ロボット、という言葉がある。人間に似た形態を持ち、人間の労働の代価物として仮想された、精巧な機械装置。複雑な操作、また、作業を自動的に行う機械、装置のこと。
オートマタ、という言葉がある。別名、自動人形。一般的に言うところの、機械人形にLSIの集合体であるAIチップを施すことによって、人間の脳の役割を務めさせ、感情を機能させる。
自らが何故存在するのか、という問いを自らにぶつけること…、つまり、自我の存在を己に正すことが出来るのは人間だけだと言われていたが、生理工学の技術は人工物に意識を持たせることだけでなく、どうやら人に近しい意識を持たせることに、ほぼ完全に成功させられていたらしい。
肉体の反射速度は、神経パルスの伝達さえクリア出来れば、技術的には問題ない。従来において、一番の課題はやはり感情の内在、及び表出だろう。そのプログラムは常人には複雑過ぎて理解出来そうにもないが、擬似人格の限界を作り出すことも、またゼロから人間が生まれることを思えば、神秘性には欠けるが存在しえないものでもない。
限りなくヒトに近いが、また同時に限りなく生に近いが、しかしそれは本物ではない。
ともかく…、僕は、その自動人形らしい。
あっさりと…、呆気ないほどに、僕はその事実を受け入れていた。
少し考えれば、僅か数十分の過去の中にも、その片鱗は僅かにあったのだ。
そもそも、身体の傷が目に見えないほどの軽いものにしか思えなかったのに、そのくせ関節の痛みは意識の範疇を越えたものであるように思えたのは、内部組織の作りが人のものとは異なっていたため。人工皮膚を移植すれば、表立った怪我など存在しなくなる。
オートマタにとっての『痛み』というのは、自身の行動に支障が生じる恐れのある損傷に対する警戒の指針に過ぎず、真人が感じている怪我の名残りの痛みと、僕の今感じる身体の痛みは別物なのかもしれない。
大体、真人のように頭に怪我をしている様子すら自分で判断出来なかったというのに、外因性要因、つまり頭を打ったから一時的に記憶が混乱している、なんていう事実をあっさり信じてしまった思考の安易さに、可笑しくなってしまう。ロボットのくせに論理的じゃないな、と。
自分がそれであると気づかされるということは、意外と可笑しいことだ。成る程、まさに『思考回路』の故障によって、僕の記憶は一時的に封鎖されているのだろう。安全弁が働いたのだ。その辺りは、精巧な人間の思考回路に相違ない。
そもそも、韮崎医師は人間の医者でなく、エンジニア…、理工技術者だったということなのだ。
それを思った瞬間、僕は危うく彼の目の前だというのに笑いそうになってしまった。
思い返せば確かに彼は医者と呼ぶには人間が出来ていない。直接口に出す気にはなれないが。
僕は、自分が人間だと当たり前のように思っていた。
その自意識が逆転された事実を突きつけられても、それが事実だとの自覚がない。
…言い換えれば、僕は自分が人でも機械でも、その存在の意味に大きな違いがあるとは思えていないのだ。
まるで、作り物の物語のようで、現実味が足りないのだ。
この『僕』の人格が一時的な偽りのものだったとしても、ほんの数十分の間に何が築けるというのだろう。僕には、現状を理解するだけの十分な時間すら与えられなかった。それがもたらした内因性ショックは、当然のことながら小さくなかった。
そして同時に気づいていた。
僕と、韮崎医師、都筑真人との線引きがそれであるならば、僕と真人との関係は、オートマタと、そのマスターだ。
「…マスター」
僕が呟くと、きゅっと眉を寄せて先生は言う。
「勘違いしないで欲しい。僕はきみをモノ扱いするつもりは最初からない。客観的見地から言っても、人と生体アンドロイドとはほぼ同列の人権が有せられていること、それはずっと以前から法的に確立していることだ。…まあ、緊急避難は、人が優先される決まりだが」
言い訳のように聞こえたのは、きっと僕の驕りだろう。
「少しずつ、思い出してきたような気がします」
