コピーキャットは帰らない


 目を開けると、正面には僕の知らない天井が見えた。
 真っ白で、くすみのない綺麗な天井。蛍光灯がそれよりも更に真っ白な色を放っていた。
 ここまで綺麗な天井を見たのは多分初めてで、目覚めた瞬間に僕は危うく感動しそうになった。
 そうして、その更に一瞬後には、そんな自分の感想が無味乾燥めいたことであることを感じ、少しだけ情けなくなる。
 僕は、一組のベッドの上に寝かされていた。味も素っ気もない、天蓋とは程遠い粗末なベッド。
 背中の感触で、それが病院に数多く設えられたそれと同等のものであることを悟る。
 くん、と鼻を衝いた匂いが、まさにその病院臭に似たイメージのアルコールの香りだったものだから、僕の心情は更に沈んだボルテージを有することになった。
 …では、僕は今、病院にいるのだろうか。
 どうして?
 まずは自分の置かれた状況を把握することだと身を起こそうとして、
「つッ…」
 その瞬間、ギシリと手足の関節が痛み、思わず呻き声が漏れる。
「痛たた…」
 諦めて再びベッドに仰向けになった僕は、また天井に視線を向ける。
 自分は、怪我をしている。それも、直ぐには身体の自由が利かない程度の傷を負ったらしい。
 一瞬だけ起き上がったとき、ベッドに横たわる自分の身体が見えた。案の定、病院の室内着であるリネンの上下を着せられている。おまけに、入院患者の定番、点滴の針が、右腕の関節の辺りに突き刺さっているのを、今頃になって知った。頭の横で、逆さになった点滴の瓶から栄養剤らしき透明な液体が落ちてきている。
 どうやら僕は、入院患者のようだ。少なくとも諸手を上げて走り回れるほどには軽くない、怪我人。
 けれど、痛みがあるということは、何より自分が生きているということの証なわけで、そのことに対しては有り難みがあってもいいかもしれない。
 …そう冷静に判断している自分が、何か可笑しい。
「どうしちゃったんだろう、僕」
 そう口から出る自分の声には、ちゃんと聞き覚えがあった。この僕の、声だ。
 けれど…、自分がこの場所にいる理由、つまりどうやら怪我をしたらしい、それに至る経緯が分からない。
 まるで、つい先程まで見ていた夢を思い出せ、と言われたときのように、思考回路があやふやな状態であることが知覚出来た。
 視線を動かすと、部屋には窓が付いていて、外界の色が見えた。平和そうな水色の空が窓枠一杯に塗り込められている。
 最も、青空が平和の象徴だと直截に結びつけることは出来ないに違いないが。
「…あっ」
 不意にそんな驚いたような声がして、そちらに首を傾けると、看護士の制服を着た青年が病室の扉を開けた姿勢で固まっていた。
「え…」
 僕が彼の全身を認識するより早く、彼はパタンと扉を閉じてしまう。しばらくして、扉の直ぐ向こうが少し騒がしくなった。
「まだ目が覚めたばかりなんだろう。あまり脅かすようなことをしちゃ――」
「失礼しました」
「――くんは、来ているの?」
「じゃあ、お願いします、先生」
 そんな遣り取りが二、三聞こえて、
「了解しました」
 再び、扉が開いた。
 廊下と思われるそこには、先程とは違う、白衣を羽織った青年がカルテを脇に携えて立っていた。
 ワイシャツとスラックス、というお決まりの服装だが、やけに薄い髪の色と、小さな眼鏡のレンズの奥の細い瞳が印象的だった。
 フローリングだろう、殆ど足音を響かせずに、白衣の青年は僕の傍らに歩いてきた。
 白衣のポケットに手を突っ込んで、医者にしては無作法な態度を取る人だな、などとどうでもいいことを考える。
「――やあ、気分はどうだい」
 彼の第一声は、そんな素っ気無いもので、
「良くないです」
 正直に僕は答える。触れられない霧の中に閉じ込められた気分だった。
「だろうね」
 小さく苦笑いをして、彼は頷いた。
「まだきみは、自分の中で自分に何が起こったのかを整理出来ていないだろう」
「そうみたいです」
「良い返事だ」
 不敵な笑みを浮かべられた。
「物分かりがいいと、僕も有り難い」
「そういうものなんですか、先生っていうのは」
「気を悪くさせたのなら、謝るよ。場所が場所だからね。日常とは乖離した状況下に長く置かれていると、何が普通で何が普通でないのか、という認識が曖昧になる瞬間があるんだとでも思ってもらえれば幸いだ。僕自身、自分で思うほどに生体理工学の権威なわけもない」
「…話の意味が、よく分かりません」
「それで構わないさ。お喋りに意味なんてない方が…、むしろその方が都合が良い」
 一人で納得するような締め括り方をしてから、さて、と声の調子を変える。
