青い瞳の青年賢者

 序章、或いは蛇足の終章


 ――街外れの裏街道の脇に林立する、桜の木の中の一本である。樹齢は成人した人間に満たないだろうが、立派な体格の木だ。
 枝が僅かにしなり、青々とした葉で枝を包む桜は、しかし一片の花弁も今は身に付けてはいない。花の舞台は幕を閉じた、初夏の頃合である。他の常緑樹と同化し、仲間内に混じるようにして、林の側に立っていた。
 もしも今の季節が春で、桜の花が満開であったならば、薄紫の花々が月光に良く映え、更にはその照り返しがユエの姿をも妖艶に見せたに違いない。けれど、今年もそれは叶わなかった。
 来年、またそれらの小さな無数の蕾が綻べば、桃色か、それとも白い花弁が、典雅で風雅な情景を辺りに紐解くのだろう。
 葉群れのさざめきに耳を傾けるユエは、二十歳を少しばかり過ぎた印象の外見をした、青年だった。濃い蒼の上着とダークグレイの下衣、それらの上に羽織ったマントルの裾を微かに揺らして、静かに佇んでいた。
 銀色に近い、スカイ・グレイの髪と、それに対比する空色の瞳の色が、同系色にも関わらず異なる輝きを持って見え、彼が俗世の人物ではないような趣を漂わせる。
 やがて彼は、マントルの内側から小さなガラスのビンを取り出した。月光に翳して見遣る視線は、どこか懐かしいものを見るような、陶然とした微笑を伴う。しかし、その表情は全く変わらない。まるで、表情の変化とは無縁の生き物であるかのように。
 ビンには、冴え冴えとした群青色の液体が入っていた。全く濁りのない水溶液で、たった今、蒸留して作り出されたかのように、新鮮に光を透過している。
 クリスタル・ガラスで出来た蓋を取り、ぽとりと、ビンの中の液体を木の根元に一滴垂らす。それは音もなく地面に染み入り、ユエの視線の先で、土を濃く染めることもなく吸い込まれていった。
 ふう、と自然、声なく息を付いたとき、
「――…?」
 何者かの視線を感じ、ユエは斜め後ろを振り返った。
 漆黒の髪を宿した青年が、彼をじっと見据えている。その視線と、ユエのそれが一瞬かちあったが、相手はその場を動こうとはしなかった。二人の距離は三十メートルもなかっただろうが、姿を隠す気つもりはないらしい。
 白いシャツの上にケープ風のベストを着た男だ。花の上に小さく存在を示す眼鏡が、ユエの手に持つビンのガラスのように、月光を細く反射した。
 彼はいつからそこにいたのだろう。ユエがここに来たときからか、それとも、たった今なのか。どちらにせよ、その視線を感じる前にユエが気配を感じ取れなかったのは珍しいことだった。
 そんなことは、彼にはどうでもよかったのだが。
「――ぼくに、用かな」
 ユエは、感情に乏しい――むしろ、無感情とも取れる声色で、青年に呼び掛ける。しかしその音は、月の光を音符に読み替えたような透明な響きを持って空気を震わせ、相手の耳に届いたのだろう、黒髪の青年は一瞬、ハッとしたような顔つきでユエを見たが、直ぐまた元の硬い表情に戻る。
「そう、構えることはないよ。見られて困るようなことはしていないつもりだ」
 両の腕を軽く脇に広げて、ユエは言った。
「まあ、それはぼくが決めることではないけれどね」
 青年の意志に先回りして、一言付け加える。
「見たところ、自警団の者でもないようだし…、もっとも、見掛けで相手を判断するなというのは護身の初歩だし、相手が女子供だからといって、護身用の武器を隠し持っていない理由にはならないね。少なくとも、ぼくは逃げも隠れもしない」
 相手の右手が微かに腰の辺りに移るのをユエは見て取る。
「敵意がないことを、そんな風に言う人は初めて見ました」
 そう言うと青年は、ユエに倣うように腕を持ち上げ、くるりと後ろを向いた。彼の腰にはベルトが巻かれていたが、案の定、シャツの下からデリンジャー(小銃)のグリップが覗き見える。
「護身用です。今は、弾は入っていません」
 それが信用に足る言葉かは判断に惑うところだが、先に武器を見せておこうという態度は、好意的に取っても文句は言われないだろう。大体、威嚇されたところで、自分には何もない。
「こんばんは。ユエさん…、ユエ・ファイアルさんですね」
 だが改めて青年の口からユエの名が出て、その瞬間、辺りの空気が微かに身じろいだ。
 勿論それは、ユエの真向かいに立つ青年の気配が揺れたために他ならない。ユエにとって、自分の名を呼ばれたことに対する感慨など、無きに等しい。
「驚いた。ここで名前を呼ばれるとは思わなかったよ」
 それは本心だった。しかし全く表情を変えずに、ユエは言う。
「失礼だが、ぼくは以前、きみに何処かで会ったことがあるかな」
 青年は、微熱を堪えるような顔で、静かに首を振った。
「いえ」
「だろうね。ぼくの記憶違いだったら申し訳なかったが、今までにそんな勘違いをした覚えもないから、ついにぼくにも万が一ということが訪れたのかと冷や冷やしたよ」
