傷ついた二枚のカード


 三月**日
 タイトル:好奇心は猫をも殺す?

 どうやら今日も無事にこんばんは。ちょっと最近忙しいので、ちょっと聞きかじった話題から。
 最近、犬や猫を傷つけて回っている人が全国各地にちらほらと見られるようで、動物好きの方は心を痛めているかと思います。最近のことではないですが、僕も少し、こういう事件に関してはあまり楽しくない思い出を持っている人間なので、完全に客観的なことを言いにくいのですが…。
 世界で…、というより、この世で人間が一番偉いのだと、妙な勘違いをしている人が多いんじゃないか、と思いもしたのですが、そういうことを『考える』のも人間だけ。実はその発想自体が貧困な考えだと自粛します。
 かと思えば、愛玩動物を、飼い主の好き勝手に扱える玩具であるかのようにしているような人がいるのも確か。動物たちが人間にとっての『何かの代わり』に過ぎないんじゃないかと錯覚してしまいそうにもなったり。こちらは、僕は当事者と成り得る方々を信じることにしたいです。非生産的な思想だけれど。
 ところで――、


   □   □   □

 僕はオンライン上にウェブサイトの管理、運営をしている。
 メインコンテンツは本にまつわる色々なことと――自分の書いたコラムを載せたり、書評をしたり、世の中のちょっとしたことへの疑問を投げ掛けてみたり ――で、訪問者参加型の掲示板を置いているため、そちらでの交流も割と盛んだ。訪問客の延べ数も五桁に軽く届いて久しいから、個人運営としてはそこそこといったところ。
 自分自身、ほんの稀に、自分はどうしてサイトの運営を続けているのだろう、と思うことがある。数こそ爆発的に増えたこの世界だが、ウェブサイトは未だ遊びの域を超えていない所が多い。いや…、気軽にサイトを立ち上げることが出来るようになったからこそ、その『軽い』性質が結びついたのかもしれない。
 世の中には酔狂な人が何万人もいるもので、つまりは、自分の部屋を気軽に、かつ大っぴらに公開しているのだ。当然、ナマの自室を見せるわけではないとはいえ、その見せ方によっては『他人に見せるに値する部屋』なのかどうかを、訪問者たちに判断されるわけである。訪問者数が分かる解析機能もその指標だが、管理人は、誰かに見せるためにサイトを創造しているのだから、誰なのかもしれない『彼ら』の反応の持つ意味は大きい。
 日記であっても、それがサイト上に置かれているからには、それを他人が見ることを前提に書かれているから、完全な本心の吐露がされているかといえば、実は疑わしい。その意味では、確かにサイトは部屋だ。だが、ショーケースに入った模型のそれ。実際に中身に触れることは出来ない。他人には見せたくないものもあるだろう。僕のサイトも、『ケイゴという名の少年の部屋』と形容されてもおかしくない。
 淘汰され、消えていくページも数多くある。実はシビアなのだ。庭の草木に手を入れなければ荒れ放題になってしまうのに似ている。そこには他人の余計な手が入る可能性がある、という意味も含んでいる。
 自己主張としてのウェブサイトは、確かに何か自分の考えを多くの人に伝えたいと思う欲求に対しては、即実的に応えてくれるだろう。しかし、それが即実的に他者に伝わるという保証は何処にもないし、それに見合ったリスクも孕んでいることを忘れている者も、意外と多いように思えてならない。オンライン、という言葉が示すように、相手と見えないラインが繋がっているということは、ある程度の個人情報が常に漏れている、という事実を示唆しているのだ。

 こんなことを考えるのは…、僕が少しばかり、普通の人ならば用いないプログラムを組めるだけのスキルを持っているからだろうか。