「僕は、韮崎(にらさき)という。きみの担当だ。一応、肩書きに寄れば『先生』と呼ばれる立場だから、好きなように呼んでくれ」
「はあ」
 妙な自己紹介のされ方をした。
 白衣の胸の辺りに、成る程、『韮崎崇史(たかふみ)』と書かれた白いプレートが付けられている。
 先程の短い講釈といい、なかなか世間から独立した人格の持ち主だな、などと何となく思う。
「一応、きみとは初対面だ。或いはお互いに、相手によく似た人間と既に出会っているかもしれないが、それはまあ…、神のみぞ知る偶然の産物だと思ってくれ。最も…、僕は自分に相似な存在に出会いたいと思わないが――」
「あの、先生」
「うん?」
 彼と会話するときには、自分が主導権を握るつもりで話をしないと、どんどん横道に逸れていくらしい、ということが分かったので、僕は彼の話を途中で止めるよう意識しつつ、
「起き上がるのを手伝ってもらってもいいですか。身体が痛くて、一人だと」
「ああ、分かった」
 絶対安静だ、とでも言われたら相当落胆するだろうな、と思っていたら、あっさり頷かれた。
 背中に腕を入れてもらい、『せーの』で起き上がる。そうして、先生と正面から向き直った。
 彼は、ベッドの脇に置いてあった椅子に静かに座り、僕の手首を握り、脈を取る。
「経過は割と順調のようだね。もう二、三日は満足に身体を動かせないと思うけれど、気を取り戻したなら後は早いものだから心配しなくていい」
 僕の腰に枕を当てながら、彼は講釈を垂れる。
「不思議なものでね、意識がないまま過ごす人間よりも、一度でも目を覚まして、医者に『直ぐ治りますよ』と言われた人間の方が、完全に治癒するまでの時間が早いらしいんだ。これも一種のプラシーボ効果、って奴かなあ」
「先生…、検診に来たんですよね?」
「ああ、それが何か?」
「…いえ。意識不明だった患者が目を覚ました直後にしては、静かなものだと思って」
 僕が言うと、彼はゆっくりと目を瞬き、
「看護士が何人も部屋と廊下を往復し、って奴かい? そういうものなんだよ、実際には」
 あっさりと言ってのけた後、
「というよりも…、きみの場合は、身体的外傷が殆ど残っていないからね。そういう意味では、楽…、というわけではないが、僕らとしても気を張らずに経過を見守ることが出来る」
 敢えて、個人的な意見は言わないことにする。すると、
「…それに、今回の件で言えば、きみたちと同時に病院に担ぎ込まれた患者は一人や二人ではないだろうからね。人手も足りないんだ」
「今回の件?」
 そう…、僕は、どうして自分がこの病院にいるのか、その理由が何一つ分かっていないのだ。
「分かっているよ。不安なんだろう? 今の自分の状況が」
 意地悪な笑みを向けられた。…意図して、回り道を長くした無駄とも思える講釈をしていたのだ、この人は。
「無駄話の中から要点を抜き出すのは難しいけれどね。一見、無駄としか思えないような話をしばらく続けた後で、一問一答式の質問を投げ掛けると、相手はその前の遣り取りよりも単純な応答に無意識の安心感を覚えるんだ。だから、僕としても色々遣りやすい。…そういうことさ」
 そういうことか、と僕は会ったばかりの医師を見直しそうになる。…会ったばかりなのに。
「一つずつ、質問していくから答えてくれ。いいね」
「…はい」
 僕は頷く。
「まずはきみの名前。思い出せるかい?」
「えっと――」
 『思い出す』までもないと、口に出そうとして、…愕然とした。
 思い出せない。
 喉の奥に、確かに僕の名前に関する記憶の貯蔵がされているのに、何か見えないくらいに小さな妖精が、その言葉を表に出すことを中で抑え付けているみたいに。
 僕の逡巡する様子を見た先生が、
「ああ、やっぱりね。脳波に乱れが見られたから、もしかしたらと思ったんだが…」
「やっぱり、って…、どういうことですか?」
 韮崎医師は、一度首を振った。
分からないことを敢えてそのままにして、次の質問に移ろうということだろう。僕は、彼のやり方を信用してみることにする。
「今日の日付がわかるかい。そう…、西暦で」
 五秒ほど、沈黙。
「…すみません、分かりません」
「二一〇二年、五月十五日。きみたちが事故に遭ってから、一週間と六日だ」
「事故…?」
 あからさまに怪訝な声で、問う。
「ああ、首都高速の橋桁の金属劣化の進行、及び局地的地震の同地発生による、同高架の一部崩壊。きみたちは、その…、震災とも言える事故の被害者なわけだ」
 それで、自分が怪我を負い、入院している理由が分かった。