僕は言った。皮肉にもショック療法は効果的らしい。
「ああ…、それは何よりだ」
苦笑いのまま、細い目を更に細めて彼は僕を見る。
その目つきは確かに、生きている者に向ける視線であるように、僕には思えた。
こう何気なく思考を巡らせている間にも、僕の内部に埋め込まれた多数の電子機器が、冷静な判断を下そうと働き掛けているのだろうか。
…そう思いかけて、やめた。
「先生の言いたいことは、分かります。自我を保ったまま、記憶だけフォーマット以下の状態に置かれることになったオートマタにどう対処すればいいか、判断を保留しているんでしょう?」
病み上がりにしてはなかなか冷静な判断じゃないかと思う。…自身の処遇が、目の前の一風変わった物言いをする青年の手に委ねられているのだということを知って、僕は多少冒険をしてみたくなったらしい。
「いや…、そうじゃないな――」
僕は思考を繰り返す。
この病院がファクトリィなのかラボラトリィなのか僕は知らないが、当初の韮崎先生の回診といい、目覚めたときに見掛けた看護士の青年といい…、どうやらオートマタを治療するための施設であることは間違いなさそうだ。
「僕はまだ、自分がオートマタだということに対して明確な自覚が持てないでいる。その辺りも含めて、僕は『検体』なんですね? オートマタの自己修復機能が知能に対してどれだけ及ぶのか…、人工知能の記憶回路の性能の向上は、人間で言うところの健忘症に適用させることも出来るかもしれない――」
一人納得し、話の筋道に対し韮崎先生が言葉を挟まないことに疑問を感じる。
「あ…、すみません、一人で意味のないことを喋ってしまって」
「いや。構わないから、どんどん話すと良い」
軽く頷いて、彼は沈黙を保った。まるで、ある種の分析官だ。
「僕と真人は、首都高速を走っていた。色々な偶然と不遇が重なり、自己が起きた。僕たちはそれに巻き込まれ、二人とも怪我を負った。真人はあの通り、目に見えて外傷がまだ癒えていないし、マスターを守るべき僕に至っては、神経回路の何処かがやられたのかどうか、原因は分からないけれど…、とにかく、殆どの記憶を闇に仕舞い込むことになった」
不甲斐ないですね、と力無く笑う。
何気なく手首をさすると、それは滑らかで、一見人工物だとは思えないくらいで…、生々しかった。
淡々と、僕は自分の置かれた状況を整理した。
「相違ない。大したものだね。もう、現状の幾らかはしっかり把握出来ているようじゃないか。人の記憶というのは、やはり周囲の状況と密接に関連しているものだね」
そう言って、先生は口元を上げる。無意識に僕もそれに習っていた。
「皮肉ですか?」
「いや。人もオートマタも、脳裏で展開される神経伝達の仕組みには、総じて大きな異なりはないんだよ。誰が言ったか…、人ほど、実は機械的な機構によって生きている生物はいない、とね。鶏と卵ではないが、どちらが先に存在していたとしても、やがては両者が共存する社会が組まれることになっただろう、とその人物は評価していた」
僕は、首を傾げた。
「でも…、機械から、生身の人間は分化しませんよね?」
進化の過程で強いものが生き残る理論が通用するのならば、文明がなければ人間ほどか弱い生物も珍しい。
「ああ、よく気づいてくれた。その通り、先の説も、結果論に過ぎないということなんだ。要は、二者の在り様にそう大きな違いはない、似たり寄ったりの馴れ合い依存生物に近しい関係、ということとも言い換えられる程度の問題なんだよ」
そう返し、彼は肩を竦めた。
話すうちに、全てが曖昧模糊としていたはずのことが、整然と飲み込めるように思えてくる。
そして、正体の知れない違和感が胸の奥底でくすぶるのを感じるようになった。
…だが、それが具体的に何なのか説明しろ、と言われても、僕は言葉に迷うだろう。
まるで、これは無駄な議論なのではないのか、という不安にも似た。 直感、だった。先生は、僕に妙なことを言わなかっただろうか。僕と彼らを分かつ、ひょっとしたらとんでもなく重要な価値観に結びつくことを。
