そして彼はいなくなった


 靴を履き替えて、昇降口から出て、夕日が眩しい校庭を横目に、校門を後にする。茜色の空は、明日も悪くない天気であろうことを物語っていた。
 夕刻にしては人気のない道を、肩を並べて、てくてくと歩く。
 何か考え事をしているのか、結衣の視線は沈みかけた太陽が作る長細い影の真中辺りに捉えられていて、憂いじみた様子に見えた。
 不意に木枯らしが吹き、僕は肩を竦めてポケットに両手を入れる。
 僕の横を歩く結衣の肩で、ゆらゆらと揺れるものがある。
「それ、あったかそうだな」
 何となく行ってみただけだったのに、その声が羨望を含んでしまっていて、凝った柄のマフラを細首に巻きつけた結衣は、
「半分、分けてあげようか?」
 と、その先を摘んで、ひらひらと揺らした。
「…冗談」
 余程その提案に乗ろうかと思ったが、それが彼に茶化されていることが見え見えで、不貞腐れそうになる。手袋くらい持ってくれば良かったと悔やんでも、遅い。
 ポケットの中ですら冷え続ける己の指先を忌々しく思っていると、
「ねえ…、手、冷たくない?」
 結衣が自分の手を擦り合わせながら言い、それから掌を僕に向けてみせた。
「ちょっと赤くなってる」
「…貸して」
 言うが早いか、結衣は僕の手をポケットから抜き取って、自らの両手で包み込む。
 何をするのかと見ていると、そっと息を吐き掛けた。じわりと温かみが伝わってくる。
「どう?」
「…悪くないね」
 僕は応え、もう一方の手を出して、結衣の手と組み合わせる。
 二人、歩きながら息を吐き掛け合った。一人でするよりはずっと暖かくて、そういう暖の取り方も悪くないと、本気で思う。
 そうしているうちにも、次第に世界には闇が下りてくる気配を感じる。
 逆光で伺いづらい表情の中で、結衣の唇が僅かに開いたかと思うと、
「――夢の中のぼくって、とんなぼくなのかな」
 不意に、彼の口からそんな疑問の声が零れ出た。
「どうしたんだい、いきなり?」
 先刻の今だけに、僕は彼を気遣うような声を出している。
「うん…、やっぱり、気になるじゃない。もしかしたら、ぼくも夢を見ているのかもしれないけれど、そっちの世界のぼくのことを、ぼくは覚えていないわけだから」
「ああ…、成程」
 あまり話を蒸し返されたくはない気分だったが、放っておくには忍びない話題だ。 すると…、彼は、こんなことを言い出した。
「もしかしたら、誰かのことを殺して回っているかもしれないよ」
 流石に、動かしていた足が止まってしまった。
「それはまた…、唐突だな」
 再び向かい合って見れば、結衣は軽く微笑み、爪先立ちになって僕の首に向けて両手を伸ばした。反射的に、僕は顎を浮かせてしまう。やもすれば射貫かれるような視線。
「例えば、さ…」
 するりと、結衣の細い指が首筋の線を辿る感触。
「な…、んだよ、急に…」
 こくん、と息を飲んだ自分の喉が上下するのが分かった。
 しないよ、と冗談の効果を確かめるように言って、結衣は離れた。
「こう…、紐か何かで、首を絞めたり、ね」
 そう言う彼は、僕の目の前でマフラを手にとって、それを掲げてみせる。
 一瞬、息が詰まる錯覚。
 それは、自分の首を絞めようとしているかのようで――、
 直接言われでもしなければ思い浮かばない、幻覚のような。
 先程、自分自身が考えたフレーズが脳裏に蘇った。
 ――夢は時に、人を殺す。
 それは、…比喩のはずだ。
「まるで多重人格だな」
 僕は殊更にゆっくりと言い、結衣はちゃんと笑ってみせる。
「そういうものでしょう、夢の中の自分って」
 そう言われれば、確かにそうなのだ。
「だから、こっちのぼくは、ぼくが誰を殺したのかは何も覚えていないんだ。もう一人のぼくは、ぼくがいつそれに気付くか試したくて、それだけのために殺し続ける」
「酷いな」
「酷いね」
 二人とも、まるで他人事のように言う。…まったく、他人事だ。
 夢の中の自分と、現実の世界の自分とは、性質を同じくして、しかし全く異なる存在だ。現実世界の自分は、そう捉えている。それは、こちらの世界の自分が主体的に夢を見る存在だからだ。
 眼が覚めてしまえば、夢の内容と共に、夢の世界の己は跡形もなく消えてしまう。元より、夢が想像の産物に過ぎないと考えれば、それは思考遊戯の域を出ない。
 結衣は、思想の自由を逆手に取って、そんな、常人ならば考えないことを言葉にし始める。
「それで…、あるとき、もう一人のぼくは、とうとう、ぼくの知人を手に掛けることを思いつく。ぼくと全く関係のない人間から、少しでも繋がりのある人間に標的を移すんだ…」
 少しずつ、自らの行為への予感を知らしめていく。じわじわと、外側から絡め取るように。
 と…、思い出したように――それとも、思いついたように――彼は言う。
「――どうして、ぼくは人を殺そうと思ったのかなあ」
 不意に彼の声色が変化したのは、そんな言葉からだった。
 結衣は後ろ手に手を組んで、くるりと回った。
 それを見遣りながら、何ともなしに言葉を返す。
「さあ。…分からないね、そんな人間の感情は」
 その時『自分で言い出したことだろう?』と何故言えなかったのか。
 それは多分、僕が夢の中の登場人物を人間だと認識していない部分があったからなのかもしれない。
「そう…、殺したかったから、殺した、とかね」
 僕は、そんな言葉を口にしている。
「純粋殺人、って奴だね」
 結衣も僕は、お互い、妙なことを知っていると思う。
 『人を殺す』ことを目的に、人を殺すことを、そう言う。純粋な殺人行為の動機にして、最低最悪の行動要因だ。蝿や蚊を叩き殺すのと相違ない。いや…、もっと悪い。
 人を殺すのに、理性と感情、どちらがより重要か。それは実は、殺人という主体行為を明確にする上で艱難には切り離せない要因の一つだ。
 『どうして人を殺すのか?』という問いに対して、殺人者が持ち得る、他人に理解出来る理由なんて、本当は必要ない。
 被害者の気持ちになって考えてみれば、少しはその不条理さが理解出来るだろう、という反論が常になされるが、他人が殺される瞬間の気持ちにアプローチすることは不可能だ。
 理由があれば、殺してもいいのか?
