五分後のきみへ

 五分後のあなたへ


「センセイ、ちょっと手伝ってくださいよ」
 背中から声を掛けられて、彼は書物に落としていた視線を少し持ち上げた。
「や、渉くん。ご苦労様」
 書物を腕に抱きかかえ、渉は案穏と応える彼を睨み付ける。
「ご苦労様、じゃないですよ。センセイも苦労してください」
「耳が痛くなる言葉だね」
「引っ張ってあげましょうか、耳」
「結構だ」
 仕方なさそうに――億劫そうに――、彼は立ち上がる。とても『先生』らしくはない言動だが、無造作に書き上げた長い前髪の中の眼鏡や、着流しの服の中から威厳を見出そうとしても難しいかもしれない。
「きみの御両親は、どうしてきみに渉なんて名前をつけたんだろうねえ」
「世間の綱渡りをしっかりしていけるように、じゃないですか」
 彼は呟いて、渉は律儀に――けれど面倒くさそうな口調で答えた。
「まあ、まあ、そうなんだろうけれど」
「何か不満ですか、人の名前が」
「いや」
「センセイだって、随分御大層な名義を頂いているじゃないですか。口にするのも勿体無いような」
「口にしてくれても、ぼくは構わないんだけれどね」
「しません。口より手を動かしてもらいたいです」
「ああ、そう来るんだ」
「そう来るんです」
 人の名前など、その程度のものなのかもしれない。多分、相手を認識する記号だ。自己同一性を確かめるための計り事ですら、同じ名前が二つあったなら見分けは付かなくなってしまう。所詮は紙の上の符号である。…太郎A、太郎B、とでもすればいいのだろうか。
「センセイ」
「ごめん」
 呼ばれて、彼は反射的に謝罪した。
 書庫は埃っぽく、彼はあまり動きたくないのである。その中で書物に目を通すことに関しては全く頓着しないのに、書物の整理となると途端にやるきがなくなる。
「それはただ貴方が無作法なだけです」
 渉の言葉は、本当に耳に痛い。
「好きな話をしてくれて結構ですから、手は動かしてくださいね」
 にっこりと微笑みながら、渉は裏腹な忠告をする。
 ごそごそと手元では書物を積み上げたり、移動させたりしながら、やがて彼は口を開いた。
「――物理の法則として、種々の物理現象は特定の観測者に対して優先的である根拠はなく、個々の観測者の立場に相対的である、という鉄則のようなものがあるんだ」
「はあ」
 突然始まった講義に、興味がなさそうな声音で渉は相槌を打つ。
「例えば、こういう話がある」
 取り敢えず手の動きは続けながら、吶々と彼は話した。
「毎秒三十キロメートルの光の速さで移動する物体は、その移動している間、移動をしない他者から認識される分には時間が止まっているのと同じ状態であるらしい。どうしてそういう現象が導かれるかに際しては、口で説明しても分からないだろうけれど――」
「分かりません」
 きっぱりと渉は言い、それを横目に彼は微笑んで肩を竦めた。
「真空中では、物質の作用、活動が一切停止する。それは時間の流れにも等しく影響する、ということで、宇宙空間でも同様のことが言えるんだが、それに関する話だ」
 言葉を続ける。
「何光年も距離が離れた二人の人間がいるとしよう。一人は地上にいて、もう一人は惑星間移転を続ける旅人だ。旅の目的は――有人飛行の成れの果てと大して変わりはないが――異種亜人の侵略に対向する為の戦争に駆り出された、でもいいし、宇宙開拓でも構わないか」
「何の話をしているのかさっぱりなんですけど」
 時折舞う埃に顔をしかめながら、渉は親切に返事をする。
「目的は後付けの理論だということさ。まあ…、その辺りは物語の概要によっては異なるかな。兎も角、二人を繋ぐ通信手段はある。衛星を介し、電波を飛ばして連絡を取り合う例の奴だが、当然それには時間差が生じることは想像に難くない。二人の距離は天文学的に遠い。光がお互いの位置を結ぶのに一年掛かる距離だ。さて――」
 ちょっと考えてみよう、と彼は言う。
「電波が光の速さを辿ることになっていても、二者の距離は果てしなく遠い」
 渉は一瞬、宙に視線をやって、
「秒速三十万キロメートル掛ける、六十掛ける六十掛ける二十四掛ける三百六十五、ですよね」
 それが一光年だ。
「そう。性格には九兆四千六百五億キロメートル。先刻話したように、高速で移動する物体は、位置的に停止している他者から見たとき、時間が停止している状態と同じに捉えられる。地上にいるAくんと、虚空にいるBくんの間には、丁度一年の時間の差が生じるわけだ。Aくんが一年分、余計に時を経るわけだね」
「はあ。そうなりますね」
 渉の、気の無い振りをするような声は変わらない。
「けれど、AくんはBくんと同じ一年を掛けて、虚空を移動したわけだ。一光年という膨大な距離ではあっても、その距離を進むには確かに一年分の時間を要している。なのに、Bくんから見たAくんは、自分の一年分、後ろにいるわけだね。おかしいと思わないかい?」
「どういうことですか」
 咄嗟にはその食い違いが把握できずに、渉は問う。
「いいかい? 幾ら距離が離れていたとしても、二人の人間が過ごす時間の流れは平行線上を辿るはずなんだ。なのに、光を介したおかげで、Bくんの時間の流れは変わってしまった。空白の一年間が二人の間には生じてしまった」
「ああ、成程…」
 問題は、その空白の部分は一体何なのか、ということなのだ。
「話を戻そうか。ここからが奇妙なんだ。虚空に留まるAくんは、衛星通信を用いてBくんに連絡を取ろうとする。その際、その電波がBくんに届くまでに一年の時間を要する。分かるね」
 書類を棚に納めながら、渉は頷いた。
「だがしかし、客観的に見た分には、両者の時間差は一瞬にも満たない。Aくんが発信をした次の瞬間には、Bくんはその言葉を受信している」
 その言葉に、渉は思わず振り返っている。
「え…、そんなことはないでしょう。先刻、散々、二人の間には一年の時間差がある、って話をしたじゃないですか」
 彼は、にやりと笑う。
「そこが面白いところなんだよ。一年の時間差、というのは、当事者に自覚出来る現象ではないんだ。すなわち、あくまで物理法則に則って説明は出切るが、実際に目にすることが出来ない事実であるだけに、現実的には何も変わらない」
「信用の問題ですか」
 渉の問いに、それはちょっと違うね、と応え、
「ぼくたちは、AくんとBくんを物語のように一緒に捉えることが出来てしまうだろう? それが一番の問題なんだ。一光年という距離は、第三者的な視点の範疇では『同時』に等しい。別々の場所にいる二人を同時に見る、という現象こそが、一番不安定な観測点として不足的で相対的なんだ」
「結局、行ったり来たりの話ですね」
 眠くなりませんか、そんな話してて…、と渉は零す。
「どうして、そんな話をしようと思ったんですか」
「さあねえ…」
「もしかして、センセイ、本を見ながら寝てませんでしたか」
「まさか」
 渉は問い、その師は応え、沈黙がやってくる。
 暫く、ごそごそと書物を整理する音だけが書庫に響き、
「那由多、ということですか、センセイ」
 彼女は思い出したように顔を上げ、微笑んで、彼に言った。
「分かってるじゃないか」
 そういう、至って現実味に欠ける話なのである、これは。



("Chorister's Chrisoprase" Be Closed.)


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