 あるウェブサイトにアクセスする。サイトのソースを開き、サイトを構築するプロバイダを探る。契約に際し登録された電話番号、住所、本人の名前、履歴詳細を探る。ある回線の単独使用者のプロフィールを調べることは、実は難しくはない。少しだけインターネットというもの、そのものについて詳しい知識があればいい。このくらいのこと、ハッカーという言葉を引っ張り出すほどのことでもない。
 一般人ならば、そんなことは考えもしないだろう。僕だって、そんなことを一々して楽しむような趣味の悪い人間じゃない。けれど、そういった情報入手技術を利用して、より多く、より詳しい個人情報を手に入れようとする人は、驚くほど多いのだ。情報は、ひとつの個人財産である。
 けれど、その程度の知識しか有していない僕にさえ、『仕事』の依頼をしようとする狡猾な大人たちは、確かに存在するのだ。社会という機構は、人々が思うほどに温かいものではない。機械的に冷たい鼓動が、常にその根底を彷徨っている。無論、僕はそんな莫迦みたいな大人に付き合う気は更々ない。
 一本立てたスレッド記事に、誰かの名誉や地位を毀損する情報が示されていた場合、それが偽物だと明らかであっても、噂が勝手に現実めいて独り立ちしていくように、いつしか真実と摩り替わる可能性を秘めている。多くの人が閲覧すると分かっているウェブサイトにおいて、この悪質な悪戯が為されてしまった場合、その影響は考えるまでもないだろう。
 それが悪戯で終わればまだ良い方だ。ハッカーの用いる技術が犯罪に関わるようになると、彼らはクラッカーと呼ばれるようになる。情報を取り扱い保存する機器の内部破壊…、情報の奪取、形のない盗難だ。明確に物理的でない横領行為は、どんなセキュリティであっても完璧には防御出来ない。
 多数、少数を問わずして、何らかの危惧を頭の片隅に置いておかねばならない。畏怖からの絶対的な回避の方法が確立出来ていない以上、自分の身は自分で守らなければならない。それは、教訓だ。

   □   □   □

 それは丁度、その日のサイトの更新を終えたところだった。
 毎日書くのは、日記と、掲示板のレスポンス。後者は交流掲示板だから、その全ての書き込みに管理人――僕だ――が矢面に立って返信をしないから、訪問者が増えた今でも、そう負担にはならない。ある程度は、勝手にさせているわけだ。
 知り合いの書き込みがあって、それにレスをするときには、自然と言葉遣いも砕けたものになる。日記然としたものや、勝手気ままなことを書くだけの自己満足的な訪問者も時にはいるが、そんなときには管理人としての特権――閲覧の制限――が及ぶ。
 レスをするだけでも必死だという管理人も割と多くて、他の更新が出来なくなり、それがサイト閉鎖への序章だったりするから、これもシビアだ。一対多数の世界なのだということを自覚せずにサイトの運営を始める者も、結構いる。 部屋主が部屋の改装を毎日出来るはずはないのだが、部屋に置かれるものの変化を訪問者は望む。その準備として、整理整頓はしておきたいのだ、誰しも。
 日課である雑記――日記と呼ぶ以上は毎日書いておきたい――を終えた時、僕は無意識にポケットを探っていた。目的のものがそこに入っていないことに気づき、小さな苦笑と共に、何処か言いようのない渇望に似た欲求を感じ取る。
「やれやれ…」
 どうでもいいようなことをふと思い出してしまったとき、人はけだるい溜め息を付かざるを得ない。そもそも溜め息というものには、自身への心情への妥協の思いが含まれているから、仕方がないこととはいえ…。
 それが真夜中という、自分以外にはその気配を聞き取るものがいないという状況であったことは、正直有り難い。それをいいことに、僕は普段ならば絶対に口にしない類の愚痴を口にしてみる。
「大体僕が、どうして、あんなもののために…」
