空中楼閣、竜王遊び

 掛け軸の真下に落つる白牡丹 手前に揺れる少年の色


 障子の外に、人の気配が立ち止まる。
「お茶をお持ちしました」
 そう声を掛けて入室してきたのは、十四、五歳くらいの少年だった。淡雪のような白い肌をした、薄水色の内衿を着た小姓は、茶器の乗った盆を携えて匡一の元にやって来る。
「ありがとう」
 自然と、笑みを見せることが出来たように思う。
「小姓をお呼びとの事で参りましたが…、何か、お申し付けですか」
 早速尋ねられ、匡一は首を振った。
「妙なことを言うが、許してくれ。…特に、これといった用事はないんだ。ただ、暫くの間、話し相手になって貰えると嬉しいんだが」
「それは、私で良いのなら喜んで」
 きっと、詮索するなと言われているのだろう。何も言わず、少年は微笑んで頷いた。
 鉄瓶から湯飲みに注がれた茶を受け取り、一口飲んだ。その香りと味に表情を変え、うん? と声を漏らし、琥珀色の液体を見つめる。
「…これは、香茶かい」
「茉莉花茶です」
 火鉢の中に敷いた鉄台に鉄瓶を掛け直し、少年は応える。
「お嫌でしたら、普通のお茶を煎れ直しますが」
 いや、と匡一は応え、
「珍しいものを出すんだな、と思ってな」
「南蛮からの輸入品だそうですよ」
 火鉢の隅を火箸で掻き混ぜながら、少年は話を続けた。
「昨夜は雪でしたね。お寒くはありませんか」
「…ああ。外は寒かったが、ここはそうでもない」
「朝から始終、暖を焚いておりますからね。お客人に不尽を感じさせぬよう務めるのが、私たちの務めですから」
「成程」
「綾峰様とは…、こちらではお初にお目に掛かるのですよね」
 変なことを言うな、と匡一は思う。小姓であってもやはり、常連の客の顔は覚えることを求められるのだろうか。一つ頷きを返し、
「そうだな。そもそも、遊郭で嬢方に会う機会も普段、そうない」
「そうなのですか。お連れの冴城様は、時折訪れては、こちらの者とお遊びになっていらっしゃるようですね」
 必要でないのに、少年の口にした『遊び』の裏にもう一つの意味、真意を思わず考えてしまい、匡一は不覚にも顔に朱が宿るのを悟ってしまう。彼はきっと、酒を酌み交わしたり、歌を聞いたりという宴会事を称して言ったのに違いないのだ。
「綾峰様は、今夜は冴城様とご一緒には?」
 今度の問いには、匡一は首を振るしかなかった。
「俺は、こういう所に来ても、殆ど初心者だから。奴の方が興醒めしてしまうかもしれないだろう?」
「でしたら、申してくだされば良かったのに。どなたでもご教授してくださる方を紹介して差し上げられたでしょう」
 また、少年は妙なものの言い方をする。今度は、真意を探るのは止めにする。
「いいんだ。俺は多分、あまり相手の期待に応えられそうもない」
 匡一の言葉に、少年は首を傾げる。
「単純なことさ。俺は、そういうことに興味が持てない質なんだ」
 少年が僅かに目を見開くのが分かった。
「勘違いしないでくれよ。俺は別に、衆道の趣味はないから」
「あ、いえ…、そんなつもりでは」
 真摯な表情に変わった少年が言う。匡一は頷き、
「ただね…、恋だの愛だのということに、人並みの感情が抱けないんだ。ある種、病気だね」
 翔の誘いを一旦断りかけたのも、いつまでも渋り続けていたのも、それが根拠だった。
 …自分は、遊郭という場に居たとしても、それを楽しむことは出来ないだろう――、表の遊戯も、裏の情事も。彼自身、不能というわけではないが、それはもしかしたら大きな損をしているのかもしれないが、匡一も自覚している以上、仕方がないと諦めもしている。性欲の捌け口を求めることに違和感を覚えるのは確かなところだったのだが。
「まあ、少し…、嫌な過去があったんだよ」
「そうなのですか」
 余計な検索をすまいとする表情が伺えて、それがありがたかった。
「そうだ…、ここでは、きみのような綺麗な子に小姓をさせるだけで済ませているのか?」
 匡一は、そんな訊き方をしていた。一瞬目の端に留めるだけでは気づかないだろうが、しかしそこには美の概念を裏隠しにする何かが潜められているように思われた。
「不躾だったらすまない。けれど、珍しいなと思ってね」
「褒め言葉だと受け取っておきます。私みたいな年恰好の者は、他にも居ますよ」
 少年は微笑み、屋敷の青年と同じ受け応え方をした。或いは紫宛の口癖なのかもしれない。
 それをやはり微笑ましく見ていた匡一は、
「一つ、頼んでもいいかな」
「なんですか?」
「その莫迦丁寧な話し方だけれど…、もう少し砕いてくれても俺は構わないよ。むしろその方がありがたい。綾峰様、なんて呼ばれると、背筋がすっとしていけない」
