フェイクヘヴン

 月のない夜の客(フェイクヘヴン・フェイクムーン 2)


 コンコン、と入り口の扉を叩く音がした。
 店はすでに閉店時間を過ぎていて、ただでさえ夜は静かだから、僕は自分の耳がピクリと動くのが分かった。
 客人を迎え入れるのは、いつも僕の役目だ。でも、こんな時間だから、僕は断ろうと扉に向かいかけた。
「待って、キイル。いいから、入れてあげて」
 僕の足音を聞きつけて、やんわりとレンは言った。
 僕は彼に刃向かうつもりもなく、扉を開けて客人を招き入れることにする。
(どちらさま?)
 扉を開けた瞬間、ヒュと外界の冷たい空気が差し込んできて、僕は首を竦めた。
 …やっぱり、寒い。
「…こんばんは」
 少しだけ細い声を掛けつつ顔を覗かせたのは、声と同じく細い肢体の一人の少年だった。
 いきなり僕の目と目が合って、彼は硬直する。
(こんばんは)
 僕は出来るだけ、愛想の良い顔を見せた。それこそ、尻尾を振ってお出迎え、なんて芸当が出来れば文句もないだろうけれど、少しばかり作り物なのはご容赦頂こう。
 少年も、少しだけぎこちなく僕に笑顔を見せる。
 真っ白なコートと、兎の尻尾のようにふわふわとした同色の襟巻、それから耳元まですっぽりと覆う、暖かそうな帽子。
「こんばんは。どうぞ、入って」
 少年のそっと告げた挨拶に応えたのは青年だ。僕は二人の間で交互に反応を見遣る。
「あの、入ってもいい…ですか? クローズの看板が出ていましたけど…」
「ノック、しただろう? 僕は基本的に、来る者は拒まない主義なんだ」
「あ…、ごめんなさい」
 ぺこりと頭を下げる少年だが、
「というのは冗談半分。丁度、暇していたしね。歓迎するよ」
 にっこりと微笑んで主人は言う。
「じゃ…、お邪魔します」
 見知らぬ人の家を訪問するような顔つきでおずおずと少年は店内に足を踏み入れた。
「いらっしゃい。まあ、座って。今、お茶を煎れるから」
 自分の隣の椅子に手をかざして、レンは立ち上がった。
「え、あの…」
「いいから。営業時間外のお客様はね、僕個人のお客様だよ。きみも、お茶が飲みたくて来たんだろう? 遠慮はいらない」
「すみません、ごめんなさい」
 また、ぺこんとお辞儀をした。何度も頭を下げる子だなと思う。
 癖になっているのだろうか。けれど、それは不思議と嫌味に映らない。
「謝らなくてもいいよ。――というよりも、こういうときには、僕は違う言葉で返事が欲しいね」
 少年は少し考えるような仕種を見せ、おもむろに口を開く。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
 レンは嬉しそうに、また微笑んだ。
 なんとなくほのぼのとした二人の遣り取りを、僕はなんとなく見つめていた。すると、
「キィル、おいで」
 呼ばれて、僕はレンの左側に立つ。…これは、僕の癖だ。
「改めましてだけど、僕はレン。この店のオーナーです」
 彼はぽん、と僕の背中を叩いて、
「で、彼はパートナーのキィル」
 僕の分まで自分たちの紹介をして、
「我が家の正式なお客さんに自己紹介をしないのは失礼だからね」
 言い訳をするみたいに笑って言った。
「ぼくは…、ラヴィっていいます」
 それに応えるように、少年も名乗る。
「ラヴィ。うん、いい名前だ。ラヴィットみたいで可愛いね」
 レンは妙に細かい仕種で頷いた。
 ラヴィット…、兎のことを言っているのだろう。
「自分でも思います。…ちょっとだけ、恥ずかしい」
 少年は、ぼそりと呟いて赤面する。確かに、男の子の名前にしては可愛過ぎるのかもしれない。声の調子だけでも、その様子が分かったのだろう、少し慌てた声音でレンは、
「ごめん。今のは、ちょっと失礼だったね」
「いえ…、よく言われるので」
 そう言うラヴィの瞳は、成る程、琥珀色をしていて、光の加減によっては赤紫色に見えないこともない。僕は可愛いというよりは綺麗だと思うけれど、
「ああ…、だったら、尚更、余計にごめん。お詫びに、思い切り美味しいお茶を煎れるから」
 良い意味で、レンは話の切り替えが巧い人だと思う。そうでもなければ、千差万別の人々と相対する喫茶店の店主などしてはいられないのだろうが。
 ほんの短い、出会いの挨拶だけでも、『フォルタレーザ』の空気が明るく動くような気配がする。
 言葉というものは、雰囲気を流動させるものだと、本当に思う。
 僕はなんとなく、帽子を取るのも忘れたままに、ちょこんと座り込んだ少年に、好感を持ち始めていた。
「紅茶と珈琲、どちらがお好みかな。今日のお勧めは僕のオリジナルティーだけど」
 手馴れた手付きで準備を進めつつ、レンは尋ねる。
 店の内部は、カウンターキッチンのような構造をしている。お客様用のカウンター席もあるけれど、レンは大抵、客をテーブルに着かせる。理由は簡単、対面式の席だと、茶の準備の一部始終を見られるから気恥ずかしいのだそうだ。それが客商売をする店主の気構えかと、冗談半分でいつも僕は思っているけれど。… 鑑賞するだけの価値はあると思うのに。
「あ、えっと…、お任せしてもいいですか?」
「承りました」
 快く返事をして、レンは綺麗に整理された棚から、新しい紅茶の葉の観を取り出す。
「あの、――目、見えないんですか?」
 思い出したように、ラヴィは訊いた。
 勿論レンは、彼と対面する前から、目は瞑ったままだ。
「うん、でも、別に生活に困らないからね」
 やはり、なんでもないことのようにレンは言う。
「しいて挙げるとすれば…、話す相手の目が見られないことくらいかな」
 なんて、小粋な言い回しを真似たように言って、笑った。
