ルナティック・シンドローム


 わたしは、迷っていた。現実を受け入れるために必要な時間が、少し必要だった。
 少しだけ眠そうな顔をした、目の前の少年。名前はまだ知らない。
 言葉で説明しようにも、せいぜいが『猫みたいな』程度にしか表現できない。自分の言語能力と語彙(ごい)の貧弱さには笑ってしまうが、同じ猫で言うのなら、明らかに飼い猫よりも野良猫に近い。けれど、粗悪な感じではない。
 柔らかそうな癖っ毛は、色が薄い。黒よりも随分茶色に近くて、…そう、丁度、木の幹の皮の色だ。
 地面の土の色より、少しだけ滑らかな。
 肌の色なんかは、むしろ白に近いんじゃないかというくらいで、睫毛に至っては、わたしよりも長いような気がする。
 瞳に落とす影までも整って見えて、少しだけ羨望(せんぼう)してしまう。
 黒のインナーシャツと濃緑の上着には、まだ少し土埃(つちぼこり)がこびり付いている。
洗濯でもしてやりたい気分だが、着替えの申し出は無言の微笑みで断られた。
 彼はダイニングキッチンのテーブルの、わたしの真向かいの席にちょこんと座って、頬杖を付いて、その横の小さな鉢植えを見つめている。時折、口元が微かに動いて、微笑みの形を作る。
 今年の誕生日に友人から貰い受けたパキラの鉢は、その名前の音韻から受ける印象みたいに、細く長い枝を伸ばし、小さな蕾を開くべく準備している様子が伺える。
 少年は頬杖を付いていない方の手の指をそっと伸ばし、ちょん、と枝をつついた。
 僅かに震えるパキラの枝を見て、何が可笑しいのか、くすくす笑う。
 ここに来て直ぐ様、彼はその鉢植えが随分気に入ってしまったみたいだ。
 わたしよりも、そちらの方に視線が向きっぱなしになっている。
 …ひょっとして、彼は分かるのだろうか、などと、ふと思う。
 そんな、少年の様子をじっと見つめていた、わたしの視線と、不意に持ち上げられた彼の視線が正面からかちあった。
 わたしは意味もなくどぎまぎしてしまい、目を逸らしてしまう。
 何をしなくても楽しそうな雰囲気を漂わせている少年と、彼と向かい合って、何故か落ち着かない、わたし。
 場の主導権は、わたしにあるのが明白で、実際にそうであるのに、なかなか言うべき言葉が見つからなかった。
 しかし、いつまでも黙っていたところで、誰かの口助けがあるわけでもない。
 お互い、それまで全く面識はないし、その日、どういう導きで出会ったのかは神のみぞ知るところだろうと思う。
 言わば、行きずりの関係だ。
 けれど、わたしはこうして少年を自分の家に連れて帰ってきている。
 …いや、持って帰ってきた、という言い方をした方が近いのかもしれない。

――わたしは、少年を一人、拾ったのだ。

 それは言葉通りの意味で、わたしは道端で落し物を拾うように、少年を拾った。
 言い方(ニュアンス)に違いはあるが、状況説明をすれば、まさにそんな感じなのだ。
 他意はない、本当に。それどころか、経緯を思い出してみても、ふわふわと、未だに実感が湧かない。
 半分夢を見ているようで、頬を抓りたくなる。
 …そう考えることで、ああ、これは夢じゃないんだな、と逆に思うくらいなのだ。
 気を抜くと、そんな状況下に置かれた自分を哲学的見地から分析し始めそうで、そえは如何にも自分らしくなく…、わたしはとにかく、何か話さなくては、と思い至った。
 そう、まずは名前だ。
「えっと…、名前をまだ訊いてなかったよね。なんていうの?」
 訊いてしまってから、慌てて付け加えるように、
「あ、わたしは澪(みお)っていうんだけど。衣笠(きぬがさ)澪」
 わたしも初めて、自分の名を名乗った。字よりも音で覚えてもらった方が覚えやすい名前。
「言いたくなければ、別に言わなくてもいいんだ。会ったばかりで、しかもそれは行きずりで、半分無理に連れてきちゃったわけだし。ここに引き留めるつもりも、全然なくって――」
「サクラ」
 次第に言い訳然とし始めたわたしに、続けなくてもいい、と言うように少年は声を発した。
「え?」
「咲良(さくら)。僕の名前」
 律儀にも、テーブルの上に置いてあったメモ用紙に、備え付けのペンで漢字を書いて、あっさり自分の名を教えてくれた。
 植物の桜と同じ読み方だが、アクセントは『サ』にあった。
 ペンを持つ指の爪が長く伸びているところに、視線が引かれた。綺麗な形の爪。
「咲良、っていうんだ。…いい名前だね」
「ありがとう」
 わたしが言うと、彼はにっこり笑った。その笑顔のまま、
「ミオ、は――、」
「…っ、な、なに?」
 急に名前を呼ばれて、柄にもなくどきどきしてしまう。
 彼は――咲良は、綺麗な声をしている。余計な音波の震えが混じっていない、とでも表現すればいいのだろうか。
 その声で『ミオ』と呼ばれると、嬉しいのか恥ずかしいのか、よく分からない衝動に襲われた。
「――ミオは、もう、訊かないんだね」
 咲良は呟いた。
「…なに、が?」
 明らかな動揺が、彼にどう伝わったのだろう。
「ううん。いいんだ。訊きたくなければ」
 少年はゆるゆると首を振ったが、彼が何を言いたいのかは、直ぐに分かった。
 訊きたくないわけではない。訊きたかった。
 ただ、訊くのが野暮だと思ったからだ。そして、…少し、怖かったからだ。
 …それは、わたしでなくても、訊くのは躊躇(ちゅうちょ)したに違いない。