「まあ、色々あったんだよ。後で事故のデータベースを参照させてあげるから、見るといい」
「あ、はい…」
 一週間と六日…、十三日も僕は意識を失っていたということか。
…或いは、もっと早くに自我を取り戻していたかもしれないけれど、事故のショックで茫然自失としていたのかもしれない。
 先程、看護士の青年が驚いたような顔をしていた理由が分かった。
 それより、と僕は多少意気込んで尋ねた。
「僕…、自分の名前を思い出せないです。これって…、自分で言うのも変ですけど、記憶喪失ってヤツですよね? 事故って、やっぱり頭を打ったりして――」
「ストップ」
 医師はそう言って、人差し指を一本立て、
「そう言う人は、結構多いんだよ。ちょっとした事故や怪我なんかで記憶があやふやになって、直結的に自分が『記憶喪失』なんじゃないかって早合点する人」
「早合点」
「記憶素質、なんて簡単に言うけれどね、実際には『喪失』なんてしていない。健常者だって――誰だって――日常的に記憶を喪失し続けている。物忘れは当然あるものだろう?」
 いいかい? と彼は立てた指を僕の鼻先に向ける。
「まあ…、きみの場合は、健忘症とはちょっと違う種類の症状らしいんだけれどね…」
「なん…なんですか、それ」
「簡単に言えば、貯蔵データの混沌だ」
 ちっとも簡単ではない。そう思うと、先生は言葉を言い換えた。
「僕も、まだ新参者の立場だから、データ不足は否めない。その上での言葉の説明だから、至らないところは大体のイメージで掴んでくれ。今回の事故は、規模の問題や偶然性から言って、当事者にとってはショッキングな出来事だったと言っていいだろう。…勿論、当事者以外の関係者も頭を痛めるところだけれどね。だが、きみの場合は外傷の要因もあったな。きみの言う通り、額の上を幾らか縫う怪我をしていたよ」
 言われて、思わずそっと額に手を遣る。
「…だが、それは記憶の健忘とは直接の関わりはないと、僕は踏んでいる。むしろ、事故の後に生じた、深過ぎる眠りが、原因だったのではないかとね」
 僕は相槌を打つ代わりに、首を傾げた。
「現実から意識を遠ざけ過ぎていた、ということさ。十三日間、無理矢理日常から乖離させられ続けていたんだからね。夢を見ていたか見ていなかったかは僕には分からないが…、眠り続けることは、ある意味で普通に生きるよりも安寧の地を踏み続けることに等しい。無意識の意識が、やがて現実を忘れてしまおうと欲する自我が、そこに発生しない確信はないだろう?」
 医学というよりも心理学のような解説だったが、僕にもそれは分かるような気がした。
「けれど、それももう少しだ。大抵、二、三日もすれば不意に思い出すものだから。楽観的な気分でいることが一番養生のためにいい」
 そこで、今になって気付いたように、ああ、と声を上げ、僕の右腕の点滴の針をそっと抜き取った。
「意識さえ戻ってしまえば、きみの場合もう大丈夫だ。多少体力は低下しているだろうが、それは若さで補うように努めなさい」
 と、また妙な言い方をする。まるでエンジニアだ。
「そうしたら、こちらの待遇も変わるというものだからね。取り敢えず、一般病棟に移る手続きはしておこう。それまではもう暫く、この個室で過ごしてもらうことになるが、日常生活のペースを思い出すまでの猶予期間だとでも思うと良い。…これ、渡しておくよ」
 ベッドの下から、紙袋が一つ持ち出された。
 鈍い痛みの響く腕でそれを抱え込み、中を見ると、僕のものだろう、普段着らしい服が幾つかと、寝間着が入っていた。
「これ…、僕のですよね」
「勿論。…ああ、事故の際に多少、使い物にならなくなったものがあるが、それはこちらで処分しておいたから。検査のあるとき以外なら、普段着でいてもらって構わないよ」
「ええ、それは構いませんが…」
 頷いたが、やはりその服にも僕には見覚えがないのだった。…人間の身に付ける衣服には、その程度の価値しかにと言われたらそれまでだが、しかしそれでは人の美的感覚は無駄になってしまう。
 それも、やはりその時の僕にとっては半分どうでもいいことのようだったけれど。
「ええと…、着替えても、良いですか。何だか落ち着かなくて」
 僕が訊くと、彼は顎をほんの少し持ち上げた。変な奴だと思われたかもしれない。
「どうぞ。人の前で着替えるのが嫌だという信念があるのなら、僕は一時退場しよう」
「いえ、構いません」
 適当に取り出したシャツを、素っ気無い入院着から着替える。
 それを脱いだときに見遣ったけれど、特に目立つ外傷は腹や胸には見られなかった。
 運が良かったのか悪かったのか、いまいちよく分からない。
