そして彼はいなくなった


「世界の始めと終わりは、何処にもないんだ」
 そう、彼が呟くのが聞こえたような気がする。
 ほんの一瞬前の情景が反転し、その後に残るのは、
 ただ少年の空虚な溜め息の余韻だけ。
 それを感じたとき、彼は思ってしまった。悟ってしまった。
 僕は、本当は何処にいるのだろう、と。

   □   □   □

「結衣(ユウイ)」
 呼び掛けた声に、返事はなかった。
 代わりに聞こえてきたのは、ほんの微かな風に乗って耳に届く、やはり静かな寝息。
 少年は眠っていた――腕を枕に机に伏せて、無垢な寝顔を無防備に浮かばせて。殺風景な教室の中に、巽結衣は一人だった。
 表情の抜けた顔は人間の中で最もイノセントな装飾だと言われるけれど、それはきっと、その純潔さのアンバランスさゆえなのだろう。
 見ていてアンバランスだと思うものほど、人はその中に美しさを見出そうとする癖がある。級友に対してそれを考えることが、またアンバランスで妙だと笑いそうになった。
 或いは、それを偶然が生み出す妙味だと思ってもいいのだろうか。それは分からない。多分、普段はどうでもいいようなことほど、こうして改めて考えてしまうと可笑しくなってしまうのだ。
 妙に色の抜けた薄い茶の髪が、夕方の風に揺れていた。市販の染め具を使ったわけでもないだろうに、西日に当たって白金色に透けて見えた髪は、確か異人の血が少し入っているからだと聞いたような覚えがある。そこはかとなく、現世からの離脱を図ろうとする堕天使が、神に許されることなく天上に留まらせられていることの証のようでいて、溜め息をつきそうになる。
 それもまた、感情が消えた人の気配が醸し出す無意識の妙技だろう。本当に綺麗なものというのは、日常の本当に身近なところに、無造作に置かれているものだ。
 詰襟の制服が水場の鴉のように艶めいて反射するのは、一種のご愛嬌だ。ジップアップ式のもので、ご丁寧に、ファスナは一番上まで上げられているのが見えた。これも、いつものこと。夏場であれば見るに耐えないが、時は十一月の夕暮れ、これくらいで丁度いい。
 彼の前の席の椅子が引き出されていて、彼の鞄と、眠る前まで読んでいたのだろう、本が一冊、放り出されるようにして置いてあった。しおりが挟まれてないところを見ると、読書中に眠ってしまったものらしい。
「結衣」
 十字に組んだ手の甲に、形の良い顎が乗っている。折角気持ち良さそうに眠っているのを妨げる罪悪感に苛まれながら、僕は再度呼び掛け、少年を揺り起こした。誰も残っていない教室で人の名前を呼ぶ…、その単純な行為には、何故か非日常的な響きがまとわりつくように思える。
 たとえその場に相手がいても。
「んん…」
 彼は、小さく唸るような声を上げて身を捩じらせる。
「あ…、椎奈…?」
 やがて、小さな子がするように眼をうっすらと開いて瞬いた後、いまいち焦点の合っていない目付きで、結衣は僕の名を呼んだ。虹彩の色すらも薄い彼の瞳は、こうして面を突き合わせていても何処か違う国の人間と話をしようとしているみたいだ。
「ああ」
「お帰り」
 隣の席の椅子を引き出して座り、本来なら逆の挨拶で笑いかけてやると、
「…ただいま」
 結衣は罰の悪そうな苦笑いを見せた。眼を覚ます瞬間に立ち会われるのは、意外と気恥ずかしいものだ。
 確かに、睡眠中の人間を起こすことは、小さな罪に等しいと思うことがある。…けれど、実際に見るのは、眠っていた者の側がする、悪戯が発覚した時のような表情だ。
 それは、世界の全てを脇に置いて、自分一人だけがこの世ではないもう一つの世界へ旅をしていたことへの引け目なのだろうか、とすら思う。
「用事は、済んだ?」
 結衣は、小さく欠伸をしながら訊いた。
 僕は図書室から帰ったところだった。急に入った委員会の仕事で、一緒に帰るはずだった結衣を、それが終わるまでの数十分、待たせていた。その間に彼は眠り込んでしまったらしい。
「ああ。コーヒー、飲むか?」
 上着のポケットから取り出した缶で、机でコンと一拍のリズムを取る。戻り際に買ってきた、自販機の缶コーヒーだ。勿論、温かい。
「え? あ、うん」
「いつものカフェオレ。気が利くだろ」
「自分で言う台詞? それ」
 結衣は皮肉気に唇の端を持ち上げる。
「…飲まないんなら、僕が処理しておくけど」
 狡い言い方だな、と自分でも思いながら言うと、思い切りよく首を振られる。
「飲むよ。飲みたい。――ありがとう」
 差し出された手に缶を乗せてやると、如何にも嬉しそうな顔をされた。
 腕枕をしていたせいで指が痺れたらしく、カチン、カチン、と爪がプルトップを開けられずに弾かれている。
「貸して」
 見かねてひょいと取り上げ、空けてやる。
 ごめん、と今度は申し訳なさそうに呟いて、
「…美味しい」
 一口飲んだ後に、彼は必ずそう言う。それが少なからず嬉しい。飲まれるカフェオレも、飲む万人が彼のようであったなら、さぞかし報われるだろうに、と思う。