 ――きみは、どうして木の下にいたの?

 そんな一言は、どうしても口にできなかった。
 あまりに、そのままだったからだ。少なくとも、わたしはそう思った。
 質問をしたとしても、咲良の答えが常人に予想できる類のものではないだろうと、容易に察しが付いた。
 それは或いは、わたしが問えば彼は答えてくれるのかもしれない。丁度、今、名前の交換をしたように。
 けれど、それとこれとは、別問題だ。
 再びの沈黙が場を支配しようとしている。先程もわたしを悩ませた影の議長は、この沈黙だった。
 わたしは静寂が嫌いではないけれど、この種の沈黙は流石に苦手だ。
 段々、何かしなくては、と思い始めてしまう。そこで、時間稼ぎにコーヒーでも淹(い)れようかと、わたしは立ち上がった。
一種の強迫観念のような思いつきに、それは違うだろうと、即座に心から抑制の手が入る。
「ね…、咲良」
 そこで、わたしは呼び掛けていた。
「お腹、空かない? 何か食べたいもの、ある?」
 正直、お腹が空いたのは、わたしの方だったけれど、場を持たせるためにそんな問いを発していた。
 すると――、
「ねこかん(・・・・)」
 こちらを向いて、即座に彼はそう答えた。前からそう決めていたかのように。
「え?」
 また、一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「ねこかんが食べたい」
「ねこかん?」
 思わず、鸚鵡(おうむ)返しに訊いてしまう。…そんな食べ物があっただろうか。
「そう、ねこかん」
 彼の言う『ねこかん』が『猫缶(・・)』、つまりキャットフードのことだと気づくまでに、数秒のブランクがあった。
「猫缶…? が、食べたいの?」
「うん」
 自然な笑みを浮かべて少年は頷いた。わたしはどうも釈然としない。
「えっと…、ふざけてるわけじゃあ、ないんだよね…。おにぎりとか、サンドイッチとかじゃなくて、…猫缶、で、いいの?」
「そう」
 笑顔のまま、咲良は再度、頷く。それ以降の確認は必要でなかった。
 それ以上、猫缶猫缶と繰り返していると、舌なめずりでも始めそうな感じだった。
 『パブロフの犬』の猫版だろうか…、と冗談を言っている雰囲気ではない。
 わたしをからかっている様子ではない。どうやら、本気のようだ。
 もしかして、人の姿をした猫の子を拾ってしまったのだろうかと思った。むしろ、その方が説明として納得できないこともない。
 地面から男の子を掘り出してしまった(・・・・・・・・・・・・・・・・・)、なんていうよりは、余程現実味があるような気がする。
 冷静に考えれば、五十歩百歩だけれど。
「…分かった。待っていて。買ってきてあげるから――」
 そこで大人しくしていてくれる? わたしはそう告げて、猫缶を買いに出掛けた。
 男の子のおねだりで、コンビニに猫缶を買いに出掛ける。そんな体験をする者が、果たしてこの世で何人いるだろうか。
 この世どころか、虚構の物語の中でさえ、そんな話は聞いたことがない。
 …わたしは、もしかして、物凄く貴重な体験をしているのではないだろうかと、少しだけ可笑しくなった。
 でも、咲良は多分、本気で猫缶を所望したのだ。


 近所のコンビニには、わたしも知っている有名なペットフード会社の猫用缶詰が幾つか売られていた。
 猫缶、と一口に言っても、意外と種類は豊富なものである。
 『猫の定食屋さん』という、シンプルな絵柄の缶を手に取った。青い背景に、アメショーの猫の写真。『ささみ入りマグロ、かつお風味』と書いてあった。他にも『マグロ白身、サーディン入り』『ヒラメ&ホタテ』といった具合に、猫用缶詰なのに侮れない。
 サーディンって何のことだろうと、一瞬考えてしまった。
 『体重3〜4キログラムの猫には、一回一缶、一日二回を目安として、ドライフードとも合わせてお使いください』
 …成る程。
 一缶、百八十八円。わたしはそれを五つ、色々種類を取り混ぜて取り、レジに向かった。
 どれがあの少年のお気に召すかなど、わたしに分かるはずもない。わたしは猫を飼ったことがないから、猫缶を開けたことすらないし、味なんて想像もできない。
 代金を支払いながら、この店員さん、わたしはこれを猫のために買っていると思っているに違いない、と何故か笑いたくなった。


