毀れた弓



「ねえ、海に連れていってよ」
 雨の降る日で、僕は到底外出なんてしたくない気分だった。僕は雨が降ると体調が思わしくなくなる、というような体質の持ち主ではないけれど、それでも晴れの日よりは気圧の関係もあるのだろう、多少はモチヴェーションの有り様が異なるというものだ。別段、空が晴れていると心も晴れ渡ってくる、というような気質の持ち主でもないけれど、雨の日は憂鬱、という定型文が、僕の頭の中にはかなりの使用頻度をもって仕舞い込まれているのだ。
 だから僕は、自分が意識するよりもずっと重い声で答えていたに違いない。
「海?」
「そう、海」
 突然僕の住むマンションに訪ねてきた彼は、こくりと頷く。
 4週間ぶりに会うアカザは、まるきり4週間前と同じだった。まるで僕だけが4週間後の世界にずれ込んでしまっているような、そんな錯覚を受けなかったと言えば嘘になってしまうくらい。
「お前、莫迦?」
 だから僕はつい、荒っぽい言い方になる。己が正規の軸から外れてはいないのだということを主張するかのように。
「何が」
「何が、って…、なに、急に海だなんて」
「行きたくなったんだもの。見たくない? 海」
 僕の愛車は――愛車、なんて呼べるほどに僕はその車を大切に扱っていたわけではなかったが――年式は古いとはいえ、それとは全く関係なく雨に降られたら後の汚れ落しが面倒なのはもうここ数ヶ月で経験済みのことだったし、何より僕たちの住んでいる都市はといえば、都市とは名ばかりの山陰地域で、海のある場所に行こうと思うならば、太平洋だろうが日本海だろうが、そのどちらにしたって片道に半日を費やさなければ辿り着くことなど出来ないくらいに田舎に位置していて、ほんの気紛れでドライブがてらに行こうと思うようなところではないのだ、海というのは。
「別に、見たいとなんて思わない」
「どうしてさ。見たくなるだろ? こんな日にはさ」
「だから、思わないって」
 本当、気紛れにも程がある。大体、どうしてそんな気紛れに僕が付きあわされなければいけないのだ。
「だって、暇そうだもの」
「だれが」
「きみ」
 それはきみにそう見えるだけのことだ、と答えると、アカザは心底楽しそうな顔で笑った。もっとも、彼が僕の返答を面白く思って笑ったのかどうかは、僕には分からない。
「暇だろう」
「断定するな。きみが思うほどに、僕は暇じゃない」
「でも、暇だろう?」
「きみが思うほどにじゃないが」
「大丈夫さ。車は僕のものがある」
「新型じゃないか」
「そんなことにやっかみを覚えなくてもいいじゃないか」
「どうせ僕の車は旧型だ」
「街で見るたびに乗りたい乗りたいと繰り返していたくせに」
「それが僕のものであればの話だ」
「じゃあ今日はきみの車だと思えばいい」
「それは裏切りだろう」
 僕が言うと、彼はつい、というように笑う。
「僕に?」
「違う。僕の、あの子に」
 自分の車に、亡くなった弟の名前をつけていることを揶揄して、彼は笑ったのだ。僕は正直、面白くない。
「ふふ、きみらしい」
 僕たちは、海に行くことになった。雨は止みそうにない。
「知らないぞ、何があったって。こんな雨の日に車を出して、海に行こうだなんて正気の沙汰とは思えない」
 ふふん、とアカザは笑みを漏らす。
「だったら、正気じゃないんだろうね」
「――誰が」
 一応、僕は問う。彼は答える。
「僕たちが」
「僕は仲間に入れるな」
 不貞腐れて僕が答えると、また、彼は、ふふん、と笑う。

