そしてぼくらは――をする


 意識を薄らがせるような暑さは闇の裏に潜み、しかし遠くから響いてくる祭囃子が、それとは違う熱気を辺りに呼び寄せている。
 葉月もその日で終わりを迎える夜。
 夏祭りも終盤の喧騒の中、十波(となみ)は橋の欄干に寄りかかってそれを聞いていた。
 笛や太鼓、鉦や鼓の囃子は躰の内側から聞こえてくるような錯覚を呼び起こす。
 色取り取りの夏羽織を身に纏った人々が、波のように橋の上にいつしか集い始めている。
 少年は振り返り、それら群集を見遣った。
 木綿織りの浴衣を中心に、紗、絽、透綾といった薄地の絹織物を身に付けた者も少なくない。腰帯に差された扇子や団扇が、華やかさに彩りを添えている。十波も藍染めの一衣を羽織っていた。
 あと四刻半もすれば、近くの河川敷から花火が上がる。それは祭の終わりを告げる音となると共に、夏の終焉を呼び寄せるものとなるだろう。
 川の水は風に吹かれ、自身を瀝瀝と動かしている。川の横の土手に通る一本の道に出来ている人の波も、静かな風に流されるようにゆっくりと動いていた。
 川虫の羽音が奏でる幻想曲。
 川辺に峰となり重なる人々の頭。喜色しかない人々の喧噪。
 無数の足先にある、下駄と草履の地面を刷る軽やかな音。
 今夜だけは我儘を遠慮しなくてもいい小さな子の、何かをねだる甘えた声。
 普段は厳格な祖父の、何処か懐かしそうな笑顔。
 河川敷に時折閃く花火師の手元の灯。
 奇妙に怠惰な煙草の灯と香りは、後に催される宴の小さな前奏曲のようだ。
 夜店と共に連なる飴色の光。
 色と、音と、香りと、感覚の多くを支配するそれらは、どれも曇り無く新鮮だ。
 やがて…、見上げる暗い空に華が開く。刹那の後に響き渡る炸裂音。
 何もない空間に絵を描く、何千何万の仕掛け花火、打ち上げ花火。
 川面に映る水中花、真っ直ぐに昇る龍火線、人々のどよめきと拍手。
 華は光を滝のように零しながら、瞼の裏に鮮やかな残像を焼き付けては幻のように一瞬で消えていった。重なるようにして幾つも上がる花火が、立ち止まった人々の頬を染めた。
 一瞬の昼は、人工的に作られた白夜。それは空に残った煙に、更に映りこむ光の効果だ。それが次の花火で紅色に変わり、意識まで盗まれてうち放たれるかのようだった。
 風は煙を斜めに運び、火薬の匂いがそれに乗ってやってくる。
 それらの強い刺激を感じながら、いつしか十波は、何処か覚めた自分がそこにいることに気づき始めていた。
 周囲の人々と夜宴に歓声を上げ、しかし。
 ぼくは、何故ここにいるのだろう――。
 漠然と、十波はそう思っている自分を見つけていた。
 ここは、ぼくのいるべき場所ではないのではないか――。
 どうしてか、そんな思いに捕われる。それは、普段と違う空気を直接肌で感じているためなのか、それとも。
 ふと下げた視線。何かの気配を感じたような気がして振り返ると、人の群れの中にいた一人に、十波の視線は釘付けられた。
 そこには、自分と同じくらいの年恰好をした、一人の少年がいた。
 誰しもがしているように、浴衣を着た、少年。
 けれども、何かが違うと思わせるのは何ゆえだろう。
 ――あの子だ。
 何故か十波はそう思っていた。
 その姿には、見覚えがあるような気がした。
 闇色を取り込んだような緑の黒髪が、踊るように微風で揺らめいている。
 玻璃のような瞳が空の輝きに続いて様々な色に染まるが、そこに意志の光は薄弱だ。薄明かりの中でも、ゆっくりと瞬きをする睫毛が長いことが伺えた。
 湯化粧の施されたような白い頬と、顎から首への細い線。
 小袖から覗く細腕も、白い直線のようだ。
 すっと一筆で描いたような。整った形の眉と鼻梁。
 思わず見とれそうになったのは、その姿が紛れもなく綺麗だったからだ。他のどんな賛辞の言葉もあるだろうが、少なくとも十波の脳裏にはその一言しか思い浮かびようもなかったし、その一言で十分だった。 彼の羽織る湯帷子は、白い生絹を活かし、うっすらと桜色に染色がされた単衣だった。
