MYTHICAL MAZE 2

 〜誰が猫を隠したか?〜


「全く…、意地っ張りなんだから」
 昨日、口論に発展しない言い合いをしたことを思い出した僕は、なんともなしにそう呟いていた。
「小莫迦…、にしてるつもりはないんだけどなあ」
 つい、言い訳くさい言い逃れが口をついて出る。独り言というのは、自分の考えを客観的に感じようとする思いの現れでもあるけれど、この場合、それには全く意味がない。
 不破陽介(ふわ・ようすけ)。彼が小児科病棟を訪れることが当たり前になってしまって、もう随分経ったように思える。以前この病院に入院していたのが切っ掛けで、今も小児科病棟に時折来て、子供たちと付き合ってもらっている。見習の看護士のような、保父のような…、養護員、とでもいった表現がしっくりくるだろうか。
 彼はまだ十七だったはずだ。それは無償の奉仕活動として、その自主性には尊敬に値するものだと思うし、僕たちも、業務に障ることさえしてくれなければ、ヴォランティアの参加は正直有り難い。ただ、大人びた――敢えて悪く言えば、無理に背伸びをしたような――ものの言い方を意図的に投げ掛けてくる癖が、たまに傷だ。
 彼の言うことは一々、理に適っているようで、実は感情論が半分混じっている。彼が僕を慕ってくれていることは言葉の端々から伺えることで、正直嬉しい。けれど僕には、それは意地っ張りな性格の現われであるように思えてならない。
 …もしかしたら、それは年長者としての僕の思い上がりなのかもしれないけれど。高校生というのは、大人と子供の境界線に立たされて、色々と悩み多き年頃なのだ。
 僕は、白い大きな建物の西側にある中庭を歩いていた。眼前に横たわる建築物は、白無垢の衣装のように清廉潔白と俗的なものから逃れようとするかのように、静かに呼吸を続けている。
 N市立中央病院は、一般病棟と小児病棟の二つの病棟で構成されている。外界に面したテラスと廊下を挟んで、西側に小児病棟、東に一般病棟という造りだ。
 県下においても、小児科の病棟が独立している病棟機構というのは他に類を見ず、小児科病院としての権威も確かにこの場には存在している。
 僕、二宮陸哉(にのみや・りくや)は、そのN病院小児科病棟に勤める看護士だ。看護士…、ナースマンである。(『フライトアテンダント』と同じ社会的根拠から)女性の勤めるナースと一緒にして、『看護師』とも呼ばれる。
 僕は主に、一般患者を収容する二階部の病室の担当をしている。担当、と一口に言っても、他の看護師と共に、病気や怪我で普段のようには動けない少年少女たちの入院生活の手助けをしたり、また、診察室や処置室での医師先生方の補佐を勤めたりしている。
 子供たちからは先生、と呼ばれることもあるが、僕は正式な医師免許を持っているわけではない。看護師としての資格免許を持っているに留まる。だから荒い言い方をすれば、時に苦しむ子供が目の前にいても、開腹して病巣を摘出する、なんて芸当は出来ないのだ。例え腕に覚えがあろうとも、法的に許されない。それは、歯がゆい。
 けれども不思議なもので、入院生活を送る子たちにとっては、難解な施術を行い無事成功させた、命を救った権威ある先生よりも、退屈なベッドの隣で微笑みながら自分の話を聞いてくれる看護師の方が、ずっと親しみを持てる、…そんな皮肉めいた話も耳にする。手術中の記憶なんて大概、覚えていたいとは思わないだろうし、それが外科の施術である場合は、執刀の先生がメスで身体を切り開くのだから。嗜虐趣味の持ち主でない限りは嬉しいとは思わないだろう。
 要するに、僕たちは入院患者のカウンセラーでもあるのだ。始終ベッドに縛りつけられることに対し、幼い子には少なからずストレスが掛かる。それは間違いなく非日常的な状況であるために、決して小さな負担とは言えないのだ。病は気から、と諺が言うように、自然治癒力を増幅させるのは精神力なのである。
 子供というのは、不思議なものだと思う。『子供』という漢字が示すように、子供たちはいつも誰かの隣にいることを好む。自分以外の誰かが傍にいてくれることで、安堵を得られることを信じているかのように。
 時に他者に依存をするのは大人とて同じだが、しかし僕たちの場合は、その言葉は悪い意味で用いられる。無垢な存在である大人は、何処にも存在しない。