 韮崎医師は、僕の着替えをやはりあまり面白くなさそうな顔で見ていた。当然だ。
 …そして、僕はぽつりと呟くのだった。
「それで結局…、僕は、誰なんですか?」

 いの一番に気にしなければならないことに、僕はなかなか意識を向けられないでいる。
 というよりも、自分自身、言葉に出して言うほどに自分のことに執着していないのかもしれない。
 案外、楽観主義者なのかもしれないと思った。
「言っただろう、きみの場合、自分に関することは出来るだけ自分自身で思い出すに努めた方が良いって」
「…はい。そうします」
 けれど、通常その出発点となるだろう自分の名すら与えられていないのは、身持ちが悪い。
 返事に、その感情が紛れていたのだろう。青年は提案を加えた。
「まあ、強制することでもないからね。どうしても無理なようなら、僕から手掛かりを与えるから。不安に思わなくていい。身体と同じ、リハビリだ。情報を多量に受け過ぎると、回線がパンクしてしまう」
 その比喩は、分かりやすかった。が、続けて彼は言う。
「聞こえは悪いけれど、きみは一種の検体なんだ」
「ケンタイ…、実験体ですか?」
 僕は怪訝そうな声を出していただろう。
「いや…、まあ、確かに、それとあまり変わらないがね」
 途端に先生は苦いものを噛んだような顔で笑った。
「総体的に、僕たちにとって患者(クランケ)ってのは皆、科学分析の対象なんだよ。所謂健忘症というのは、そのメカニズムが完全に解明されたわけではない。だから医師たちは否定的にも実践的対象を求めてしまうものなんだ。表には出さないけれど、患者がどのように記憶を取り戻していくのか、それこそ始終監視して観察したいのが本音だろう」
 それは極論だろうが、彼の言葉には、彼自身はその治療――或いは自然治癒――の過程に対する疑問を隠せない、という感情がありありと伺えたので、僕はかえって安堵する。彼になら自分を任せても大丈夫だろうと。
「そんな考えもあるってことだ。皆が皆、患者に電極を括り付けて実験動物として扱おうと、てぐすね引いて記憶喪失患者を待っているわけじゃないこと、誤解しないで欲しい。僕が言いたいのは、プロセスが大切だってことだからね」
「分かります」
 僕が頷くと、ふむ、と彼は腕を組んで、
「だが、そうだな。自分の名前も分からないのでは身持ちが悪いだろうから、やっぱり教えておこうか――」
 悪戦苦闘しながら上着を被り、腕を通し、息をついた瞬間。
「ハルカっ!」
 カラリと扉が開いた。
 当然ながら、僕の視線は新たな登場人物に釘付けになる。
韮崎先生は先生で、中途半端に口を開けたまま、言葉を遮られた何者かに目を遣る。
「ああ、きみか…」
 先生が言葉を向けた先には、一人の少年が立っていた。韮崎医師とは顔見知りらしい。
 コーデュロイのワークシャツと、丈を少し持て余した同色のジーンズ。両手にはリストバンド、…そして何より僕の意表を衝いたのは、額に掛けていたゴーグル型のグラスだった。奇妙なことに、それには猫の顔のシルエットと、両脇に『SIRONEKO』…白猫、と書かれているのだった。
「? なんだよ、変なものを見るような目で――、あ、これ?」
 凝視していたのだろう、不思議そうな表情をした少年は、僕の視線に直ぐ気付いたようで、
「これ、包帯留め。頭ぐるぐる巻きの包帯って、恰好悪いだろ?」
 そう言って、ゴーグルを持ち上げて見せた。その下には、成る程、包帯がひと巻きされている。そういえば、彼の両頬には引っ掻き傷のような痕が痛々しく残っていて、けれどそれが猫の髭のように見えるものだから、かえってコミカルさを誘っている。
 彼は、誰なのだろう。空っぽの記憶箱を、それでも探ってみる。何か、彼を知る手掛かりはなかっただろうか…、
「――?」
 その瞬間、ぱしん、というようなショックが脳裏に走った。
 神経パルスが揺さぶられるような感覚に、頭を抱えそうになる。
 …思考が、空回りした。

 フラッシュバックのように映写される像。
 造花のような、データチップのような、手芸のビーズのような、色取り取りの細やかなものに埋もれている少年の姿。
 それは、確かに病室を訪れた少年と同じ顔をしていて、…けれど。
 まるで、同じ形をしているだけの、ただの人形のようでもいて。
 一言、一単語で表わすなら…、葬送。
 何処かに送られていく、魂のない者の終末、そして迎日。
 そこに漂う気配は、混沌と対極にある無垢な欲望。
 それは、果たして僕の中に宿る感情だったのか、それとも。
 それは、…死の匂いなのか?

