そしてぼくらは――をする


 桔梗屋は、和洋折衷の衣料品を取り扱う老舗として世間に知られている。
 その名は呉服屋を思わせるが、わが国で最初に衣服の形をした布を身に付けたのが、実は店主の遠い祖先であるという触れ込みは、笑い話として有名だ。
 言葉に大仰過ぎるかといえば、意外にそうでもない。
 紛れもなく、業界としては最大手である。市場独占に危うい際を行く寡占の模様は、学生の使用する経済書にも大きく取り上げられる事柄であるし、それそのものがもはや社会風刺であろう。
 とはいえ、顧客に対する信用度も高いのは事実だ。
 格段な経済力に物を言わせた舗の代表役が、社会の裏で何をしているのかはそれこそ闇色の話ではあるが、舗の規模が大きいほどに、秘密事を隠し通すことはことは難しい。
 つまり、表向きには一般人の信頼を全面的に買うことに成功し、よって結果的に常に上向きの経営を続けている。
 最寄りの鉄道駅から徒歩一分という立地条件の良さに、拱廊街と隣り合った位置関係が拍車を掛ける。起こした事業に隙のないことを称して『桔梗が立つ』と言われるようになったのも、成程、自然のことだと言えよう。
 さて、桔梗屋本舗の内装は、実は他の大手衣料品舗と大差ない。和装洋装の区別なく、無数の衣料関係品目が所狭しと、或いは殊更に整然と並べられる。
 目新しいものを敢えて探さずとも、自身に添う物が必ず見つかる、というのが大衆的な触れ込みだ。その言葉に嘘はない。つまりは、至って普通なのである。確かに、それは単純なようでいて至極重要なことでは、ある。
 では、他には何が人々を魅きつけるのか。
 それは、桔梗屋の有する『人形』の多さ故だろう。各階層に数多く配置されるエキシビット・ダミーが店員と共に客を迎え、中途半端な人形館のそれよりも鮮明に記憶に残す。
 中でも有名なのが、本店建物の最上階にある、数十体のエキシビット・ダミーが週替わりで入れ替わり、客人に衣服や装飾を見せる展示会場だ。
 桔梗屋には代々、専門の人形師が就いているという。この舗だけのために、つまり桔梗屋の服を着せるために――逆に言えば、桔梗屋の服を着せ、人々に見せるためだけに作られる人形たちの存在。これが、独特の循環形態を成立させている。
 莫大な手間と費用であろうが、労を厭わず、日々季節と変えられる色は店の意向として代々受け継がれ、確かに顧客の来店の目的の一部は、この催しを見るためであると言えるのかもしれない。
 これは最早この舗の代名詞であると言っても過言ではないだろう。それだけに、桔梗屋の知名度は他に群を抜き、『桔梗屋印』の衣料品具を所有していない者は存在しないのでは、という嘘のような話もあるほどだ。
 桔梗屋の成功は、一概に『彼ら』の無言の働きが支えていると言っても過言ではあるまい。

 ――ぼくは、その日も閉店間際の桔梗屋の最上階を訪れていた。
 このところの日課で、一日の終わりには同じ階にある喫茶室で珈琲を飲みつつ、その仕切り窓から僅かに伺える、『展示会場』の週ごとに入れ替わるエキシビット・ダミーを眺める。
 それは、ある種の芸術家が街頭の片隅で人間観察をするようなもので、ぼくは人形たちを眺めることで眼を楽しませていた。
 和装洋装に際限なく、様々な少年の姿をした人形たちは、やはり様々な表情を見せる。
 大概は無表情が人形の基本なのだが、中には淡い微笑を浮かべている物もあり、見るものにふとした安著をもたらしてくれる。
 専門の人形師が一体一体作っているという、実に精巧な造形で、それは生きた正真正銘の少年を一人混ぜておいても、直ぐには気づかれないのではないだろうか、というくらい。
 人形といっても、ただ人の形をしているというだけのものではない。触れてみなければ分からないだろうが、外見上は本当に精密に細工がされている。