 夕方と呼ぶには少し早い。けれどそろそろ空が闇色に染まり始めようとしている、午後の中庭。
 ――その日、僕たちは、ある一つの奇妙な出来事に遭遇した。 例えば、昼に食べた定食の中に嫌いな食べ物が出てきたとか、そういった程度の問題であるのならば、気の持ちようで幾らでも修正が利く。目を瞑って鼻を摘んで口の中に放り込んで、ものの五秒で決着がつく。
 ところが、その時に起こったイヴェントには、他人が介入するに足る隙間というか…、余裕がなかったのだ。有り体に言えば、その出来事から目を逸らすことが出来なかった。
 実際…、それは後になって考えてみたら、あまりに単純なパーツで作られた積み木のようなもので、客観的な『出来』はとてもよろしいとは言えなかったものだったから、危うく笑いそうになってしまった。人というものは、自身が普段想定していない物事に対して、本当に鈍感であるのだと、僕は少しだけ思わせられた。
 勿論、それは当事者以外の人にとっては全く関係のない出来事だったはずだし、当事者となった僕たちにとっても、数時間後には夕食の献立について気にし始める、といった程度の、ある意味では些細な出来事であったように取られても、それは仕方のないことだと認めよう。
 けれど、そうはいかないのが問屋の卸す商品の数々。その全てが良品である保障はない、という保障は、やはりその諺が存在する事実が逆に証明している。
 幾ら工夫を凝らそうとも、嫌いな食べ物を食べてしまった、という事実はしっかりと胸の内に存在するのと同じように。

 小児病棟は、全四階で構成されている。一階が受付、診察室、処置室。二階から三階が病室。そして階層として場を担っているわけではないが、四階部には給水塔施設と屋上がある。
 中庭にいる僕からは、そのほぼ全景が見えた。十一月の日没前、散歩をする人影は流石に疎らだ。夕方の回診までそろそろかな、と腕時計を覗いて、病棟の様子が見られるかと顔を上げると、窓ガラスに西日が反射し、眩しさに顔を反らした。
 その時、僕の視線の先に、小児病棟の屋上が見えた。普段ならばあまり人の姿はない、屋上のフェンス越し、そこに、小柄な人影があった。
 何処か茫洋とした表情を真っ直ぐに向け、何をするとでもなく佇む人物。屋上に誰かがいること自体が珍しいので、僕はそちらに視線の焦点を合わせていた。
 端正な相貌の少年――。  薄い髪の色が、西日に当たって透けて見える。それは琥珀の様相を表沙汰にし、長く伸びた髪が首の後ろで括られて、微風に揺れている。それが否応なしに、彼を儚い生き物のように見せた。
 自慢ではないが、視力は良い方だ。流石に距離があったから、はっきりと見えたわけではないが、表情の乏しい…、感情の乏しい、その憂いに満ちた表情が伺えた。好天の日差しの名残りが彼の顔に向けても注ぎ込み、澄み切ったレンズが光を反射する。
 その顔が、ゆっくりと…、地上に向けて下がり、
 ――僕と、目が合った。
「…っ!」
 僕は、無意識に息を呑んでいた。何故か、嫌な予感がしたのだ――、
 嫌な予感?
 少年が一人、屋上にいた。それだけの事実に基づく考えとしては臆病な心意気だと、後で誰かに思われても仕方がない。時に、どんな権威のある知識人の予言よりも的中率の高い、未来への予感というものは、頑として存在する。
 そして次の瞬間、彼は身を翻し、外からは見えなくなってしまった。僕に何かを見咎められたように、表から姿を引込めたのだ。
 直ぐ様、僕は少しだけ視線を落とす。
 小児病棟、二階。いつものあの部屋に、彼は今日も来ている、はずだ。
 外から見たのでは、どの窓が何号室なのか、一瞬で見つけることは難しかったが…、いた。窓際の壁に寄りかかり、内側――ベッドの方を向いて談笑している様子の少年の姿が見えた。毛先の跳ねた焦茶色の髪に、精悍でいて屈託のなさそうな笑顔。
 不破陽介。今日もいつものように、いつもの病室に足を運び、少年たちの話相手になってくれているようだ。その諸々に、…けれど今は一々、感謝している暇はない。
 僕は病棟に近づきながら彼に呼び掛ける。運良く、窓は開いていた。
「陽介くん、…陽介くん!」
