MYTHICAL MAZE 2

 〜誰が猫を隠したか?〜


僕たちの足取りは、重力が二倍になったように鈍いものだった。  二人とも、余計な口を利こうとはしない。お互い、自分が体験した奇妙な事象の分析と解析に、夢中になりかけているのだ。
 その時その場にいたはずの人物が、けれど確かにその場にいた。その証明が出来なければ、謎を解いたことにはならない。陽介くん曰く、『内側と外側が反転した密室』。如何にしてあの少年は、僕たちの目の前から姿を消したのか?
 その後、二人で踊り場の雑多な荷物の間に目を通したが、少なくとも人ひとりが隠れている様子はなかった。蜜柑箱くらいの大きさから、両手では抱えきれないくらいの大きさの段ボール箱が転がる隙間を縫って、姿を隠そうとするだけでも時間を食ってしまうだろう。
 その場を離れる間際、僕は幾つかの箱を開けてみたが、何も怪しいところはなかった。我ながら疑い深い。
 三階に降りてくる。病室が並ぶ廊下には、ちらほらと患者や看護師たちの姿が見え隠れする。
「ああ、そういえばもう直ぐ回診の時間なんだった」
 すっかり忘れてしまっていたことを思い出す。腕時計を見れば、皮肉にも仕事に戻るのに丁度良い頃合だった。このまま陽介くんと一緒に、二階へ向かうことにする。
 その時、僕たちに向かってふらふらと頼りない歩き方で駆け寄ってくる小さな姿があった。
「リクさん。陽介兄ちゃん」
 声のした方を見ると、そこには顔馴染みの男の子。ブルーのパジャマ姿で、サイズの合わないスリッパをぺたぺた鳴らして歩み寄ってくる姿が、妙に可愛い。
 藤森良和(ふじもり・よしかず)くん――カズくんだ。僕の担当する階層の入院患者で、陽介くんとも仲が良い。元は肺炎の患者だった子で、けれど今は経過は良好。来週には退院することが決まっている。
「やあ、カズくん。どうしたの?」
 こんな心情なのに、小さな子に対し、自然な微笑みを浮かべると共に、無意識にそんな呼び掛けをしてしまうのは、最早職業病だ。腰を折って、彼と目線の高さを合わせる――これも、自然と身に付いてしまった癖だ――。少年は、きょとんとした顔で、僕を見つめた。
「え…、別に、なにもないけど。そこで本を見てて、それからサンポしてただけ…」
 彼の言う『そこ』とは、階段の斜め正面にある待合所のことだ。小さい子が読むような本も置いてあるから、それを見ていたのだろう。
 どうして病室は二階のはずの彼がこんなところをうろうろしているのか、それで分かった。
「リクさんも陽介兄ちゃんも、慌てて走って来て消えちゃったから、どうしたのかな、って思って。なんだか二人とも、ヘンな顔してるよ?」
 悪戯がばれたときの言い訳をするような、上目遣いで彼は僕たちを見る。
「あ…」
「ヘンな顔、してますかね」
 顔を見合わせる。
「ああ…、してるしてる」
「二宮さんも」
「まあ、流石にね」
「ですよねえ」
 不思議そうな顔でカズくんは僕らを交互に見ていた。
 苦笑を堪えつつ、僕は少年の頭を撫でた。くすぐったそうな顔をして、彼は小さな手で僕の指を掴んだ。それを軽く振ってやる。
「心配してくれたんだよね、有り難う。…大丈夫。何でもないよ」
「そうなの?」
 こういうとき、人を騙しているような背徳心を感じるのはどうしてだろう。
「うん」
 僕は頷き、
「そうそうっ」
 慌てて陽介くんも同調した。
「まあ、陽介くんのそれは、いつものことだからね」
「そうなの?」
 カズくんは目を丸くする。
「違いますよ! 変な先入観を刷り込まないでくださいってば」
「…なんて言って、時々病室で大騒ぎをするのは誰だったかなあ」
「ぼく、してないよ」
 直ぐ様、カズくんが反論する。確かに、どちらかというと彼は物静かな方だ。
「うん、カズくんはいい子だよね。…問題なのはこっちの大きいお兄ちゃんだよねえ」
 言って、僕はくしゃくしゃと陽介くんの頭を掻き混ぜてやった。こちらは肩を竦め、如何にも嫌そうな顔を作って、それに応える。その態度を裏づけるように、
「二宮さんの人の悪さには負けますよ。大体、それとこれとは全然、別の話でしょう」
 彼はそんな負け惜しみを僕にぶつけた。
「ま、冗談はほどほどにして…」
「やっぱり冗談なんじゃないですか」