 その時には、自分の記憶回路を疑ってかからなければならないだろうと思う。
「そんなようには見えませんけれど」
「そう見えないのだったら、そうなんだろうね」
「ええ、そう見えます」
「うん、それで結構」
 そのときになって初めて、ようやくユエは唇の端だけで、ほんの少し笑みを見せた。当たり前のことを当たり前に遣り取りする行程は、稀にすると何故か面白い。
 珍しく気分が良いことを自覚する。声のトーンを心なしか上げて、訊いた。
「きみの名前は?」
「ジーン・ベイルート」
「ああ…、聞き覚えがあるような、ないような」
 青年に向かってゆっくりと歩み寄りながら、ユエは言った。それは記憶を辿るための時間稼ぎではなくて、沈黙の時間を嫌ったために過ぎない。
「済みません、在り来たりな名前で」
 ジーンは軽く苦笑いを見せる。
「少なくとも、貴方には初めて名乗りましたから」
「安心した。つい忘れていた、では申し訳ない。ちゃんと覚えておくよ」
「それはどうも。ついでに、ぼくの質問に答えてもらえますか」
 さわりと揺れる木々の枝に刹那、眼を向け、青年は問うた。
「ぼくの答えられる範囲でなら」
 ユエが肯定すると、それに応えるようにジーンも頷いた。
「それは大丈夫です。…貴方は、ユエさんですよね」
「それは、一度聞いた問いだ」
「承知しています。けれど、貴方の応えを聞いていません」
「ああ、確かに。済まない。…応えは、イエスだ」
 確認と一方的な認定は別の概念だ。前者の疑問を満たすために、ユエは応える。
「きみは、どうしてぼくの名を知っていた? ぼくはそれほど有名な人間ではないと思っていたつもりだが」
 彼がそう言うと、ジーンは皮肉気な笑みを見せて、
「誰にも知られることなく生きていられる人間はいません」
 そう切り返す。
「成長過程を除けはの話だけれどね。もっとも、そうでなければ人の歴史は続かないし、こんな疑問も湧くことにはならない」
「人伝だと答えておきます」
 青年は言葉を濁す。彼にとって応えにくいことなのか、あるいはその応えがユエを落胆させる類のものであるのかのいずれかだろう。追求はせずに頷いておいた。
「少なくとも、貴方は貴方が思っている以上に他人に知られている、そう覚えてください」
 誰にも知られることなく生きられる人間はいない。先程のジーンの台詞だ。
「人の噂より早いものはない、か」
「ここで、何をしていたんです?」
 ジーンは再び問う。頭の切り替えが早い、とユエは思う。
「それも、ついでの問い?」
「そう取ってもらっても構いません」
「投げ遣りだね」
「人の会話なんて、みんな槍を投げるようなものです。相手の槍に当たらないように、皆で自分の槍で相手のそれを止めようと必死になってる。そもそもその場で出来ることは槍を投げる以外にない。だから誰も相手の言うことなんて聞いてない…、そんなものが殆どだ」
 槍を投げ合う自分たちの姿が脳裏に浮かんだが、あまり可笑しくはなかった。
「巧いことを言うね。成程、覚えておこう」
 一つ頷いて、ユエはジーンの質問に答えた。
「記憶を、辿っているんだ」
 怪訝そうな顔をして、青年は眼を細めた。
「記憶?」
「そう。世界の記憶をね」
 ユエは左の掌を地面に向けた。右手のビンは、体温で少し温まっている。
「如何にも歴史地学者的な言い種ですね」
「誉め言葉だと受け取るよ。ただし…、ぼくの言うのは、世界そのものの記憶、歴史、出来事だ。絶えず移り変わり、乖離し、脱却し、再び融解して懐柔する、刻の流れだ」
「時流、ですか」
 疑問が単語のみで占められる場合、彼はそれが正解だと予測していることが多い。
 そして、それは果たして正解だった。
「刻を辿るには、植物の記憶を辿るのが一番良い。単体として生物の中では、植物は長い命を保有しているからね。別の土地へ移るにしても、砂漠でなければ有益な結果が得られる可能性が最も高いと考えている。…もっとも、道端の草でもいいかというと、そうもいかない」
 言わなくてもいいことを追加して説明している自分は、やはり悪くない気分なのだとユエは笑いたくなった。笑うことにより楽しくなるのであれば、詰まらなくとも終始笑っていたい、と思考の片隅で確認している自分がいる。
「草木にも、一本一本に精霊が一人一人宿っているのだと考えればいい。ぼくの声を聞いてくれる人格者はあまり多くはないが、この街でぼくと波長が合ったのが、たまたまこの桜の木だったと、そういうだけのこと」
 このような話をしてやって、眼の前の青年はどんな利益を得るのだろうと、またもう一人の自分が横槍を入れた。会話の殆どは、非生産的である。その中から有益な点を拾い出すのは相手の仕事でありそれに兎や角言う必要は、ユエにはない。
 小さく息をついて、ジーンは言う。
「それで、こんな辺鄙なところに…」
「それは、違うね」
 ユエは、首を振った。