 幾度か名を呼ぶと、ややあって振り返り、窓の外の空中から呼び掛けられたような、こちらから見ても苦笑いをしてしまいたくなるような表情をしている。
「陽介くん、こっち。二宮だ」
「?」
 見下ろした陽介くんは、怪訝そうな――多分――顔を見せる。
「二宮さん。どうしたんです?」
「陽介くん。今直ぐ屋上に行ってくれないか」
 どうしたの、と恐らくは病室内の子にも訊かれたのだろう。一度振り返り、無理に微笑んだ顔で、平静を装う受け答えをしている様子が見えた。そうして再度、僕と目を合わせる。
「何かあったんですか」
「それは後で話すから。僕も直ぐに行く」
 僕は、説明を省いた。それでも彼は動いてくれると信頼して。
「――はい!」
 多分によらず、僕は切羽詰った声を出していたのだろう。離れた陽介くんの所にも、緊張した空気が伝わったらしい。彼は反射的に短く応えると、身を翻して駆け出した。羽織っていた白いベストが一瞬の残像を見せる。
 病棟内は勿論かけっこ禁止だが、この際だ、目を瞑ってもらおう。
 一つ頷いて、僕も屋上へ向かうべく、足を速めた。

 或いは、『彼』は自身の病室に直行しようとしていたのかもしれないが、屋上に繋がる通路は、三階からの階段だけだ。二階にいる陽介くんなら、四階部分である屋上から降りてきたあの少年を引き留めるのに間に合うかもしれない。
 それが迷惑行為となったとしても、その時は何事もなかったことにひとまず安堵し、謝罪の言葉を述べようと思う。臆病者のレッテルを貼られたとしても、仕方がないと諦観する。
 病棟内に入ると、直ぐ近くに非常通路の一つを兼ねた階段がある。二階、三階と階段を上がっていった。その途中では、陽介くんにも、あの少年にも会わなかった。二人とも、上階にいるだろうか。
 何度か折り返して、あと一つ段差の坂を上れば、屋上前の踊り場だ、という所まで進んだとき、
「――二宮さん?」
 陽介くんの声がして、僕は顔を上げた。頂上で僕を見下ろすのは、見慣れた少年の姿。僕と同じく、微かに息を切らせている。あの少年の姿はない。どうやらまだ屋上にいるようだ。
「ああ、陽介くん。屋上、見てみたかい」
「いえ、俺もたった今、着いたところです。丁度ドアを開けようと…」
 そう言う彼と、屋上に繋がる扉までの距離は、成程、まだ間がある。僕が階段を上る足音を耳にして、僕が来るのを少し待った、ということだろう。僕ら二人の到着のタイムラグは、数秒だったらしい。
 或いは、陽介くんは屋上に出ることを躊躇ったのかもしれない。隣の一般病棟には洗濯場を兼ねた立ち入り自由の屋上があるが、小児病棟の屋上は、基本的に関係者以外の立ち入りは控えてもらうことになっている。
 最上部の踊り場は、給水塔施設と併設となっているため、病棟内の他の廊下の踊り場と比べてみても、多少の広さがある。安いワンルームマンションの一室が入るくらいはあるだろうか。
 だが現在は、その敷地のほぼ半分を段ボール箱が占めている。病室内で使われるベッドのためのシーツや、蛍光灯、電球、ビニールシート、等々…、とにかく雑多なもので、いつ使うことになるかは判断しにくいが、使い古しのものが一時的に、物置代わりに置かれているのだ。
 管理不行き届きな一部と成り果ててしまっているが、元々、こちらの屋上には人は来ないし、通行に支障は出ないし、場所的に一般病棟の地下倉庫から一々持ち出してくるよりも利便的、ということで、便宜的なもの置き場として定着してしまったのだ。
「…一体、何があったんです? 屋上に何かいたんですが?」
 その『物置き場』の一角で、陽介くんは僕に問う。
「いたよ、勿論。男の子が一人」
「それだけ、ですか?」
 答えると、彼は訝しげな顔付きで僕を見た。
「うん…、それだけ、と言っては、それだけなんだけどね…」
 屋上で火災発生、とでも思われてしまったのだろうか。
 …だったら、直ぐに消防署に連絡を取ろうとするだろう、流石に。そこまで抜けていないつもりだ。
「ただちょっと、その子の様子がおかしいように見えたものだから」
 陽介くんは、ちょっと不満そうな目をして、
「そんな、勘だけで人を駒扱いですか」