 一々面白い反応をしてくれる陽介くんは放っておいて、僕はカズくんに向き直った。
「後で、検診に行くから。早いうちに部屋に戻ってね」
 少年は素直に頷く。
「うん。じゃあ、また後でね」
 胸の前で手を振って、てくてくと少年は歩き出す。
「あ、カズくん!」
 ふと思い立ち、一拍置いた形で僕は彼を呼び止めた。つまずきそうになりながら、少年は振り返る。
「一つ、訊いてもいいかな」
「? うん」
 僕は、屋上に続く階段を指差しながら、訊いた。
「つい先刻。そこの階段からお兄ちゃんが一人、降りてくるの、見なかった?」
 言いながら横目で伺うと、陽介くんが、「あ!」という口をしていた。
 屋上から消えた少年の、その消えたタイミングを探ろうとしていることに、彼も気づいただろう。カズくんの返答によっては、いつ密室が構成されたのかが分かる。しかし、彼は首を振った。
「ううん。見てない。お兄ちゃん…? 見なかったよ」
「…そう。有り難う」
「お兄ちゃんが、どうしたの?」
「いや…、何でもないよ。陽介くんの友達なんだけどね。彼が待ち合わせをしていたんだけど、向こうが迷子になっちゃったみたいで」
 誤魔化し切れるかは微妙だったが、僕はそう濁しておく。
「あ…、そうなんだ」
 それを聞くと、…何故か、カズくんは少しだけ微笑んだ。
「? どうかしたかい」
「なんでもないっ」
 そう言い残し、今度こそ彼は僕たちから離れていった。
「…聞いたね」
 小さな背中を眺めながら、僕は陽介くんに囁き掛ける――つい、小声になっていた――。
「聞きました。俺でなくても驚きですよ、これは」
 目撃者の出現だ。ただしこの場合、『犯人』を見なかった、つまり『彼』が密室である現場から離れていない、という、大きな矛盾を孕んだ証言だった。
「病棟内の廊下を散歩していたカズくんは――どうやら、そこの待合所で休憩していたみたいだけどね――、四階から降りてきた人を見ていない。つまり…」
「屋上にいたそいつは、下に降りてくることもなく、俺たちの前から姿を消してみせた…?」
 だって、と彼は言葉を続ける。
「屋上には隠れられる場所なんてなかったみたいだし、もし俺たちが気づかない隠れ場所があったのだとしても、その時は、どうにかして外から鍵を掛ける方法を考えなきゃならない。こっちの方が難問です。糸を使って閉められるほど、クレッセント錠は柔らかくなかった。
 …かといって、屋上を内側から閉じてしまったら、隠れる場所なんてないですよ。せいぜい、踊り場に置いてあった段ボール箱の陰くらいだろうけれど…、さっき、それは見て回りましたよね」
 言葉を切って、半眼の上目遣いで僕を見た。
「だから、思ったんですよ、俺。もしかして――」
 最後まで言わせず、僕は先に口にする。
「僕が大きな勘違いをしているか、それとも…、嘘をついている、と? …重ねて言うけれど、僕は全然、嘘はついてないよ」
 それだけは、信じてもらいたかった。もう既に、緊迫感はかなり薄れてしまっているけれど。
「分かってますって。…でも、今までに確認したことに間違いがなければ、そいつは本当に煙みたいに消えてしまったことになる。無理ですよ、そんなの」
 どうやら、本当に少年は消えてしまった、らしい…。
 なまじ、目撃者が僕しかいないだけに、そろそろ信頼関係が揺らいでくる。なにせ、僕以外の人からしたら、僕が一人で茶番を演じているようにしか見えないのだ。それはこの上なくもどかしいけれど、だったら一つのパズルとして解いてみようと彼は思い始めているらしい。
 何処かに、僕たちが気づいていない齟齬があるのではないかと。
「無理に信じてもらおうとは思っていないけれど。でも…、出来ることなら、僕はあの子に会って、話をしてみたい。彼を捜す動機は、それだけのことなんだ。これは看護士の義務だとか、大人としての正義感だとか、そんな綺麗事じゃない。突き詰めれば、単なる僕の好奇心だ。けれど、だからこそ余計な嘘は交えたくない」
 ふう、と陽介くんは溜め息を吐いて、
「二宮さんって、人を困らせるだけの嘘をついたりするような人じゃないですもんね。…俺には悪ふざけしてばっかりだけど」
「それは、悪かったって昨日も言っただろう? もう許してくれよ」