 肌の色艶、僅かな凹凸、瞼や首筋の皺までもが本物に殆ど相違ない。玻璃で出来ていることが多い瞳にも、珠の中に琥珀や亜麻色の鉱石が込められ、光の当たる角度によって表情が異なって見える工夫がされている。
 耳朶や鼻骨、唇の厚みまで計算がされたように肉感めいているのが時に艶かしい。頭髪は勿論のこと、眉や睫毛までが、本物の人毛を植え付けられているというのだから、その手の込み様には脱帽ものだ。
 あとは、爪や皮膚、更には骨もが実物である――、となると、流石に人間との区別は完全に付かなくなるだろう。そこまで拘れば笑い話となってしまう。
 兎も角、人形劇で荒っぽく使われるような人形と、桔梗屋が所有するエキシビット・ダミーには、見掛けだけでもそれだけの差があり、まさに人形師の魂が込められている芸術品であると言える。その価値は単純に軽くはない。
 ぼくは、その人形師の中の一人の、子息だ。
 桔梗屋専門である人形師の祖父を持つ。人間嫌いであった彼は、感情の伴わない人形を想像することにより、有機質を超えるための無機質の意味を見出そうとしていた。
 祖父の使途共にそれを引き継いだ父親は、彼とは逆に、無機質な人形に感情を宿らせることが出来たら、と言う考えを念頭に、日々人間の形を掘り出している。
 ぼくはまだ、職を引き継ぐまでには心が至っていないが、父親と同じ考えだった。
 ぼくは現在、『人形の心』について色々と探っているところだ。人の模倣である人形の、外見だけではない実際上の中身、について、自分なりに模索している。
 人形とは『作られた存在』の最たる位置を行くものだと思う。この世に生を受けた瞬間から、既に生きる目的が定められ、それに見合った生き方が出来なくなれば寿命に関係なく破棄される。
 彼らの幸せは何処にあるのだろう、とぼくは考え、その度に切なくなる。
 その問いは、自分たち人間にとっても生きる上での果てなる課題である。その人間が未だ確立させられない答えを、人形に与えることが出来るのか。
 恐らく、それはぼくのみならず人形師の全てが頭の片隅にいつも浮かべている問い掛けなのだろう。そして、自らが作り出す人形に、それを問い掛ける。
 人形の生は、そのまま人形師の願いなのかもしれないと、最近になってようやくぼくは思うようになった。不覚ながらも人間としての考えに捕われて冒険が出来ない自分たちの代わりに、人形たちに思いを託す。
 そんなとき、稀に起こる奇跡を、職人は眼にすることになる、そうぼくは聞いたことがある。しかし、その『奇跡』とは何なのか、まだ知らなかった。
 父はあるとき言った。それはお前自身が見つけ、知ることだと。 だから、ぼくの訪問は続いている。

 その日は週末で、人形の配置が入れ替えられる前日、つまり、一つの組の最終日だった。会場内では、人形の飾られた大きな硝子の箱を、一端隣室の倉庫に運び、そちらに準備された次の週の箱を並べる、という作業が行われ始めている。
 その様子を、ぼくは喫茶室の洋卓の一つに陣取って眺めていた。 桔梗屋舗内の照明は、ほんの僅かに落とされている。営業時間の終わりは近く、ぼくの視線の先にも、立ち回る店員以外に客の姿は見られない。
 部屋の配置の関係上、喫茶室からは会場の中に数多くある人形のうち、入り口の一体しか眼に留めることは出来なかった。 しかし、それだけでも十分だと思わせる事実をぼくは日々噛み締めていた。
 一体だけで、十分だったのだ。一人の人形に無言の言葉を放ち、それがどんな返事をくれるのかを感じ取る。返事がなくても、それでよかった。
 一杯目の洋杯が空になりかけた頃、喫茶室に一人の少年が姿を現した。綺麗な黒い髪をした、ぼくと同じくらいの年恰好の少年だ。
「こんばんは」
