ったら嘘になる」
 微笑みを二割ほど増して、彼はブレザーの制服の胸ポケットから携帯電話を取り出した。カメラ機能の付いた携帯電話。
「撮ってもいいですか」
「僕?」
 彼は頷いて、ポタンを一つ押し、こちらにレンズを向けて、一歩だけ下がった。
「ヤダ、って言ったら?」
「ユウキさんは、そういうこと言いません」
「うん」
 僕は頷き、彼の手元からカシャリ、とシャッター音がする。
「どう?」
「ダメですね、やっぱり」
 首を振る彼の手元を覗き見る。そこには一本の桜の大樹。樹齢百七十年と聞いているその木は、この学校が建てられる遥か以前からこの土地に立っていたもので、そして僕が裏庭に出てきたのは、この木を見に来たのが目的の一つだった。そして…、彼のレンズは、この木を背景に、僕を撮り、携帯の画面には、大樹の年齢を思わせる幹しか映ってはいなかった。
 僕は、写真というものに写らない性質なのだ。それは仕方のないことであって、僕にはどうしようもないことなのだ。人生において何か損をするということもなく――、強いて言えば、この先、履歴書が必要となったときにどう言い訳をしようかという悩みがあるくらいの、些細なことなのだ。
 そして彼は僕のそんな性質を知っているから、『やっぱり』と言ったのだ。更に、それは彼も同じだということを僕は忘れていない。
 僕はわざとらしく肩を竦めてみせる。こんな動作、映画でしか見たことがないが、一年に一度くらい、そんな映画みたいなうそ臭い動作をしてみたところで罰は当らないだろう、なんて思いながら。
「ポラロイドカメラでもあったら良かったのにね」
 両手の親指を人差し指を逆さに使っていびつな四角を作り、キャンバス代わりに彼の姿を据えて冗談めかして言ってみると、
「そうですね…」
 彼はほんの少し、悲しげな目つきになる。それが冗談だと分かっているのだ。直ぐに現像が行われるポラロイドカメラであろうが、僕たちが自分の写る写真を己の目で見ることは出来ない。
「ユウキさん」
「ん」
「どうして、不思議に思わないんですか」
 彼は急に、目を細めて僕を真っ直ぐに見た。
「――どうして?」
「どうして、なんてことはないでしょう。僕と、貴方だけなんです」
「分かっているよ。こんなこと、きみ以外の誰にも話せないね」
「また誤魔化そうとする」
「誤魔化してなんかいないよ。事実なんだから仕方ないだろう」
「違います。僕が言いたいのは――」
 春の何処か滑らかな――滑らか過ぎるような――空気を少し吸い直し、
「どうして、貴方は、貴方が感じているはずの疑問をそのままにしておくのか、ということ…」
 僕たちの間にあるのだろう空気が、すう、と違うものに変わったかのような錯覚を覚えた。或いは…、事実、そうだったのかもしれない。「何が言いたい?」
「だって、僕が写真に写らないのは、僕が写真というものに写らないのではなくて、貴方が撮る写真の媒体…、つまり、貴方が持つカメラには、貴方以外の者は写らないのだということでしょう? 貴方のカメラは、貴方が本来写るべくして写っていた時のまま、時間の流れが止まってしまっているんだ。だから、時間が動いている貴方以外の者は写ることが出来ない。写真という一瞬の中で、背反してしまうから。そうしたら、それは写真ではなくなってしまうでしょう? もしここにポラロイドカメラがあったとしても、それは同じです。その写真には、絶対に僕の姿は写らないでしょう。そして、それを撮る側である貴方は、貴方以外の者が指摘しない限り、真実に気付くことが出来ない。写真に相手が写らないのではなくて、そもそも写真を撮ることが出来る、という枠の外にいる貴方には、僕の姿を貴方のカメラで撮ることが出来ないんですよ」
「けれど…、それはそのまま、きみにも言えることじゃないのかい」
「そうです。それを知って欲しかった」
 彼はゆっくりと首肯する。
「――僕がどうして、貴方にずっと会えなかったか。それは、僕が貴方に会えなかったのではなくて、貴方が僕に会えなかったんですよ。気付けなかったのですか? 貴方は、貴方が今、何処に立って、誰と話しているか、きちんと自覚出来ていますか? いや――、貴方は、貴方という存在を、貴方の中に、きちんと自覚出来ていますか? 貴方は、僕という存在を、貴方の中で、きちんと理解出来ていますか――?」
 急に、彼は奇妙なことを口にし始めた。しかし、僕の耳には、それが奇妙なことどころか、全くこの世の摂理を口にされているかのような、…まるで聞き分けのない子供に対して親が噛み砕いて諭しているかのような、そんな口答えの仕様のない説法のように思えていた。
「貴方という存在が、一体何なのかということについて、僕は何の推察もしません、何を考えたところで、僕の前には貴方がいるし、貴方の前には僕がいるでしょう。そうである限り。僕も貴方もここに確かに存在しているんです。他の誰が否定したところで、僕と貴方にとっては、それは絶対なんです。この世が存在する、ということよりも、それは確実だといっていい。けれど――」
 一度言葉を切って、彼は続けた。
「僕と貴方は違うんです。それもまた、絶対のことなんです」
 そう、その後、僕が彼に何と言い返したか、とか、彼がどんな顔をしてみせたか、なんてことは、些細な現象に過ぎない。一番確たることは、そう――、僕たちは、今、何処に存在しているのだろうか、という疑問に誰が答えるのか、という疑問。
 本当は、僕たちが世界の中でカメラというもののみ、認識することが出来ないのだとしたら、この世界はどのように歪みを見せるのだろうか、という疑問に僕は答えられるのか、という疑問。
 それとも、僕と僕の持つポラロイドカメラが、全く同様の意識を有していたなら、全ては平行線の上で語られる戯曲なのだろうと。そのとき僕は、一体誰の姿をレンズに収めることになるのだろう…、そう、不意に思ったのだった。


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