 肋骨の下の位置に巻かれた一条の帯は、向かい合う真紅の蝶の絵柄の一枚帯、そしてそれを更に結ぶ帯留めについた銀色の細工。
 少年の線の細さは、そのまま彼の纏う単衣を一反の織物と同化させ、殆ど身動きしない姿を作り物めいて十波の眼に映した。
 単衣の皺までもが見て取れるような気がして、彼は眼を細める。素肌の裏地がその布ならば、それは少年の内側の襞をも内在するに他ならない。
 先程の自分と同じように天空に咲く舞踏を見つめる顔に表情はないのに、それがやけに寂しそうに見えたのは何故だろう。
 それを眼に捉えた時、十波は胸を締め付けられるような痛みを感じた。
 それは神経に障る錯覚ではなく、何かの共鳴にも似た。
 十波の背筋に、すっと指で撫でられたような感触があった。
 ふいと、少年が一度頷き、次に顔を上げたとき。
「あ…」
 その視線が、こちらに向いた。
 そう思った瞬間に、二人の視線ははっきりと交錯していた。
 きっと、どれほど離れていても彼の視線を捉えていただろう。否、同じ形で少年の視線に捕われていたに違いない。まるで周りの全てが透明になり、彼らだけに色が付いているかのように。
 最初から十波の視線に感づいていたとしか思えない偶然に、彼は戸惑ってしまう。にべもなく眼を逸らしてしまったのは、確かに慌ててたからだ。
「トナミ、だね」
 だから、その声があまりに近いところから聞こえたとき、正直彼は驚いた。
 気がつくと、その少年が傍らに立っていた。十波と殆ど変わらない背丈の彼は、しかし覗き込むようにして十波に呼び掛ける。
 細い声だった。しかし、ざわめきの中で、あまりにはっきりと耳に届く声だった。
「ぼくが誰だか、分かるね」
 試すような口調で彼は言い、
「――マナ…?」
 十波が呟くように応えると、少年は微笑んで頷いた。
「そう、真奈」
 その姿を目の前にしてなお、やはり十波は彼に、触れるだけで壊れてしまいそうなほど繊細な細工人形のような心象を抱かされた。
 少年を見遣る十波の表情は硬い。しかし、見ず知らずの他人と話している気はしなかった。
 何より、彼は少年の名を知っていた。覚えていたというよりも、自然と口から言葉が、真奈という少年の名だったというべきだろうか。
 十波の瞳をじっと見て、彼は僅かに首を傾げる。
「ああ、きみはまだ全部を思い出してはいないんだね」
「…何だよ、それ」
 彼の言うことが理解出来ない。十波は笑おうとして失敗する。
 真奈は、笑わない。応えずに少しだけ十波に近づいた。
「行こう」
 言って、突然真奈は踵を返し、歩き出した。
「何処へ」
「いいから」
 背中への問い掛けにも、少年の答えは短い。
 十波は抗えず、黙って足を踏み出した。
 花火は、終わっていた。

 真奈に半ば手を引かれるようにして、二人は橋の下に降りていた。
 蛍が辺りを飛び回っている。仄かな光が二人を足下から照らし出し、艶やかな陰影を作り、浮かび上がらせていた。
 背の低い草が辺りに生い茂り、虫の声が先刻よりもはっきりと聞こえてくる。
 祭囃子は成りを潜め、人々のざわめきも、その余韻すら少しずつ薄れていくのが聞き取れた。
 何か言わなければ、そう思って口にしたのは、
「髪は…、切ったの?」
 そんな問いだった。
 十波の記憶の中の少年は、腰まで細く伸ばした黒髪の持ち主だったからだ。
 真奈は、軽く首を振った。その髪は首筋で揃えられている。
「切っていない。あれは、ウィグ」
「…そうか」
 記憶との差異は、そのせいなのだろうか。
 首を傾げる十波に、
「きみは、『マナ』でないぼくを見るのは初めてなのかもしれないね」
 彼はそんな曖昧なものの言い方をする。
「でも…、ぼくは、知っているよ」
「なにを…」
「硝子を挟んでいつも見てた。きみは――」
 こつん、と少年の額が顳に当たる。
 身を退くことも出来ずに、十波は気持ちだけで身構えた。