 奥の席に一人座っていたぼくに、少年は少しだけぎこちない、優しげな笑みを浮かべて挨拶の言葉を述べた。ぼくも軽く会釈を返す。
 終業間近の舗にまだ残っていて、同伴者もいないということは、ぼくのような物好きなのだろうかと最初に思う。
 紺のセーラ服に半ズボンという、ちょっと変わった格好をしていた。客にしては、場に似合わない様相だと思い、もしかしたら、とぼくは気づいた。
 そういえば、展示会場で彼の姿を見た覚えがあるような気がする。それも、今と同じセーラ服姿だった。臨時の学生内職をしていた、ということだろう。それで、着替える前に喫茶室で一休み、ということか。
 ぼくの隣の席に座った彼は、小さく溜め息をつき、頬杖を付いた。整ったその横顔は、成程、人前でも映えるだろう。人間観察を続けて長いぼくは、そう感想に思う。
 曲げた肘の角度が綺麗だった。落とされた照明に僅かに翳った表情も、静かな雰囲気を自ら作り出している。
 眺める視線に気づいたのか、少年は頬杖をしたままの人差し指を伸ばし、
「あの子の仕事が終わるのを待っているんだ」
 そう言った。その視線の先には、展示会場がある。硝子箱が幾つも並ぶ部屋の中に立ち働く人々がいるが、彼の待っているというのは、その中の誰かなのだろう。
「大変だろうね、毎日沢山の人の前に立つのは」
 洋杯の底に三日月のように残った液体を揺らしながらぼくが問うと、
「仕事…、だからね。決められたことには従うしかないよ」
 何故か悟ったような口調で、彼は言った。少しだけ、尊敬しそうになる。
 仕事、か。
 ぼくは父や祖父の仕事を尊敬の眼差しで見てきたけれど、それを自分がすることになるのかもしれないと思うと、少しだけ人形師について積極的になる。
 今現在の自分の姿…、すなわち少年の像を作ることに、畏怖にも似た戸惑いを覚えることがある。男と女が交わって子を成すのと違い、綺麗だが冷たく、どんなに慈しみの心を注いでも硬い身体しか存在させることが出来ない。
 それを思うと、少し、怖い。
 勿論、その本質を知るために現在の自分がいるのだということを、ぼくは自覚している。求められるのは、ただ忘れないこと。
 少年を作る者たち――人形師は、最早少年とは別の生き物だ。何よりも恐れるべきは、その事実なのだと悟らなければならない。人形も人間も、全ての中間値が少年なのであり、つまりはこのぼくも、曖昧なのだ。
 人形師は、彼らの『少年』に捕われている。
 少年であるはずのぼくも、既に捕われかけている。
 思いに誘われて漂っていた視線が、ふ、と止まった。
「ここ…、席、取っておいてくれないかな」
 言って、立ち上がる。怪訝そうな顔をしつつも、少年は応じて腰を上げた。
「いいよ。…、名前は?」
「藍(アオ)」
「他にお客さんは来ないだろうけどね」
 洋酒を傾けつつ彼は笑い、ぼくも苦笑を返した。
 背の向こうで、ぼくのいた席に少年が座る音が聞こえた。
 展示会場に向かって、ゆっくりと足を進めた。
 何かが気になった。ちょっと、近くに行って見てみようと思ったのだ。

 会場の入り口は、何故かいつも少し狭い。それは、世界を故意に人前から隠そうとしているように思える。
 その場に立って、ぼくを誘引したものの正体が一目で知れた。
 まだ片付けられていない箱の一つに、ぼくの意識は完全に向いていた。足が自然とその前に向かう。正面から、じっと見つめた。
 ――人一人が入って十分な広さを持たせた箱が、人形たちの小世界だ。
 他の数多くの人形たちと同じように、その人形も大きな硝子箱の中にいた。
 枯山水のような風情の、小さな舞台の片隅、とでも形容すればいいのだろうか。
 造花の菊と小さな花弁、砕かれた御影石が散らされている。
