そして彼はいなくなった


 それから暫く、二人して温くなっていくコーヒーを飲んでいた。
 窓の外の紅葉は、もう殆ど残っていない。僅かな色が枝にしがみつくようにして風に揺れているのみだ。…もっとも、散ることがそのまま枝葉にとって最高の結果をもたらすのかどうかは、僕には分からない。
 それでも、放課後にこうして教室に二人残ってコーヒーを飲んでいる縮図よりは、余程変化に富んだ図式なのではないだろうか。自然の営みとはそういうものだから。
 もっとも、自然を『自然』と呼ぶのは人間だけだし、そう呼ばれた世界は既に自然ではなくなっているけれど。
「――椎奈は、」
 やがて、結衣はポツリと話し掛けてきた。彼は物静かな少年だが、沈黙が最上の空気、人と接触をしたがらない…、という性格ではない。
「椎奈は、見る? 夢」
 そう尋ねるのだった。
「夢? そりゃあ、見るさ」
 その殆どは、眼が覚めたら直ぐに忘れてしまうけれど。
 そう答えると、
「そう」
 彼は少しだけ、寂しそうな、物悲しそうとも思える視線をしてみせた。
 もしかして、と思っていると、それが眼で問い掛けているように見えたのだろうか、小さく頷いて、やはり小さな声で、
「ぼくは――、見ないんだ、夢」
 ――案の定だった。
 けれど、その言葉が俄には信じられない。
 聞き齧った程度の知識だが、ナルコレプシーの症状の一つとして、明朗な夢、というものがある。睡眠幻覚というものだ。余りに生々しく鮮明に夢を見、また眼が覚めてもはっきりと覚えているため、何年も続くうちに夢と現実とが混ざり合い、区別が付かなくなる者もいるという。しかし彼の場合は、その逆なのだろうか。
「そう、なのか? 忘れちゃってるわけじゃなくて?」
「うん。椎奈が夢を忘れる、と言っても、眼が覚めた途端に『夢を見た』ことを忘れてしまうわけじゃあ、ないでしょ?」
「ああ、まあ…、な」
 それが強烈な印象だった時には、二、三日はその『印象』を覚えているだろう。少なくとも、こんな感じの夢を見た、と人に話せるくらいには。
 ゆるゆると首を振って、結衣は言う。
「ぼくには、それがないんだ。もしかしたら…、見ているのかもしれない。けれど、ぼくはその欠片を覚えていることが出来ないみたいなんだ」
 危うく、僕は絶句してしまいそうになる。
「…初耳だよ」
「うん。誰にも話さなかったから」
 でも、本当の話なんだよ、と結衣は念を押すように言った。
 僕は少し考えて、
「じゃあ…、結衣の、眠っている間の意識っていうのは、どんな感じなんだ?」
「うーん…」
 両肘を手で抱くように支え、結衣は考え込む。
 一般に言うところのノンレム睡眠が示す比喩――の如く、意識が喪失して真っ暗、なのだろうか。それは本当の意味で、外見上、彼の全てが眠ってしまうのに等しい。
「やっぱり、覚えていない?」
「うん…、そうだね。大体、眠る、っていう行為自体、意識が無意識に替わって起こることだよね。それなのに夢を『見る』ことが出来る、って不思議だなと思う」
「そうだなあ…」
 今度唸るのは、僕の側だった。
 無いように思えるものが在ることの証明よりも、在るかもしれないものが無いことの証明の方が、実は難しい。それが最初から存在していることが分かっていれば、それを何処かから取り出して見せることも出来るかもしれない。けれど、最初からないかもしれないものを探すことは、『人の心』を身体から取り出して見せろ、と要求するようなものだ。
 とは言え、人の心が存在しないというわけではないだろう。これはあくまでも、意識とそれに対する『意識の意義』の問題だ。眠りに就いたときに見る夢が必要だと思う人と、そうでない人では、夢に対する価値も異なってくるだろう。
「別に…、夢を見てみたいといつも思うわけでもないんだ。切望したこともないし。ただ…、誰でも持っているものが自分にないと思うと、気が抜けちゃうっていうか…、ね」