「そうじゃないよ。こんなことを考えるなんて不謹慎だけどね…、只事じゃない、っていう雰囲気を感じてしまったんだ。こればかりは第六感の発動だから、僕にも説明の仕様がない」
「看護士の勘、ですか」
「そういうこと」
 ともかく…、こんなところで論議をしていても仕方がない。幾ら言葉を発しても、病棟の屋上は透けては見えない。
「とにかく、まずは屋上に」
「…了解しました」
 陽介くんは応えて、ドアノブに指を絡めた。しかしその途端、
「あれ? ちょ…っと、待ってくださいよ」
 そう呟いて、彼は変なものを見たような声を出す。肩に妙な力が入っているのが分かった。
「どうしたの」
 僕は彼の後ろから、ドアを見遣る。
「鍵、掛かってますよ」
「え…?」
 丸いドアノブの中心には、鍵穴があった。空調や給水施設の管理点検くらいでしか立ち入らない場所だから、施錠には内側からでも鍵が必要なのだ。
 陽介くんは僕にも分かるように、ノブを回したまま引っ張って見せた。確かに、施錠済みだ。ガチャガチャと音が鳴るだけで、ぴったりと閉まった扉は微かにも間を作ろうとはしない。
「それに、ほら」
 陽介くんは、空いた片手で、扉の左を指差す。そちらには、外界に面して擦りガラスの窓が二枚。その間にはクレッセント錠がしっかり掛けられていた。
「どちらも、ちゃんと鍵が掛かってる、ね…」  当たり前のことを口にしているようで、今でなければ可笑しくなっていただろう。けれど、拭い切れない違和感が見えない靄のように立ち込めようとしている。
「じゃあ、…窓を開けます」
「うん」
 殆ど恐る恐る、といった面持ちで、陽介くんはパチン、とクレッセント錠を開け、窓枠に指を掛けた。風雨で桟が錆びている部分があるらしく、何度か力を入れなければスライドしない。ゆっくりと、軋むように窓は開いた。外界の風が舞い込んできて、反射的に彼は目を細めた。
「待って。僕に先に行かせて」
 陽介くんを制し、僕は腰くらいの高さの窓枠に足を乗せた。
「誰か、いるかい?」
 考えてみれば変な呼び掛けだけれど、屋上に降り立った僕はそう声を放つ。
「そこにいて」
 頷く陽介くんを扉の横に立たせ、僕は屋上を見て回る。高いフェンスに囲まれた、空に拓けた空間。貯水槽や空調ダクト、柱の陰…、思いつくままに視線を向けていくが、少年の姿どころか、猫の子一匹、蟻の子一匹、目に留まらない。
 人が隠れられそうなところは粗方探ったが、
 ――少年は、いなかった。
「…嘘だろう」
 思わず、僕はそう声に出していた。
 まさか…、まさか、屋上から地上にダイヴ、なんてことはないだろうなと、フェンスを掴んで下を伺うが、最悪の悲劇は起きていない。そのことに安堵しつつも、一人の少年が消えてしまった事実に半ば愕然とする。
「陽介くん、誰かいるのが見えるかい」
「…いいえ」
 あっさりと、彼は首を振る。僕たちが屋上に足を踏み入れてからこちら、周囲からは僕が散策する音と、高所ゆえの風切り音以外、何の物音も聞こえなかった。
「ちょっと、思い出してくれ。きみは二階から三階四階と上がってくる間、誰かに会ったかい」
 僕のその問いを聞いて、彼にも今の状況が飲み込めたようだ。慌てて首を振った後、
「そいつは…、二宮さんが彼を見つけて、俺が踊り場に着くまでの間に、内側から鍵が掛けられた屋上から消えてしまった、ってことですか…?」
 ゆっくりと、僕は頷いた。
「彼は空を飛べた、とは思いたくないね。そういう、突拍子もない答えは嫌いじゃないけれど、現実に起こるとなると信じられない」
 事の起こりを最初の最初から目撃したわけではない彼は、案の定、
「屋上には、元から誰もいない、ってことじゃないですか? 二宮さんの勘違い、とか」
 思い出したように言う。
「鏡やガラスの反射で、そこにいない人がいるように見えてしまった、って話、よくあるじゃないですか。それだったんじゃないですか」
「そんなことはないよ。人の姿を見たのは確かなんだ」
 虚像ではなかった。身を翻して姿を消す様子も目にしたのだから、それだけは間違いない…、はずだ。
「寝間着姿だったから、ここの患者だと思う。…確かに、男の子が一人、いたんだ。視線だって、合っちゃったんだよ?」
 しかし口にしながら、次第に信憑性が疑われていく。
 …幽霊を見た? それとも幻覚?