 僕はブラックコーヒーを啜る。…多分、仏頂面で。
「椎奈のは、ブラック?」
 僕の手元を覗き込みながら、結衣は訊いた。
「ああ」
「美味しい?」
「ああ…、まあ、ね」
 内心では、どうなのだろう、と思いながらもそう応えると、彼は首をちょっと傾げて、
「ぼく、駄目なんだ。ブラックって」
「甘党だったっけな、結衣は」
「うん、それもあるけど…、コーヒーっていうより、煎じ薬を飲むみたいで」
 煎じ薬。まさかそんなアナクロな単語が飛び出すとは予測できず、鼻息が漏れた。
「なに、笑ってるの」
 即座に不貞腐れた顔で言われて、尚更笑いを呼んだ。
 その時僕は、湯飲みになみなみと注がれたコーヒーを思い浮かべていた。一見、和洋折衷で悪くないようにも思えるのだが、しかし全面が陶器で出来た湯飲みのこと、熱くて持つことが出来ず、暫くは飲むことが出来ずに呆然と待つことになる、という笑い話だ。
「別に…、普段から調合して薬を飲む習慣は僕にもないけどさ。身体に良いわけがないことは良く分かってるんだよ。でも、これでないと『コーヒーを飲んでいる』っていう気分になれないんだ。ちょっとつらいものがあるけれど」
 僕が話すと、それだけで結衣は眉を寄せ、苦いものを飲んだような顔つきになる。
「信じられない…、変なの。よしなよ、あまり飲み過ぎるの」
 多分、心配してくれているのだろう。
「カフェインは胃に悪いって言うし、夜、眠れなくなっちゃうし――」
 結衣は続け様に言いかけて、
「あ…、」
 と、急に思い出したように、済まなそうな顔をする。
「また寝ちゃってたんだよね、ぼく」
「みたいだな」
「ごめん、いつも迷惑掛けて」
「迷惑じゃないさ。もう慣れた」
 肩を竦めて、僕はそう応えた。
 入学式で彼と出会ってから八ヶ月、そんな遣り取りはいつしか日常茶飯事なものとなってしまっている。
 普段なら、待ち時間にうたた寝をするくらい何ということもない、と言われるだろうが、結衣の場合、少しばかり事情が異なる。
 眠ること、それ自体が、彼にとっては突発性で不可避な事象なのだから。
 単に眠り好きの少年だというわけではない――、巽結衣は、ナルコレプシーだ。
 ナルコレプシー。別名、過眠症。又は、眠り病。
 比喩にも使われるが、結衣の場合は遺伝病的なもので、主な症状は読んで字の如く、睡眠障害だ。
 脳幹の中にあるレム睡眠を発生させる箇所が暴走して、突発的に睡眠を起こす。起きている状態から、いきなりレム睡眠の状態に落ち込んでしまうのだ。
 昼間にも関わらず、場所や状況を問わず、強い眠気が繰り返して起こり、直ぐに眠りに落ちてしまう。自意識では制御出来ない、睡眠欲の表面化だ。健康な人が、四十八時間眠らずにいて、高校レヴェルの数学の問題を無理矢理解かされる時と同じくらいの眠気だと言われる。
 それゆえ、彼には、昼起きて夜寝る、という常人の生活スタイルがそのまま当て嵌まらない。無論、不眠症などに見られる症状とは似て非なるものだが、別の意味で慢性的な無意識の睡眠欲が、彼にはあるらしい。
 つまりは、彼の本能が、眠りたいときに寝て、起きたいときに起きるように働き掛けている、という、一歩間違えば笑い話になってしまうような理不尽な作りをしているのだ。
 それが日常生活のハンデとして眼に見えてしまうから、正直タチが悪い。眼に見えて起こるのは、単に結衣が眠ってしまうということだけなのに。けれど、端的なことだからこそ、盲点は逆に直截なものとして眼に映る。
 一日に幾度も、結衣にはそうした症状が現れる。その周期はバラバラで、それが自宅のベッドで発生するのであれば、単なる惰眠に過ぎないのだが、今日のように学校の教室で、だったり、時には帰り道を歩いている最中、道端で唐突に座り込んでしまったりもした。
 十分から二十分、意識が喪失する程度、表面的には重い貧血のようにも見え、誰かが側についてやらないと、知らないうちに事故にあっているんじゃないかと気が気でない。実際、この病理の患者の中にはそんな不幸と遭遇してしまう人も決して少なくないという。
 しかし、結衣が特別待遇を望むわけでもなく――悪い言い方だが、常人より眠りやすいというだけで社会不適格者としての烙印を押される不合理はない。結衣は決して社会的欠陥者などではないのだ。しかし、月に幾度か、精神科医…、カウンセラの元を訪れていることを、僕は知っている。
 そんなこんなで、面倒見のいい奴が、自然と彼の姿を眼で追うことになっている。僕の家が結衣の家の隣だったことから、この妙な保護者役が僕に任せられた。
 少年の送迎役。…体の良い言い換えで、要は監視役だ。
 けれど、僕は敢えて、そうは考えないようにしている。意識しないように意識することは二重否定と同じだ。結衣が一々謝る顔を見るだけで、僕は切なくなる。
 僕が保護者役をずっと続けているのは、簡単な理由――、

