空中楼閣、竜王遊び

 帳口 仰ぎ見遣れば屋根の花 風に迷うは雪の根の華


 堅牢に閉じられた門の横に、その屋号は掲げられていた。
 黒々とした立派な木で作られているその正門は、雪解けの水でいよいよ漆黒の艶と科している。ひと目見ただけでは客人を迎えようとしているとは思えない。むしろ、用がなければ近づくなと無言の圧迫をしているようにすら思えた。
「こっちだ」
 翔は、その門の隅にある小さな通用門のような木戸を開けて、匡一に続くよう手招きをした。
「表からは入れないのか」
 怪訝に思った匡一が問うと、
「あの門は開かないようになってる。見せ掛けに過ぎないのさ。ここでは、客も通用門から入るんだ」
 そういうものなんだよ、と翔は言う。
 何がそういうことなのかは匡一には分からなかったが、遊郭に向かう客人の全てが表の世界に明るい人間では在り得ないという事に思い至り、ならばそういうことなのだろうかと解釈しておく事にする。
 それとも、普段はしないことを敢えて楽しもうとする思惑が、そんなところにも現れているのだろうか。だとしたら、それは少しばかり滑稽でもある。
 木戸を潜ると、翔の言う通り、門には大きな閂が掛けられていた。その直ぐ後ろから、まるで小さな林の中であることを思わせるように木々が植え付けられ、小路が伸びていた。雪除けに筵の敷かれた上を二人は進んでいく。
「場所によってはな、裏木戸からしか敷地内に入れない、っていう楼閣もあるんだ。表から意図して内部を隠すことで、睦言をより楽しませよう、っていう魂胆もあるんだろうがな」
 如何にも知ったような口調で、翔は匡一に説明した。匡一の考えは半分当たっていたらしい。
「成程」
 陰る木々の間から、月明かりに仄かに照らされる屋敷の姿が見え始めた。しっかりとしたつくりの木造家屋であることが遠めにも伺え、匡一は郷里にも似たような作りの旧家があるのを思い出していた。 西の京の料亭のような作りをした建物だった。案外、それ自体は重厚な宿の装いを呈しているように見える。かつては実際に旅籠として機能していたのかもしれない。
 飛び石の上を伝って、玄関に入っていく。
 玄関の上がり口には、水墨画の描かれた衝立が奥の廊下への目隠しに置かれていた。三和度の横の靴箱には空きが目立つ。昨晩の雪のせいか、今夜の客足は芳しくないようだ。
「誰か、居ないかい」
 衝立の横板に下げられた鈴を一振りして、廊下の奥に向かって、翔が声を掛ける。
 襖の閉まった両の部屋からは、和やかに談笑する男女らしい声音が小さく聞こえた。
 やがて…、俯き加減に迎えが現れるのを待つ匡一の目に映ったのは、何者課の真っ白な足袋だった。音もなく静々と廊下をやって来たのであろう。
「お帰りなさいませ」
 一人の女が衝立の横から姿を現わす。出迎える言葉を、主人を迎えるそれの如くに用いたのは、中々巧いやり方だと舌を巻いた。
 桜色に仄かに染色が施された中振袖を身に付け、萌黄色の肩掛けを羽織っている。腰帯は桔梗色の配色が為されたもので、夜闇の行灯にも見事に映える濡羽色の黒髪を結い上げた彼女は、綺麗に磨き上げられた木目の床に三つ指を付いて、彼らを出迎えた。
 うん、と頷きを返している翔を横に、だが、匡一はそれよりも前に一瞬、呆然として彼女の美貌に目を奪われかけた。彼は、それまでに目にしたどんな女性とも違う種類の艶めいた雰囲気を彼女から感じ取ったからだ。
 精巧な部品のように配置された顔の各部位だけでも、美術品を見ているような気にさせられる。細く整えられた眉、僅かに上向いた睫毛、すっと唇に紅を注し、その微笑みは客に安著以外の何ものをももたらさないだろう。まだ若い筈なのに、並みの女では、こんな表情は作れない筈だと匡一は思いかけ――、
 否…、と思い直す。