「ただいま」
 家の玄関を開けると、
「お帰りなさい」
 咲良は、わたしに言われた通り大人しく待っていた。変わらない、淡い笑顔をわたしにくれる。
 ほんの少し、わたしは嬉しくなった。彼がそこにいてくれたことが嬉しかったのか、それとも。
「ちょっと待ってね」
 キッチンで『ささみ入りマグロ』のプルトップの蓋を開けて、…ちょっと固まった。
 初めて直に見た猫缶の中身は、なんというか…、『猫缶だなあ』としか言いようのないものだった。
 どうなんだろう。これ、人が食べて美味しいんだろうか。
 そのまま出すのも変なので、中身を小皿に空けることにする。煮こごりのように外側がゼリー状でぷるぷるとした固まり。
 軽く箸でほぐして、
「…どうぞ」
 少年の前に箸と皿を差し出した。
 流石に猫のように口を直接つけて食べ始めることもなく、彼は箸を持って、
「いただきます」
 律儀に挨拶(あいさつ)をして、キャットフードに箸をつける。
一口大に切った固まりを口に運ぶ動作の全てを、わたしは瞬(まばた)きもせずに見守って…、いや、観察していた。
 ぱくん、と確かに口の中に入れる様を見て、何故か溜め息をついてしまう。咀嚼(そしゃく)する様子も、見逃せなかった。
 現実離れした光景に、わたしは思わず見入ってしまった。…シュールだ。
「変なことを訊くようだけど、…美味しい?」
「うん」
 こくん、と飲み込んで、咲良は頷いた。
「そう?」
「うん。美味しい」
 何を当たり前のことを訊くの? とでも言いたそうな顔で首を傾げるものだから、単に、わたしが食わず嫌いをしているだけのような、そんな奇妙な感覚に襲われる。
「――わたしも、ちょっとだけ食べてみていい?」
「いいよ」
 箸を一組取ってきて、ちょっとだけ、と自分に言い聞かせるようにして、皿からひと欠け、もらってみる。
 恐る恐る、口に運ぶ。入れる。もそもそと噛む。
 第一印象は、よくあるツナ缶と似た味だな、ということだった。味が薄い…、というか、そもそも猫用なのだから、調味料は抑えてあるのだろう。鯵(あじ)の開きなどを猫に与えるのは、塩分が多すぎて良くない、とかいう話を聞いたことがある。
 食感は、まぐろの笹身によく似ていて、食べられないものじゃない、と思った。原材料のマグロは、わたしたちも生の刺身で普通に食べているものなのだから、それは当然かもしれない。
 けれど…、うーん。
 後味が悪い。直ぐに自分の表情が曇るのが分かった。…やっぱり、人間の食べるものじゃない。
 一口で、わたしは箸を置いた。絶対、一缶も食べたら胸焼けがすると思う。
 ちょっとだけ、気分が良くない方へ傾いた。胃がむかつく、というのは、これかもしれない。
 やっぱり、どうしても、『猫の餌を食べたのだ』という思いが先に働いてしまうのだった。偏見だと分かってはいても、これは人が食べるためのものじゃない。…当たり前の話なんだけれど。
 そんなわたしを見て、不思議そうな顔をして、咲良は箸を動かしている。
 本当に美味しいのだろうか、と思ってしまう。けれど少年の手元の皿は、あっという間に綺麗になってしまった。
「まだ、あるよ。もっと食べる?」
 わたしが言うと、咲良は嬉しそうに何度も頷いた。
 猫缶が好物の、少年…、そんなフレーズが浮かぶが、けれど、彼は紛れもなく人間だ。
 下手物食い、というのとも、なんだか違うような気もする。
 それともやはり、実は彼は本当に猫なのだとか?
 確かに彼は仔猫みたいに可愛らしい外見をしていることは、認めよう。
 けれど、ここで実際に猫を引き合いに出すのは、間違っていると思う。
 咲良、という少年について考察するにおいて、一般論を適用するのは根本的に間違っている(・・・・・・・・・・)。そう思えてならないのだ。
 わたしは次第に、自分の考えに自信がなくなっていく。大体、わたしたちの出会いからして、普通ではなかったのだから。


 本当に、変な子を拾ってしまったなあ…、と、わたしの思考は、原点に戻るのだった。


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