「…やっぱり、ごめん、だよ。ぼくは椎奈に、そんなに優しくしてもらう資格、ないもの」
 結衣はそんなことを言って、眉を下げた。
「結衣の『ごめん』は、もう聞き飽きた。それに…、そんな顔も、もう見飽きたよ」
 僕は取り成すように言って、頭に、ぽんと掌を置く。
「僕が好きでやってるんだから、結衣が心配することじゃない。今更だろ?」
 例え心配をしたところで、彼は己に逆らうことが出来ない。それは、己の意思では、ということだ。眠りに就く前に相当肉体を酷使して疲労させるか、強い睡眠薬や麻酔などを用いなければ無理だろう。難しい、というよりも、それこそ、自意識で眠り続けることが出来ない以上は不可能に等しい行為だ。
 これは、自然な状態であると、一定時間以上の休息を取ると、脳は活動を始めようと働きを再開してしまう器官であるからだ。胃や心臓などの自律神経は、生まれた瞬間から死ぬまで休まずに動き続ける器官だが、それ以外の器官は長い間機能を停止していると死んでしまう。排他的な存在となってしまうからだ。これが脳にも言える。
 だから、ナルコレプシーはある意味、精神的には正常な状態とも言えるのだ。けれども、逆に考えれば、彼は自分の眠りたい時に眠ることが出来ない。学校での授業中に堂々と――無論これは不可抗力の産物なのだが――居眠りを始めるのはいつものことで、それは既に担当教諭も暗黙の了解をしているのだが、理解の遅れを取り戻す為に、真夜中に自宅で予習復習をしているのだろうかと、そんなことを思うだけで、僕はまた遣り切れなくなる。
 一人で過ごす休日には、彼は何をして時間を過ごしてきたのだろう。僕以外の友人がいないわけではないことを知っているが、安易に遠くへ外出をすることへの恐れがあるばすの彼は、行動できる世界そのものが、僕らよりも明らかに狭い。
 薬物療法が進んでいるというが、心理的に薬に頼りたくないと思うのが、やはり人だろう。
「今日に始まったことじゃあ、ないんだから。一々気にしていたら、それこそ始末がない。誰にとっても、人生、アンフェアなものなんだから。もっと大人にならなきゃ」
 結衣の機嫌を上方修整しようと、僕は軽口を叩く。
 変な言い方ではあるが、病気を体質として捉えるか否か、それと巧く付き合っていく一つの方法だと思う。そして、その本人との付き合い方も、それに等しい。
「それ、ぼくを子供扱いしてる」
「子供だろう?」
「椎奈っ」
 振り上げられた拳を見て、僕は大袈裟にのけ反ってみせた。
「…もう」
 弛緩した腕が膝の上に乗るのを見て、僕は机で頬杖を付いた。
「いい加減、僕を信頼して、少しくらい頼ってくれてもいいだろう?」
 僕が言うと、俯いていた顔を上げて、
「…うん。ありがとうね、椎奈」
 多分にわざとだろう、柔らかい笑みと共に、結衣は言った。


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