 無造作に捨て置かれた石細工、そして明かりの付かない鈴蘭の形をした洋灯。
 和洋が無造作に並べられ、無秩序な空間の空気を匂わせる。
 その中央に、人形はいた。
 最初それは、真っ白な中振り袖、色無地の綿織りの装束だと思った。完全な無地と少し違うのは、片衿が黒なのと、後ろ袖の下側に描かれた、小さな菊の絵。それ以外は、無駄な装飾が殆どない単衣姿だった。
 浴衣や小袖姿の少年象が舗には他にも十数体飾られていたし、ぼくも見慣れていた。しかしそれらと決定的に異なるのは、そしてそのときぼくの眼を引きつけて離さなかったのは、ある種異様とも思える、それに更に加えられた装飾だった。
 いや…、装飾、などという言い方はしたくない。
 襟元が締まっているのが当たり前の着物姿であるのに、その面影はない。
 ただ細い腰を締めつけるように巻かれた腰帯と紐が、一度は正しく着付けられたのだろうと察せられるに留めている。
 右肩から二の腕までが完全に露出し、空気に晒されていた。白い打ち掛けの中は黒の長襦袢であることが伺える。それとも、僅かに引っかかったそれは生地の厚みから見て掛け下げだろうか。
 その上半身は肋骨の辺りまで殆ど曝け出され、乱れていると言っても大袈裟ではない。
 膨らみのない真白な胸は、改めて見るまでもなく少年のそれだ。
 そう…、確かに、その人形は少年の姿をしている。
 女物の振り袖を着せられた、少年の人形。違和感の正体はそれだ。
 一筆で線を引いたような、整った眉と鼻梁。
 唇の端に一筋流された血より、更に紅い唇。
 髪の長い少年が、着乱れた和装を施され、そこにいた。
 細い頤を包み込むような、黒糸のような毛。
 後ろで結わえられた髪が、何かから逃れる意思を示すように流されている。
 一番に眼を引くのは、首筋と両手首に巻かれた包帯の存在だろう。それは本物の血のように鮮やかに、鮮烈に眼に飛び込む。
 首の包帯は、左肩に繋がっていた。それは首から溢れる血に濡れている。解けかけたそれが、そして血の数滴が鎖骨に留まっていた。胸の辺りにまで散る赤が、妙に生々しい。
 左手は、箱の天井より吊り下がった細帯に――いや、これも包帯だ――絡め取られている。
 鋭角な肘。真っ白な腕を滴る血が痛々しい。だらりと下ろされた右手の手首にも、同じように赤く染まった白い帯。
 全てが作り物だと分かっていても、ぞくりと感じさせる。
 それだけに、意図された乱れは、人形の存在感を増していた。
 ぼくは思わず、硝子に手を付いて魅入ってしまった。
 まるで、遊郭の少年が誘っているかのようだった。
「ぼくを早く殺してくれ」と。
 それとも…、彼は死体を演じさせられているのかもしれない。だとしたら、生者に対するこの上ない皮肉だろう。
 痩身に薄い色の配色は、なおその身体を貧弱に見せがちだが、それを通り越して肉体感をも打ち消そうとしているかのようだ。
 金銀の糸が織り込まれた綿の袋帯の下も、乱れは引き継がれている。
 爪先をこちらに向けて座った少年は、膝より奥までもを露に見せている。
 襦袢の下には何も身に付けていないということなのだろうか、しかし情操的でないのは、こちらに向けられたその視線に定まりがなく虚ろで――否、焦点がないからだろう。
 結局は、真白い身体の殆どの部分を表に見せているのだ。
 白い打ち掛けの醸し出す清楚さの、全く逆を現そうとしている製作者の意図が、これ以上ない形で成功している。
 なまじ、少年の素肌の色が白いために、その対比と、更に血の装飾が全てを見事に際立たせている。
 眼球の裏側から、直に視神経を針で突かれるような、しかし淡々とした視覚への刺激。
 白無垢打ち掛けを否定し、色打ち掛けや黒帯留め袖を退け、色留め袖に逃げ方を教えている色の配置とその精神に、圧倒されそうになった。
