その人は、架橋の真ん中でいつも、川に向かって釣り糸を垂らしているのだった。
いや、その人だけではない。少なくとも、僕がその橋を渡る時にはいつでも、誰かしら、釣り糸を垂らして川に向かって静かに佇む人が、そこにはいるのだった。
若い者から年寄りまで、年齢層は広く、けれど何処か存在感が薄い者ばかり…、気にならないといえば、全く気にならないのだ。橋の上に誰かがいる、というのは普遍なことであるし、それが『釣りをする者』であろうとも、釣りそのものに興味があるものでなければ、その行為に疑問を抱くことはそうそうないだろうと思う。
その日も、やはり架橋の中程で、釣り糸を垂らす人の姿を見掛けて、僕は気紛れに立ち止まった。釣り道具が入ったボックスがあるわけでもない、釣った魚を入れるクーラーボックスがあるわけでもない。座るための椅子があるわけでもなく、その人はぼんやりと立ったまま、釣りをしている。
この人は…、この人たちは、一体どうして、いつもこうして釣竿を掲げて、釣り糸を垂らして、何かが釣れることを期待しているのだろうか? いや…、何か、魚が棲んでいるということを聞いた覚えは、少なくとも僕にはない。
では、彼らのしているのは釣りではないのだろうか? 釣りをしているように見えて、実は何か別のことをしているのだとでもいうのだろうか。釣竿を川に向けて垂らしすることが、他にあるだろうか。
考えてしまうと全く分からず、だからそのとき、僕は、
「釣れますか?」
そう訊いていたのだ。そう訊くしかなかったのだ。
すると、その人はゆっくりと僕に向き直り、そしてゆっくりと微笑んだ。
「そう、その言葉を待っていたんですよ。ずっと待っていた」
二度三度と頷いて、その人は言った。
「待っていたんだ、私は」
それを聞いて、僕もようやくその意味が分かったような気がした。そのためだけに、彼らは釣りの真似事をしていたのだと、ようやく気付いたのだ。 世の中に有り得ないと思うことは全て、何らかの形で既に世の中に現れ出でているものだという実感が、そのときの僕にはあったと言っていいだろう。それがどんな事実であったとしても、それを目に捉えた瞬間から、この僕の捉える世の中には存在し得るものとして『存在』する。
ふ、と笑みを浮かべて、僕は言った。
僕の思いは、その一言に尽きた。
「釣られた、というわけですか、僕は」
「なんていうのはどうかなあ」
不意に思いついたので、僕は訊いてみる。
「さあねえ」
やっぱり気のない返事を僕にするのだった。
「冷たいね」
多少冗談交じりに不貞腐れて僕が言うと、
「あ、お風呂入ろっと」
彼はいそいそと、一杯に張られたバスタブにアヒルを浮かべにいった。
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