フェイクヘヴン

 カナリアファイル(フェイクヘヴン・フェイクムーン 3)


「…やっぱり、びっくりしないんですね」
 頭を抑えながら、ラヴィは言った。
(やっぱり?)
 返事の代わりに、僕は首を振る。
 ラヴィはゆっくりと手を離した。ぴょん、と立つ耳は、人間のものではない。
 静かに、風が吹いた。夜は、再び静かになった。
 ――地上、という言葉の意味は、僕たちは本来の意味では用いない。それは、この場所が元々の意味での『地上』ではないからだ。
 天上に浮かぶ丸い月。僕たち…、いや、人は、それをずっと『月』であると信じ続けていた。それがかつての地上…、水と緑の惑星、『アース・レイシャス』であると判明してから、まだ数年しか経っていない。
 僕たちのいるこの星は、かつては『二番目の月』とか『月の残像』と呼ばれていた。けれど、それもある種の虚構に過ぎず、真実には何もかもが乾ききった大地だと思われていた『火星』と呼ばれていた星だ。つまり、表向きには僕やレンは『月』に住む住人ということになる。それがいつからなのかは、誰も知らない。けれども、僕たちは自我が目覚める前から『月』に生命を預けていたことになる。
 だから、この星には、雪は降らない。
 月の住人は、元来そう多くはない。『月には兎が住む』という『地上』での言い伝えはずっと昔からあって、けれどラヴィは純粋な兎ではない。
 そう…、彼は、ロゥ・ヘアなのだ。
 実は、結構前からおかしいと思っていた。彼の僕を見る視線が、はっきりと僕の目を捉えていたから。
 同種の、同属の仲間でしか捉えられない視線。
「キィルさんは、あの、…ロゥ・ハウンドですよね?
 月兎の少年はおずおずと訊ねた。
 一瞬、僕は呆然としていたかもしれない。ようやくはっきりしたからだ。
 けれど、僕は、ゆっくりと頷いた。
 ――ロゥ・ハウンド。
 『カナリア』という生命分類がある。人と、人以外の生物の融合体のことを、遺伝子工学上の名目でそう呼ぶのだ。呼称が鳥の固有名詞からきているのは、人間と人外の生命との『融合』の成功例がカナリアから始まったことにきている。人以外の動物同士のの場合は『キメラ』と呼ぶのだが、ここには明らかな差別意識が混在するので、表立っては誰も口にはしない。
 僕もラヴィも、そうして生まれた、いわば半獣の人なのだ。
 差し詰め、僕『キィル』は戌(イヌ)と人のハーフ、といったところだろうか。
 外見をすれば一目瞭然で、僕の耳はふわふわとした毛に覆われている。いわゆる生身の耳殻が晒されている人間の耳とは違って、髪の中に埋もれるようにして付いている。それから、臀部の少し上、人間で言えば恥骨の辺りに、尻尾が生えている。これらはロゥ・ハウンドの一番の特徴だ。他の部分は、身体的に人とあまり代わらない。聴覚・嗅覚の神経が多少鋭かったり、また逆に視覚が多少鈍かったりするくらいだろうか。運動能力も、人の形をかたどっているとはいえ、割と高いといえる。
 過去ではファンタジィに過ぎなかったことが、現代ではその多くが実現されている。感覚中枢の研究が進められるうちに、人以外の遺伝子要素を抽出し、人に組み込むことが可能になり、全世界規模での工学の発展と、同様のレヴェルで倫理の見直しに超絶な手が込められた。
 一概にハーフ、と言っても、二つの生物が直に交配をしたわけではない。遺伝子の異なる雌雄が通常の交配を行っても、受精の前の段階で遺伝子が拒絶されて細胞の生成は行われない。だから遺伝子の特徴敵な部分だけが抽出されて取り出されたのであって、そもそもこの辺りに来ると究極的に専門知識が必要な論理と、世論的な倫理問題がないまぜになっていて、大きなプロジェクトの一環として生み出されたであろう当人である僕も、既にある己の肉体、自分という存在を受け止めるのに精一杯で、それ以外の漠然とした『事情』に構ってはいられないのが正直なところだ。
 人間の存在も、同じようなものじゃないか、そう思うこともあるから。
「…そうだよ」
 核心を突いた少年の言葉に、僕は口を開いた。
「話せるんですね」
 ラヴィはびっくりしたような声を出した。
「うん」
「どうして…? レンさんは確か、キィルさんは話せないって」
 そこまで驚くことではない、
「誓約だから」
「誓約?」
「そう。ロゥ・ハウンドは、本来、生涯一人のマスターしか持たない。きみには…、僕はずっと、この耳と尻尾以外は、普通の人と同じように見えているんだろう?」
 自分の耳を示して訊くと、ラヴィは一つ、頷く。
「それは、きみもカナリア…、ロゥ・ヘアだからだ。そうでない普通の人には、僕の姿は一頭の戌にしか見えない。話し掛けて、僕が応えても、相手にはその声は聞こえないんだ」
 そう、僕が声を出せないのではなく、レンの方が聞こえないのだ。
「え…?」
「レンは、僕がロウ・ハウンドだって知っている。本当は人の姿かたちをしているし、言葉を話せることも知っている。だから、彼はいつも、僕に普通に話し掛けてくれるし、僕に普通に触れてくる。でも…、レンには、僕の言葉は聞こえない。僕に触れても、それは僕であり、僕ではない一頭の戌の感触しか感じられない。彼は、僕の本当のマスターではない人間だから。レンは、分かっていてなお、僕に戌と同じ接し方しか出来ない」
 頭や耳を撫でたり、抱き締めたり、一緒に布団に潜り込んだり、風呂に入ったり…、
 何がどう失敗したのか、それとも何かが成功したのか。まるで、ただでさえ視覚を持ち得ない青年が、網膜の裏で幻覚を見せられ続けているのを傍らで感じているようで、僕はこれが、僕やレンに掛けられた呪いのように思えることがある。
 時折、レンの見えないはずの視線が、僕を通り越して誰か他の人を見ているような、不必要な優しげなものに感じられて、僕はとても悲しくなってしまう。そういうときにはレンの方が逆に僕の感情の緩みを感じ取って、僕の名を呼ぶのだ。僕は彼に縋りたい気持ちで一杯になるけれど、身体は自由に動いてくれない。だから、これは誓約であると同時に『制約』でもあるのだ。
 当たり前のはずのことが、レンの前では殆ど出来ない。
 『フォルタレーザ』でのレンの手伝いだって、両手が自由に使えるから易々とこなせるはずなのに、見えない歯止めが掛かっているかのように失敗ばかりしてしまう。行動が制限されないためには、僕はレンと離れ、自室で一人にならなければならない。店の主が寝静まってからこっそりと行う、レンの手の行き届かない店の隅の掃除は、パートナーとしての務めであると同時に、普段役立たずである僕の罪滅ぼしでもある。
 それが、主を失った戌の、誓約だ。
「じゃあ…、キィルさんの前のマスターは?」
 思い出したようにラヴィは言い、
「もう、死んでしまったかもしれない」
 僕は淡々と答えた。レンから聞いていたことだ。
「あ…」
 ラヴィは言葉を失う。顔一杯で、ごめんなさい、と言っているのが分かった。
 少し素直過ぎるくらいで、けれど良い子だと思った。
「いいんだ。今の僕のマスターは、レンなんだから。正規のものでなくとも、彼は僕のパートナーなんだから」
 それは間違いのないことだから。
 僕が言うと、少年は淡く微笑んだ。
「レンさんって、素敵な人ですね。少ししかお話ししていないけど、ぼく、直ぐにレンさんのこと好きになりました」
「ありがとう」
 なんだか自分まで嬉しくなって、僕は言った。
「また、来ます。また、お話しさせてくださいね」
 僕は頷いて、少年は嬉しそうに、今度はちゃんと笑んだ。
「さようなら」
「さよなら」
 ラヴィは僕に小さく手を振り、僕ははっきりと声に出して呟き、月の少年の姿を見送った。
 ラヴィは何度も振り返りながら、僕の視界から段々小さくなっていった。


