青い瞳の青年賢者

 なくてもいい、或いは絶対必須の幕間


 ――それは、ほんの四日ほど前のことだ。
 ジーン・ベイルートは、街の図書館で何度目とも知れない溜め息をついていた。
 思い出すだけで溜め息が出る。ウィズダム(平和学)の論法書を開いたまま、彼は無意識に溜め息の数を数えている自分に気がついた。その本を開いてから、五回目だ。
 賢者、と呼ばれる青年、ユエ・ファイアルに会ったは、初夏の満月の夜。
 何か、特別な話をしたわけではない。むしろ、シニカルでイロニカルであったことに驚いた。多弁性であるように思えたのは、ジーンに合わせた言葉の使い方をしようという意志があったからに他ならないと後になって気づき、自分が愚者になってしまったような錯覚に襲われたくらいだ。
 彼は、天才というわけではないとジーンは思う。本人が聞いたら或いは、失敬な、と眉を寄せられるかもしれないが、やはり無表情のまま、
『それで?』
 とでも返されるのがオチだろう。そんな言葉に意味があるとは思えないからだ。もっとも、ジーンがそう思っているだけで、ユエ本人は自分が天才だと信じているのかもしれない。しかしそれもまた、彼らしくないと思うのだ。
『ぼくは、ぼくだよ。それ以外の何者でもない。その答えできみが不本意なら、どうぞ、きみの好きな呼び方で呼ぶと良い。ただし、それでぼくが振り返るかどうかはわからないけれどね』
 そんな想像をすることが、また自分の中での彼のイメージを僅かずつ変えていくのだろうと、意味と無意味の境界線の不備に付いて危うく悩みかけた。

 その日も研究のための論文を探しに、ジーンは街の図書館にいた。背の高い本棚が空間の多くを占めている。本の隙間から棚の向こう側が覗き見えるが、彼のいる学術関連の区画には、人の気配は殆どしなかった。専門書を読み耽る少年少女は、滅多に、いない。
 大衆文学や雑学誌などの類は、別の部屋にある。先程通りすがりに見たところでは、そちらには目当ての本を探す者や、また館内で読書をする者、知人と密やかに会話をする者などが目立つ。
 ジーンがユエを知ったのは、何が切っ掛けだったのか、実は明確に覚えていない。何処かで見たか聞いたか…、伝説の人、というまでの人物でもないのだが、何処かあやふやで、掴み所のない情報が積み重なった結果、運良く一つの人格を形成することが出来た、とでもいうような。
 けれど、それを確認した媒体ははっきりと覚えている。
 公表されたユエの数少ない論文を読んだからだった。ジーンは歴史学の研究者の末端であるが、彼と同じ経験をしたならば、アルゼニア国で歴史学を専攻する学者であれば、殆どの者がその名を記憶に留めようとすることだろう。ただし、本人が望まなかったため、写生画像は残っていない。ジーンがそれを見ることが出来たのは、全くの偶然だった。
 改めて言葉で説明するためには、あまりに語彙が足りないことに驚いた。それ程に、余計な言葉は必要のないくらい、見識、言質、共に完璧な理論が展開されていたのだ。
 自分と殆ど年の代わらない頃に、その論は発表されたらしい。ユエ・ファイアルという人物が、それ程高度な論理を使いこなして理論を展開する様を見せつけられて、ジーンはその瞬間、完全に言葉を失った。その論文は何事かの理由によりそのままの形では公表されず、幾つかの小論文に分けられて発表されたということが、ユエという人間の不可思議さを語るにはその事実だけで十分だ。
 しかも、ユエはその論文に付け足すようにして、その後やはり幾つかの論文を書いた後、あるとき突然その消息を絶った。旅に出てしまったのである。旅の目的は不明。全くの風来であろうとも言われるし、別の国で実地研究を行っているとも推測されるが、定かではない。
 多分、ジーンが思うよりも多くの人が、彼の行方を知りたがっているだろう。けれど、ユエは隠遁を続けている。
 地位や名声などは、ユエには全くの無関心だったということだろうか、とジーンは考え、直ぐ様打ち返した。そんなものは、周囲のものが勝手に呼称し、築き上げてもたらすように見える逆説的な懐柔なのだ。それはかえって研究者としての自由を奪う。
(そういうものなのかもしれない)
 凶事を救った勇者というわけでも、病理の人々を助けた生き神というわけでもない。ただ少しの学者の、一時の好奇心を満たした識者というだけの話だ。一般的には馴染みの薄い学問であるがゆえに論者の名前も有名とは成り得なかったが、その世界の人々にとってみれば、博識の賢人、などという一言で形容するのが惜しいくらいであるのは必至であり――、
 それが、彼が賢者である事実を改竄することにはなり得ない。