そして…、真人を一番最初に目にした瞬間の、あの幻像。
「あの…、先生」
「ん」
「少し、出てきても、いいですか? 真人が近くにいるはずなので」
「ああ。気を楽にして…、というのも、安易過ぎるかな。ともかく…、何かを気負う必要はない。望まずに与えられた休暇を、真っ白な気分で過ごすのだと思ってくれたら、僕としても気が詰まらなくて助かるよ。僕は一応、誰に対しても人でなしとは思われないように努めるのを一番の信条にしているからね」
下手な言い訳なのか、それとも素っ気無い応対なのか…、どちらにでも取ってくれ、というような物言いが、僕にはむしろ有り難い。
「ありがとうございます、…っ!」
ベッドから降り立った瞬間、びりびりと足の裏から背中を伝って痛みが這い上がり、顔をしかめる。
「大丈夫かい」
先生が気遣わしげに声を掛けてくれるのが、何だか嬉しかった。
「あまり無理はしないように」
「します。僕も、痛いのは嫌ですから」
その返事は、少し皮肉っぽかっただろうか。韮崎医師の唇の角度は、変わらなかった。
スリッパの音が、ぺたぺたと情けない音を立てる。ふらつく足取りで、僕は廊下を歩いた。
辺りの風景は、普通の病院と代わりがなかった。医者がいて、看護士がいて、患者がいる。
彼らは全て人間なのか、それともオートマタなのか、それとも二者が混ざっているのか…、僕には見分けがつかない。
韮崎先生の言葉は、確かに真実を述べていた。
オートマタは飾られるだけのマネキン人形ではない。その中枢には魂に等しい生態が内在している。
人間の内部に『魂』という器官がないように、オートマタの中にも『心』はあると信じたい。
真人は直ぐに見つけることが出来た。窓際のソファに座って、目を瞑り、何か考え事でもしているようだった。ファンキィなゴーグルは膝の横に置かれ、包帯は額に掛かる前髪で隠れていたが、それで彼は少しだけ大人びて見えた。
タン、タン、タン、と、正確なフォービートのリズムが、リノリウムの床に小さく響く。
自分のマスターだという自覚が、まだ、ない。
…そして、僕にはその資格があるのだろうか、と思ってしまった。
僕が彼のマスターなのならばまだしも、彼は僕などを従えていていいのだろうか、と。
こんな、空っぽになってしまった者を、きみは――、
「真人」
その名を胸に呟くだけで、僕は何処か締め付けられるような思いに捕らわれるのだった。
全く正確だと分かるリズムは、彼の何を心地良く刻んでいるのだろう。
その瞼が、すう、と開いた。爪先のリズムが止まり、院内に完全な静けさが戻る。
「ハルカ」
名前を口にされて、頭が上がって、僕と目が合って、それでようやく、自分が呼ばれたのだと気付いた。
どうやら僕には、自身に対する自覚が無さ過ぎる。
「あ…、うん」
曖昧に返事をすると、変なものを見たような視線を返された。
「どうした? 元気ないな」
「うん…、まあね」
「身に覚えの無いことで詰問されたか?」
そう言うと、彼はニイッと両の口元を持ち上げる笑い方をした。
猫みたいな笑い方をする奴だな、と思っていたら、
「…マスター。なんて呼ばないでくれよ。最初から、俺たちはそんなぎくしゃくした関係じゃなかったんだから」
その笑顔のまま、真人は言う。
「人間扱い、をするつもりなんてないぜ。俺はハルカのことを一々オートマタだと意識してなんかいないし、だから完全に同列で自分たちを見ている」
真っ直ぐに僕を見る、硝子玉のように綺麗な瞳。
「これは、誰かさんの受け売りなんだけどね」
少しだけ、切なくなった。嬉しかったのか、それとも何かが悲しかったのか…、
「盗み聞きは、狡いよ」
僕と韮崎先生の話を、彼は扉の脇で聞いていたのだ。僕が、自分がオートマタだということを悟った、ということを。
僕は言い返したが、彼の微笑みは崩れない。
「言っただろ? そういうことは、一々考えないことが、普通なんだって。そのためには、多少のことには目を瞑ってもらわなきゃな。何も知らずに過ごすことなんて、俺には出来ないから」
