フェイクヘヴン

 主人とパートナー(フェイクヘヴン・フェイクムーン 1)


 窓の外では、柔らかくも深い闇が全てを優しく包み込み、夜の帳が世界から光を遮断するように、単純な黒よりもずっと純粋な、夜という名の色を塗り込めている。
 外界は、冬という装飾をまとった冷ややかで澄み切った情景を映し続け、空気も凍りつきそうなほど硬い。その硬さが闇の中に輪郭だけ融け込んでいて、時の流れが無規則に解体されていくのが感じ取れた。
 地上では、もうそろそろ雪が降り始めてもいい頃だ。天空の雲が白から灰色になって随分の時が経つという話だけれど、人に与える影響は昔と変わらないようだ。酸性雨の浄化・貯蓄槽は何処の都市にもあるし、空気中の水素から蒸留水を取り出す技術は、この僕ですら知っているくらいだ。
 その道の専門家にしてみれば、ディナーのナイフ作法よりも簡単なことに違いない。つまりは、こうしていちいち考える必要もないことなのだ。
 何かが当たり前のものなったときには、それが『当たり前だ』と思わないことが当たり前になっているのと同じ。それが『普通』ということ。
 それでも、夜になれば世界は暗くなるし、人は光のある家の中に逃げ込む。これはいつまでたっても変わらない。
 大都市の電気街のイルミネーションは、無理をしているだけのこと。一瞬でも電気がショートして停電になれば、一気に大騒ぎになるのは間違いないだろう。
 人々は誰しも、何も知らないことを享受に置き換えるだけの無駄な隙間を、心の中に作っている。それが、現在の地上の在り方だ。
 そんなことも、今の僕たちには一向に関係のないことだ。住む世界が違うから。
 木目作りの部屋の中は、一晩中、仄かに明るい。壁際に幾つも灯ったガスランプはクリーム色の光で部屋を照らし出しているし、ストーブの窓から漏れる赤い光は力強くはないけれど頼りないものではない。
 時折、石炭の爆ぜる音がパチン、と響いて、その度に僕は無意識に耳をそばだてる。
 樽のような形をしたストーブの端から室外に伸びた煙突も、部屋の空気を暖めるのに貢献している。除け者にされる黒い煙が、少しだけ哀愁を誘う。
(ふわあ…)
 まだ宵には早いのに、僕は欠伸をしそうになった。
 ストーブの周りには薄い絨毯が敷かれていて、そこに座り込んでぼんやりすることが、僕は結構好きだ。猫みたいに丸くなったりはしないけれど、彼らの気持ちが少しだけ分かるような気がした。
 ストーブから少し離れて置かれたテーブルの上に、ティーセットが乗っている。陶器で出来た白く丸いティーポットからは、今も細い湯気が一筋、ふわふわと立ち上っている。
 テーブルを中心に、なんだか優しいような雰囲気が漂っているのは、ポットから香る紅茶の良い香りのおかげだ。
 セイロンティーをベースに、ペパーミントやラヴェンダーを加えた、特製のオリジナル・フレーバーティー。幾つもの葉の香りが混ざり合い、けれどそれらは互いの風味を損なうことなく、長所を引き立たせあっている。
 テーブルの横には二脚の椅子が置かれていて、そのうちの一つに銀髪碧眼の青年が足を組んで座っている。名前は、レン。ちょっと変わった場所にある喫茶店『フェルタレーザ』の店主。
 目を瞑った彼が口元に柔らかな笑みを浮かべているのは、その手に持ったカップから立ち上る紅茶の香りに悪くない感触を覚えているからだろう。ただでさえ、いつも柔和な顔をしているのに、そんな表情を作っている彼は聖人君子みたいで、少しだけ皮肉を言いたくなる。