 軽い口調で結衣は言ったが、それが彼を少なからず悩ませているだろうことは僕にも伺えた。犬や猫でも、睡眠中に夢を見るらしいことが分かっている。病の副産物であろうとは言え、万人に与えられているに等しい夢魔の誘いが訪れないことに対して、彼がどう憂えているのか。
 夢は、見なければいけないものではない。けれど、いざ夢を見ることが出来ない、と告白されて、僕はどう言葉を返せばいいものか、迷ったのが正直なところだ。
 ある意味では、彼は常人よりも欲望が希薄な人間なのかもしれない。
 夢は、人の願望を映し出す鏡でもあるから。
 そう思いながら、僕は口にしている。
「けれど――、意味のない妄想を白昼に見続けるよりは、ましだろう」
 それは、明確な答えを避けた言い訳のようなものだったかもしれない。
「妄想?」
 手の中で空き缶を弄んでいた結衣は、その動きを止めて僕を見遣る。
「依存的な、後ろ向きな意味での『夢』。決して叶わない、夢想を願う、現実からの逃避」
 それは、現実への依存という、醜悪な感情。
「それなら…、ぼくも、そうだよ。真昼間から突然眠り込んだりして、さ」
 結衣はそう切り返す。
 予想していた反応に、僕は言葉を付け加える。
「結衣の場合は…、不可欠な眠りなんじゃないのかな」
 聞き慣れない言葉を耳にしたかのような表情で、結衣は再度鸚鵡返しをした。
「不可欠な眠り?」
「そう。僕なんかが専門家ぶって言うのは可笑しいけれど…、人っていうのは、眠ることで何かしらの安定を保とうとする、っていう話を聞いたことがある。昼間に何か、気分の沈むことがあったり、気にくわないことがあったときに、そんな感情の傾きを修正するために、全ての意識をニュートラルに戻すための調整が、睡眠の一つの働きなんだ、って。結衣は、もしかしたら…、敏感にそういう傾いた感情を感じ取ってしまうんじゃないかな」
「ぼくが? ぼくの、じゃなくて?」
「そう。結衣は引け目みたいに自分のことを言うけれど、実は余程、健康的だと思うけどね」
「どうして」
「睡眠は、身体と精神を休ませるためにすることだ。レム睡眠の時には身体が休んで脳が微かに働く。完全に全部の活動を止めてしまったら、万一危険が迫った時に命に関わるからね。…、そしてレム睡眠とレム睡眠の間に、深い眠りのノンレム睡眠が入って、今度は脳が休む――」
 言いながら、気付いてしまった。結衣の睡眠は、その度に気絶をするのに等しいのだと。意識の喪失が『眠る』好意なのであって、それは見方によっては、現世との離脱が逐一行われているとも取れる。端的に言えば『普通じゃない』ということだ。
 結衣は…、それを自覚している。
 その上で、そんな自分をどう思うかと、僕に訊いているのだ。 それに対して――、僕は、どう応えたらいいんだろう。
「巧く説明出来ないけれど…、ある意味、結衣ほど正しく眠る人は、僕の知る限りではいないだろう、ってこと」
「そうなのかな」
 いつしか、僕は言葉を選び、詭弁で結衣を説得しようとしている。それが、僕が彼に対して負っている引け目なのだと気付くまでに一瞬の間を要したのは、僕の思考能力が未熟なゆえだろう。
 ナルコレプシーの眠りが赤ん坊の眠りと似ていることと、十代で発生することが多いから、ナルコレプシーはある発生の過程において、脳の睡眠に関する機能に普通とは違った段階が入ってしまうのではないだろうかと推測されている。
 結衣の眠りは、常人と比べて明らかに浅いものでしかない。だから脳が休息を取ろうと意志を脱却し、危うい形態の睡眠を摂るのかもしれない。
「もしかしたら、やっぱり、僕らが夢の内容を詳しく思い出せないみたいに、単に忘れてしまうのが早いだけかもしれないし」