「許す許さないの問題じゃない、っていつも言ってるでしょう…、話を戻します」
 陽介くんは、疲れたような声で言った。
「二宮さんが幽霊とか幻覚を見たとか、そういうことでない限りは、何らかの方法を用いて、そいつは屋上から消えたんですよ。俺が説明した方法を使ったとして、あの錆びた窓です。開閉するのに意外と手間が掛かる。施錠を終えたら直ぐ様階段を駆け降りたとして、俺や二宮さんと鉢合わせになるかどうかは五分五分でしょう。
 それに、今度の問題は…、三階にいるカズくんと鉢合わせせずに逃げられるか。そいつは俺たちと顔見知りのカズくんが散歩していて、あそこで読書してて、目撃証人になる、なんてことまで予測できなかったと思いますし…、俺は今のところ、自分の見た事実だけを元に考えを進めてみますけど、どう考えても無理なものは無理なんです。だから」
 何か、見落としている部分があるはずなんですよ。
 そう彼は言った。僕は一つ頷く。
「何だろうね」
「分からないです。でも…、何か、引っかかるんですよ」
 それは、僕も同じだった。陽介くんが僕と同じ方向に思考を進めているのかは判別出来ないが、彼と推理合戦をするつもりもない。ただ確かな答えがあるのなら、それを知りたかった。

 ひとまず陽介くんとは別れて、また後で情報交換をしようということになった。それまでに各自、納得出来るような第二、第三の回答を用意しておくこと。…そうは言ったものの問題は難しかった。
 ナースセンターに戻り、非常の呼び出し等がないことを確認し、常勤の看護師に声を掛け、カルテを抱えて回診に出た。
 病室を回りながらも、無意識にあの少年の姿を捜していた。何度か脈を計り間違えたり、カルテの書き間違いをしそうになった。体温計を間違えて口に突っ込んだりしなかっただけでも良かったかもしれない。
 どうやら、僕は目の前に提出された課題にかなり毒されてしまっているらしい。職務怠慢もいいところで笑われてしまいそうだ。
 僕がミステリ好きなことは、とうに陽介くんに知られている。彼自身、推理小説のようなものを書いていると明言するだけあって、不合理な一幕から明瞭な真実を見抜く目はあると言っていいと思う。
 先刻の密室の作り方などは、考えてみれば本当に莫迦らしい構成要件だったのだが、冷静さを失うと、その程度の綻びにすら気づけないものなのかと思い知った気分だ。
 ともかく…、気持ちを入れ替えつつ、僕も少しずつ考えを深めていった。
 二階の回診、最後の病室は、先程も会ったカズくんのいる部屋だ。部屋自体はそう広くはないが、六人部屋になっていて、病室特有の閉鎖感はない。ベッドとベッドを仕切るカーテンも昼間は皆開けられていて、気詰まりもない。
 陽介くんは一足早くに来ていて、患者の子とカードゲームをしている。一度場を中座した身だから、断ることも出来ずに奉仕を続けている、といった様子だ。とは言え、彼本人も少年たちと遊ぶのは退屈でないらしい。
 少年と大人との中間に魂を置く年頃の、彼でしか出来ない何かが、きっとあるのだろう。例え目に見えなくても、その精神は見習いたいと思う。
「あれ、カズくんはいないのかな」
 カズくんの隣のベッドの子に僕が訊くと、
「カズくん? カズくんは、ね…」
 そう呟いて 回りの子とくすくす笑い合っている。
 なんのことか分からずに戸惑っていると、
「トレジャーハンティングゲーム、してるみたいです」
 陽介くんが助言をしてくれた。トレジャーハンティング、と僕が鸚鵡返しに言うと、
「宝探しです、要するに。『サイドボードから北に六歩』とか『消火器の前から壁伝いに二十二歩』っていう風にヒントを書いたカードを要所要所に置いておいて、辿っていく、っていう」
 そう説明してくれた。 「ああ」  それなら、僕も子供の頃にした経験がある。学校の校庭などで行うと、色々なヒントの出し方があって面白かった。僕がそんなことを言うと、陽介くんも同意の首肯をした。
「後で掃除をしてると、不意に見つからなかったカードが出てきたりするんですよね」
 そうそう、と頷き合う。まあ…、この際、病院でそういう遊びをすることに関しては、僕は黙認しておこうか。
「そういえば…、こんなのがあったよ」
 カズくんは後回しにして、他の子の体温と脈を取りつつ、僕は陽介くんに話し掛ける。