 僕は、自宅から歩いて十五分の距離にある、自販機に向かっていた。その自販機にしか売っていないものがあって、それを買うために多少急がなければならなかった。午後十一時を過ぎると、その機械は営業を一時停止してしまう。
 …そう、煙草の自販機だ。
 その『あんなもの』のために、僕は深夜に外出を余儀なくされているわけで、それを実行中の身としては、言い訳の仕様がない。自業自得というわけでもないし、かといって自身に対して言い訳をしたくもない。
 別段、僕は喫煙者ではない。
 シガレットを銜えるだけで気分が落ち着くような、パブロフの犬めいた神経反射すら煙草という物質がもたらす効力として期待するまでの中毒者では、ない。少なくとも僕はそう自覚している。けれど、時折、どうしてもその白く細い棒が手元に欲しくなることがある。それは、ニコチン禁断症状などではないくせに、ほんの一日を待つことを許容させない。
 或いはこれも状況反射なのかもしれない。『煙草』というものがただ純粋に、手元に欲しくなるのだ、つまりは。それだけのため? と言われるかもしれないが、そう…、それだけのためだ。
 だから僕は、用もないのに自宅から学校までの十五分をてくてく歩くことになっている。目当ての場所が自分の通う学校の直ぐ近くにあるというのも、なかなか背徳的で、意味のないスリルがあって、いい。
 普通の人にとっては、誰が喫煙者か非喫煙者かなんてことには興味はない。だから、僕が煙草を吸うことを知っている人も少ないし、『僕が煙草を吸わないことを知っている』と思っている人も、必然的に少なくなる。…というよりは、未成年者は煙草を吸わない、なんていう不合理な不文律が出回っているのも、逆に少年たちに喫煙の興味を募らせる要因となっているのかもしれないと思う。
 喫煙という行為は、習慣だ。試しに一本吸ってみたら病み付きになった、という話は、あまり聞いたことがない。一箱、二十本あるのだ。それを消費するために吸い続けるうちに、依存性が鎌首をもたげてくる。いつの間にか、それが当たり前になっている。それが怖さのひとつでもある。
 大概の人間は、命が惜しいくせに喫煙を止めることが出来ないでいる。煙草すら止められないくせに、肺癌に苦しむ未来を恐れ、縮んだ寿命を他の何かで補おうと、永らえさせようと、無駄な努力を始めようとする。無論、煙草すら止められない程度の欠如心の持ち主が、煙草を止める以外の方法で生き永らえる可能性はそれほど高くない。
 だから実は、喫煙者は自身が健康優良児よりも長く生きられない事を既に知っている。止められないのでなくて、止めないだけなのだ、単純に。どうして止めなければならないと思うかと問えば、それは周囲の批判ややむを得ない状況が、彼にそうさせるように責め立てているに過ぎない。他者がいなければ、煙草は誰に迷惑を掛けているのでもないことになる。
 しかし、今の所は喫煙者よりも非喫煙者の割合の方が多いから、喫煙者は大きな顔が出来ない。全く酒が飲めない人が、大酒飲みの大騒ぎを顔をしかめて遠巻きに見ている…、今のところ、そういった単純な構図なのだ、実際は。
 不健全なことと、不健康なことというのは、実はそれ自体では全く意味が違う。ただし、どちらも、ある種、本人が良くないと分かっていることであっても、おいそれと止めることが出来ない場合がある、という意味では、その背徳的な無価値に関し、似たところがあると言っていいだろう。事実に関しては、確かに等価だ。
 思い掛けず浮かんだ自説に苦笑いしながら、孤独な夜の道を行く。
 目指す販売機まであと十数メートル、というところまで来たとき、僕の目は自販機の正面に立つ一人の人物を捉えていた。
 小さな公園の脇である。外灯の明かりが仄かに周囲を照らしていて、天空から射す月の光が、それと呼応して影を作り出していた。水面の裏側に、色の反転した自分の姿が映るように。