「冴城様、お久しぶりです」
 その声を聞いて尚、その事実に気づかなかった匡一だが、揶揄するような翔の視線で、ようやく彼の意図するところに思い至った。…久方の挨拶を翔に向けるその人物は、女性ではなかった。
「様、は止してくれといつも言っているのに」
「これは染み付いてしまった癖ですから」
 苦笑を漏らす翔に、他意のなさそうな微笑みを返す、麗人の如き青年。
「前に来たときには、庭の落葉が見事だったのを覚えているよ。それ以来だね」
 凛然とした玲瓏の美が、女性からは感じられない類のものであると思ったのは、そういうことだったのかと思う。成程、遊郭の主の青年がそれ程の美貌であるという事実は、それだけで人を魅くに値するだろう。
「ええ。…そちらは、お連れ様ですね」
「ああ。以前にも話しただろう。級友で、綾峰という」
 翔は少し横に避け、半身後ろに佇んでいた匡一に場を譲った。
「今晩は。お初にお目に掛かります。私、この宿の主で、紫宛と申します」
「…どうも」
 青年が深く頭を下げるのを見て、慌てて会釈する。翔が声を殺して笑った。
「かしこまる必要はないさ。上客に対する当然の対応をされているんだから」
 そう言ってわざとらしく胸を張り、匡一を振り返った。
「言っただろう、俺はこういう所に慣れてないんだって」
 憮然とした顔で、匡一は応える。
 靴の紐を解きながら、翔は待ち受ける白皙の青年を見つつ、
「驚いただろう? 俺も最初は、彼が『彼女』だと信じて疑わなかったからな。それを知ったときには詐欺かと思ったよ」
「そんなことを言ったら、失礼だろうが」
 匡一は咎めるつもりで言ったが、紫宛は悠然と微笑んだ。
「いえ、冴城様には、いつも良くして頂いておりますから。その程度の冗談は、もう聞き飽きた程ですよ」
「それは、俺に対して失礼じゃないかい」
 翔はわざとらしく口を尖らせた。…どうやらこの二人、本来遊郭という場を介するまでもない間柄の知人でもあるらしい。そう匡一は検討を付ける。
「お褒めの言葉として受け取らせて頂きますよ、翔さん」
「ああ、やっと普通に呼んでくれたね。そうでないと、俺も背中がくすぐったくて仕方がない」
 肩を上げて、翔は口元を持ち上げる。
 着物の袖で口元を隠し、くすくすと紫宛は笑った。その視線が一度、匡一のそれと重なる。
「今夜は、どうなさるおつもりですか? お二人、ご一緒の部屋を?」
「そうだな…」
 少し考える仕草を見せる翔を見て、匡一は先に口を開いた。
「――俺のことは放っておいてくれてもいい」
 会話が突然中断されたような空気が、そこに生じた。
「匡一?」
 怪訝な声で翔は彼を呼ぶ。
「と、言いますと…?」
 主の青年も、不思議そうな顔をして問うてくる。
「誰も部屋に呼ばずに居る、ということは出来ないのか?」
 彼が友人の知人であることを知り、少しぞんざいな言い方になっていた。
「お一人でお過ごしになりたい、ということでしょうか」
「…ああ。本心、そうしてもらえるとありがたいんだが」
「ですが…」
「ちょっと、待ってもらえるかい」
 翔は明らかに慌てた声を上げ、紫宛に掌を向け、匡一の腕を引いて顔を玄関表に向けた。そうしてひっそりと告げる。
「おい。それはこの場所では失礼に値する依願だと思うぞ、俺は」
「それは…、仕方がないだろう」
 本当に仕方がなさそうに、匡一は呟く。
 やれやれ、と溜め息をつき、翔は匡一の肩に手を回し、抱えるようにしてそっと話し掛けた。
「やはり、こういう所は肌に合わないか?」
 匡一は、その瞬間、肩に妙な力が籠もるのを自覚した。
「妙な言い方をするな。気が進まないだけだ」
「同じことじゃないか」
 匡一の言い訳に苦笑いをして、翔は紫宛に振り向いた。
「俺からも頼む。可笑しなことを言うだろうと思うけれど、気にしないでくれ」
