青い瞳の青年賢者

 まず語られるべき幕裏 1


 ハルバートが選んだのは、ジーンにも馴染みの喫茶店だった。ストイックな雰囲気の店で、会話に邪魔にならない程度の大きさでレコードが掛けられている。奥のテーブル席は薄い壁で区画を分けられ、秘密の相談話をするにはもってこいの場所だ。
 二人は、折り良く空いていた一番奥の席に腰を落ち着けた。周囲に人がいても、会話は漏れないだろう。席に座るとハルバートは、
「ブラックティーを」
 とメニューも見ずに注文した。
 思い切り濃く煎れた紅茶を俗語で『黒茶』と呼ぶが、甘いものの味しか知らない子供に飲ませたならば、確実に拷問だ。
「文献の調査にきたときは、これなんだ」
 ジーンは頷き、同じものを注文する。
「分かります」
 文字の羅列を見続けた後には、一度頭の中を改めて目覚めさせてやらないと、自分の言葉が巧く出てこないことがある。そのための活性剤のようなものだ。
 運ばれてきた黒茶を、ハルバートは砂糖も入れずに口にした。当然、苦虫を噛み潰したような顔をする。お茶というよりも煎じ薬を飲むようなものなのだ。
「でも…、こんなものばかり飲んでれば、そのうち不眠症になりますよ」
 余計なお世話だろうかと思いながら、自分でも無意味だと思う忠告をしてみれば、
「きみはどうなんだい」
 あっさり切り返された。
「…一度、なりました」
 砂糖とミルクを入れながら、ジーンは口元を上げた。
「成程」
 やはり妙に世俗的な青年の所作に、ジーンは別な観点からの疑いを隠せない。単に自分が賢者に対して神聖的な印象を抱いているのだと言われればそれまでなのだが、今になって、やはりこの男はユエではないのではないのか、などという消極的な考えが見をもたげ始めているのだ。
 何が一番ジーンを惑わせているのかといえば、それは往々にして単純なもので、ただハルバートの表情が豊富であるということなのだった。こうして見ていると、全く普通の男のようで。
 だが、それでは話は進まない。
 しばらく、黙ってカップに口を付けた。
 どう切り出せばいいものか迷うジーンに向けて、ハルバートは唐突に、切り出した。
「言語辞典を読んだことは、あるかな」
「そりゃあ、ありますよ。一体何年、この世界にいると思ってるんですか」
 本当に突然の話題で、ジーンは瞬間、答えに窮した。
「いやいや、そうじゃなくてね…、辞書を読むんだよ。一冊の本として、読み通すんだ」
 流石に『読書』したことは、ない。
「それは…、ないです」
「だろう? 普通は、ないだろうね。辞典や辞書というのは、基本的に調べ物を知るための媒体だ。己に元からある知識を確認したり、逆に補填したり。だから、見なくても別段困らないページは、そのまま見ないでいることもある」
「そうでしょうね。アイウエオの意味を今更、調べてみようとは思いませんから」
 でも、とハルバートは手帳と鉛筆をポケットから取り出し、書いてみせながら、
「『AA』は、アルコール中毒者更生会の略称だったりするんだけど、知っていた?」
「知りません」
 アルコール中毒とは無縁の生活をしている、というより、下戸だ。
「そう? じゃあ…」
 青年は『亜』と書いた。
「何ですか、これ」
 訊くと、ハルバートはその下に続けて文字を書いていく。
 『亜戯然称』。
「読める?」
「読めません。古典の諺ですか」
「アルゼニアの国、の略」
 二人がいる、この国だ。
「国交なんかで、条約を締結する際、書類を作るだろう? そうしたときには、どうしてもその文書は膨大な量になるから、略しても差し支えない単語は、こんな感じに短縮するんだ。知っておいて損はないと思うよ」
 何処が略称なんだ、と正直思う。逆にややこしい。
「得もしないと思います。話を逸らさないでください」
「ああ、うん。ごめんごめん」
 そうして苦笑いをしてみせる様は、まるで賢者の様相を思わせない。
 その隙を突くように、ジーンは切り込むように本題に入る。
「貴方は、僕に以前、会ったことがあるでしょう」
 数秒の沈黙。
 ハルバートは、きょとんとした顔を向けていたが、
「…何を、突然」
「僕は、それを訊きたくて貴方を呼び止めたようなものだ――」
 正面から顔を見据えて、ジーンは、
「一つ、忠告してもいいですか」
「…どうぞ」
「学者の端くれなら、男の子を論文が並んだ書棚に呼んだりはしませんよ。気難しい人が近くにいたら、怒鳴られていても仕方がない状況でした」
 鎌を掛けるつもりで、口にしてみせる。
「きみは…、俺の何を疑っているんだ」
 ハルバートが言うのに、失礼を承知で、再び口にしてみせる。
「僕は、貴方が自分を偽って回りに見せているように思えてならないんです」
 青年は、応えなかった。
「…いいでしょう。はっきり言います。僕は、貴方がユエ・ファイアルだと思っている」
 ハルバート・ケインズを名乗る青年は、僅かに、眼を見開いてジーンを見遣る。
「少し前の望月の夜です。街外れの林で、彼に――いや、貴方に会った」
 再び、しばらく、沈黙があった。ジーンは、自分の言葉の効果を確かめるように、相手の反応を伺った。指摘は、的を得たのか、それとも外れなのか。
