捨て猫ブリーダー



 昔から、捨て猫を見掛けると拾ってきて親に迷惑を掛けるタイプの子供だった。ゴミ捨て場に段ボール箱が置いてあって、回収し忘れか、それとも指定外の産業廃棄物か、それとも日付を間違えて置き去りにされているか、そんな感じの普通の段ボール箱の中に、いるのだ、子猫やら子犬やらが。
 こう言うと犬好きの人に怒られてしまいそうだが、不思議と犬には興味のない子供だった。嫌いだったわけではない。好きか嫌いかで言えば、間違いなく犬は好きだ。けれども、目に留まるのは、そして拾って帰るのは、いつも猫だった。好き嫌いと、興味の度合いは、同じように測れるものでは、必ずしもないということだろうか。
 突出して裕福だというわけではない我が家では、時たま、気紛れな息子に付き合ってペットの飼育の許可を親も出してくれたものである。しかし、同時に飼っていた猫の数は、五か六か……、十や二十ということは、決してなかった記憶している。人脈と人付き合いの巧い両親は、それぞれの遣り方で里親としての能力を発揮していたようだ。一方で私自身は、ひたすら良い飼い主であり続けた。自分の側にいる猫をひたすら猫可愛がりし、しかし可愛がるだけではなく躾けるべきところはしっかり躾け、結果的に家族一丸となってブリーダーのようなことをし続けていた、ということになるのだろうか。そうであるから、幾ら私が新しい家族を連れて帰ってきたところで、不幸な命を増やすことなく、彼ら彼女らの小さな命を繋ぐ術に長けていた我が家ではライフワークの如くそれを楽しんですらいたのだ。
 そんなだから、社会人になり、ひとり立ちし、実家からも離れた暮らしを長く続けている私が、身分不相応なくらいの、ちょっと広過ぎる邸宅を構え、「猫」と呼び習わしえている彼ら彼女らをブリーディングしていることに、何ら疑問を挟む余地はないと思うのだ。街の片隅で寂しそうな目をして弱々しい声で泣く子らをついつい拾ってきてしまう、それだけの話だ。
 彼ら彼女らの半数以上は、自分で働く能力がある。たまたま、身を置く場所を私の家として、ほんの少し私の元に心付けを置いていくくらいのことで、私は満足出来る。身を売る、心を売る、といった生臭いことは昔から嫌いであった私は、一体彼ら彼女らに何を求めているのだろう。
 孤独を埋める温もり? そんなものは必要ない。望めばそんなものは幾らでも手に入るではないか。それを与えているのは私の方だ、という自惚れでもない。けれども、私が彼ら彼女らを「猫」などと自惚れたような呼び方をしているのは、事実なのだ。それとも、そんな呼び方が始まったのは私の側ではなかっただろうか。
 そんなことを改めて考えているうちに、なんとなく分かってきたことがある。私が好きなのは、飼い猫ではなくて、野良猫なのだと。自分の好きなように、誰にも邪魔されず、何者にも束縛されず、野放図であるかのような生き方をする、野良猫。それを私は愛していた。必ず、何者かに束縛せずには生きていられない、現代人の私たちが求める生き方のひとつ。しかしそれを実行するには、私は子供で、臆病だった。その精神は、大人となった今でも恐らく変わらない。周囲の恩恵を全て失って、仮初めの自由を糧に生きて行く……、私はそれほど強い人間ではないのだ。はっきり、臆病だと言ってもいい。
 だからなのだ、私が身近に猫たちを置いておきたいと希求しているのは。


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