「いえ、今夜は丁度、他のお客人も少ないことですし…、でしたら、そのように。何か申し付けることがありましたら、お呼びくださいませ。…翔さんは、今夜は?」
「勿論、あんたを所望するさ」
 紫宛の問いに、当然のように頷いて翔は応える。
「畏まりました。では…、綾嶺様を先にご案内させて頂きますね」
「ああ。あまり送れるようなら、俺は先に一人で寝てしまうことにするから、そのつもりで」
「もう…、そんなことを仰らないでくださいな」
 ひらひらと手を振り、足を運び掛けた翔は、
「そうだ」
 と思い出したように振り返って、匡一の耳元に口を寄せる。皮肉気に笑って、こう言った。
「小姓の一人でも呼んでやるといい。退屈凌ぎになってくれるだろうよ」
「退屈凌ぎに、給仕をか」
 仏頂面になりつつも思わず首を傾げた匡一の肩を叩き、彼は今度こそ背を向けた。
「あいつは…、翔は、ここではいつもああなのか?」
「いつものことです」 紫宛に向けられた匡一の小さな疑問は、さらりと躱された。
「こちらへ、どうぞ」
 彼が案内されたのは、長い廊下を暫く進んだ所に位置する離れの一室だった。廊下から辺りを見渡せば、他にも庭に面して独立した部屋が廊下で区切られ、幾つかあるのが分かった。騒ぎ事を好まない、物静かに夜を過ごしたいという者が好んで指定しそうな部屋だと匡一は最初に思った。
 しかし、直ぐにそれは間違いだと気づく。…つまりは、事の最中に余計な邪魔が入らないように、わざわざ離れでの逢瀬を楽しませようという作りなのだ。匡一は、そんな特別の部屋に案内されたのである。半ばこれは、皮肉なことだと笑みすら浮かぶ。
「ごゆっくり、どうぞ」
 ここでは滅多に使わないであろう言葉を残し、紫宛は廊下を戻っていった。
 濡れ縁に、解け残った雪が薄く膜を作っている。それに面した庭は狭くも枯山水を模った瀟洒なもので、それらを横目にしつつ匡一は障子を開いた。
 部屋は、意外に広いものだった。匡一の下宿先の部屋よりも広いのが胸に多少の痛みを感じたものの、兎角普段出来ない贅沢を楽しもうというのがこういった宿の趣向の一つであるのだから、それを拒否したりはすまい。
 書院的な作りの一室には、目立たない程度に華やかな装飾が幾つも凝らされている。床の間に掛けたれた山水画の掛け軸、床柱には籠で作った花活けが括り付けられている。
 書き物机の上には、星型に捻られた陶製の筒の中に蝋燭が仕込まれた和灯、机の脇には火鉢が置かれ、暖かそうな火が赤々と点っている。
 だが、風呂や小さな台所まで付いているのを見て、正直匡一は戸惑った。如何にもこんな、馴染みの上客にしか使われることを許されないような特別な部屋を宛がわれた自分は、まさか主の青年意忌避されたのではないかと思ったからだ。
 けれども、その常連客の翔の友人であることを確認させた匡一に、主が無下な態度を取るとも思えない。ならばなにがしかの考えでもあってのことなのかと、意味のない疑問が浮かぶ。
「まあ…、なるようになるさ」
 匡一は無理矢理に、思考の行き場を押さえつける。元より乗り気ではなった身だ。留まることを拒否されたときには、直ぐに身を退いて帰るだけの心構えはあった。
 かといって、このまま寝てしまうのもあまりに莫迦らしい。ここは単に睡眠欲を満足させるための場末の民宿ではないのだ。『寝る』の意味合いが全く違う。
 少なくともこの屋敷内においては、その言葉は男女の同衾、共寝を意味するのだ。噛み砕いて言えば要するに、一夜の睦事、情事を楽しむ寝宿なのである。
 匡一が思う程に、健全でいることが正しいとも悪いとも言えないが、真偽はどうあれ、彼が真っ当な客として成立しない人物であると判断されていても可笑しくはなかった。