 そして、僕は彼の同居人だ。…いや、『同居人』という言い方はちょっとおかしいんだけれど、それ以外に僕は言い方を知らないから、それで通している。名前は、キィル。
 名前なんて名乗る瞬間以外に大した意味のない、そんな程度のものでしかないと僕は思う。けれど、それでも知らない人に対して自己の紹介をするための記号、くらいの価値はあると思うから、僕は名乗る。
 喫茶店、といっても、客はそんなに多くない。むしろ少ない。僕の記憶が正しければ、週に一人二人の訪れがあれば多い方だ。そもそも立地条件が不味いんだけれど、レンはそんなことを気にしてはいない。彼も、少し変わっている。
 彼は楽しく静かに美味しいお茶が飲めれば、それで既に満足なのだ。店を経営しているのは、その延長戦に過ぎない。そういうものなのかな、と思う。
 彼は、世捨て人と呼ぶほど世間から乖離しているわけでもないし、かといって単なる人嫌いなのかというと、あの柔らかそうな顔つきからしてそうとも思えない。大体、そうだったら店を開いて人を呼ぼうとするはずもないし。
 ちょっとした仕草を見るにつけ、僕はいつも、レンって何がそんなに楽しいのかな、とついつい思ってしまう。そのレンは、僕の苦悩なんて慮ることもないのに違いない。
 とはいえ、僕はそんなレンがやはり好きだ。
 カップに並々と注がれた夜の紅茶を手にして、彼は小さな溜息をついた。それから、そっとカップに口を近づけ、掠めるようなキスをする――。
「あつっ――」
 と思ったら、大袈裟に上半身をのけ返らせる。椅子の足が一瞬浮いた。
 熱に対する筋肉神経の反射にしては、反応が大袈裟だと思って見ていると、
「慣れないなあ、これは…」
 彼はへらりと笑った。
 瞬時の反応は、彼が極度の猫舌だから。
 猫がどれほどの『猫舌』なのかは僕は知らないけれど、多分レンは猫よりも重度の猫舌だ。今のように、いつも彼はそれを克服しようと努力してはいるけれど、一向に慣れる様子を見せない。
 猫舌ということに関しては、僕も彼と五十歩百歩だから、気持ちはよく分かる。僕も、熱いものはほんの少しずつ舐めるように飲む。
「あっちち…」
 二度目のチャレンジにも続けて失敗したレンは、小さく舌を出したまま軽く苦笑をして、コトン、とカップをテーブルに置いた。
「得することがないよね、猫舌ってのはさ…。キィルは得したこと、ある?」
 詰まらなそうな口調で彼は言い、しかし顔は機嫌の悪いものでは決してない。
 そんなことを言われても応えようがない。
「ないよねえ」
僕の無本を勝手に肯定ととり、レンは一人で納得したように一つ頷いた。
 そういえば…、確かに、ないけれど。
「『犬舌』ってのがないのも不思議かもね」
 ちょっとした疑問を僕に聞かせるように口にするのは、もうお互いに慣れたことだ。
 多分彼は質問をしたのではなくて、自分の呟きを僕に聞いて欲しかっただけなのだろう。僕が言葉を話せないことくらい、彼は承知の事実だから。
 僕は、レンに聞かせられる言葉を話せない。
 それは僕の意思を全部伝えられないということで。
 …それは少しだけ、悲しいかもしれない。
 稀に、不意に鳴きたくなるのは、こんなときだ。自分の気持ちを素直にそのままレンに伝えることが出来たら、どれほどいいだろう、そう思う。
 これも一つの誓約だ。諦めるしかないけれど、それでも。
「キィル、こっちにおいでよ」
 一人でしんみりしていると、片手を向けて、おいでおいでをされた。自分の心の内が見透かされたようで、ちょっとだけ気恥ずかしい。
(レン?)