 いや、それでは理由もなく殺すことが、必要になる。
「けれど、どうして人を殺さないのか、という問いになるなら、ある程度の回答は出来る」
「どんな?」
 一息呑んで、応える。
「僕が、誰かに殺されたいと思わないからだよ」
 人を人が殺さない人間が納得出来る程度の説得力はあるかもしれない。
「でも、それは誰かを殺す理由にもなるよね」
「…ああ」
 その通りだった。…二人目の結衣の殺人は、だから行われるのだ。
 ――夢から覚めたくないから。
 僕の思惑を知ってか知らずか、
「ぼくは結局、純粋に殺すんだよ、きっと」
 淡々と、彼は言う。
「ある夜に、そうやって一人の人を殺した後に、ぼくの振りをしてきみを訪ねていって、月夜の散歩をしたりするんだ。行き先をこっそり誘導して、自分が置き去りにした死者の待つ道へ行く。偶然を装って、一緒に驚いてみせたりするんだ――」
 物語を紡ぎ出し、語るように。
「後味が悪いな」
「夢だからね」
 事も無げに、結衣は応えた。
「そんなことすらも、楽しいと思えるのかもしれない。何を考えて、何をしても、それは全部自分の意のままに。…そんな世界で、何もせずに覚めてしまうのは勿体無いと、ぼくは思うな」
 彼の言うことは、一々正しい。それだけに、夢を知る僕は、それに相反する形のない疑問を感じてしまうのかもしれない。…、それが疑問なのかも分からない、疑惑を。
「誰かを殺すのを止めないぼくは、やがてぼく自身に肉薄してくる。人を殺す目的も変わってくるかもしれない。捕らわれてみたくなるかもしれない。だから、一人だけ、標的を残しておいたんだ」
「一人だけ…?」
 僕の疑問の呟きに、結衣は自らの台詞を続けることで応えた。
「そう。そして、一番最後に殺すのが…、きみなんだ、――佳純」
 人が変わったような視線で、…それこそ、夢を見るような視線で、
 僕の名を呼んだ。
「最後にきみに会うために、ぼくは殺すんだよ」
 僕の名前――椎奈佳純という一人の人間の持つ名前の音韻とは、微かに違って聞こえる声で。
 カズミ、と。普段なら苗字でしか呼ばない、僕の名前を、口にした。それがその言葉でなければならないと彼が思うとき、その単語が、彼にとって特別な意味を持つのかのように。
 夢の話だと、僕は笑えただろうか。覚えていない。
 少年の夢物語が終わった途端に感じるこの不安は、一体何なのか。
(これは――、)
 この時、僕は思ってしまった。
(これはまるで、…夢じゃないか?)
 違和感の正体は、それだ。何もかもが不安定で、曖昧で、判然としない。はっきりと意識を保っているようで、その実、確かなものがない。それこそが現実の一番不確かな所以だと、僕は思っていたのだが――、
「結衣――」
 判然としない思いを抱えながら、彼の名を呼ぶ。
 その瞬間、ぐらり、と地面が傾くような錯覚を覚え、僕は反射的に結衣の腕を掴んだ。
「っ、と、ごめん…」
 その腕は、細くて、けれど、動かず。
 まるで、その場に立てられた彫刻の如く。
「カズミ」
 少年の声が、けれどしっかりと耳に届いて聞こえる。
「結衣」
 呼び掛けて、その時には同時に思っている。
 きみは、…本当に結衣なのか?
 僕の知る、巽結衣なのか、と。
 しかし声に出して尋ねたら、彼はきっと首を振るだろうと、僕は何故か悟ったように気付いていた。
 そして、脳裏に閃く、一つの音。
 ――ユウイ?
「カズミ、…一つ訊いていい?」
 最早、僕たちはカズミとユウイという二つの記号となろうとしている。
「…何?」
 彷徨い始めた僕は、掠れ始めた声を出す。
 夢を展望する少年は、尋ねた。
「カズミは今、どんな夢を見てる?」
 少年の一言は、一瞬で現実を崩壊させた。


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