傷ついた二枚のカード


 その小さな体験談を口にするときには、いつも一瞬の躊躇いが生じる。
 何故だろうか…、それはもしかしたら、躊躇いではなく戸惑いだからなのだろうか。
 …それでも、そうと決めた以上は、僕は口にしないわけにはいかないのだろう。
 小学生の頃の話だ。自宅から学校に行く道、つまり通学路からちょっと脇道に入った所に、多少開けた感じの空き地があった。以前はかなり大きな住居が建てられていたのだろうが、住人がいなくなり、土地は更地にされて、随分長いこと放置されていたようだった。
 建築材料の成れの果てが散在していて、小さな子供たちの遊び場としては悪くなかったみたいだが、勿論そうした場で現れる怪我が一つや二つといった微少なものではないことくらい、僕でなくても分かる。
 コンクリート片やガラス片といったものが、荒れ放題の草の中に隠れていて、運悪くその中で思い切り転ぼうものなら、ざっくりと膝や脛を切り刻むことになったはずだ。かく言う僕も、その空き地で遊んだクチである。…誰にでも、そんな時期はある。
 かつては家だったものの残骸がかろうじて残っている場所、というのは、少年たちにとっては大人たちの目から潜むには絶好のー―言わば要塞なのである。そう呼ぶには堅牢さに欠けるが、子供の最大の武器は想像力である。そして、それに負けない創造力。
 果たして、ブロックを積み、棒を地面に立て、草を刈りまでして、少年たちは『自分たちの場所』を作り上げるのに時間を投資した。つまりは開拓をしたのである。
『今日の帰り、いつものとこに寄ってこうぜ』
『また? 今日は何をするつもり――』
 そんな遣り取りが当たり前になされていた。
 時には喧嘩や決闘、試合の場として、またある時には親から叱られた子がこっそりと泣く懺悔の場として、その主のいない土地は活用された。これら全て、今になって思えば立派な不法侵入なのだが、そんなことは子供たちにとって考える必要も余地もない。
 けれど、大人たちから見れば、それは子供を遊ばせるには危惧せねばならない、危険を孕んだ場所なのである。今だからこそ、彼らのような見方も出来るというものだが、当然幼い子たちからすれば非難嗷々といったところだ。少なくとも僕の記憶では、病院に直行せねばならないような怪我に見舞われた子はいなかったはずだが、危険とは予測の段階までしか想像が及ばない以上、予防するに超したことはないのだ。
 ――というのも、大人の特権である超法規的措置、という奴だ。
 そのままでは土地の管理不行き届きとして子供たちの保護者から訴えられかねないと判断したのだろう、不動産会社の手が入り、空き地の入り口には鉄条縄が張られた。勿論、それは突然巡らされた鉄格子として少年たちの目には映ったのである。
 彼らが大人たちを恨んだのかといえば――それは利己主義だろうが――、実はそうでもない。子供が自ら発掘した遊び場というのは、大概がそういうものだ。大人に見つかったときが、占領され、占拠され、或いは閉鎖され、立ち入りを禁止される可能性を秘めた時なのだと、誰もが本能的に悟っている。…そしてまた、別の『彼らの場所』へと移っていくのだ。
 時にはそれを守るために大人と対決する少年たちの物語も目にするが、それは全くの例外だと言える。
 元より、そういった土地を無意味に生産、もしくは野放しにしてしまったのは、社会の先達者である大人側なのだから。表では認めない彼らの非を、子供たちはこっそりと笑っている。…それもまた、別の物語だ。
 少年たちの遊び場が一つ減り、一方で、人が訪れなくなった空き地に新たな侵入者が現れることになる。子供たちがいなくなった数ヵ月後、実質的には再び人の手を離れたその柵の内側に、彼らよりもある意味野放図な者たちが姿を見せる。
 猫である。
 飼い猫、野良猫、ひと目でその全員がどちらに属すのかを素人が見分けるのは難しいだろうが――せいぜいが、その首に首輪が付いていれば飼い猫だろうと見当を付ける程度だろう――、それくらい多くの猫が、いつしか集い出した。猫の集会場というわけだ。
 日が沈む頃になると、彼らの微かな鳴き声が響いてくるのが聞こえた。学校から帰宅する際、時折、甲高い猫の声が聞こえたときもあったが、空き地の中に人間の赤ん坊が置き去りにされているのではないかと驚いたものだ。