 いっそ、笑い飛ばそうとして、危うく失敗しそうになった。
 忘れる、ということは、その事実を一度自覚しているから起こることなのだ。
「それは…、ぼくには、どうにも出来ないよ」
「分かってる。けれど、それを前提条件にしたら、考えは進まない」
「うん」
 誰だって自分に対し、騙し騙しの精神で日常を過ごしている嫌いがある。けれど、夢を見られることが特別なことだと思わずに生きてきたことが、後ろめたさと摩り替わる瞬間を経験する…。
 それを誰が想像出来ただろう。
 僕の心痛い言い訳は、まだ続く。
「思慮深い人なら、必ずこう言って片付けてるね、…夢なんてものは、非生産的なものの極みだろう、って。形に残るものでもないし、時には、あれが現実だったらと大きな落胆を呼ぶ、消沈への隠し味に過ぎないのだし」
「隠し味」
「そう。それに気づいた人だけが、おまけを楽しめる」
 夢より少しばかりリアルな、この現実を楽しむ為に使われる、言い訳。
 この世に一番必要な言葉は、きっと言い訳のための言葉だ。
「それ、酷い皮肉」
「そう言う人もいるってこと。…結衣は眠ること、嫌い?」
 僕が訊くと――、彼は、はっきりと首を振った。
「嫌いじゃ、ないよ。夜に普通に寝られたとき…、夜が明けて、眼が覚める瞬間にね、時々、何か大切なものを抱いてたような気分になるんだ」
 そう応えて、胸の前で何か、小さなものを抱くように手を掲げてみせた。
 彼の言葉に、はっとする。
「それ…、それだ。夢の名残じゃないかな」
 僕は、そう提言してみる。
「夢の名残」
 陳腐な比喩だが、僕は言わずにはいられない。
「そう。幻を見た後のような、霧が儚く散っていくような感覚…、だろう?」
「うん」
「僕もそれは寝起きに時折感じるよ。…やっぱり、そうなんじゃないかな」
 僕が賛同すると、…結衣はようやく、少しだけ笑った。
「そう、かもね」
 夢の使者が与える夢への手引きがあるように、彼が観客を夢の舞台から帰らせまいと意図する画策。その余韻が結衣にもあるのだとすれば、それはすなわち、彼も夢を見ているのかもしれないということへの手掛かりとはならないだろうか。
 夢に価値があるのかと問われたら、それは人それぞれだろうと思う。現実との橋渡しである、もう一つの世界を出来事を体験出来る、無二の舞台なのだと言われてしまえばその通りだと思うし、先刻僕が言い訳として用いていたように、直接的な創造性のあるものではない。
 ある絵画で、それを見て、一人一人に解釈が異なるような、作品に近い。
 溜め息を吐いて、結衣は立ち上がった。教室の隅のゴミ箱に空缶を投げ入れる。乾いた音が無人の校舎に響き、それが帰宅を促すチャイムの代わりとなった。
「まだ、眠い?」
 ニ、三度、大きく瞬きをする彼を見て、僕は問う。
「ううん、大丈夫」
 結衣は応えて、淡く微笑んだ。そこにはいつもの少年の姿があった。
「じゃあ、帰ろうか」
「うん」
 僕も立ち上がって、その場から缶を投げた。緩い放物線を描いて、缶は音もなくゴミ箱に吸い込まれていった。何でもないことといえ、あまりにすんなりと巧く行くと、少し怖くなる。
「コーヒーは、結衣に効くのかな」
 それは彼の、突発的な眠気に対して。
「さあ、カフェオレくらいじゃあ、分からない。効果があるといいね…、家に着くまでは」
 特別、普段と何も変わらない、冬の片鱗が見え隠れする、日常の一齣。秋も近いうちに終わろうとしている。十一月の最初の日だった。毎日が少しずつ角度を変えて、僕たちの前に姿を現す、そんな感じの日々。
 ただ少し、薄ぼんやりと眠気を誘う話しをする僕たちがいるだけの。
 コーヒーを飲んだ側から眠くないのという話をする辺り、少しだけ可笑しい。


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