「偽者のマナじゃない――」
 その唇が耳に寄せられる。
「このぼくを、見ていただろう」
 そう囁いて、真奈は十波の胸を指で突いた。
「きみのここが、そう言っている」
 …彼は、知っている。
 知っているのだ、全て。
 たった今、自分が思い出せないでいるほんの少しの、けれど大切なことを。
 じわじわと、胸の内側から込み上げてくる感情があった。
 瞬間、脳裏に過る残像。
 それは、浴衣でない単衣を大きく開けられた少年の姿。
 髪の長い、残酷でいて艶やかな表情をした彼は、真奈と同じ顔。
 首から胸元に散った、赤。
 途端に、カッと顔が熱くなった。
「ぼくは…」
 そんな莫迦な、と打ち消すのは簡単だったろう。
 何か言い返せ、と思うのに、唇が痙攣するように震えるだけで息すら漏れない。
 途轍もなく息が苦しい。
 彼の姿を、自分は何処で見ていたのか。
 …その間には、硝子が二枚挟まれていたのではなかったか。
 突然現実味を失う感情の靄。
 尋常な沙汰とは思えない。
 だが、そうだとしか思えない。
 ――真奈に、情操の際を奪われていたのか。
 悟ってしまったその想いは、変わりようもない。
 そういう思いは、自分が自覚する前から既に始まっているものだ。
 十波がそれに気づき、租借するには、今はもう遅過ぎた。
 不自然に、心臓が鳴った。耳の奥で、どくどくと奔流の予感が囁く。
 黙っていた真奈の口が、開いたからだ。
 暗闇で見るには紅すぎる唇が、動いた。
「キス、させてよ」
「な…、んだって?」
 一瞬、十波は自分の言葉を理解することが出来なかった。
 彼の瞳を見返すより前に、既に唇は触れていた。
 真奈の瞳を見ようとしていた筈の自身の瞼が意思に反してきつく閉じられる。
 そのせいで与えられる感覚が脆く鋭く増した。
 反射的に持ち上がった腕が、行きどころに迷う。
 歯列を割られ、味蕾が感じた、この上なく甘い感触。
 真奈の細腕が後頭部に回され、髪を乱暴に撫ぜられる。
 熱い息が送り込まれる。喉が焼けるように熱かった。
 臓腑が侵されるような感覚に、ぞくりと十波は震えた。
 混乱は絶頂を越え、頭の中は真っ白で、もはや何も考えられない。
 麻痺した志向の片隅で、彼は瞼の裏側に覚えていた夜空の星を見ている。
 線香花火の火花が散った瞬間のような夜空。
 放心した視線でそれをぼんやりと見ていた十波の、ふと下ろされた腕が、薄の若葉に擦れるように触れた。
「痛っ…」
 思わず声を出したとき、真奈はもう十波から離れていた。
「見せて」
 直ぐ様、腕を取る。二人の視線の下で、細く赤い線が浮き上がろうとしていた。
 真奈は陶器のような滑らかな指で、鈍く痛みを催し始めた傷の辺りを撫で、
「な…」
 腕を口元に持ち上げ、膨らもうとする血の珠を嘗め取った。
「…きみの匂いがするよ」
 仄かに赤みを増した唇を持ち上げ、少年は笑った。
 動揺が収まらない十波を嘲笑うかのように、ふっと風が吹いた。
 二人の髪がぱらりと舞う。
「どうして――」
 十波はようやく声を出した。普段の自分ならば笑ってしまいそうな程、掠れた声だった。
「どうして、こんな…」
「こんなことをするのか?」
 一瞬、真奈の瞳に面白いものを見つけた時のような光が宿る。
「まさか今頃、嫌だった、なんて言わないだろうね」
「…」
「本当にそう思っていたのなら、振り払って罵倒すればよかっただろう。そうしなかったは、きみの心の何処かに、ぼくを受け入れる用意が出来ていたからだ」
 そう言われると、もはや十波には返す言葉がない。
「それとも、本当は望んでいた?」
 反射的に、ぐっと手を握っていた。
「本当は、悪くなかった…、だろう?」
 真奈は皮肉気な微笑を唇の端に浮かべる。
「抱いてくれと頼んだわけじゃないんだから。素直に頷きなよ」
 更に頬に熱を加えるような台詞を、いとも簡単に口にする。