数秒の沈黙が場を支配し、しかし僕はそれには耐えられそうもなかった。だから、
「えっと、…真人」
彼に呼び掛けた。
「ん」
「…ありがとう」
「そう。それがいい」
ぴん、と人差し指を立てて、彼は大きく頷いた。
それを見て、僕は思う。僕はまだ彼のことを完全には思い出してはいないけれど、僕と彼とは確かに『パートナー』であり『友人』であったのだろうと。
そしてそれをこの後、取り戻すことが出来るかが、僕に与えられた一番の課題なのだろうと知る。
それに対する疑念がなかったわけではないが――、物語は続くのだ。「そうそう…、今更だけど、お互い大変だったんだよな。先生方にも随分迷惑掛けたみたいだし、…俺たちが眠ってる間に、世間はもっと大変だったみたいだけど」
そういえば、彼の言う通りだ。僕は、韮崎先生から聞いた、事の断片を思い出す。
『首都高速の橋桁の金属疲労の進行、及び局地的地震の同地発生による、同高架の一部崩壊。』
「真人も、昏睡だったんだ…?」
「三日くらいね。怪我を治すのに一番良いのは、投薬でも施術でもなく、最後には睡眠なんだってさ。変な話だよな――」
僕たちは、吶々と話をした。それは取り留めのないこと半分、真剣味のある話を半分。意識してのものではなかったと思うけれど、しかし意味のないことは一言としてなかったように思う。
都筑真人は、学生であり、若くしてオートマタ…、ハルカのマスターである。
ハルカ――、都筑悠は、彼の友人にしてパートナー。
記憶がないということが全ての免罪符になるとは、僕自身も思ってはいないのだが、けれどそれが韮崎先生の言うように簡単に自己修復されるものだとは思えない。それは、どれだけ現状を把握したところで依然不安感と共にまとわりつく、まるで信念にも似た予感だった。
真人と話していても、その節々に登場するお互いの立場が、妙にしっくり来ないのだ。…それは確かに、身に覚えのない事実を楽しそうに話されたら、誰だって怪訝に思って当然なのだけれど、しかし僕の場合はもう少し角度が違ってくる。
思えば、記憶がない、というのは、奇妙なことだ。
過去の記憶を有していないのに、しかし言葉を不自由なく喋ることが出来る。また、自分と自分の周囲の身近な思い出はないのに、社会的に常識と称されている基本的な知識と呼んでいい事柄の多くは、僕は真人と同じ視点で話を交えることに窮しなかった。
そもそも、オートマタの基本的思考中枢にある基礎知識は、意識の喪失と共に失われるほどに柔なものではない。その点については、頭部への衝撃により回路の異常が発生したという真人の証言と食い違うところはない。
幾らかの情報が与えられて、自分の居場所がどうやら与えられて。
…けれど。
僕の心の揺らぎは、毅然と存在する。
今の僕は、以前の僕と、やはり違うのだろうか。
真人に必要とされなくなったとき、僕はどうなってしまうのだろう。
それは、僕の人格と、僕の存在という、二重の意味で、不安だった。
翌日から、様々な検査が行われた。韮崎先生の触診から始まって、X線像影、CTスキャニング、採血――赤い血が出たのには驚いた――、意識のあるまま開腹でもされたらどうしようかと身構えていたら、そんなことはなく、一般病棟と同じ診察が行われることはなかった。
韮崎先生の意向があったということだろうか。…流石に僕だって、工場で解体はされたくない。
「きみが眠っている間にも、一連の検査はされているよ。それが意識を取り戻した状態で違いがあるのかを、確かめさせてもらっている」
彼は、僕にそう説明した。
一日経ち、二日経ち、三日経ち…、一人、ゆっくりと考え事をする時間が増えて、僕はずっと、考えていた。
自らの内に宿る、自らに向けた疑念。その正体。
…おかしいのだ。
何かが決定的におかしい。
けれど…、それは、何だ?
一つ…、たった一つだ。
その一つを思い出せば、
全てが一気に解かれる。
そんな根拠のない確信が、あった。
けれど、それを知るのは、何故か、怖いような気がする。
何故?