「ついでに言えば…、ああ、ついで、なんて言うとキィルに失礼だけど。御覧の通り、キィルも物静かな奴だから、その分、きみが沢山話してくれると嬉しい」
 失礼なんて、そんなことはない、と言いたかったけれど、口が利けないのが侘しい。
 レンの口調が冗談を言うときみたいに軽いものだったから。
(ほら…、ラヴィも、困ったみたいに笑ってる)
 クゥン、とでも鳴くことが出来れば良かったのだろうか。
 やがて、ヒートレンジに掛けたケトルがシュンシュンと音を立て、レンはミトンをはめた手でケトルを手に取る。流れるような仕種で、彼は湯をポットに注いだ。
 その道の達人は、何々を目を瞑っていても遣りこなせる、なんて言うけれど、彼はそれをまさに地でこなしてみせる。僕が手伝えればいいんだけれど、かえって邪魔になってしまうようで、不甲斐なさにがっかりしたものだ。
 それほど、レンのお茶の煎れ方は洗練されているように見受けられる。伊達に喫茶店の店主を長いこと務めてはいないのだ。
 ラヴィは、その立ち居振舞いに見とれるように、彼を見つめていた。
「ラヴィは、甘いのは、好き?」
 殆ど使われていないカウンターの向こうから、こちらに顔を向けて店主は訊いた。
 少年はコクコクと頷く。好きみたいだ。
(でも、それだけじゃ)
 精一杯肯定の仕種をしていても、レンにはそれは見えない。僕は少し焦れて、ラヴィの膝をトン、と叩いた。少年は僕を見て、それからレンを見て、もう一度僕を見て、…ようやく自分の仕種がレンに対しての意思表示として不十分だったことに気づいたようで、
「あっ…、好き。好きですっ」
 慌てて連呼した。青年は不自然な間が空いたことをいぶかしむ風でもなく微笑む。
「了解しました」
 蒸らし終わった紅茶を、カップに注ぐ。ラヴィの瞳のような、綺麗な琥珀色の液体。
 それから、棚の砂糖壷からほんの少し、粉をスプーンですくってカップに入れた。
「これは、取って置き」
 首を傾げる少年の席にカップを持って戻ってくるレンの足取りには、揺らぎはない。そういう、ある種の余裕は、見ていて惹かれる。
「取って置き?」
「まあ、まずは飲んでみて。――お待たせしました」
「いただきます」
 青年は手をかざし、少年はゆっくりとカップに口をつけた。
「わ、甘い…」
 びっくりしたように、ラヴィは呟いた。
「凄く甘いです。でも、なんていうのかな…、凄く優しい甘さ。美味しい」
「お気に召しましたか?」
「はい」
「甘いものが好きな子には、悪い子はいないって言うからね」
 レンは心底嬉しそうに言う。
 けれど、まるで、口説き文句みたいだと僕は思った。
「これ、何を入れたんですか? 砂糖よりも甘いみたい…」
「ちょっと特別なものでね。魔法の粉、サッカリン」
「サッカリン?」
「そう」
「へえ…」
 まさかレンの口にした『魔法の粉』を鵜呑みにしたわけではないだろうけれど、物珍しそうに液体の緩い波間を見つめるラヴィ。
 確か最近、レンが知り合いの問屋に注文して手に入れたものだ。サッカリンという名前だけは聞いていて、何に使うものだろうかと僕も思っていたけれど、甘味料だとは知らなかった。もしかしたら、僕に舐めさせてビックリさせるつもりだったんじゃないだろうか。
 僕が睨んでいたら、
「どうしたの?」
 困ったような顔で、レンは僕の方を見た。視線を感じたらしい。
「レンさんたちは、いいんですか?」
「うん、僕のはもう、随分前に煎れたから、いいんだ。ちょっとぬるいくらいが、僕には丁度いい」
 レンは元の席に戻り、自分のカップを掲げて笑った。
「そうだ…、ねえ、ラヴィは猫舌?」
 悪戯を思いついたときのような表情を浮かべて、レンは切り出す。僕は、なんとなく身構えている。
「ぼくは、熱いのは大丈夫ですけど」
「さっき…、きみが来る前にちょっと思いついたんだけどね。猫舌で得することって、あるのかなあ」
 案の定、彼は僕にも訊いていた質問をラヴィに投げ掛けた。「え? えーと、うーん…」
 カップを傾ける手を止めて、首を捻る少年。
「難問だよね、これって」
 そのうちに、二人で同じように腕を組んで、真剣に考え始めた。ストーブの中の炭が弾ける音が、少しだけ間が抜けているように聞こえた。勿論、疑問の答えはおいそれとは出てこない。
 僕はレンの隣のお決まりの席に落ち着いて、二人の取りとめのない話を聞いた。
 ほんの少し、悲しいことがあって――無論、不躾に詳細を問うようなことは、レンはしなかった――、一人で夜の散歩をしていたというラヴィ。偶然、以前に、ここのお茶が美味しい、と聞いていた『フォルタレーザ』の前を通り掛って、飛び込みの客となったわけだ。
 視力がないのに喫茶店の経営に支障がないことに、ラヴィはやはり感嘆したようだった。
 それは光栄、とにっこりとレンは微笑み、
「目が見えなくても、意外と苦労は少ないものなんだよ。…ほら、靴紐だってちゃんと結べる」
 そう言ってわざわざ椅子の下から足を持ち上げて見せたときには、流石にラヴィも声を出して笑っていた。
 僕にした雪の話や、カードマジックの話もした。
 この地で生まれたラヴィは、僕と同じく雪を実際に見たことがないらしくて、レンの話を興味深そうに聞いていた。
 僕にもラヴィにも、トランプとリボンのマジックのトリックは見当が付かなかった。
 レンにはタネのないようにしか見えなかったという、そのマジックについて、ラヴィは、
「その後で、自分でも試してみたんですか?」
 そう訊いたが、
「マジックのタネは、頭で考えないと面白くないだろう」
 レンはそう答え、うっそりと笑った。
 自分の意志で捨てたカードは、自分の意志では戻ってこない、そういうことだ。