 白いシャツに黒い色のジーンズ、というラフな格好で、しかし漂う空気――雰囲気――は何処か薄ぼんやりとしているように思わせる少年は、自販機をじっと見たままなかなか動かない。
 左目の黒い瞳が思いの他、澄んで見えたのは、果たして気のせいだけだっただろうか。
 一瞬その姿が陽炎のように見えた…、というのは明らかに言い過ぎだが、それが錯覚だったのか、それとも彼の内側に潜むイデアであったのか、観察者であった僕自身、定かでない。それを思うと、あながち幻想とまではいかないのかもしれない。
 明らかに煙草を買い慣れてはいないと、一目で知れた。硬貨を入れてからボタンを押すまでのインターバルがやけに長い。視線が特定のものを探すそれではない。それは、彼がどの煙草を買うかを決めていなかったことを意味し、つまりは彼に喫煙の習慣はないことを匂わせる。どれを買っても同じに思える…、という、好奇心に駆られて冒険してみた中学生、といった空気がありありと感じられるのだ。
 やがて――、コトン、と面白みのない音を立てて、少年の買い求めた煙草の箱が受け取り口に吐き出された。彼はそれをゆっくりと取り出し、しげしげと眺める。幾らなんでも、煙草の箱ぐらいで珍しい顔をしなくても、と思いながら見ていると、
「コホッ…」
 一つ、息を吐き出した。顔をしかめる表情を見て、
(重そうな咳をする――)
 そう思った。喉の具合が良くないのだろうか。それにしてはそのタイミングで煙草に手を出すなどという矛盾した行為を不思議に思い、彼に興味が湧いたのは確かだ。
 喉と煙草。それこそ初めて喫煙した中学生のような風潮を思わせる背景。煙草の箱を見ただけで咳が出る、という反射なのだとしたら、かえって冗談では済まないようにも思うけれど、…さて。
 僕はゆっくりと近寄っていって、呼び掛けた。
「薄い茶髪というのは…、月光の下では金色にも見えて粋だよね」
 その言葉の真意は勿論、冗談で、だが。
「え…?」
 その瞬間、彼は意表を突かれたように肩を震わせ、ハッとしたように振り向いた。殺人鬼にナイフで背中を刺された哀れな被害者でも、こうまで驚かないだろう――実際には逆なのかもしれないけれど――。悪戯を仕掛けていた子供が、そうとは知らない母親に呼び掛けられたときのような、と言えば適当だろうか。
 それを目にしつつ、我ながら粋な台詞とは程遠いな、なんてぼんやりと考えていたものだから、カシャン、と小さな音を立てて、自販機のボタン全てに赤々と売り切れのランプが点いてしまった。
「…ああ、十一時か。間に合わなかったな」
 僕は腕時計を見遣って呟いていた。十一時から翌朝五時までは、自販機での販売は禁止されている。
 僕が買おうと思っていたのはコンビニでも売っている銘柄ではあるが、流石に身一つで買いに行く勇気はない。生憎、自分より年上の店員を騙せるような外見は持っていない。
「――あの」
 妙に透き通ったような細い声がしたのは、それがまだ春先の澄んだ空気の夜で、少年の声が真っ直ぐに通って聞こえたからなのだるお。中途半端に伸びた髪が顔の半分近くを隠し、表情があまり読み取れない。
「よければ、これ…」
 すると、彼は怖々とシガレットのボックスを差し出した。僕はそれを一瞥し、
「いや…、きみのだろう? 気遣いなんていらないよ。…お互い、未成年だしね」
 わざと微笑んでやると、申し訳なさそうな顔をされた。
「けれど…、僕は、別に吸わないから…」
「じゃあ、どうして買ったんだい」
 切り替えしながら、
 まさかコイツ、自殺でも考えていたんじゃないだろうな――、
 そう思った。一本や二本程度では確実に死ぬことこそ難しいが、流石に一箱、二十本も食べれば死線を彷徨うことくらいは出来る。滅茶苦茶苦痛だろうが、胃腸で消化することが出来れば、死は手に入れたも同然だ――。