「躾けられているものですから。では…、匡一さん、で良いですか」
「そうして貰えるかな。それと…、きみの名を教えて欲しい」
「私…、いえ、…ぼくは、衣緒といいます」
「衣緒、と呼んでも構わないかい」
「お好きなように」
 そう応え、少年は再びうっすらと微笑んでみせた。
 気分を切り替えるようにほっと息をつき、匡一は改めて口を開いた。
「そうしたら…、先刻の会話の続きだ」
「続き?」
「今夜も寒いだろう? 女子供は、さっさと床に就いてしまえば朝までそれまでだが、暇を持て余す俺たちなどは、どうにかして楽しいことを見つけなければならない」
「大変なのですね」
「そう、する事がないことを称して忙しいと言うんだ」
 匡一の冗談に衣緒はくすりと笑みを零し、
「学生の方は、皆そう言われます」
「仕方がないから眠くなるような本を読んだり、味わうでもなく酒を酌み交わしたり、しまいにする事がなくなったある奴は、傾いていく月を眺めながらひたすら数を数え続けたらしい」
「数を、ですか。一,二,三、…百、二百、と?」
「そう、千、二千と一晩中ね」
 匡一は言い、その光景を想像した二人は同時に吹き出した。
「楽しかったのでしょうか」
 目尻に浮かんだ涙を袖で拭っている衣緒は、匡一の話した暇の潰し方が、実際に彼自身が試した上で冗談のように話したことに気づいたための諸作だ。
「さあね。本人に訊いてみないことには」
 口元だけで笑みを浮かべ、匡一は曖昧に濁した。
「匡一さんは、こんな日にはどうなされたいですか」
 衣緒は訊き、
「そうだな」
 少し考え、茶を一口啜った後、
「今夜のような寒い日には、湯豆腐を食べたくなるな」
「湯豆腐、ですか」
 意外な答えだっただろうか、目を瞬かせる衣緒に、人差し指を立てて、
「そう。豆腐以外のものはいらない。小さな鍋に昆布を敷いて、水を張る。本当は水だけで良いんだが、それでは味に寂しいと騒ぐ輩もいてな」
「冴城様ですね」
「その通り」
 衣緒の合いの手に匡一は一つ笑い掛け、続ける。
「火に掛けて、泡が浮き始めたら豆腐を入れて、少し待つ。湯が再び温まり、豆腐が水面に浮いた瞬間が食べ頃だ。その一瞬を逃したら、一番旨い時機を逃したことになる。単純な食べ物程、食材そのものの味を活かしてやらなければならない」
 火鉢に手を翳し、ぱちんと爆ぜる炭に目を細める。
「御用意致しましょうか」
 その様子を見ながら、少年は申し出た。
「出来るのかい」
「はい」
「では、頼めるかな」
「はい。少し、お待ち頂けますか」
 勿論、と匡一は応え、少年は廊下に姿を消した。絹擦れと裸足の踵が立てる、ぱたぱたと微かに響く足音が小動物のそれにも似ていて、愛らしいと思う。
 数分で、衣緒は小さな土鍋を持参した。蓋を開けると、ふわりと湯気が立ち上り、微かな大豆の香りがした。湯の上に芹の花が浮いているのは、ささやかな趣向だろうか。
 少年が蓮華で豆腐を掬い上げて器に取り、どうぞ、と箸と共に匡一に差し出した。
「ああ、頂こう」
 温かな豆腐は、しっかりとした大豆の旨みが閉じ込められていた。料亭で味わえるような質の良いものを使っているのに違いない。旨い、と匡一は素直に感嘆した。
「衣緒」
 ふと思いついて、匡一は少年の名を呼ぶ。
「はい」
「こっちへきて、ちょっと口を開けて御覧」
「? はい」
 彼の言う通りに口を開けたその中に、賽の形に箸で切った豆腐を放り込んだ。
「あっ…、はふ…」
 急に口に入れられた熱いものに、息を細かくしながらそれを噛み、飲み込んだ。こくり、と細かい喉が小さく上下する。
「どうだい」
「美味しいです」
 匡一の問いに、衣緒はにこりと微笑んだ。青年も笑みを浮かべる。
「本当のことを言うと…、俺は食べ物の中で豆腐が一番嫌いなんだ」
 そう言うと、衣緒はきょとんとした表情をこちらに向けた。
「ですが、よく召し上がっているようですけれど」
「食うのは好きさ。だが…、豆腐、という字面が気に食わない」
 そう応え、匡一は箸を置いた。筆を象った、揃えた二本の指で宙に字を書く。
「ああ…、成程」
「考えなくてもいいことを考えるようになると、嫌いなものや苦手なものは意味もなく増えていく。ただでさえ俺は、世間いついて興味が薄いのに、尚更世情が嫌になる」
「そんなことは――」
「ない、と言い切れるか?」
 最後まで言わせずに、匡一は畳み掛ける。口を噤んでしまう衣緒を見て、一つ苦笑を漏らす。
「…すまない。困らせるつもりはないんだ」
「いえ」
 そんなときにまで気遣われるのは僅かに切なくて、