 僕はトコトコと彼の方に向かう。彼に呼ばれるときは、必ず僕の方から彼の所へ足を運ぶ。それがどんなに面倒でもだ。
 何故なら…、レンは、目が見えないから。僕は、彼に話し掛けることが出来ないから。
 僕を見る目も、僕のいる方を向いているとはいえ、僕の視線と彼の視線が合ってはいない。彼は目を開けていることが疲れるからと、大体のときは目を瞑っているからだ。
 先刻だって、窓の外に視線を向けたけれど、何も見えてはないはずだ。元々健常者だった彼は、その頃の癖が抜け切れずに残っている。
 二十年を健常者として過ごし、その後、視力を失うということは、先天的な障害よりも不幸なことだと言われている。世界を知ってしまった後で、それを否応なしに奪われる思いは相当なつらさだっただろう。
 レンの穏やかな表情は、もしかしたら、そんな精神的な苦痛の果てに出来上がった、自分自身を平静に保つ術なのかもしれない。
 いつもレンは、閉じた睫毛が結構長いことを表に見せている。
 ほんの幾度か見た、綺麗な碧眼は――本当に綺麗なのに、実像を捉えることが出来ないという。数年前、彼は視力を失ったのだと僕に話した。原因は聞いていない。
『月を食べたからだよ』
 なんて、直ぐに冗談だと分かる言い訳をしていた。
『美味しくはなかったけれど、凄く甘かったね』
 それが本当の話だったら、レンの体内には『月の欠片』があるのかもしれない。不謹慎ではあるけれど、それは少しだけ魅力的な要素だ。
 これが彼特有の能力なのかは分からないけれど、彼の脳裏に映写される映像には、ちゃんと色が付いているらしい。月の無情は、レンの夢の世界の彩りに換えられたのかもしれないと思う。
 彼の服装がいつもモノトーン基調なのは、あるいはその裏返しなのかもしれない。誰も気づく必要がない皮肉の一種だ。
 ともかく、部屋の内部の灯りが普段より暗いのは、そんな理由だ。本当なら、夜でも灯りは必要ない。夜間照明は僕のためにある。レンの心遣いだ。
 ちゃんと、彼の側にいられるように。
 僕は、彼の補佐を務めるために彼の傍らにいる、といっても過言ではない。
 レンも、僕にそれを望んだ。
 彼は室内の家具や装飾の位置を覚え込んでいるし、僕も配置を動かさないようにしているから、生活に殆ど支障はない。ただ、あまり外に出られない制約は大きい。
 僕は言葉が出せないから、レンの声が聞こえる場所にいなければならない。
 僕たちは、お互いがお互いにハンデを示している。
 何か用でもあるのかと思っていたら、レンは僕に手を伸ばすと、ギュッと抱き締めて、
「ん…、きみの抱き心地って、結構悪くないかも」
 なんだかしみじみと言う。
 時々、思い出したように言われるこの台詞、僕にしてみれば少し恥ずかしい。
 自慢じゃないけれど、僕の飴色の髪は細くて、レンのお気に入りだ。彼に抱かれるのは、僕もそんなに嫌いじゃない。パートナーていうのは、そういうものだ。
 レンはいつも、僕を抱くときに自分で『ぎゅう〜』って言う。それが子供っぽくて可笑しいので、僕は鼻息を漏らす。
「あ、笑ったな。今、笑っただろう」
 何故か嬉しそうに呟く。僕の頭を撫でながら、
「キィルって、良い匂いがするね…」
 それは先刻、風呂に入ったからだろう。二人とも、同じ石鹸を使っているから。
 僕は、彼にされるがまま、じっとしていた。悪くはないから。
 レンも良い匂いがする。なんだかほっとするような、甘い匂い。
 それがレンと紅茶の混ざった香りなのだと分かったとき、レンは僕から離れていた。椅子に座りなおし、カップを僕の方に向けて掲げる。
「キィルも飲む? 美味しいよ」
 一瞬迷って、僕は曖昧に首を傾げた。
 それだけでは彼は分からないと思い、そっと彼の腕を押し止める。
「そう?」
 美味しいのは味見をしなくても分かっている。レンの煎れる紅茶は、いつも凄く美味しい。彼の紅茶の要れ方は、型に填ったように仕様が重なっている。経験のなせる技って言うのは、こういうことのことを言うのだと思う。
 けれど、お茶の一番美味しい瞬間が煎れたてのものだったとしたら、僕もレンも未だ、それを味わったことがないことになる。
 ほんの少し可哀想な僕たち。
「今夜も寒くなりそうだね」
 レンが窓の方に顔を向けて言って、同時に僕は外界の寒さを思い出し、身を震わせそうになった。
 雪にはもう少し時期が必要だと思った。木枯らしはとうに吹いていて、地面に散った赤や黄色の木の葉が螺旋状に舞い上げられていく…、そんな比喩が似合う感じの昨今だ。
 地上での日中の平均気温は、連日下降線を描き続けている。
「キィルは、雪、見たことがなかったよね」