(ロゥ・ヘア、か…)
 店内に戻ると、レンはテーブルに頬杖をついて、じっと物思いに耽っているようだった。
 カチャン、と僕の背後で扉が閉まり、同時にレンは目を開ける。綺麗な碧眼。
「おいで、キィル」
 優しい声で、彼は僕を呼んだ。
(レン)
「僕も、聞きたくなったな、キィルの声…」
 ぎゅっと胸が痛くなった。先程のラヴィとの会話、聞かれていたのだろうか。
 いや、そんなはずはない。虚しい考えだけれどレンには絶対に、聞こえないのだ、僕の声は。
 …でも、もしかしたら、彼は、気づいていたのだろうか。
(ごめん、レン)
 つい僕が頭を下げると、
「謝ったりしたら、駄目だからね。僕にも責任はあるんだから」
 僕をぎゅっと抱き締めて、レンは僕に言い聞かせるように言った。
(うん…)
 僕のことを――『キィル』という、他ではない僕自身を、いつかレンは見てくれるだろうか――。
 そんな淡い願いを、僕は彼の視線に向けた。
(駄目かな、レン。僕がそんなことを思っては)
 彼に聞こえない声で、僕は言った。
 レンにそのまま聞こえていたら、彼はなんと言うだろう。
 僕の今のマスターは、間違いなく、レンだ。だからこそ、僕は彼のことが好きなのに、それを伝えることが出来なくて、とてももどかしい。酷く、切ない。
 青年の瞳に吸い込まれそうな気がして、僕は泣きそうになってしまった。
 見えていないはずの瞳がそっと揺れて、レンはもう一つ、微笑んだ。


<< 24 >>

目次


Copyright(c) Kazui Yuuki all rights reserved.

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送