「なんです?」
「見つけたカードの一つにね、『ネコのお腹』って書いてあったんだ」
「猫の…お腹?」
 きょとんとした顔を返された。
「そう。当時、僕たちが通っていた学校に野良猫が住み着いてね。先生たちも割りと寛容で、躍起になって追い払ったりはしなかったものだから、学校側は黙認、みたいな形で、皆で餌をあげたりしてたんだよ。
 その猫の名前が『ネコ』。散々協議した挙句、それだからね。子供心に複雑だった」
「あはは、いいですね。…あ、じゃあ、そのカードって」
 僕の話の行方は、ほぼ彼に伝わったらしい。
「当然、猫は置物じゃないから、気紛れで動き回る。その時も例に漏れずでね…、僕らが幾ら探しても、ネコの姿は校庭の何処にもなかった。何処かで寝ていたときにカードを貼られていたしいネコは、カードをお腹に付けたまま、何処かに散歩に行ってしまったみたいなんだね」
「それ、…ある意味笑えませんよね」
 苦笑いをしつつ、陽介くんは部屋の入り口に目を遣り、
「あ、ユウくん」
 明るい声を投げ掛けた。その先には僕たちにも顔馴染みの少年の姿。岡崎裕也(おかざき・ゆうや)くん――ユウくん。
 クリーム色のパーカーに半ズボン、学校帰りでいつものデイパックを背負った彼は、開口一番、
「リクさん、陽介さん、これ、なんのことかなあ」
 僕たちに向けて一枚のカードを差し出した。
 そのカードには誰が考えたものやら、
 『病院にあるもの。なくても眠れるもの。それだけだと眠りにくいもの。』
 と書かれていた。…わけが分からない。
「そこにカズがいるはずなんだけど…」
 見つからない、と、膨らませてから一週間後の風船みたいな、しぼんだ声で訴える。
「と、言われても…」
 思わず、唸ってしまった。隣を見れば陽介くんもそんな表情をしている。一体誰の出題なんだ、と。
「何だと思う、陽介くん」
「さあ…、あ、枕とか」
「それっぽいけど…『それだけだと眠りにくい』という言い方はしないだろう」
「…確かに、固い床だけよりは、むしろ眠れますよね」
 それは人によりけりだと思う。
 大体、目の前に枕はあるが、カズくんの姿は見えない。なぞなぞの答えのあるところ、カズくんの行方ありなのだ。
 その時、ごそり、と衣擦れのような音が聞こえたような気がした。耳を澄ますと、それは丁度、カズくんのベッドの下から聞こえてくる。
 まさかと思ってこっそり覗き込んでみると、そこには、腹這いになった黒髪の少年。
 …目が合ってしまった。
「…カズくん?」
 ベッド。
 病院に沢山あるもの。そのものはなくても布団があれば眠れる。ベッドの骨組みだけだと眠りにくい。そういうことか…、これはかなりアンフェアではないだろうかと思いつつ。
 蛙みたいに這い蹲る様は妙に滑稽で、笑いそうになった。灯台下暗しだ。
「しーっ、しーっ…」
 唇に人差し指を押しつけて、慌てて自分の存在を隠そうとする彼だったが、
「カズ?」
 僕の呟きを聞きとめたユウくんが同じようにして覗き込むまでは直ぐだった。
「あーっ、カズ、みっけっ」
 やけに嬉しそうに、歓声を上げた。
「リクさんのばかっ」
 あっさりと見つかってしまったカズくんは、するすると這い出ながら、憮然とした顔で僕に突っかかる。
 …それにしても、いつの間に彼らは隠れんぼを始めていたのだろう。
「あはは、言われちゃいましたね、二宮さ――」
 笑いかけた陽介くんの表情が、
 ――台詞を言い終わる前に固まった。
「陽介くん?」
「すみません、ちょっとだけ黙っててください…」
 彼は珍しく真剣な顔で、ぶつぶつと呟いている。
「だめだよ、人にきいちゃ…」
「ごめんってば。だって、早く見つけないと、カズが風邪引いちゃうかもって――」
 少年二人は何か言い合っているが、陽介くんはそれが耳に届いていないかのように黙考している。何を考えているのかは僕にだけ分かる。…彼が、何らかの解答に辿り着こうとしているのは、確かだ。
 やがて…、彼は難解な方程式を突破したときのような嬉しそうな顔をし、僕に言った。
「見つけましたよ。その少年が消えた仕掛け」


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