世界が反転するからだ。
再び、自分の居場所が問われることになるからだ。
――そして、世界の均衡は、あっさり破られた。
「何か欲しいものがあったら、遠慮しないで言えよ?」
真人は、日を置かずに病室へやってきた。
彼も別病棟に未だ入院中ということで、滞在時間は短いものの、気の置けない会話は楽しかった。
身体的な損傷――つまり怪我は、あっさりと癒えていき、僕は真人と同じく様子見で病院に留まっている。
小さな震災による心身的後遺症がないかどうか、検査も含めて。
けれど、いつしか僕の表層と内面との感情の差異を感じるようになった。
何かが…、苛立ったのかもしれない。勿論、自分に。
「ハルカは何にも心配しなくたっていいんだぜ。俺はハルカに早く回復して欲しいし、そのためなら何だって協力するから」
ベッドの横の椅子に二人座って、何の話をしていたのだったか…、最後にそう締め括ったのが、決まり文句のように聞こえてしまったのが、僕にとっては不味かった。
「心配しなきゃいけないのは、自分のことなんじゃないのか? これからの真人のこと――」
言うはずではない言葉が口から零れた。
「今の僕のこと…、無用の素体だって思っているんなら、そうだとはっきり言ってくれよ」
「ハルカ?」
どうしてそんなことを思ったのか。
…決まっている。僕は、必死なのだ。彼に捨てられないかと不安で。
彼が僕の名を呼ぶたびに感じる、微かな背の震えは。
「突き放すなら、早くして欲しい」
今の僕の意識が、本物の僕の記憶と繋がっている保証など、何処にもないから。
「そんな、俺はそんなこと思って――」
いけない。いけないと分かっているのに、彼にぶつける言葉の波が止まらない。
「だから、そんなに…、僕に優しくしないでよ…っ!」
「ハル――」
まるで衝動的に、僕は半分怒鳴るようにまくし立てる。オートマタに有るまじき感情の一部が、表出した。…自分を、見失いかけたのだ。
「機械には人間のことなんて分からないかもしれないけれど…、だったら、こうも言えるはずだ。人間が機械の思考を読み取ることだって、出来るわけがないんだ。僕が良い例さ。そうだろう? 主人を守るどころか無様に記憶回路に異常を来たして、挙句の果てには――」
「ハルカッ!」
いきなり強く名を呼ばれ、僕はビクリと身を竦ませた。
「なら…、見せてやる」
真人は突然立ち上がると、サイドボードから、きらりと光るものを取り出した。ぺティナイフが、そこにはあったはずだ。
一体何のつもりなのかと、僕も立ち上がる。
右手で持ったナイフを左手の甲に押し当て、…僕を見ずに、
「いいか…、見てろよ」
「まひ…と、何を――」
制止する間もなかった。息を止めると、真人は一気にナイフを持った手を手前に引いた。
ビシュッ、という、やけに小気味良い音がして、…赤いものが飛んだ。
血だ――。
何を思ったのか、真人は、自らの手を切り裂いたのだ。
「真人…、」
膝の力が抜け、僕はへなへなと床にくず折れた。
真人自身の手によって切り裂かれた左の手の甲。
皮膚が破れ、赤い血が滴り落ちている。
それを無表情に見つめる彼の目には、一切の感情が抜け落ちていた。
震える視線が、そこから動かなかった。
そこに見えていたのは、筋肉細胞の組織でも、生々しい血肉でも、骨細胞の集まりでもなく、
…セラミックの骨格。
電子神経を繋ぐ、細い回線。
手首の関節の先すら見え、そこには『H−L(ハル)』の文字。
そして、識別番号の冷たい文字。
どうして?