 彼は、…否定を、しなかった。
「ユニコーン、って、知っているかい」
 一つ、溜め息を吐いて、青年はそんなことを言った。
「ユニコーン?」
 思わず鸚鵡返ししてしまっているのは、ジーンがその単語に聞きなれていないせいだ。
 ただ、何処かで聞き覚えはあった。
「安定しない人格者のことを、そう言うんだ。といっても、精神の病などで本人の人格が不安定にある状態のことではなくて…、なんというのか、分かり易く言えば、ある人の外側に、もう一人の人格が現れるんだ」
 またしもの話題の転換に、しかしジーンは根気良く付いていこうとする。不意打ちはハルバートの常套手段らしいということに、彼は意識を向けた。
「人格が乖離するわけですか、内側と外側に」
「そう、それに似て非なる、な」
「肉体を中心点として両側に存在する、光と闇…、ですね」
「実際には、それとは少し違うんだ」
「え?」
 彼が違う、という言葉の意味が分からない。
「それはある意味で、遊離的人格の病理的表出だ。俺の言うユニコーンは、意識的に、或いは無意識に作り出した偽りの人格ではない、もう一人の人物の意識が新たに人として表れる。後天的に加えられた特殊な人格、と表現することになるんだろうな」
 そこまで言われて、ジーンにもあやふやながら想像が付いた。
 ただの馬と、額に角が生えた馬では、明らかに違う存在だと分かる。
 馬に角が生えるのではなく、馬が、一角獣という別のものになるということなのだろう。
「貴方が、その、ユニコーンだと? けれど、それが、ユエと、どういう関係が――」
 ユエが、多重人格者であったということだろうか。それとも、ハルバートが?
 分かったようでいて、まだはっきりとしない。
 まるで他人の事を話すかのような口振りに、小さな混乱が起こる。
 どうしてこの人は、こんなことを僕に話しているのか。
 ――他人事の、ように。
 その瞬間、脳裏に閃いた回答に、ジーンは絶句しそうになり、慌てて口を開いた。
「ちょ…っと、待ってください」
「うん?」
 言葉を選んでいる余裕がない。
「確認させてください。貴方じゃ、ないんですか」
「なにが?」
「だから――」
 一息に訊いてしまえない自分が、もどかしい。 ハルバートは…、ゆっくりと、首を振った。
「違うよ」
 確かに彼は、否定を、した。
「じゃあ…、貴方は、貴方が今言ったユニコーンで、もう一人の人格がユエである…?」
「残念ながら、それも」
 何が本当で、何がそうでないのか、次第にジーンには判断が出来なくなってくる。
 明らかにユエへの手がかりを有している青年に、足掛かりを隠された気分だった。
 では、彼は一体誰なのか。ユニコーンとは、一体何なのか。
 単に、ハルバートの言葉を自分が理解出来ていないだけなのか。
 いよいよ焦燥に駆られ始める彼に、
「――洗いざらい話した方が、分かってもらえるのかな」
 はあ、と溜め息をついて、ハルバートは応えた。
「この際だ、白状するよ。俺は確かに、学者なんかじゃないさ。ただちょっと変わり者で、読書好きで、外交文書を謁見したことがある程度の、宮廷護衛者崩れだよ。一般人とちょっと違うだけの、つまりは傭兵だ」
 あっさりと眼の前にあった待望は覆された。
「そう、なんですか」
 ふわりと腰が椅子から浮いたような錯覚を受け、ジーンはテーブルに肘を突いた。そうして、ああ、自分は落胆しているのだと、ようやく気づいた。無意識にカップを取り上げ、口元に運んだが、既に中身は空だった。
 落胆と同時に、しかし再び、それが具体的に何であるのかは、はっきりとは分からない。
「けれど…、貴方は、あまりにあの人に似ている」
「きみ以外にも、何度も言われたよ、それは。確かに、彼と同じ血も少しはあるのかもしれない。けれどそれは、似ている、というだけのことだ。似ているものは、あくまで似ているものに過ぎない」
「どうして、最初にそれを言ってくれなかったんですか。そうしたら、僕はこんな、無意味な期待なんてすることもなかったのに」
 食いついたジーンに、ハルバートは少し、言葉の調子を変えて、言った。
「偶然と必然が絡んでいることだから、俺もそれを知ったときには驚いたが…、ジーンは、世界に自分と同じ顔をした者が三人はいる、という話を信じる方か?」
「それは、まあ。双子や三つ子はいて当たり前のものだし…、他人に似た他人がいても、おかしくはないと思いますよ」
「ああ。例えば、世代を超えた双児、というのが、時たまあるだろう。俺とユエは、多分それなんだ。それが、先刻言った他人の空似だよ。俺とユエが似ていたのは偶然に違い」
 それは、ハルバートとユエには少なからずの繋がりがあることを思わせる。
「そして…、それが、現実をややこしくしているのもまた、事実なんだが」
「どういう、ことです」
「先刻話した、ユニコーン」
 短く、ハルバートは応える。
「病理ではない、人格の乖離――」
「それは俺じゃなくて、ジュノの方なんだ」
「ジュノ…?」
 思ってもみなかった単語が、ハルバートの口から出た。


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