 ――その時、彼が改めて口を開いたのは、気紛れだったのだろうか。

「そう…、少しだけ、俺の話をしようか」
「何の話でしょうか」
「ほんの、二年と一ヶ月前のことだ。…母親が、発狂した」
「――!」
 突然の切り出しに、少年は目を見開いて絶句する。
「と言っても、病気からの発作だったんだがな。昔からの疾患で、心の病…、精神病だった」
「心の病、ですか…」
「ああ。俺が餓鬼だった頃から、彼女は既に精神安定剤の処方を受け、毎日服用していたのを覚えてる。もっとも…、俺は精神病について何も知らなかったから、躰の持病での内服薬だと思っていたんだが」
 淡々と話す匡一の脇で、彼の顔を見つめながら衣緒はじっと聞き耳を立てていた。
「父親も、そんな面白くない事情を話すには時期尚早だと思っていたんだろう。何事もなく月日は過ぎた。発作さえ起きなければ、母は少々内向的ではあったが、物静かで良い人だった。俺も、嫌いじゃなかった」
 次の瞬間、脳裏に蘇る可変。
「一昨年の正月前だ。突然、彼女の実家の父――俺の祖父――が、三が日をこちらの家で過ごすことになった。老人の躰を気遣ってか、母は神経症的に振る舞った。そんなことは十年こなかったことで、…気を揉みすぎたんだろう、心配性な人だから。負担が掛かり過ぎたんだな。平生からの箍が外れてしまった」
「それで、…?」
「そう。…折しも、元旦だった。朝、目を覚ますと、居間で言い争うような声が聞こえてくる。どうしたんだと思いながら向かえば、訳の分からない物言いで喚き暴れる母と、彼女を必至に宥めようと抑える父との姿があった」

 ――父が腕を抑える。
『離して、暴力はしないで』
 暴れているのは彼女の方だ。
『匡一、匡一が』
 きつく目を瞑った彼女が俺の名を繰り返し呼んでいる。
『行かないと。匡一が殺されてしまう』殺されて――?
 前夜に睡眠薬を飲んだ祖父は、寝室で眠っている。
『ああ、あああ…、私は何処にいるの』
 俺は身動きが出来ない。
『手足を縛るんだ』
 彼女の口に手拭を押し込めながら父が怒鳴る。
『先生を呼びに行く』
『俺は、どうすれば』
『呼び掛けてやってくれ、頼む。直ぐに戻る』
 全身で母を押さえつける。
『母さん…、俺だよ、ここに――、』
『聞こえない、ああ…、匡一の声が聞こえない』
『母さん、ここに居るよ、…母さん』
『聞こえない、聞こえない!』
『母さん、…母さん!』
『煩い!止めて、怒鳴らないで!』
『…母さん、お願い、大丈夫だから、俺はここに居るからっ…』
『聞こえない! ああ、匡一が何処かへ行ってしまう! 殺されてしまう!』
 乱れる如くに涙を流す…、
 この女は、誰だ?
 俺の母親?
 母さんは、こんな人じゃない。
 夢を見ているかのようだ。
 現実感がない。
 自分の声すら嘘臭い。
 こちらが狂ってしまいそうだった。

「初めて見る先生がやって来て、直ぐに薬を投与した。気を失うように母は眠りに落ち、彼女はそのまま担がれるように療所へ運ばれた」
 生理的な震えを感じ、匡一は火鉢に掌を向けた。
「学生の身である俺は、正月が開けたら生活の場を移らなければならなかった。後のことは父に任せて、俺は逃げるように実家を後にした。一人で過ごしながらも、俺は恐々としていたに違いない。母が持ち直したとの便りを聞くまでは、あの日の情景に似た夢を三日に一篇は見たよ」
「…」
 微かに、衣緒の方が震えているのを見て取り、匡一はそっとその細い腕を撫でた。
「半年後には、完治とはいかないが、母は持ち直したよ。…今は平生と全く変わらないと、便りで聞いているから、そのことに付いては不安はないが…、中途半端な影響が残ってしまった」
 細く息を吐いて、匡一は続ける。
「元々、色恋沙汰には興味が薄かったがな。どう繋がってしまったのか、…これが切っ掛けで、俺は女というものが恐くなってしまったみたいなんだ。それは多分、女の象徴である母の精神病の発作を間近で見たことで、恐怖の対象に摩り替えがされてしまった結果だろうと思っている。なまじ、そういうことに少しは理解が出来る年頃での体験だったために、それ以来、俺は真面な恋愛が出来なくなった」
 彼は、自らへ向けて確認をするように、言った。
「人を好きになる方法を忘れてしまった。俺は、感情が屈折してしまった奴なんだよ」


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