空中楼閣、竜王遊び

 如月の雪明け空の黄昏の青年二人雪を踏み締め


「寒いな」
 鶯色の丹前の衿を締め直し、綾峰匡一は誰にともなくそう呟いた。
「そういうことは、思っても実際に言わない方がいいぞ」
 隣を行く冴城翔がそれを聞きつけて言葉を投げる。
「どうしてだ」
「口にすると、余計に寒くなるものなのさ。言霊って奴だ」
「さあ、どうかな」
 白い霧を吐き出しながら、匡一は相槌を打つ。そう乱れが目立つわけではないとはいえ、彼の黒髪はさらさらと視界を時折覆い、彷徨うように睫毛に触れた。その鬱陶しさに目を細めつつも、彼は指を使おうとはしない。
 何を言っても結局冬が寒いことには代わりはない。寒いものは、どうしたところで寒いのである。内衿を中に着ているとはいえ、形状の伴わない空気は容赦なく隙間から入り込み、体温を奪おうとする。人間は寒さに弱い生き物なのだ。
 匡一も翔も、袂に腕を深く突っ込んでいた。ふわりと吹く風で翔の髪もまた揺れ、ほんの一瞬、空気に色が与えられる。それは彼の吐く息と混ざり合って、青年たちの歩く道筋に一瞬だけの残像を作るのだった。 二人は、歓楽街の中道を歩いていた。新しい年が明け、早くも一月が過ぎようとしていた。街には既に新年の初々しさは消え、例年に続く不況の煽りに怯える人々の姿をちらちらと映し出している。
 それでも、日が暮れてからも店々の活気は華やかなもので、誰もが裏側に秘められた不安を必至に忘れようと努力している心情が伺えた。或いは、表層を飾ることで内面を誤魔化し、逆に気分の面から盛り立てていこうとする人々の苦労の現れが、大輪の花のように無闇に主張してみせるのだろう。
 ここが歓楽街だということを忘れさせそうな、そんな表情の羅列を視界の端に眺めていると、自分たち学生の身分の者は、どれだけ日常を平穏に過ごしているものだと思わずにはいられない。
 二十歳の頃もとうに過ぎ、来年は大学も卒業だというのに、本来そろそろ働き口を探し始めなければならない筈の自分たちは、のうのうと夜の街を歩いている。
「気楽なものだな」
 見方によっては社会からの食み出し者ですらある、中途半端に猶予期間を与えられている自分たちの存在について、そう悲観的に思いつつ、また匡一は呟く。
「誰が? 俺たちがか」
「そうさ。他に誰がいる」
 翔の問いに素っ気無く応えると、翔はわざとらしく辺りを伺う仕草をした後、肩を竦める。
「御尤も」
「――学生という身分を盾にして、国に支払うべき税金には特別免除を受け、かといってその通り学業に専念しているかと言えばそうでなく、郷里の親の仕送りを食い潰し、学生内職をする様子もなく、…夜になると渡り鳥のように街を歩き回る奴もいる」
「最後のは、俺への当てつけだな」
 翔は犬歯を見せて笑った。
 翔は、所謂匡一の悪友という間柄である。初等部の頃から何かとあっては行動を共にし、傍らで彼が様々な問題事を起こす様を見てきた。と言っても、法に触れるような悪事を働く様子を目にした覚えはない。
 もっとも、それは事実が他人に見咎められたか否か、ということでもあったのだろう。犯罪が表沙汰にならなければ犯人が無罪であるように、彼はいつでも規律違反の淵、極限を行く男だった。羽目を外しているようでいて、しかしその本質には考え込まれた諸作が混じっていることが殆どだった。
 それはある意味、信頼にとって変わる性質の感情だろうし、そうでなければ匡一は長い付き合いを続けたりはしない。悪友と称するのはあくまで当人たちの捕らえ方の問題であり、第三者の思惑は介入する必要はないのだ。
 そうして、今夜も二人は夜の街を闊歩している。
「お兄さん、遊んでいかないかえ」
 不意に、そんな甘えるような声が匡一の耳に聞こえたかと思うと、つい、と二人の傍に近寄ってきた女郎がいた。きらびやかな振袖を身に纏い、如何にも人目を引きそうな艶やかな空気を周囲に漂わせているのが分かった。
 彼女は撓垂れるように翔の腕――紺色の丹前の袖口――に指を掛けて呼び止めた。捕捉滑らかな指の先には、綺麗に磨かれた爪が光る。
「悪いね。今夜は予約を入れてある所へ向かうところなんだ」
 やんわりとそれを剥がしながら、翔は微笑みかける。なれた様子なのはどちらも同じらしく、にわかに落胆した表情を浮かべる客引きの女はあっさりと半身を退く。恐らくは、そんな表情も男の気を引く手口の一つに含まれるのだろう。
「なんだ、連れないね。…そっちのお兄さんも御一緒?」