 現実に視線が戻るのは一瞬で、…僕は何も言えなくなって、ただただ、きょとんとしてしまう。
「そうそう、ハルカ。まずは復活おめでとう…、って、まだ完全治癒には程遠いのか。まあいいや。これ、差し入れね。何も持ってこないのもおかしいと思ったから、取り敢えず見繕って持ってきてみたんだけど。病み上がりのハルカには必要ないものだったらゴメン。気に入らなかったらスマヌね」
 そう言う彼の顔には死線など微塵もない。
 ガサガサと音をさせながら、サイドデスクの上にコンビニのものらしい袋を置いた。
 中には雑誌や菓子類が雑多に詰められている。
「まあ、長い休暇だと思って、養生したまえよ」
 一通りまくし立てると、ベッドの脇の椅子に勢いよく座る。
「…誰?」
 が、がくん、と上半身がつんのめった。
「おいおいおい…、俺のこと、忘れちゃったの?」
「ごめん」
 しかし、第一声が『誰』は酷かったかもしれない。
 けれど、本当に分からないのだ。彼は僕の友人なのかもしれないし――多分そうなのだろう――、彼のことを知っている、という以上の関係かもしれない、とは思うのだが、しかし名前すら思い出せなかった。
「やっぱ、仕方ないか。回路の異常が発生したんだ、予想外の事態だもんな。仕方ないか」
「かい…、何だって?」
「ハルカ…?」
 少年に怪訝そうな声音が混じる。
「きみの名前だよ」
 韮崎先生が、僕を見て笑う。
 ハルカ。それが僕の名前らしい。
 正直な話、…あまりピンと来なかった。
「都筑くん、それは、まだ説明していないんだ」
「ツヅキ?」
 その名前には、聞き覚えがあった。否…、その響きを、僕の頭は思い出した。
「ツヅキ…、都筑真人(まひと)?」
おお、と驚きと喜びが半分ずつのような顔で、少年は僕に顔を近づける。
「なんだ、ちゃんと覚えてるじゃんよ。俺はまたてっきり、マ――、ああ、いや、ハルカと瓜二つの別人の部屋に飛び込んじゃったとか、実はハルカには双子の兄弟がいて、密かに入れ替わりがなされていたとか、とんでもないことを考えそうになったぜ、全く」
 突拍子もないことを次々と口にする彼は、確かに友人として持つのならば楽しそうな男のようだった。
 クスリと笑いそうになった僕の表情が、…しかし次の瞬間、確実に凍り付いていただろう。
 ――回路の、異常?
 その時、僕は気付いてしまった。
 都筑真人と、ハルカとの関係。
「――真人」
「うん?」
 少年の名を呼ぶと、何やら嬉しそうな顔をする。笑うと目が細くなって、それこそ猫みたいな奴だな、と思いつつ、
「ちょっと席を外してもらえないかな」
「? ああ、いいぜ」
 快く頷くと、彼は廊下に出て行った。
 少し、僕は黙って考えた。先生は、僕が真人を辞室させた理由について思い至っただろうか。
「先生」
「…何だい」
 そうして、僕は韮崎医師に、訊いた。
「僕は、…一体何なんですか? それに、…ここは、本当に病院ですか?」
 誰なのか、とは言わなかった。僕だって、堅物じゃない…、と思う。
「それは…、どういう意味かな」
「はぐらかさなくてもいいですよ。多少現実離れをしたことだって、僕は聞く心の準備くらい出来てます。…元より、からっぽの頭なんだから、僕は受け入れるしかない」
 ああ…、と、先生は小さく溜息をついた。
「隠すつもりは、なかったんだけどね」
 ちょっとだけ口ごもるような仕種を見せて、彼は言った。
「きみはもう、気付いているんだね? だから、無意味に優しい言葉は掛けないよ。…そう、きみが思っている通り、僕や都筑くんときみは、違う種類の生き物だ」


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