 懐かしむような口調で、レンが言った。
(…うん)
 僕は、モニタでしか雪景色を見たことがない。地上に降る雪も、ここでは遠い世界の季節の産物だ。雪を知るレンも、それを脳裏に浮かべることしか出来ない。
「僕は好きだったな」
 そう言う言葉が、何故か切ない。
 前に、彼が僕に話してくれたことがある。
 ある、とても寒い年の冬に、彼の住んでいた街に膝くらいまで雪が積もったことがあるそうだ。その頃はレンも年端も行かない少年で、雪に埋もれた世界ではしゃぎ回った。
 視界の全てを覆うかという一面の銀世界で、否応なく感動させられたという。雪黙りの中に飛び込んで、幾つも人型を作ったとか。
 ある意味、僕には全く想像できない世界だと思う。そもそも『雪』のイメージがうまく掴めなくて、少しレンが羨ましくなった。
 ここでは、雪に触れる機会はないから。
 僕は寒さには滅法弱くて、その点だけで、安堵しているのは本当のこと。
 その日の店の営業を終えた後にゆっくり浸かる風呂が気持ち良いと、やけに年寄りじみたことをレンは言う。とはいっても、それに対抗する手段がベッドに潜り込む、くらいしか思いつかないし、冬の湯船は確かに気持ちが良いから、ただでさえ言葉を発することが出来ない僕には、言い繕いすら適わない。
 結局、やっぱり、パートナーというのは従属関係にはなくても、お互いを敬い合わなければならないということ。
「こんな夜にはさ…、一晩中誰かとカードゲームでもして過ごしたくなるんだよね」
 彼は言った。
 僕が返事を出来ないことを分かっていて、それでも彼はわざわざ思ったことを口にする。それは彼なりの気遣いでもあり、寂しさを紛らわせるための慰めを求める代用行為なのかもしれない。
 視界が利かないのに『カードゲームがしたい』なんて言ったのは、割と珍しいジョークだ。
「きみの前の主人もね、カードは好きだったよ」
 ふと、声が微かに沈んだような気がした。
(前の、マスター?)
 僕には、レンの前に一人、パートナーがいた。彼はもうこの世には存在しないらしいのだけれど…、レンは、その人のことを言っている。
「カードゲームの種類も沢山知っていたし…、それを使ったテーブルマジックも色々見せてもらった。そう…、一番不思議だったマジックが、こんなものだった。
 まず、二枚のトランプの間にリボンを挟むんだ。僕にそれを上から押さえさせて、どうするのかと思ったら、鋏を取り出してトランプの真中を切ったんだよ。僕の目にはトランプと一緒に、その間に挟んだリボンも間違いなく切れているように見えた。けれど、トランプが四枚になってしまった後には、何の変化もないリボンが一本、ちゃんと残ってたんだ。
 彼が仕掛けを施さなかったことは確認したはずなのに、一体どんなトリックを使ったんだろう、って驚いたね」
 作ったような楽しげな声音は、奇妙に似合わない。
 人が過去を思い出すときには、その内容がいくら楽しいものでも、何故か空虚な響きが拭えないから不思議だ。
「時々思い返してみるんだけれど、本当に種も仕掛けもないマジックで、それきり答えは分からないまま」
 次第に冷めていく紅茶を、レンは口にした。
 彼の脳裏には、今、誰の姿が映っているだろう。
「可笑しいんだけどね…、カードの数字を当てるマジックがあるだろう? それが出来るか、って僕が訊いたら、彼はこう言ったんだよ。『相手が無造作に選んだカードを当てようとするなら、小細工なんて使わないで、十三分の一の確立に賭ける方が余程スリルがある』って」
 そこでぼくも笑ってあげるのが優しさなのだとしたら、僕たちにとって安易な優しさはかえって難しい。それこそ、余計な小細工は必要ない。
 僕は、優しさに簡単に甘えたりしたくない。
(レン)
 だから、ただレンの横に座った。
「分かってるよ、キィル」
 そう言って、レンは僕の耳をくすぐった。その感触に身を捩りながら、僕は彼に声を聞かせられたら、『なんで?』とわざと言っているだろうな、と思う。
 自分で言うのもなんだけれど、僕は気のない振りをするのが巧い。本当は思い切り彼にじゃれついてもいいと思うけれど、僕とレンとには絶対的な境界線があって、それが僕に自分を晒すことを躊躇わせる。
 それでも、レンの笑顔を見ていると自分も一緒に笑いたくなってくる。逆にいえば…、僕は彼の悲痛な表情は、見たくない。
 形骸化された『犬とその主人』っていうのは、例えば何処もそういうものなのかもしれない。
 僕はワン、と鳴いたり出来ないけれど。


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