 などということを続けて考えてしまい、不謹慎だな、と自分を嗜めた。
 少年は躊躇い戸惑いしながらも、
「ん…、別に。ただ、買ってみたくなった、から…」
 歯切れも悪く、ポソリと言う。その声には力強さこそなかったものの、暗鬱とした感情は混じっておらず、ひとまずの安堵を得る。両掌の上でころころと箱を転がす様を見ながら、僕は言った。
「…きみは、何となく煙草を買う奴なのかい? 面白いね」
 無表情で『面白い』と言葉を掛けることほど、憮然とした皮肉を僕は知らない。
 それが心外でなかった証拠に、彼は僕の言葉に反論をしない。
「言い直そうか? 吸ってみたくなった、じゃなくて、きみは買ってみたくなった、と応えたね。つまり…、きみの目的は喫煙ではなくて、煙草の所有の側にベクトルがあるってことだ。違うかい」
「それは――」
 図星を突いたらしく、少年は明らかに言葉に詰まる。僕は小さく息を付いて、
「責めているわけじゃないんだよ。こんな行きずりの相手に『喫煙禁止!』なんて釘を刺されたって、きみにそれを止めさせるのに微塵も効果があるとは思えない。黙って背を向けて、自分の部屋でゆっくり楽しめばいいんだからね」
 言いながら、どうして僕はこんなことを彼に話しているのだろう、と思った。こんな、説教にも助言にも、ましてや雑談にすらならない言葉の応酬――。
 すると少年は、一つ頷いた。
「…うん。ただ、煙草を持ってみたくなっただけなんだ。実は」
「持ってみたくなった…?」
「そう。火を付けなくても、ましてや口にしなくても、いいんだ。ただ、煙草を持つのって、どんな気分だろう、そう思ったものだから」
 自分で指摘した説とはいえ、その意味の無さ…、児戯に等しいとは、このことだ。
「それで、真夜中に自販機へ?」
「うん」
「――酔狂だねえ」
「うん。自分でも、そう思う」
 つまり…、彼は、喫煙者の気分を味わってみたかったらしいのだ。ただし、煙草を吸うのではなく、煙草を所有するという行為によって。…一瞬、呆れそうになった。言い訳にしては下手過ぎる。
 …それは、喫煙者の行為に含まれるのだろうか。
「きみだって、似たようなもの、だろう? 自販機が止まるギリギリの時間にやって来て、お目当てのものが買えなかったのはご愁傷様だけれど、それを苦心してるようにも見えないし」
 それを言われると、今度は僕が、言い訳の仕様がない。
「だから。これは、きみが吸っていいよ」
 再び彼は言って、胸の傍で箱を僕に示した。初対面の少年二人が、煙草の自販機の前で買ったばかりの箱の譲り合いをしている。何処か喜劇的だ。
「お咎めはしないんだね、僕が吸うことには」
 訊くと、彼はゆるゆると首を振った。
「それは、僕が言っても仕方のないことだから。他人の意志だけじゃ、喫煙なんて簡単に止められることじゃあ、ないだろう?」
 厳密に言えば、僕はその『喫煙者』の概念からは食み出た存在なのだが、敢えて彼の言うことに賛同し、耳を押さえてみせた。
「耳が痛いね」
「…ごめん」
 僕の言葉に反応し、彼は視線を伏せる。
「どうして、きみが謝ることがあるんだい? 悪者はこの場合、僕の方だろう」
「悪者、じゃ、ないと思うな。煙草を吸うことが悪ならば、大人の半分は悪人だよ」
 それは、確かに。
「なら…、何だろうね」
「国の役人だって、堂々と喫煙するんだもの。煙草を吸わないことだけが優等生の条件じゃないと思うよ。悪行と呼ばれることは、もっと、ずっと沢山ある」
 言い得て妙なことを彼は言う。
「成程。優等生の振りをすることが得意な人のことを『優等生』と呼ぶのと同じだね」
「…そこまでは言わないけれど」
 そこで初めて、少年はクスリと笑った。
「きみなんかは…、それを計算しているように見えるよ」
「僕?」