 硬い骨も、細い腕も、男性的でも女性的でもない、真奈という少年の躰の部品が、そこにあるだけで十波の中の燻りかけた熱を煽る。
 自分をからかっているのだ、と気づくまでに、彼は何度も息をする必要があった。
 そして怖々と、十波は頷く。
 失ったものを取り戻したときのように、微笑んで真奈も頷いた。
 風がひやりと冷たい。
 微熱の余韻はまだ続いている。
 そうだ…、彼は思う。
 情念の行方は、真奈が奪ったのではなく、十波自身が呼び寄せたのではなかったか。
 自分に正直になれなかったからこそ、気づくのが遅かったのではないかと。
 真奈は手を伸ばして、十波の手を取った。
 握った彼の指を一本一本開いていく。十波はされるがままに、その仕草を見つめていた。
 少年は、綺麗な指をしていた。そしてそれは、やはり冷たかった。
 掌に三日月のように爪痕が幾つも残っている。あまりに強く握り締めたせいだ。彼はそんなことにも意識が向かなかった。
 それを裏返し、手の甲に真奈はそっと口付けた。慈しむような、優しい口付けだった。
 先程のような動揺はもう、感じなかった。
 いっそ、十波は開き直ろうと思う。
「何故、ぼくなんだ」
 再び、彼は問うた。
「何度も言わせるつもりなのかい」
 十波の手を握ったまま、微かに真奈は笑んだ。
「硝子の前を行く人は誰でも、その中に飾られたエキシビット・ダミーを『マナ』という一体の人形としてしか見なかった。皆にとって、それ以上の価値はなかったから。…でも、きみは違った。きみは、その人形に『真奈』というぼくを見出した。ぼくはそれに気づいた。それだけさ」
 そう、確かに真奈は人形だった。
 十波はそれを思い出した。
「でも、それだけで」
「それ以上に、どんな理由が必要なんだ。きみだって、ぼくと同じじゃないか」
「きみと、同じ…?」
 そう言われても、十波には思い当たるような記憶はなかった。
「けれど、どうして直ぐに来てくれなかった? もっと早くに、…ぼくのところに来て欲しかったのに、ずっと信じて、待っていたのに」
「…何のことだい」
「ああ…、やっぱり、きみは覚えていないんだね」
 十波の掌を両手で包み込み、真奈の小さな溜め息が触れる。
 何故、きみは急に泣きそうな顔をしているんだ…。
 その言葉は、実際に十波の口からは出なかった。
「『マナ』であるぼくと今のぼくが違うように、『トナミ』であるきみと今のきみは違う。そういうことなんだ」
 あからさまに哀しげな顔をされ、十波は追求の言葉をなくす。
 そうだとしても、何故自分が責められなければならない。
 だから、尋ねた。
「ぼくは、何を忘れてしまったんだ。悪いけれど、何も覚えていない」
「それは、今だけだよ」
 真奈はきっぱりと告げる。
「じゃあ、逆に訊こう。きみは、何を覚えている? ここに来てぼくに会う前に、きみは何処にいて、何をしていたのか、ぼくに言えるかい」
「それは、勿論――」
 言いかけて、直ぐに十波は絶句した。
 何も、思い出せなかった。
 彼の記憶は、橋の袂から今現在までの繋がりしか存在しなかった。
 橋の欄干に寄り掛かる自分が最初にあり、たった今の腕の痛みまで…、それだけだった。
「何も…、覚えていない…」
 真奈は何かを確信したように無言で頷く。
「そう、今のきみは空っぽな筈なんだ。不完全なままで、いなくなってしまっていたからね」
「不完全?」
「本当ならば、ぼくのように、ちゃんと一から設定がされる筈だった。けれど、手続きに不備があったんだよ」
「設定…?」
 一心に、脳裏から消えた何かを思い出そうとして、十波は鈍い頭の痛みを覚えた。思わず小さく呻き声を上げる。
「無理に思い出そうとしなくてもいい。今は思い出さなくてもいい。きみは今、混乱している。ゆっくりでも、ぼくが教えてあげるから」
 真奈の言葉には、いつしか優しさ以外は感じられなくなった。
 それは、十波に向けられた真っ直ぐな想いだった。
 諦めの溜め息と共に十波は頷いたが、朧気ながら自身の置かれた状況が飲み込めた。