 二重三重の驚きは、そう簡単に見るものの脳裏からその影を消そうとはしないだろう。
 何よりも不思議だったのは、そこまでに普通でない姿を見せつけられているのに、ぼくは正直その人形をとても綺麗だと思ったからだ。
 少年の躰自体に血の心象が同化しているのに、打ち掛けには全く赤い色が付いていないのが、理由の一つだろう。それに、彼の表情が凄惨とは無情に欠けていたのも根拠となる。
 陳腐な表現だが、ぼくはその少年が生きているようだと思ったのだ。
 無論、正面から彼と視線を合わせてみても、両者は交錯しなかった。
 少年がエキシビット・ダミーだと分かって見ていても、自然と倒錯めいた感情の湧くのを抑えられないのは、それがやがて性も超越した何かを表現しようとしているからだ。
 無機質に惚れる、というのは、きっとそういうことを言うのだろうと思う。
 だから、溜め息が零れるのを抑えられなかった。
 次いで、苦笑が漏れる。
 ぼくは、それが人形だと分かっているのに、そうでないような気がして仕方がなかった。根拠もないのに、生身の少年が囚われて、魂を抜かれて飾られている、そんなことを考えていたのだ。
 その時――。
 ぼくの眼は、奇妙な一瞬を捉えた。
「え…?」
 少年の視線が、ぼくのそれとぶつかった――人形の眼が動いた――、そんな錯覚を覚えたのだ。
 莫迦な。
 そう思い、硝子面に顔を近づけて、もう一度相手の瞳を見ようとした。
 しかし同時に、ガシャン、と妙に大きい音がして、会場の照明が落とされた。
 終業時刻だ。これから各階順番に、下方に向かって電源が落とされていく。
 ぼくは呆然とした感覚を覚えつつ、まだその場から離れられないでいる。
「失礼――」
 背中から声を掛けられた。振り返ると、作業着の青年がやんわりと退場を促す。慌てて箱から離れた。
 青年は箱の天井に敷かれた黒幕を下ろし、人形の姿を完全に隠した。
「あの」
 ぼくは、思わず彼に訊いていた。
「彼は…、いえ、これは、人形ですよね」
 彼は怪訝そうな表情をする。
「当然でしょう。エキシビット・ダミー。…そうでなかったら何だと?」
 当然だが不躾な返事。
「いえ…、すみません、邪魔をして」
「お気をつけてお帰りください」
 そんな決り文句も、皮肉に聞こえた。
 暗がりの中、眼の前の箱も従業員に運び出されていく。
 一人取り残されそうになり、ぼくは会場から廊下に出た。そちらはまだ淡い照明が残っている。
 気のせいだったのだろうか、とぼくは思い返す。それが至極真っ当な考え方だ。照明が落ちかけたときで、光の当たり具合と眼の錯覚、そう解釈するのが一難無難。
 けれど。
 何故かそうだと思えなかった。

 喫茶室に戻ると、セーラ服の少年はまだそこにいた。ぼくに席を譲ってくれる。
 その隣に座り、ふと見た視線の先に、『TONAMI』という文字の刺繍がされた腕章が少年の二の腕にあるのに気づく。彼の名前らしい。 彼の相方はまだ来ないのだろうか。
「どうしたんだい」
 開口一番、何かを問われる。
「え?」
「狐に摘まれたような顔してる」
「いや…、変なものを見たような気がしたから。きっと気のせいだと思うけれど」
 少年が促すので、ぼくが見た一瞬の不思議を話す。
「変だろう?」
「うん――」
 少年は曖昧な笑みを浮かべるだけだった。きっと呆れたのだろう。
 自分でも可笑しいとすら思った。幾ら精巧に作られているとはいえ、『人形に見つめられた』なんて、単なる自意識過剰だ。
「人形細工の勉強をしているのかい」
 彼は尋ねた。ぼくは頷く。
「人形たちは…、幸せなんだろうか」
 まるで『ぼくたちは』というように、彼は呟いた。
 どんなに名実を並べられても、結局その多くは会場の装飾と、自らの装飾のためだけに作られていると言ってもいい存在。それがエキシビット・ダミーだ。