「それは、人の基準から見た様相だ。社会の中央から離れた人がいない場所をそう呼ぶのは、中央に住むものが勝手に不便さを主張する言い訳に過ぎないし、むしろ人が射ない所の天然資源に少なからず頼って生きている以上、結論的には人の数を飽和状態に留めておく必要がある。しかし、それは言い換えるなら、ある程度以上の人口に達したときに人数制限の切捨てを行えということであり、人道的に反するために誰も言い出せないに過ぎない。人はものではないからね。けれど、他の動植物たちからしてみれば、ぼくたちは明らかに敵だ。ぼくたちが相手の言葉を理解できない一番の幸せは、きっとこの一点に尽きるだろうね」
 良識に似せた偽善論を語るユエに、ジーンは一つ頷いて、
「自然社会の理論については、よく分かりました。けれど、僕が訊いているのは、どうしてこの場所なのか、という端的な問題です」
 分かっているじゃないか、とユエはまた形だけの笑みを向ける。
 故意に話を逸らしてみたのだ。それをこの青年は、愚痴を漏らすことなく追求してくる。
 いや…、追随と言い直すべきか。なかなか出来た人物だと讃えてやりたくなった。
「けれどね、世界を隅まで探ろうと考える者ならば、きみの言う『辺鄙なところ』にこそ、須らく足を運ぶべきではないかな。自らそこへ向かわなければ得られないことは、その場に付いてからでなければ、その対象も分からないだろう? 違うかい」
「――いえ。その通りです」
 論理に隙を見せることは、得てして面白いと思う。
「ここみたいに『街外れ』で済ませられる程度のとこならば何処でも良いというわけでもない。だが、ここでなければいけないというわけでもない。要は、それは、切っ掛けに過ぎないというだけのことさ」
「切っ掛け?」
「きみに話し掛けるには、きみに呼び掛けて、きみの意識をこちらに向ける必要があるだろう? それと同じさ。桜の意識を、互いが分かるように表に呼び出してやる。簡単なことなのに、人は全く、万能とは程遠い生き物だよ」
 独り言が非生産的だとは言えないが、相手がいるはずの言葉が独り言だと解釈されたときの悲しみは、悲壮なんてものではないだろう? そうユエは言ってのけた。
 ジーンは肩を竦めて、
「…それで、話は聞けたんですか」
「いや。…ああ、今はまだ、という意味だよ。今夜は、伏線を張りに来たんだ」
 やはり一言、付け加える。
「接ぎ木するようなものだと思ってもらえればいい。これは」
 右手のビンを左手の指で差し、
「その印のようなものだ」
「――成程」
 じゃあ、最後だ、とユエは前置きし、
「一つ、訊いてもいいかな。これ以上は訊かない。一つでいい」
「なんですか」
「どうしてきみは、ぼくと話をしようと思った? 他人の空にかもしれない、こんな夜更けに林の入り口にいる男だ、きみの思う通りの人物とも易く判断はできないだろう。するべきではなかったかもしれない」
 ほんの数秒、逡巡するように視線を彷徨わせていたが、ジーンは、
「分かりません。多分…、話してみたかったんだと思います。賢者と呼ばれる、貴方に」
 それはユエの求める答えとは多少方向が違っていたが、彼はそれを意にしないことにする。「賢者と呼ばれているのか、ぼくは」
「そうらしいです。…不本意ですか」
「いいや。他人からの呼称など、ぼくには何の意味もないからね。名前は個人を特定する記号と成り得るけれど、そんな呼び方に価値があるとは思えない。誰かにとってはあるのかもしれないが、その本人であるらしいぼくには、ないね」
「ごもっともです」
「ぼくも、話してみたいね、その人を眼の前にして」
「? 誰にですか」
「賢者と呼ばれる、ぼくにだよ」
「ああ…」
 僅かに眼を細めて、ユエは笑顔を作った。
「きみの運がよければ、また近いうちに会えるかもしれない。勿論それは、きみ自身の運だ。ぼくは再びきみに会おうとは思わないだろうし、きみが思わなくとも、再開は達せられるかもしれない。そして、それはぼくの意志だけでは起こらないだろう」
 まるで謎掛けのような言葉を残し、ユエは青年の前から姿を消した。
「さようなら」
 ジーンは告げ、ユエは一度だけ軽く手を振った。

 そして実際、ユエは彼と再会を果たすことなく、その街から姿を消した。
 それは別段、何の不思議もないことであるし、彼にとっても当然のこととして処理された。二本の直線を二人の意志の行く末だと読み替えたとき、それが平行であれば二人は生涯出会うことはない。二人が出会うためには、その線は何処かで交わらなければならないのだ。人々の出会いと別れというものは、概してそうして起こる。
 そして、一度交わった二本の直線は、それらが直線である限りは、二度と交わることなく、あとは互いの距離を遠ざけるのみなのである。


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