 そう言って、匡一の顔を下から覗き込んだ。思わず、まじまじと見返してしまう。
「ああ。あんたの所はまた、次の機会にさせてくれないか」
 そんな匡一の様子に笑いを浮かべながら翔は遠回しに断りの言葉を述べた。
「約束だよ」
「俺は女には嘘をつかない性分なんだ」
 薬指を立てて約束をする振りをして見せながら、彼は言う。
「冗談ばっかり。…期待せずに待ってるよ」
 袖先から軽く覗かせた指を振りながら、女は離れていった。直ぐにまた、別の男に話し掛けている。
「大変なことだね」
 こっそりと翔は溜め息を吐いてみせる。それもこれも、彼女にとっては己の享楽への誘い、というだけのことではないのだと、暗に示しているようだった。
「慣れてるな」
「ああいうのを相手にしつつ、しかも期待させずに断るのが一番難しいんだ」
 匡一の言葉に、悪戯めいた笑みで応える翔は、確かに詭弁者の節がある。
「何の話だったか…、そうそう、学生身分の罪悪感」
 不意に話を元に戻すと、幾度か一人で頷き、
「さっきも言ったがな、そういうことは思っても口にするべきじゃないと俺は思うぜ。悲観的な感情は、いつだって精神から暗澹たる状況しか作らない。侮れないぞ、言葉は。大体、大学生ってのは、突き詰めて言えば、皆そんなものだろう」
 匡一は肩を竦めてそれに応える。
「それが悪いとは言わないさ。けれど…、何処かこう、道筋が通っていない言い訳を聞かされ続けているような、釈然としたものを感じて仕方ないんだ」
 歩を踏み出す度に、さくり、さくりと氷が砕けるような音がする。編上げ靴の足の裏に、それは以外に心地良い。昨夜降った雪は、うっすらと地面を白く染め、明けた今日の日中に解けたそれが夜になって再び凍り始めている。気を抜くと滑りそうになるので、自然、足取りは遅々としたものになっていた。
「お前らしいな。その内、今日の寒さも自分のせいにし始めるんじゃないかと、俺は不安になってくるよ」
 翔の冗談に、匡一は軽く笑う。
「分かっているんだ。けれど、理由は分からない。この正体不明の靄だけが胸から離れてくれない」
「禅問答に付き合うつもりは毛頭ないけどな、そう深く考えるばかりが人間の特権でもなかろうよ。今夜は、それを教えるためにお前を誘ったのでもあるんだから」
 眼を細め、翔は次の角を曲がるよう親指で示す。共に六尺に届こうかという背丈の青年たちは、己の長い影を踏み締めながら、次第に喧騒とは離れた道を選び、進んでいく。
「しかし…、俺は別に、こんな所に用事を作ったことがないからな」
 道の両側に続く漆喰の壁が次第に高くなっていく錯覚を覚え、匡一は言った。
 翔の足先に先導される形で、いつしか二人は歓楽街の裏道に入り込んでいた。
「そりゃあ、そうだろう。他にどんな用事を作ることが出来るのかは考えたくもないが…、確かに、この辺りにお前の友人はいなかった筈だな」
「からかうなよ」
「まあ、言うな。俺だって無理強いはしないさ。お前の性格は大体把握してる」
「だったら、…どうして遊郭なんて所に俺を誘うんだ」
 今朝、それを本人から告げられて、匡一は危うく絶句しそうになったのだ。
 翔の曰く、顔馴染になったその宿の主と話をするにつけ、どうやら匡一のことに興味を持たれたらしいのだ。久方ぶりに訪れていなかったが、今夜行こうと思っている。そこで、その一軒を思い出し、彼は匡一の所に寄ったのだ。
 つまり、折角だから主に会わせるために、お前を連れて行きたい、と。
 何を考えているんだ、そう匡一は思ったものだ。
 翔には、多少ならない悪癖がある。それがどんな種類のみせであろうと、その商いの場の主と意気を投合させるのが巧いのだ。これが特技であるのかどうかは匡一には判断が出来ないのだが、それでも彼の社交の技術とも言うべき話術の巧さは知っている。
 遊郭が、売春宿と異種のものだとは分かっている。両者の区別をすること自体が侮蔑に繋がることが分かっているので、今更それを思い遣ったりはしないが、それでも匡一のような、社会の隅を敢えて避けようとするような男の訪れる場所ではないことくらい、心得ている。
「無理強いはしない、って言っただろう? 嫌だったら、高級な宿に一泊するんだと思って、気晴らしに遊んでいけばいい」
「嫌って、…何が」
「莫迦。それをわざわざ言わせるなよ。…ほら、ここだ」
 彼が指差す先に、目指す屋敷の屋号が見えた。

――雪華楼。


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