 まさか。僕にはこれといった霊感はないし、そこまで心身を酷使してはいないはずだ。
 …多分。
「うん…、まあ、信じてもいいです、けど」
 事態の不可解さは、全く変わらない。ポケットからいつのまにかボールペンが消えていた、というような問題とは、次元が違うのだ。気がつかなかった、では済ませられない。
「でも、そうも腑に落ちないんですよ」
 口元に指を当てて、彼は何事かを考える仕種をする。数秒、僕は声を掛けられずにいる。
 …と、
「…あっ! そう、そうですよ、二宮さん」
 急に大声を出すので、僕はびっくりして肩を竦めた。
「?」
 まじまじと彼を見てしまうと、陽介くんは見る間に薄い笑みを浮かべた。
「そんな難しい考え方をしなくてもいいんですよ。…いいですか」
 そう言って、人差し指を立てた。
「これを聞いたら、自分の阿呆さ加減に笑いたくなりますよ。覚悟してくださいね」
「…うん」
 こっちに来てください、と言って、彼は僕を病棟内、つまり屋上に続く踊り場に導いた。パタン、と窓を閉め、僕たちが初めに見たときのように、鍵を掛ける。
「この窓は、内側から鍵が掛けられていました。それは、俺も二宮さんも確認しています。同じように、横の扉の鍵も、ちゃんと掛かっていた。ここまで、いいですね?」
 僕は無言で頷く。
「屋上に出た奴は、そのままでは二つの入り口を施錠することは出来ない。…でも」
 陽介くんは重大発表をするような口振りで、二つの鍵を指差し、
「普通に鍵を開けて屋上に出て――」
 クレッセント錠を捻って鍵を開け、窓を開けた。
「二宮さんに姿を見せた後――」
 屋上に身を乗り出し、こちらを見る。
「同じ所からこちらに戻ってきて、元通りに鍵を掛ける」
 窓を閉めて、錠を捻り、鍵を掛けた。
「…ほら、これで、密室が出来ちゃいました。確かに、屋上には誰もいない」
「――ああ…」
 自分の阿呆さ加減に、笑いたくなった。
「確かに元から、屋上はこちらから鍵が掛けられていて、密室状態でした。そして、二宮さんは、そいつが頭を引込めただけで、ずっと屋上に留まっているものだと思ってしまった。だから、別に不思議でもなんでもない状態にあったここから、そいつが消えてしまったように感じてしまったんですよ。ここは、確かに最初から密室だった。それが元通りになっただけなんです」
「分かりやすい解説を、有り難う」
 溜め息をついて、僕はいった。流石は、素人ミステリ作家。謎は、作るよりも解く方が易しいというが…、何となく悔しいのは気のせいだろうか。
 事実は小説よりも奇なり、だ。
「いえいえ」
 解答の提出に一旦納得した僕は、…けれど、首を傾げることとなった。
「…でも、陽介くん」
「何です?」
 彼の『密室は存在しない』説は、僕からは確かに反論の仕様がない、説得力のあるものだった。当然だ、そんなことは日常茶飯事の単なる施錠行為に過ぎないのだから。物理的にも、立証が可能過ぎるほど可能であるけれど、実は問題はそれに終わらないことに気づいた。
 僕は、淡々と、尋ねていた。
「だったら…、普通に施錠をした彼は、何処に行ってしまったんだろうね?」
「どういうことですか」
 軽い謎解きの余韻を楽しんでいるようでもある陽介くんの表情が、再び怪訝なものになった。
「屋上にも、扉にも、仕掛けなんて何もなかった。それは納得した。けれどね、僕に姿を見せたあの子は、屋内に戻り、鍵を掛けて、…それから、きみや僕に姿を見られずに、何処へ行ってしまったんだろうね?」
 そう…、少年が消えた事実は、覆しようがない。
「え…」
 一瞬、何を言われたのか分からないような顔をした陽介くんは、一言漏らし、次の瞬間、
「ええっ?」
 増えてしまった謎に、引き攣った顔で僕を見る。
 僕は、ゆっくりと、告げた。
「そう…、きみの言う『密室』は屋上じゃなく、この踊り場の位置に仕掛けられていたんだよ」
 偽りの密室の外側――それとも内側だろうか――に形成された、もう一つの心理的な密室。
「――本物の、密室だ…」
 陽介くんが、ぽそりと呟くのが耳に届いた。
 密室の構成要件として締め出されたのは、僕らの方だったのだ。

 ――こうして、不可解な謎が僕たちの前に提示された。

 それでも僕は、敢えて告げておこう。この、事件とも呼べない小さな出来事は、本当に呆気ないほどに単純な様相を呈した舞台だったのだと。


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