 どうやら自分は、真奈と――マナと――同じ存在であったということ。それは、自分が十波であると同時に、『トナミ』であったということだ。
 何らかの事故に巻き込まれたせいで、それまでの記憶という記憶を失い、自分を見失い、彷徨っていたらしいこと。
 今の自分は、今から始まるらしいこと。
 そして…、ぼくらは、互いを想っていたらしいこと。
「お願いだから、もう遠くへ行かないで。ぼくは、きみがいてくれるだけでいい…」
 瞳を閉じた十波が耳にしたのは、そんな少年の切なげな声だった。
 つきん、と胸に疼痛が疾った。瞳の裏側から、鋭い閃光。
「十波…、どうして、泣いてるんだよ」
 言われて、十波は眼を開ける。
「何を言って――」
 眼の前に、真奈の伸ばした指があった。
 何をされるのかと思うと、それはそっと頬に触れて、知らずに流れていた涙を掬った。
 湿った指を見つめた真奈は、不意に視線を伏せた。
「真奈…?」
 その眼の端が、濡れたように光っている。
 躊躇いがちに、そっと十波は真奈の肩に腕を伸ばした。
 何故か、この少年を泣かせたくない、そう思った。
 それは、記憶の片隅に欠片となって残された、十波の想いなのだろうかと思う。
 少年は、十波の浴衣の後ろ衿に腕を回した。
「暫く…、このままでいさせて欲しい」
 肩口で囁く言葉に、無言で十波は頷いた。
 川虫の鳴く声だけが、密やかに響く。
 きみと、離れたくない…、そう真奈が呟いたような気がして、十波は耳を欹てる。彼の声は聞こえなかったが、触れ合った胸から、響いてくるものがあった。
 そんなのは、嫌だ、嫌なんだ――。
 ぼくは、きみ以外にいらない――。
「きみは全部忘れてしまったと言うかもしれないけれど、きみの中のトナミは、ちゃんとぼくを覚えていてくれたんだね」
「…ごめん」
 不思議と、あっさりそんな言葉が口から出た。
「きみが謝ることはないんだ。起こったことを後から思い出すことは、みんな言い訳と同じ意味しか持たないんだから」
「そう…、なのかな」
 そう言われることは、少し切なくて、少し哀しい。
「うん。…そうでなければ、これは一生に一度だけの、たった今だけ許された偶然なんだよ」
 ならば、この感情は偽者ではない。
「ずっと続く今なんてないんだ」
 真奈は言う。
「いつまでも、ぼくたちの心は子供のままではいられない。だから、ぼくたちは答えを見つけなければならない」
「答え」
「そう。そこにはきっと、ぼくたちが生きる意味があるんだ」
 十波の世界は、たった数刻で様変わりしてしまった。
「ぼくらは…、幸せになれるだろうか」 やがて、ぽつりと彼は呟いた。え、と真奈は声を漏らす。
「行こうよ」
 彼の肩に手を添えて、顔を見て、十波は言った。
 そう、行かなければ。
「何処へ?」
「それを決めるために」
 十波の言葉で、真奈の瞳に淡い光が宿る。
 さらさらと水の流れる音が、滑らかに少年たちの感情の潤滑油となる。
 真奈の手を引いて、十波は自分の意志で歩き出した。
 自分が何処に向かえばいいのかは分からない。それはきっと、誰も教えてはくれないだろう。
 しかし、彼らは終夏の花火のように、一瞬で散る存在では終わらない。そこにあるのは紛れもなく彼らの意志であり、例え眼の前にある道が決められたものであったとしても、自分から選び取るか否かに違いはある。
 まずは、彼らの元いた場所へ。そこから、全ては再び動き出すのだろう。十波の足は、既に自然と自身の向かうべき方角に向いていた。
「一つだけ思い出したことがある」
 立ち止まり、振り返って、十波は言った。
「なに?」
「ぼくは、きみの本物の笑顔が見たかったんだ」


後編 >>

目次


Copyright(c) Kazui Yuuki all rights reserved.

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送