五分後のきみへ

 五分後のきみたちへ


「赤、紅色、唐紅、朱色、茜色、小豆色、鮮紅、真紅、緋、紅蓮、臙色――」
 真剣な顔で辞書を見つめながら、那由多は『赤』の項からだろう、赤色に類する色を順番に拾い出し、読み上げていった。何を思ったのか、と思えば、
「青、藍、浅葱、御納戸色、茄子紺、空色、水色、花色、縹色、紺碧、群青――」
 次には『青』の項から、同様の言動をする。
「なに、やってるんだ?」
「なにって、何が?」
 気になったので訊くと、きょとんとした顔で、彼は俺を見た。
「呪文でも唱えてるように聞こえるぞ」
 指摘すると、何か悪戯でも見つかったような表情で、
「何かヒントでもないかと思って、さ」
「ヒント?」
 赤や青の意味を今更検索せずとも、身近なところに赤いものや青いものは無数に存在する。辞書で赤や青の意味を調べたくなるような何かが、彼の身近で起こったということなのだろうか。
「赤い糸、って知ってるだろ」
 辞書のページを捲りながら、那由多は言った。それはまあ…、赤い色の糸くらい、見たことがないわけがない。が、そういうことではないだろうことくらい、察しが付く。
「ああ…、恋路の果てに結ばれる相手の小指と、自分の小指との間に結ばれている、っていうアレだろ?現実味に欠ける」
「その通り。じゃあさ…」
 那由多は、意表をついて妙なことを言い出した。
「それの青バージョン、知ってる?」
 それが、厄介事の始まりだった。
「青バージョン? 『青い糸』ってことか?」
 俺がそう口にして、一度瞬きをした、その瞬間、
「うわっ」
 突然、手が青くなった。
 否…、何か、青い物が沢山絡みついているのだ。
 糸だった。両の掌に、指に、青い糸がぐるぐるごちゃごちゃと絡んでいた。
「ちょ、おい…、何だよ、これ…っ」
 咄嗟に言葉が出ない。
「あ、それが青い糸だよ」
 手の指をわさわさと動かしていると、あっさりと彼は答える。
「青い糸…、って――」
 それは、つい先程、那由多の口から出た出任せではなかったのか。
「そう、青い糸。認識すると現れるんだ。普通は見えないみたいだよ」
 彼の言葉を信じるならば、俺の手に現れた糸を出したのは那由多だということになる。
「莫迦野郎。なんで俺にそれを教えたんだ」
 呆気に取られて怒鳴ってしまえば、彼は飄々とした面持ちで、
「一蓮托生、と思って」
 そう言う彼を見れば、その手にも青い色の糸がもさもさと巻き付いているのだった。そう言えば先刻から、暇さえあれば指を動かしていると思ったら、それはその糸が絡まるのを防ごうと努力する様だったのだ。
「莫迦。蓮華往生にはまだ早い。勝手に俺を巻き込むな」
「渉だから教えたんだよ。感謝して欲しいくらいだ」
「莫迦言うな」
「そっちこそ莫迦莫迦言わないでよ」
「それはお前が莫迦なことするから――」
 言いかけて、止めた。堂堂巡りだ。
「それより、こんな鬱陶しいもの、さっさと…」
 切っちまおう。と鋏を探して辺りを見渡す俺に、
「切れないよ、きっと。青い糸だから」
 またしてもあっさりと那由多は告げる。そう一々、人の気を削ぐようなことを言わないで欲しい。…きっと、事実を述べるまで、なのだとは思うが。
「『青い糸だから』って! そういう無責任な…」
「仕方ないよ。切れないものは切れないんだから」
「試したのか」
「散々」
 きっぱりと言われて、
「ああ…」
 俺は呻いた。
「赤い糸とどう違うんだ、コレは」
 見た目は有り触れた糸なのだが、中心にワイヤでも寄り込んであるのかもしれない、案外。そう考えると急に現実味を帯びてきて、却って無気味だ。
「さあ。触ることは出来るけれど、ぼくの指以外は擦り抜けちゃうし、日常生活には支障がないし。ただ見ていて鬱陶しいくらいかな」
 『見ている分には無害』。そういうものは必ずと言っていいほど、後々厄介な出来事を引き起こす。もしくは、責任を取らされるに値する事象をもたらす。
「何なんだ、それ。そういうのが、一番、困るんだよ…っ」
 苛つきに任せて腕を振り回すと、