 匡一には見知らぬ女と寝具を共にする趣味はない。そんな意味のことを級友に告げたとき、お前、それを遊郭のお嬢の前で口にするんじゃないぞ、と釘を差されたのは言うまでもない。匡一自身も、自分の口にした言葉の裏に潜まれていると解釈されても仕方のない、潔癖な思想の存在には気づいている。それを承知の上で、彼はここにやってきたと言っても過言ではないのだが。
 遊女たちは、褥を男とともにすることで生きるための糧と代えていると言っていい、つまりは、ある意味においては、それが生活の基盤の一角を支えていると言われもするのだ。働き口ならば他に何処でもあるのだろうと諭すのは簡単なようだが、しかし、本当にそうであるならば、事実、遊郭など存在しない、と異論を唱える者も居る。
 それはどうなのだろうと、しかし匡一はやはり思う。たとえ経済的に貧困であるがゆえに遊里に身を捧げる者が居たとして、そうでない理由――単純に、遊女という一つの仕事であると割り切った上で、その役割を演じようとする者も居るのではないだろうか。
 身体の自由を一時的に預けるという行為を楽しませるのが遊女としてのそれであるのならば、或いはその自らの立場すらを、…もしくは情事そのものを楽しむからこそ、娼婦であり続けるものも居るに違いないのだ。論理的に考えるまでもなく、彼女らの給金は高い筈だ。
 躰を交わすことで得られる給金を仕事の善し悪しと摩り替える論理は強引だが、しかし習得できる所得の多さが人としての地位を高めるのであれば、この考えが一概に切って捨てられる類のものではないだろうと思われる。
 だが――、ここで匡一の思考は冒頭に立ち返る。遊女の全てが裕福であるかというと、そんなことはないのだ。もって生まれた様々な資質がもたらす結果が、それらの現状なのであって、富裕に恵まれない者も多い。これは統計的に言っても絶対の筈である。
 取り留めのない考えが次々に浮かんでは、しかし面白みもなく、却って詰まらなさを増幅させる。
 独りでは到底、一晩を過ごすには場と時を持て余しすぎる。夜は、彼が思っているよりもずっと長く留まり続けるに違いないのだ。
 その証拠に、匡一が懐から取り出して目の前に掲げた懐中時計は、壊れてしまったのではないかと一瞬彼が思った程、盤上の針を進めてはいなかった。思わず溜め息が出る。
 結局彼は立ち上がり、障子をそっと開けて廊下に出た。外界の空気を吸おうと、庭を眺めながら考え事をする。…何故俺は、ここに居るのだろうか、と。
 と、水場の方から中廊下を行く紫宛の姿が見えた。向こうも匡一の姿を目に留め、こちらにやって来た。先程とは趣が違い、細帯の内衿に肩掛けという薄着姿だ。
「綾峰様。どうされました?」
「いや…、ただの、気分の転換だ」
 様子を気に掛けるような声色の紫宛に、何でもない風を装って匡一は応える。
「それより、やはり翔の奴は今晩は泊まっていくようかな」
「ええ。そのようですね」
 目尻を僅かに下げる笑い方で、紫宛は応える。
「だったら…、すまないが、一つ頼んでも構わないか」
「何でございましょう」
 意識して一呼吸を己に与え、
「小姓を一人…、寄越してくれないか」
 彼はそう頼んだ。
「小姓、ですか?」
「ああ、頼むよ」
 一瞬、紫宛は呆気に取られたような、唖然としたような表情を彼に見せる。
「…畏まりました。少々、お待ちくださいませ」
 だが、直ぐに微笑みを取り戻し、一礼すると奥へと背を向ける。
 無理もない。遊郭に来ておいて、女の一人とも面を合わせないどころか、部屋に用もなく給仕を呼んでくれと頼む客など、何処を探しても見つかるはずもないに違いない。
 そう思い、匡一は一人、薄く微笑んだ。


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