 大仰に髪を掻き上げてみせる。確かに、前髪は鬱陶しいから分けているだけだし、眼鏡だって実はディスプレイが眩しいからしている伊達だけれど、それは優等生の振りをしているわけじゃない。
「それは初対面ゆえの買い被りだ。喫煙者が全員偉そうに見えるわけじゃないだろう?」
「それは、そうだね」
 相槌を聞いて、僕は一つ溜め息をつく。
「――でもね、そもそも」
「?」
「あまり趣味じゃないんだな、これは」
 少年の手を取って、その中の小さな箱を見遣る。
 『タール6ミリグラム、ニコチン0.6ミリグラム』。実際、喫煙者に問うてみれば、こんなものはまだまだ軽い方だと言われるだろうが、戯れに吸ってみるにしては喉への刺激が大き過ぎる。初めて吸うにしても、負担は大きいだろう。まず間違いなく、咽(むせ)る。
「というより…、僕だって、遊びで吸うようなものだからね。あまりキツい奴は未体験だ」
「そうなんだ。…慣れているように見えるけど」
「優等生の振りを?」
 茶化すように、言ってみる。思惑通り、少年も一言返した。
「そうかもしれない」
 黒髪の真ん中分け、それに伊達眼鏡、綿シャツといった格好は、何かの模範生のように見えるのだろうか。…だが、それはそう見えるだけだ。実際のところ、真夜中に煙草の自販機へ凱旋してきている事実が、それを裏づける。
「こう見えてもね…、僕は、不健全なことはしないように努めてるんだ。これは数少ない僕の信条」
「喫煙は、いいんだ?」
 それには応えずに、僕は一つ申し出た。唐突に。
「一つ、昔話をしようか。…時間はあるかい」
 深夜に煙草の試し買いをする身の上だ、少しくらいの暇があろうことは予見出来たが、僕は一応伺いを立てる。少年は頷いておいてから、
「昔話?」
 鸚鵡返しをする。そう、と頷き返し、僕は話とも言えない話を、彼に語った。
 ――それがあの、詰まらない、空き地と猫と青年の話だ。
 煙草の自販機の隣で営業を続けている飲料水の自販機でコーヒーを奢り、淡々と僕は話をした。白皙の少年は、相槌を打つこともなく、横槍を入れることもなく、黙って僕の話を聞いていた。

「何て言ったらいいか…、何が悪いことで、何がそうでないのかなんて、本人の信条に反するか否かでしかないよね、きっと。…その人も、一度そうしようと決めてしまったら、途中で引き返すことは出来なくなってしまったんだ」
 話を終えると、少年は最初、そんな言い方をした。彼の中ではきっと、善悪の区別は明確になされているのだろう。そうでなければ、それを言葉に表して伝えることすら出来ないはずだ。
 善悪の基準は、本人にしか出来ないことだから。
「一番悪いのは誰だったんだろう、そう度々思った。けれど…、子供心に、そんなことには全く考えは及ばなかったね。ただ、沢山の猫がいなくなった、という事実が不思議で、怖くて、猫を可愛がっていたようにしか見えなかったあの青年の心情が分からなくなって」
 話しながら、僕は少し、自嘲気味に笑っていた。
「今の僕にとっては、そんなことは些細な問題に過ぎない。何処でも起こり得る一つの出来事を知った、ということでしかない。野良猫がいなくなったから、僕の生活が変わったかといえば、そんなことはない。ペットショップから見覚えのある猫が買われていったのと、外見上は殆ど差異もない…でも――」
「でも?」
 言葉を区切ると、少年は僕の目を覗き込んだ。感情を見透かすような瞳だ。
 僕は、話していなかった一つの事実を口にする。
「その青年が、いつも火のついていない煙草を銜えていたことだけははっきりと覚えている」
「煙草」
 その単語の登場が意外だったらしく、少年は僅かに目を開いて僕を見た。
「僕はね、煙草を口にはするけれど、それに火と付けて吸うことは殆どないんだよ。僕が見た、あの青年と同じだ。シガレットを口に銜えることで、余計な心情が言葉となって零れるのを防いでいるのかもしれないし、喫煙の準備は万端なのに点火はしないという事実を所有することで、逆に喫煙への一線を引いているのかもしれないけれど――」