 少年たちは、猫たちを羨む思い半分、慈しみ可愛がる思い半分で、鉄柵の外から給食の残りのパンを千切って放り投げたりしていた。それは或いは遊びの延長線上にあった無邪気な感情によるものだったのだろうが、猫たちの多くは、人間たちの気紛れをまさに生きるための享受として受け止めていたのかもしれない。
 それとも…、その空き地にいれば、子供たちが食料を分けてくれる、と打算的な思いのみを胸に、あの場に集ったのだろうか。それは流石に分からない。
 近所に住んでいるのだろう、その猫たちによく餌を撒いている青年がいた。ドライフードの、『カリカリ』と呼ばれる奴だ。きっとディスカウントショップで、五キロや十キロといった、あの大きな袋で購入したのだろう。それを小出しにしてきた、という感じで、小さな袋に入れて持ってきて、猫たちに向けて撒いていた。そして彼の思惑通り、猫たちは有り難がる表情こそ表に見せなかったが、美味しそうに善意のキャットフードを食べるのだった。
 青年は微笑みながら猫たちを眺めていた。表では餌を与えられてても食べないように躾けられているのか、青年の撒いた餌を口にしない猫もいた。まるで青年を警戒しているようで、最初にそれに気づいたときには少し可笑しかった。
 週に二度や三度は、青年は空き地の野良猫たちに餌を遣っていた――、いや、やはり撒いていた、という表現が一番正しいだろう。滑り止めだろうか、白い軍手の左手で白い小さなビニールの袋を下げ、そこから右手でドライフードを掴み取り、ぱあっと撒く。茶色っぽい、お菓子のようにも見える猫の餌が宙を舞い、猫たちの眼前に降り注ぐ。人間にしてみればそれがご馳走のようには見えないが、猫たちにとってはそれが美味しいか美味しくないか、なんてことには興味がないのだと思う。それが彼らにとって食料にさえなれば、そして青年という需要者がいてくれることが一番の喜びなのである。
 実際に、青年が餌を遣るために空き地に訪れるときには、それに合わせたかのように既に十数匹もの猫たちが空き地の中に姿を見せるようになった。青年は彼らを目にして微笑むと、また餌を撒く。
 何が楽しいのか、何が彼をそうさせるのか。何度もその姿を見たので、子供心に『このお兄さんは、凄く猫が好きなんだなあ』と感慨深げに見守った覚えがある。
 ――半月くらいが過ぎた頃だろうか。その空き地から、猫の姿が急に減ったのは。
 突然だった。あれほど集まっていた猫たちの半数以上が、姿を見せなくなっていた。
 一匹や二匹ならば、不幸な事故か病気があったのかもしれない、とか、猫好きの人が気に入った猫を自分の家で飼うことに決めて連れて行ったのだろう、という前向きな事情を思い描くことも出来た。しかし、実際には十を軽く超える数の猫たちの姿が消えていた。毎日のように通る道で、猫たちの集会が始まる前の夕方に、草叢の陰から覗く光る瞳をいつも眺めていたから、次第に見覚えのある猫の顔を記憶に留めるようになっていたのだ。
 その多くにはやはり首輪はなく、つまりは野良猫だった可能性が大きいということもあって、それは単に野良猫や野良犬特有の放浪癖が現れたのだろうかと、無理に自分を納得させようとした。
 別段野良猫の姿が消えたからといって、学校の友人が転校したときのような呆然とした悲しみを感じたわけでもない。ただ…、ふと感じた違和感のような、それを思うと胸が落ち着かなくなるような不安感に襲われ、小さな姿が疎らになった空き地を外から眺め、小さく溜め息をついていた。

 …それに気づくまでには、そう時間は掛からなかった。
 猫の数が激減したことに気づいてから一週間が経ち、あれほど欠かさず猫たちに餌を撒いていた青年の姿が、その頃には見られなくなっていたことに思い至り、…ようやく事の真相が見えた。
 『猫に餌を遣っている、つまりは猫好きである』。その論理式は、正しくなかった。彼は、猫たちに向けて伏線を撒いていたのである。善意の行為として餌を与え続けることによって、彼らが完全に青年に油断するよう、密かに誘導していたのだった。たった一度の、罠を仕掛けるために。
 最後の一度の投擲で、確実に全ての猫を片付けるために。何度も何度も、彼らに餌を与え、出来るだけ多くの猫の警戒心を和らげさせる。『彼は自分たちに餌をくれる良い人間だ』、そう思わせるためだけに、彼は餌を撒いたのだ。