 ジーンだとて、決して勤勉に過多であるわけではない。ただ一般人よりも役に立たないことを沢山知識として有しているというだけのことで、つまりはそれを知識と呼べるか否かは誰にも判断できない。それを役立たせるために学問を追及しているようなものだ。
 結局は個人個人の好奇心が、他人と兆通するところがあったときに、それは学問の始まりとしての疑問点足り得るのだろうと思う。何かを疑問に思わない限り、それは全然不思議なことでも何でもない、ただそこに漠然としてあるだけの当たり前のことなのだという事実は、けれど時として研究者を悩ませるのだが。
「ハルーっ」
 静寂が相応しい書棚の脇で、甲高い声が呼び掛けているのが聞こえ、ジーンは反射的にパタンと本を閉じてしまった。本の隙間から棚の向こう側を見れば、明るい灰色をした髪に瞳と同じ空色の帽子を被った少年が、こちらに駆けてくるのが見えた。
「ハル、みっけっ」
 丁度、ジーンの背中側の本棚の向こう側に、一人の青年がいた。彼もこちらに背を向けていたが、何となく見覚えがあるような気がするのは記憶違いだろうか。
 シィ、と指を口元に当てながら、ハルと呼ばれた青年は囁く。
「ジュノ、もう少しだけ静かにしてくれないか」
 全くだ、と声に出さずに口を動かしている自分がいて、ジーンは声を殺して笑った。
 本人は五月蝿くしているつもりがなくても、来慣れない場所に来ると、人は全く喋らないが、段々と普段と同じ声量になるかのどちらかになる。この少年は後者だということだ。
「え、ぼく、五月蝿くしてた? ごめん」
 謝罪する声が、既に明瞭過ぎた。
「だから。声が大きい」
 再度窘められ、慌てた様子で、今度こそ少年の声も無声音になる。
「ごめんってば」
「顔が謝ってない」
 明らかに笑いを帯びた声で青年はつれなく返し、少年が不貞腐れたように呟いた。
「ハルぅ…」
 ぽんぽん、と頭に手を置いて、
「もう少し。調べものは、人が少ないうちに済ませるに限る」
「それはそうかもしれないけどさあ…」
「誰かさんみたいに、むやみに騒いでくれる子が増えるとも限らないしね」
「うー…」
 巧い鞭撻だ、と笑みを堪えながら、ハル、と呼ばれた側にふと視線を移し、
「…っ――」
 ジーンは危うく叫び声を出しそうになった。
 自分よりも頭半分ほど長身の青年は、それまでこちら側に顔を向けることなく書物に視線を遣っていたのだが、偶然その時、彼はジーンのいる側の棚に顔を向けた。
 ジーンが驚いたのは――その顔が、ユエに良く似ているように見えたからだ。
(――いや…)
 しかし、数秒後には別人だろう、という考えが視野の殆どを占めるようになる。言葉に出来ない違和感のようなものが、最初、ジーンの思考を包む。次に、考え過ぎた、という無情な判断が、彼を小さく落胆させた。
 まじまじと見るまでもなく、彼の髪の色は飴色をしていたし、瞳は蒼よりもグリーンに近い。
 そうして分かったのは、彼が似ていたのは故の声なのだということだ。割と似ている人、が本人の真似をするとしたら、まず最初に表情と声を真似るだろう。つまりそういうことだったのだ。
(思い込みは、純粋思考の敵、か)
 それが蒙昧的思想の湧く恐れと主に存在していたものだとしたら、尚更だ。
 そもそも、ユエとこの青年を比べたならば、その雰囲気だけでも世俗的過ぎる印象を受ける。百歩、いや千歩譲って、ユエの髪や眼の色がジーンのみ間違い、記憶違いだったのだとしても、彼がその傍らの少年に向ける微笑が、幽遠な情景を思わせる賢者には似合わないように思えてしまったのは、やはり本人を眼の前にして彼の言葉を聞いた、ジーンの先入観なのだろうか。
「ホラ、あったよ、探してたセージの論文」
 読み慣れないだろう言葉を口にしながら、ジェノと呼ばれた少年が本を一冊拾い出す。何の調べ者だろうか、それにしてもこの場には似合わない組み合わせだな、とジーンは結局苦笑する。研究者とその助手、というには、多少ちぐはぐな印象を受けるのだ。
 ハーブの研究でもしているのだろうかと、努めて隣を気にしないよう、再び本を開いて論文に眼を遣るジーンだが、二人の声が気になって仕方なくなってしまった。
 別段、おかしな言動があるようにも思えない。外見で研究者を判断してはならない、というのは、この世界の常識だ。見かけが少年少女であっても、年配の学者が眼を見張るような成果を提出する研究者も、決して少なくない。才能の度合いは、年齢に比例しない。
 単に己の所作に集中出来ていないだけなのかもしれないと、近今の自身の怠慢さを戒めようとして、顔を戻そうとしたのだが、和やかに会話を交わす二人の、ある一言が聞こえた時、またしてもそれは中断させられた。
「――…ユエも、そう思うだろ?」
 確かに、そんな囁きが耳に届いたのだ。