 それは、意味のない後付けの理論だ。
 或いは、相手のいない反発心なのか。
「煙草ってのは、人によってはその程度のものなんだってこと」
 僕は、そう締め括った。
 火のない煙草が、僕に好奇心を抱かせた。火の点いていない煙草だからこそ、僕はそれに執着するようになってしまった。…精神的な、反発心から来る依存症だ。それに火と点けたとき、僕は何かから負けたことになる。
「これ…、どうしようか」
 相変わらず手の中で箱を弄びながら、少年は言う。
 再び、彼の胸の内には迷いが生じ始めているらしい。
「意を決して買ったんじゃないか。だったら目的に添って、持っていればいい」
「うん…、けれど」
 僕の、日常的で非日常的でもある話を聞いて、気が変わったのだろうか。
「どうしたの? 気分が変わった?」
 頷きも首を振りもしなかったところを見ると、無言の肯定だったらしい。
「だったら――」
 僕は、自販機を指差す。
「受け取り口に戻しておけばいい。誰か欲しい人が貰っていくだろう」
「…そうだね」
 彼は僕の申し出に賛同し、箱を受け取り口に戻す。滅多に見られない光景に、僕は少しだけ笑いたくなった。そして、再度彼に忠告してみる。
「言い訳したって、だれも責めやしないよ」
「言い訳?」
「身体、あまり良くないんだろう? 随分重い咳をしていたように見えたけれど」
「ああ…」
 見てたんだね、と少年は何処か感慨深げに、嘆息した。
「…うん。こう見えてもね、余命はたかが知れてるんだ」
 先程の僕の口調を模倣して、彼は言った。しかし、その内容は冗談で口にするには面白みがなさ過ぎる。意外な告白に、僕は咄嗟の反応が出来なかった。
「勘違いしないでよ。遣り残したことを一つずつ試している、なんて後ろ向きなことじゃないんだから。ふと湧いた好奇心を満たしてみたくなっただけ」
 多少無理してのものだろう、妙に明らめた声で彼は言う。
「…分かってる」
 僕らは、群れに混ざらない野良猫のようなものだ。一方的に喧嘩をされ、病気を移され、ゴミ捨て場の側で、カラスに食われて死んでいく。そんな猫だ。痩せた身体はまさに、皮膚の上に骨格が浮いてたような輪郭をしていて、けれどとても綺麗な目をしている――。
 それが、目の前にいる彼だ。
 道を歩いていると、向こうから一匹の猫が歩いてくる。触れただけで死んでしまいそうな、それくらい儚い描写を思わせる猫は、僕の瞳をじっと見つめて、
『こっちに来ないでよ、莫迦』
 凛とした声で、言ってのけるのだ…。
「よかったら…、名前、教えてくれないかい。僕は――」
 そのとき僕は、以前冗談に作った名刺を財布の中に入れてあるのを思い出した。それを取り出して渡しながら、
「ケイゴっていう。これ、僕のアドレスだ。きみはパソコンは使ってる?」
「あ、…うん」
「オンラインに回線が繋がっているなら、ウェブサイトの方にも来てくれると嬉しいね」
 こんな干渉の仕方は初めてだ。僕は常々、他人と軽々しく馴れ合うような人間じゃない。けれど、彼には他の人にはない何かがあるような気がした。それを言葉に出来ないのがもどかしい。
「ありがとう。…ねえ、きみは――」
 逡巡するような態度を見せた後、彼は言った。
「どうして、見ず知らずの僕にそう、色々話してくれる気になったの」
「どうしてって、…さあ、どうしてかな」
 僕は肩を竦めたが、それだけでは彼は得心してはくれない。
「…ねえ、ケイゴ」
 意識して、僕の名を呼んでくれる。それは少し、嬉しかった。
「きみが、…猫みたいだからかな」
「猫?」
「冗談だよ」
「…僕は、真剣に訊いているつもりなんだけど」
「分かってるよ。ごめん」
 根負けして、唇の端を持ち上げて、言った。