 ぼくは眼を閉じていた。
 演じさせると旨とする人形。人はそれを操る。
 では…、人形が本物の意志を持ったとき。
 彼らは、どちらを演技とするのだろう。
 故意に飾られた姿と、その装飾を剥がされ、素体という名の仮初の自由を与えられた姿。そのどちらも、やはり何らかの形で利用されるのを、ただひたすらに願うだけだ。
 それは、幸せと呼べるだろうか。
 …そんな筈はない。
 翼があったら飛び立ちたいと人が思うように、自由に身を動かすことが出来たなら、彼らは束縛などもう望まないだろう。
 自分の選んだ服を着て、自分の好きな相手と行動を共にして――。
 微かな足音が聞こえた。ようやく少年の相方が現れたらしい。
「マナ」
 少年が呼ぶのに顔を上げれば、そこに一人の少年が現れた。トナミ、と少年は応え、呼ばれた彼は立ち上がってそちらに向かった。
 それを眼で追った途端、ぼくの表情が勝手に強張る。
 その時でなければ、ぼくは彼を、単純に綺麗な顔をした少年だと思っただろう。しかし、精巧な銀細工のような輝きを内側に秘めていることを伺わせる表情、そして穏やかながら明確な意思を帯びた瞳を見たとき、ぼくは言葉を失った。
 トナミと同じ色違いのセーラ服――袖に『MANA』の刺繍がある腕章が――を身に纏った彼は、ぼくが見た限り、あの袖姿のエキシビット・ダミーと瓜二つの顔をしていた。
「じゃあね、藍」
 トナミはぼくに言って、ぼくは無言でぎこちなく機械的に手を振る。困ったような微笑を彼は浮かべたが、間もなく二人はぼくの視界から姿を消した。
 しかし、ぼくの瞼の裏には、マナと呼ばれた少年の姿が消えずに残る。
 ――あの子だ。
 ぼくは、はっきりとそう思っていた。
 髪は短かったが、切るなりすれば全く同じ相貌だ。…いや、あれは装飾にもよく用いられるウィグだったのかもしれない。
 何より考えを揺るがせなかったのは、首に巻いた幅広のチョーカーと、両手首に巻かれた白いスカーフ。あの人形の各部に巻かれた包帯と同じ位置だ。それらが、部品のように関節を隠していた。
 トナミがそっと少年の首を撫でると、くすぐったそうに微笑みを漏らしていたが、微かに眉を寄せる仕草は隠せなかった。
 あの赤は、本物の色だったのだ。
 心臓と血管なんて埋め込まれていない筈の人形は、血を流さない。
 しかし、あの時の彼は、確かに一体のエキシビット・ダミーだったのだ。ぼくの眼は節穴ではない。
「だったら…」
 曖昧に言葉を濁して、ぼくは顔を伏せた。
 胸が一杯で、泣きそうになるのを一心に堪えた。
 そうだ、あれは気のせいに決まっている。少年が人形を演じていた、なんて。
 ぼくはぼく自身に思い込ませようとする。…しかし、それは無駄な抵抗だった。
 どちらが嘘なのか、ぼくは気づいてしまった。
 人は無垢な人形の姿に、時に天使を見出す。汚れのない姿の内側に、美の理念、人の中にいない観念を見つけ出す。
 けれど…、それは違った。逆だったのだ。
 そうでなければ…、ぼくは人の中に人形を見出したことになる。それは、作られたものが作ったものを優越したことを暗に示しているのだ。
 トナミの曖昧な返事の意味も理解出来た。
 マナとトナミ。二体の――否、二人の少年。
 見つけた、と思った。
 父が、祖父が、ぼくに言ったこと。そして、数々の人形師が、自らの手で生み出そうとしていた命の中に吹き込んだものの正体。そのぼくなりの答えを。
 それが正しいのかは未だ分からないが、ようやくぼくは思うに至った。
 ぼくは人形の『奇跡』を見たのだと。
 彼らは、自由を得たのだ。


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