 僕が欠伸をしたのを聞いて、――それが切っ掛けだったのかどうかは分からないけれど、
「そろそろ…、お開きかな」
 レンは何気ない調子で言った。
「あ、そうですね…、遅くまで済みませんでした。楽しかったです」
 少年は膝の裏で椅子を弾きながら立ち上がり暇(いとま)を告げる。
 僕も楽しかったよ、と青年は首肯した。
「元気、出た?」
「はい」
「何よりだ。よかったら、またおいでね」
「はい」
「うん。――キィル、外まで送ってあげて」
 レンは言って、僕はラヴィの後について店の入り口に向かった。
「ご馳走様でした」
 少年は振り返ってぺこんと頭を下げ。レンは真っ直ぐに彼を見、片手を持ち上げて、指をひらりと振ってサヨナラの合図をした。
「じゃあ、またね」
 しばしの別れの挨拶を交わし、少年は僕と屋外に一歩出た。
 ――その瞬間。ビュ、と風が吹いて、パタンと扉が閉まった。
 同時に、ラヴィの頭から帽子が飛ばされそうになる。
「あっ…!」
 慌てて帽子を掴み取った少年の頭から、ぴょこんと二つ、ふわふわとした長いものが飛び出ていた。
 耳だ。兎のような…、いや、それはまさに兎の、白い、長い耳。
 何故か、僕はそのとき、やっぱり、と思っていた。
 彼は、ラヴィは、月の兎だったのだ。


<< 13 >>

目次


Copyright(c) Kazui Yuuki all rights reserved.

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送