 青年は、猫が好き、ではなかった。決して。それどころか、猫は忌むべき存在として映っていたに違いない。猫を殺したいほど憎んでいたのかもしれない ――、いや、そうであったに違いない。だからこそ、柔らかな表情を浮かべて猫たちに餌を遣っていた。彼らを始末出来ることを思えば、大嫌いな猫の前でも猫好きを装うことを厭わない、そんな歪んだ精神の元で数週間後の『一斉処分』を思うことが、彼の楽しみとなっていたのかもしれない。
 そして最後の日…、彼は、餌の代わりに、毒を撒いた。恐らく、似た色の除草剤か何かだろう。警戒心を失った猫たちは、素直に…、いつものように、有り難く『餌』を受け取った。それが彼らの命を奪う目的のためだけに放たれた、致命的な罠だとも思わずに――、思えずに。
 毒を食べた猫たちは、次々と死んでいったのだろう。最初から餌に口を付けようとしなかった飼い猫たちの前で。泡や血を吐いたのだろうか。痙攣しただろうか。呼吸も止まり、骸と果てたのだろうか…。そして青年は、その瞬間の彼らをどんな目で見たのだろうか。想像することは、怖い。
 猫たちの始末を、青年がどう行ったのかは知らない。今度は大きな黒いビニール袋にでも彼らを放り込んで、まとめて川原の河川敷で焼いたのかもしれないし、こっそり生ゴミと一緒に捨てたのかもしれない。皮を剥いで剥製にしたのかもしれない…、事実の先にあるものは、僕には、どうでもいいことだ。
 ただ、彼の狂気にだけは絶対的に賛同しかねる。これだけは、想像すると怖気がはしる。子供心に残酷な行為を数知れず行っているのが人間という生き物だが、それを自覚した上で行えるのもまた同じ生き物なのだ。保健所の行政員がやむを得ずして行うこととは、意味合いが違う。彼のするべきことは、猫を物理排除することではなく、むしろ前向きな撤退としての放免なのではないだろうか…、そう思い、では、両者の違いは一体何なのだろうと考えてしまい、気分が悪くなったことを覚えている。どちらも、全体的な視野から見れば、何の解決にもならないからだ。
 猫が嫌いな人に『猫を好きになれ』と強制することには無理があるし、数匹の野良猫を殺してみたところで、あの空き地という絶好の溜まり場を猫が知ってしまった以上、また彼らが集い始めるのは必至なのである。その度に青年が餌を撒こうとするのであれば、過剰すぎる動物虐待として訴えられるようにあるのは時間の問題だろう。
 自分に何も出来ないことに、嫌気が差したのかもしれない。僕はそれに気づいてしまってから、その空き地の前を通ることを止めた。怖かったのかもしれない。猫たちが集まる情景を目にするのも、そして、またあの青年が餌を撒く光景を目にするのも、再び閑散とした風景を目にするのも。
 僕自身の中に、猫そのものを見て、可愛いな、と思う感覚が他の人より薄いな、という自覚はある。それは、猫が好きか嫌いかという心情に通じるものではなく、猫と人とが共存する一番近しい道が何処にあるのか分からない、という迷いにも似たものが僕の心に巣くっているからだと思う。それが形を変えて、他者に対し…、というより、生身の人間に対し興味の薄い、僕の人格を保つのに一役買ってしまっているのもまた事実だ。

 僕は、自分に対し、正直ではない。あの時考えたことだって、何の証拠もない、ただの妄想だ。自分勝手に、ただ、そうであったなら、自分が一番納得がいく、そう小心に思っていただけのこと。目の前の事実から逃げも隠れもしない時代は、僕には未だ、訪れてはいない。
 誰もが、実は身勝手だ。人も、猫も、青年も、少年たちも。個人個人が身勝手であることに、僕は反対はしない。ただ、黙って半歩だけ。身を退くだろう。それは目の前の情景から逃げるのではなく、それを見極めた上で、自分に何が出来ることはないのかと問い掛けるためだ。その相手が誰なのかは、その時になって見なければ分からない。
 だから、答えはまだ、出ていない。
 けれど、傍観者としての範疇を越え、僕が当事者の中心となってしまった時に、誰が僕を止めてくれるだろうか。或いは、その可能性を持ち得る何者かを身近に有しているか、という問いに対し、僕は一瞬だけ黙考したのち、応える勇気を持ちたい。


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