「それは…、多分、少なからず気に入ったからさ。きみのことが」
 一番説得力のありそうな、言い訳だった。
 彼には、自分と似たところがある…、そんな直截な吐露が出来るほど、僕は正直者じゃない。
 気取られたかのような顔をしていた彼は、けれど――、
「ミサキ」
 短く、そう応えた。儚さは相変わらずの、しかし柔らかそうな笑みを共に。
 風が吹いて、ふわりと少年の髪が揺れた。
 その隙間から見えたものに気がついて、僕は少し微笑んでみせた。
「暇なら、少しくらい付き合うけれど? 僕はね、そういうの、あまり嫌いではないよ」
「そういうの?」
 僕はそっと彼に近寄って、前髪を掻き上げてみせた。
「その、右目。オッドアイだね。…初めて見たよ」
 彼の右目は、左目と違う茶褐色に彩られていた。ミサキは、くすぐったそうな表情で僕を横目で見遣る。
「キメラみたいだね、きみは」
 自然と、僕はそんな言葉を口にしている。
「…それとも、モザイク、と呼ぶべきなのかな」
 生物の一個体が、二つ以上の異なった遺伝子型の細胞から成り立っている状態のことを称して『モザイク』と言う。身体の各部位で、体色や性が混じることもあるという。一方、二体以上の親に由来する異なった遺伝子型が、身体の各部で混在する固体を『キメラ』と呼ぶ。
 聞き齧ったそんな知識を伝えると、ミサキは小さく笑った。僕の話が可笑しかったわけではないだろう。親の形質を正しくも不安定に受け継いだ肉体が、一般的に言う健常者と何処が違うのかと問われたら、その質問こそ否定されるべきだ。
「――そんなことを言われたの、ケイゴが初めてだよ」
 そう言って笑う彼の瞳は、確かに綺麗だった。

   □   □   □

 週末の月光浴も、そう悪くはない。そう思うようになったのは、多分彼に…、ミサキという名の少年に出会ってからだと思う。
 彼と直接会ったのは、初対面の晩の一度きりだったが、二日後、僕のサイトに『ミサキ』を名乗る人物が訪問を始めた。彼は常連になり、それからしばらくの間、僕を色々楽しませる情報を提供してくれた。
 それ以降、ニュートラルな間柄で僕たちは交流を続けていた。再び煙草と猫の話は矢面に出ることはなく、一人の友人を迎える者としてのそれは、自然な態度だったと思う。
 彼が遺伝性の病を持っていたことを、僕はあの後、知識に取り入れていた。彼から受け取ったメールアドレスから、雪崩式に彼の疾病を突き止めた。これは彼に対する背信だろうという後ろめたい思いが往々にして僕を責めたが、ミサキは絶対に僕にはそれを教えないだろうと確信したからだ。
 或いは、と思っていた勘は的中した。血友病、心臓病、循環器官の衰弱…、彼は表面的に傷ついた少年でこそなかったが、僕よりも余程、死というものを現実に近しい現実として認識していた。
 彼にとって『煙草を所有する』のが喫煙者の行為の代理に等しかったのは、彼は決して自身の生を見限ったわけではなかったことを意味している。

 ――およそ一年の後…、ミサキは姿を消した。
 姿、と言っても、それはウェブサイト上での『ミサキ』ではなく、…生身の彼の存在がだ。
 失敗は許されない手術に、彼は果敢に向かっていった。
 けれど、そう簡単に救いは訪れなかった。――ミサキは、帰っては来なかった。
 それが仕組まれた運命なのだとしたら、僕は神にすら罵倒の言葉を投げつけよう。けれど、それは様々な偶然が絡み合って生まれた必然だ。『運命』なんていう一言で全てを片づけられるほど、僕らは安穏とした精神を持ってはいない。
 人間の最大の強みであり、同時に最大の弱点でもあるのは、そうやって自分たちを慰めることが出来る優しさなのだろう、きっと。


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