「ああ、ホラ、そうやって暴れると――」
 慌てて那由多が咎めるように告げる。が、時既に遅し。
「あああ…」
 顔に身体に、糸が絡まっていた。その不快感は先程の比ではない。冒険心を一杯に天井裏に忍び込んだ途端、大きな蜘蛛の巣に顔面から突っ込んで、テンションをどん底に落とされた小学生の気分だ。勿論、実際の俺の、元のテンションは高くない。つまりは最悪だ。
「だからさ、時々はこうやって、ほぐしてやらないといけないんだ」
 床に広がった糸を重い視線で巡りながら、
「本当に鬱陶しいじゃねえか…」
 暫く、黙って目の前の糸の整理に努めた。本当に、鬱陶しいだけの存在だ。捕まえることが出来ないホログラムの蝿が目の前を飛び回るような感じだ。隔靴掻痒。もしこれが自分でも触れないものだったら、絶対に気が狂う。
 やがて、哀しいもので、その作業にも慣れてくる。ポータブルレコーダのイヤホンコードを解くようなものだ。コツを掴みさえすれば、後はするすると解けていく。
 そのうちに、俺たちはあることに気づいていた。
「あれ?」
「嫌な予感がするぞ、俺は」
 青い糸は、解かれるに連れて、次第にその量を減らしていった。互いの糸を解くのに賢明だった俺たちだったが、何故か、次第に膝を突き合わせて糸を辿るようになっている。
「ちょっと待て、おい」
 仕舞いには、俺は呆然と、己の手首を那由多の手首を突き合せていた。
 気がついたときには、あれほど鬱陶しく胸に膝に足元にと垂れ下がっていた糸の群れは何処へやら消え失せて、俺と那由多の手首を繋ぐ十数センチの長さの糸になっていたのだ。
「…一連、托生?」
「俺は嫌だぞ、お前と往生するのは」
 そう言って、俺の手首の糸を外そうとする。思惑に反し、それは抵抗もなく解けた。
「あれ…、取れたぞ、糸」
 思わずほっとして、ぶんぶんと手を振る。
「はは、残念だったな、那由多。何だか分からないけれど、これで一苦労ともおさらばだ…、って」
 嬉しさに己の手首を見遣った瞬間、
「ああ?」
 俺は奇妙な疑問の声を発していた。
 俺たちの周囲からは、いつの間にか糸は陰も形もなくなっていて、糸の消えた手首には、その代わりを務めるかのように、青い痣のような線が一周、くるりと書かれたように現れていたのだ。
「何だよ…、何なんだよ、今度は」
「大丈夫、それはぼくも同じだから」
 那由多は言いながら、手首を翳して見せた。…そこには、俺と同じ痣。スティグマか。
「うわ」
「ここまで来ると、呪いとはかくも、という感じだよね」
 知るかよ――、と額を掌で覆って、
「こういうのを往生際が悪い、って言うんだな、きっと――」
「あ、それ、巧い」
「莫迦。何が大丈夫だ。どうするんだ、コレ」
 と、鼻先に突き付ける。
「案外、ぼくと渉が結ばれたときに、晴れて繋ぎ止める役割を終えて、糸はぼくたちから開放されました、なんてオチが待っているのかも」
「洒落にならないことを言うな」
 それじゃあ、赤い糸と何も変わらない。むしろ肉体に刻み込まれているようにしか見えないだけに、タチが悪い。
「開放して欲しいのは俺の方だ」
「冷たいね、渉」
「なんで猫撫で声なんだよ」 暗い視線を向けると、ふふ、と普段はしないような笑みを浮かべながら、
「第一歩は接し方から」
「なに、実践してんだ」
「渉だって、この呪縛から解き放たれたいと思ってるんだろ? だったら、陰の努力が」
「もっともな言い方をするなっ。なんだ、呪縛って。なんだ、陰の努力って」

 ――そんな、もしかしたら、という可能性がちらりと掠めそうで、如何にも夢の中にしか現れそうもないものを夢に見てしまったために、那由多に会うのが少し怖くなってしまった俺だった。
 だから、その日の朝、改めて教室で彼の姿を見たとき、彼が辞書を開いていたのを見て、俺が次の瞬間、どんな行動を取ったのかは、言うまでもないだろうと思う。
 つまり、あれは、そういう腐れ縁の糸なのだった。


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