どうして、真人が。
僕でなく、真人が。
オートマタの主のはずの、真人が。
「オートマタ…?」
正常な思考が、出来なかった。
オートマタは、僕ではなかったのか。
彼は、そのマスターではなかったのか。
「ハルカくん!」
誰かの声が、鋭く響いた。
僕は真人から目を離すのが、怖かった。
振り返る僕の視線の先には、韮崎先生がいた。
これまでで最も真剣な表情を見せている彼は、しかし口から出た言葉とは裏腹に、真っ直ぐに真人を見詰めていた。
そして、息を呑む。
僕は再び、真人の顔を見る。
その唇が、ゆっくりと動いた。
「…先生」
全く感情のこもらない声で、彼は言った。
「俺に出来るのは、ここまでです」
僕を見て、…ほんの少し、微笑んで、
「彼を、お願いします」
ドサリ。
ゆっくりと、スローモーションが掛かっているかのように、彼は崩れ落ちた。
僕はただ呆然として、それを見つめていた。
「真人くん…」
肩に手が掛けられて、
「大丈夫かい」
「先生…、真人が」
僕が掠れ声で言うと、彼は首を振った。
「もう、いいんだ。休ませてあげてくれ。彼には無理をさせ過ぎた」
「だって、あいつ、怪我をして――」
つっかえて、思うように言葉にならない。
「分かっている。僕が何とかしよう」
「一体…、一体、どうなっているんですか。どうして、真人が」
混乱。
「違うよ。そうじゃないんだ」
「だって、僕は――」
「それが、違うんだよ、…真人くん」
するりと、その呼び掛けは僕の耳に飛び込んだ。
数秒、僕は先生の顔をまじまじと見て、それから、
「…え?」
自分の耳を、疑った。
――フラッシュバック。
あれは、ハルカと最初に会ったときのことだ。
友人が一人増えたことへの喜びと、オートマタとどう接すればいいのかをまだよく知らなかった頃の不安感と。
それらがない交ぜになって、けれど最後にはお互いにぎこちない笑みを浮かべて。
そっと触れた指が、意外にも暖かいのに驚いたのを、よく覚えている――、
覚えて――、覚えていた。
あの時。
僕を横目で見た彼の瞳が…、あまりに透き通っていて。
光をそのまま反射する、硝子玉のような作り物の瞳が僕を捉えて。
「ごめんな、…マスター」
そう、彼は言った。
彼は、ハルカだった。
僕が、真人だった。
全部…、思い出した。
少なくとも、僕と、ハルカと…、二人がそれまで、どうやって刻を過ごしてきたのかを。
そこには、無機質で余計な感情論など、微塵も存在しなかったことを。
もう、説明はいらなかった。不思議なことなど、何もなかった。
形の見えない迷路を勝手に想像し、その中を惑っていたに等しい、余興。
「貴方も…、先生も、オートマタだったんですね」
だから、沈痛な声で僕は言った。
何も知らないのは、僕だけだった。
彼は、僕に言ったのだ、『僕や都筑くんときみは、違う種類の生き物だ』と。
この病院では、彼らの方が、僕の観点で言えば異質な存在…、全部、最初から逆だったのだ…。
「ああ」
韮崎先生は、静かに頷く。彼の目論見はほぼ完全に成功していたが、僕の側ではなく、オートマタのハルカの側に及んだ負荷については、同系統の存在である彼は気付けなかったのだろうか。
しかし、だから、何なのだというのだろうか。正直な思い、僕の感慨は別のところにあった。
やっぱり、同じだったじゃないか、と…、ハルカの言う通り、僕らには違うところなど何処にもなかった。
僕も、ハルカも、先生も。
「真人…、いえ――」
彼は、あの時どんな心情でいたのだろう。
自らがマスターであると偽り、心理的臨床試験の立役者となるための第一声を、どんな思いで告げたのだろう。
「――ハルカは、大丈夫ですよね?」
恐る恐る尋ねると、倒れたハルカの背に手を添えて、
「オーバーランだよ。一時的に意識回路をシャットダウンしただけだ。気絶しただけ、と言った方が、きみには分かりやすいかな」
先生は嘆息し、僕を見た。
「結局は、何に置いても言い方の違いだね」
「お願いします…、先生」
ナースコールに手を伸ばす彼に、僕は頭を下げた。
立場が逆転した、などとは間違っても思ってはいない。ただあるのは、ほんの僅かに表に出た僕の身勝手と、服従とは違う種類の従属である立場を取り続けた友人への、新たな敬愛と感謝の思いだった。
最後に彼に謝られたのが心残りだったから、僕は――。
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