 ユエ。
 少年の口から出た言葉だった。彼は青年を、そう呼んだのだ。
 ジーンは、やはりそうなのかと思わずにはいられなかった。気のせいではない。一般人の振りをする賢人、という形容が脳裏に浮かび、再三、青年たちの姿を横目で伺う。
 ジーンの眼に、ガラスで出来た小さなビンが見えた。装飾が特別だということもない、ただのビンだ。少年の掌中にあったそれは、クリスタルの栓と、中に入ったコバルトの液体。愛しいものを眺めるように、天井に透かしてジュノはそれを見ていた。
(――…)
 ユエの持ち物だと、何故かジーンは確信していた。誰に聞いたものでもないのに、それがユエが触れたものだと信じてしまっている。
 …何が、そう思わせるのか。
 心情的なものを根拠にすり替えて、ジーンは探究心に言い訳をする。
 もう、黙ってはいられそうにない。例えその好奇心が後々猫を殺すことになったのだとしても、今はその事実を先回りして知ることは出来ない。
 逡巡は、一瞬だった。
 分厚い文献の一冊を一通り眺め終え、しかしまだ棚に手を伸ばす青年に、口を尖らせて、
「ハル、まだ気が済まない?」
 ジュノは軽く文句を言う。青年はゴメン、と一言謝り、
「じゃ、この一冊を見終わったら」
 しぶしぶ、といったように、ジュノは頷く。
「ぼく、向こうで待ってるから」
 タタッ、と早歩きで一般文芸書の区画へと去っていった。
 見えない誰かが背中で急かしている。
 声を掛けるならば、今だ。
 それと同時に、それに反証する何か。
 自分の考えは何処かで何かと交錯したまま通り過ぎていってはいないか、と。
 しかしジーンは、それを振り払った。やれやれ、と一人、苦笑いをしている青年の元に歩み寄る。
「ハル…、さん」
 喉が渇いて、声が思うように出なかった。それくらい、自分は意を決する思いだったのだろうかと笑いたくなるが、そうもいかない。「ん?」
「ハルさん…、ですよね」
 正面に立って顔を見れば、彼はやはりユエに似ているのは間違いなかった。しかし一方では、普通の青年にも見えた。それがジーンを微かに戸惑わせる。
「そうだが…、どうして、俺の名前を?」
 その返答は、明らかにジーンを初対面として接する者のそれで、
「さっき、貴方と一緒にいた子が、何度も呼んでましたから」
 意識して口元に笑みを呼び込んで、ジーンは応える。
「ジュノ、な。…五月蝿く思ったのなら、申し訳ない。じっとしていられないんだよ、あいつは。一つ夢中になれることを見つけられれば、あとは――」
 言葉を止めて、彼は棚の隙間から指を差す。その向こうには。読書に夢中になる少年の姿が見えた。本を読むのが好きなのだろう。そうでなければ、学術書の検索などを手伝おうとも思わないに違いない。純粋に、本というものが好きなのだ。
「ああだけれどね」
「皆、そうです。何だって、そうだ」
「まだ、名前を聞いていなかったな。俺はハルバート。ハルバート・ケインズっていう」
「…ジーン・ベイルート。ここの学術院で院生をしています」
「学者さんか」
「はい。地歴学を」
(ハルバート? ユエ・ファイアルではない…?)
 名前を秘しているのだろうか、と思う。
「それで、用件は? 文句をわざわざ言いに来たわけじゃないだろう?」
 それとも、やはり思い違いだろうか。そう考え、
「少し、お話を伺えませんか。訊きたいことがあるんです」
「俺でないと駄目なのかな」
 地学どころか、院生の専攻するような学問っていうだけで既に専門外なんだけれどね、と茶化すように言うハルバートを、かえって怪しく思ってしまうの否めない。
「はい、ちょっと…」
 何処かへ移りませんか、とジーンは申し出た。ユエの話は、大声で話せるような雰囲気を持たないとジーンは思っていた。彼の存在を秘匿したいというのではなく、月夜の光のように、周囲に同調したまま、なかったのと同じ様相を呈するのが相応しいように思えるのだ、不思議と。
 ある意味、彼は偽りの賢者であるから、尚更。
「何か、声を潜めたいようなこと?」
 喉から、その単語を口にする刹那、何か塊を吐き出すような思い切りの良さを、ジーンは必要とした、人の名の重みとは、そういうものなのだろうか。
「――…ユエ・ファイアルについて、話が」
 ハルバートの目つきが一瞬、真剣みを帯びたものになる。
「…ああ、分かった」
 その視線に、ジーンは思わず息を呑む。その反応は『当たり』だ。「それは、俺でないと駄目だな、確かに」
 それは、己がユエであると認めた言葉なのか、それとも別の意味があるのか。
 どちらなのだろう。
「ちょっとだけ、待ってくれるかな。ジュノに言い訳してくるよ」
 ジーンは無言で頷く。
 ちょっと出てくるよ、とでも伝えに行ったのだろうか。ええー、と不貞腐れたような少年の声がジーンにも聞こえた。ハルバートをユエと呼んだ少年。彼は賢者の思惑に、どの程度まで肉薄しているのだろう。
 ジュノは、何処まで知っているのだろう、と、こちらに手を振る彼に向かって軽く会釈をしながら、ジーンは思った。
「そうか、新月はもう、随分前だものな」
 図書館の入り口を通り過ぎ様、青年はそう呟いた。


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