 6時間して、僕たちは太平洋に面した浜辺に立っていた。アカザの新型は足取りも良く、雨の中の走行は悪くはなかった。けれども当然ながら、僕の心象は良くない。当然ながら、天候は回復しておらず、海は荒れ気味だ。空は暗く、波が高い。
 僕は、一体、何をしているのだろう。そう思った。アカザのこういったねだりごとは、今日に始まったことではない。いつも、不意に、僕の前に現れては、突然の頼みごとをする。それも、どれもが、自分一人ですればいいのに、と思わずにはいられないことばかりなのだ。
 今日のように、海に行きたくなったのなら、一人で幾らでも行けばいいのだ。僕と違って、彼の新型の車ならば快適なドライブを彼にもたらしてくれるだろう。彼の運転技術も僕より数段優れているというのに。
 それとも、アカザは一々、僕という存在を求めているのだろうかと思わないでもない。けれども、車中で気の聞いた話題を持ち出すことも出来ない僕が、彼に快適なドライブを提供出来たとも思えないのだ。会話をスタートさせるのは専らアカザの側で、僕はといえば相槌を打つので精一杯だったのだから。それでも彼は道中、僕の見る限りは楽しそうにしているのだった。
 砂浜に降り立った僕たち以外に、周囲には少なくとも人間はいない。こんな日に好き好んで海などに来る人間が他にいるだろうか、と僕は改めて思う。余程平生の生活に飽きたか、平和な社会に嫌気が差したか…、そんな人間が訪れるには、うってつけとは言わずとも風景的には悪くはないかもしれないが。
 そう思ったところで、僕はふと思う。この風景に、アカザは似合わないな、と。もしも彼が僕の憂鬱を読み取って海へ行こうと誘ったのだとしたら――もしも彼の目的は当初、僕を訪ねる、ということそのものにあったのだとしたら――、僕は、アカザに対し、何らかの態度を取らなければならないのではないだろうか、と。
 それはすなわち、この憂鬱をもたらす雨に対する抵抗であると同時に、それを払拭させるために、あの、アカザという存在を、僕が何らかの形で処理しなければならないということなのだ。
「ねえ、見てよ、ユキ」
 アカザはよく通る声で僕を呼んだ。強い風に吹かれて、その髪が荒く波打っている。僕に向かって振る手には、何か、珍しい形の貝らしきものが掴まれている。僕は彼に向けて首を振ってみせる。彼は一度、不思議そうな顔をして、けれど直ぐにまた視線で砂浜を物色し始めた。
 僕はそんな彼の後ろを、距離を置いて歩いていた。僕たちは、緩やかに濡れながら歩いた。湿った砂に、一歩一歩と靴が埋まった。視線は下向き、僕の気分も、このままでは上向きには決してならないだろう。アカザの足跡を辿るうちに、僕の視線は砂浜に埋まるものに引き寄せられていた。
 足元に、何か鉄製の器具が落ちている。ふと興味を惹かれて、僕はその場にしゃがみ込み、指先で少しずつ、それを掘り出していった。柔らかい砂の中から、それは姿を少しずつ現していく。
 砂だらけのそれは、初め、銃かと思われた。銃のグリップの形が見えるのは直ぐで、次いで引き金が現れた。しかし銃身がいやに長いので掘り出すのに手間が掛かる。そしてその先には弓が付いているのだった。
 矢が仕掛けられたボウガン。おあつらえ向きだ。このまま引き金を引けば、矢が飛ぶように仕組まれている。一体誰が、こんな中途半端に危険な状態のまま、ボウガンを捨て置いたのか。それとも、何処かから流れてきたのか。多分そうだろう、と僕は思った。こんな偽りの平和に満ちた国で、誰が凶器をこんなところに捨て置くものか。
 ――おあつらえ向きだ。僕は一人、再び、思った。
 僕は思った。このボウガンを標的に向けて、引き金を引いて、矢が真っ直ぐ飛んだなら思惑通り、正面から矢が突き刺さったなら思惑通り。
 僕は思った。ただし、ボウガンが壊れていて、矢が真っ直ぐに飛ばなかった、或いは矢は飛びもしなかったなら、それもまた思惑通り。十中八九、九分九厘、このボウガンは壊れているだろう。けれど、弓に矢が仕掛けられているという杞憂な条件下で、それを発射させずにいる奴が何処にいるだろうか――ただでさえ、僕は凶器を手にせずにはいられない面持ちでいるのに。
「アカザ」
 彼の名を呼んだ。アカザがこちらを向いた。僕と目が合った。彼は、この場所にボウガンが埋まっていたことを、僕よりも先に知っていたに違いない。そして、僕がそれを掘り出すであろうことにも、いち早く気付いていたに違いないのだ。でなければ、あんなに楽しそうな表情を僕に見せるはずがないのだ。
 僕はゆっくりと狙いを定めて、引き金に指を掛けた。僕は、彼を撃たなければいけない。そう思った。僕がいて、アカザがいる。その直線上には、もはや何もない。何もないのだ、それはまるでこの場に僕を連れてきたアカザのように。――だから、僕はアカザを撃たなければならない。そうでなければ、この雨は決して止むことはないだろう。
 僕は、引き金をゆっくりと引いた。
 彼が、笑うのが見えた。


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