機械仕掛けの少年

 発条仕掛けのメモリィ


 昼間はずっと良い天気だったのに、陽が沈みかける頃になると、急に冷たい風が吹き始めた。陽射しは優しいのに、空気は厳しい。冬の天候は、少し意地悪だ。
 今も風が止んでほっとしたかと思えば、次の風が直ぐにやってきて、また髪を掻き上げていく。しっかりと首に巻きつけたはずのマフラーをも、剥がして持ち去ろうとする。風の悪戯は、本当に無邪気で意地悪な妖精の仕業のようにも思える。
 理想を言えば、本当はこんな日には、赤々と燃える暖炉の傍で暖かいコーヒーを飲みながら誰かと話をするのが楽しい。襟巻きを巻き直し、そんなことを思った。
 けれど少年たちは、いつまでも部屋の中に留まっていられるほど外界に興味がないわけがない。その日も木枯らしが吹く中、外に出て、そして今、彼は――彼らは、町の外れの森林の入り口にいる。
 ザワザワと絶えず鳴る梢の葉擦れ。そんな音が、風に乗って聞こえてくる。
 砂利道の終点にある停留所。その横に二人の少年がいた。無造作に襟巻きを首に巻き、それを風で僅かに揺らせつつ佇む黒髪の少年と、胸の上で襟巻きを結び付け、手に持った紙片と空とを交互に見遣っている亜麻色髪の少年。
 心臓が一拍の鼓動を打つ度に、空に掛かる闇の度合いが深まるように感じる。静かさを宿す夜を迎える準備を整えるかのように、舞台を染めていく。
 星は、まだ見えない。地上に二人立つオリオンの少年は、先程から言葉少なに雲の残像を眼で追ったり、風の奇跡を手で掏ったりしている。
 耳の後ろで自分の髪が擦れ合う音を感じ、黒髪の少年は再び、今度は自分で髪を掻き上げた。空気の冷たさに身を竦め、半ズボンのポケットに両手を入れる。指先にカサリと触れる紙の感触。取り出してみれば薄荷雨の包み紙だった。
「まだかな」
 黒髪の少年は、相方の亜麻色髪の少年に話し掛ける。それは問いというよりも、待ち切れない何かに対する確認の口調だ。左手でカサカサと微かな音を鳴らしながら言うと、
「多分。定期便ではないようだから、もう少し待っていようよ」
 もう幾度も眼を通しているのだろう、折り目がくっきりと付いた紙を仰ぐように振りながら返事が来た。打診するような黒髪の少年の言葉は、もうこれで四度目になる。
「その応えはもう何度も聞いた」
 黒髪の少年は顎の下にある襟巻きを軽く噛みつつ言う。
「その質問も、何度も聞いた」
 亜麻色髪の少年の持つ紙は、どうやら地図のようだった。鉛筆で書かれた線図は掠れて何が書かれているのか読みづらいが、少年は大事そうに持っている。その片隅に、彼らが立っている隣にある停留標識に書かれた『A−1』という文字が読み取れる。
「そう急ぐことはないよ、彩。無理に急いでも相手が早く来てくれる保証は何処にもないんだし」
 亜麻色髪の少年が諭すように言う。「それはそうだけど」
 彩と呼ばれた黒髪の少年は、飴の包み紙を広げつつ、
「だって、その相手が間違いなくここに来るという保証もないだろう?」
 憮然とした表情を作り、切り返す。言葉を付け加えながら、包み紙を綺麗に折り畳んでいく。
「きみはそれでもいいかもしれないけれど、どうせなら僕は確かな道を選びたいと思うからさ」
 彩のそんなものの言い方を聞いて、「よく言うよ」
 有斗と呼ばれた少年は少し目を見開く。
「ぼくだって、それで良くなんかないさ。彩も、最初から全てが巧くいくとは思っていなかっただろう?」
「それも、そうだけど」
 何度も畳んで更に小さくなった包み紙を摘んで、彩は頷く。先刻と同じ相槌になっていた自分の言葉に、少し気恥ずかしくなる。
「ね。だったら、どっちだって同じ。それが確かな道だったかは、後から分かることだろう?」
「うん」
 有斗の言葉に彩は素直に頷き、有斗も微笑んで頷いた。かじかんで少し赤くなった指で地図を畳み、有斗はポケットにそれを仕舞い込む。
 口元を覆って指に息を吐きかけている有斗を見て、彩はそれを放っておけない。変に相手を困らせるようなことを言った、汚名返上だ。
「有斗、手を出して」
 怪訝な表情をする有斗の両手を取って自身の両手で包み込み、彩は四つの手に息を吐き掛けた。
「少しは暖かくなるかな」
 有斗は少しだけ驚いた顔になりかけたが、
「…うん」
 短く応えて、少し俯く。
「彩の手って、ぼくより暖かいね」
 なんか、そういうのって不思議で嬉しい。そう有斗は言う。
「有斗の手が冷たくなってるんだよ」
 有斗の指を擦りながら彩も言った。
「手袋、持ってくれば良かった」
「ホントだ」
「寒いことは分かってたのに」
「ホントだよ」
「ホントだよね」
 二人で手を温めながら、ふと顔を上げると目線が合って、同時に吹き出した。

「お腹空かない?」
 停留標識の根元に腰掛け、彩はそう言い、肩掛けの鞄の中を探った。
 辺りの闇は更に濃くなり、一本だけ傍に立った街灯が淡い光を点す。空には月明かりが点り始め、少年たちの待つ相手は、まだ現れない。現れる保証はない、それでも彼らはいつまででも待つつもりだった。
 有斗が彩の隣に腰を下ろすと、彼はハトロン紙に包まれた胡桃パンを取り出した。
「学校の購買部の余りを拝借してきたんだ」
 そう言って彩は悪戯っぽい笑みを浮かべる。拝借じゃなくて失敬だろ、と有斗は突っ込んだ。
「ぼくも持ってきたものがあるよ」
 そう言って有斗が鞄から取り出したのは、小さな缶と瓶だった。蓋を開けると、クッキーと蜂蜜が入っている。彩の鼻にもすぐに甘い香りが伝わった。「手際がいいね」
「抜かりはないよ」
「全くだ」
 多少の手癖の悪さを棚に上げて、少年たちは微笑み合う。
「じゃ、お互い、半分こしよう」
 パンを真ん中から二つに割って、彩は一つを有斗に手渡した。少しだけ固くなったパンに二人で噛り付く。最初に焼けた小麦粉の感触、次に胡桃のほろ苦い甘さが舌の上を滑る。千切った欠片に有斗の持ってきた蜂蜜を塗って口に放り込むと、自然と笑みが零れてしまうような、なんとも言えない嬉しさを感じてしまう。有斗のクッキーも、さくさくとした歯触りが心地良かった。
 夕飯にはまだ少し早いが、昼食の後には何も食べていない二人にとっては、それだけで気休めには十分だった。
「だけど、本当に来るのかな」
 パンを咀嚼しながら彩が言うと、
「日にちは今日で合っているはずなんだ。けれど今夜の便がいつ時なのかは分からない」
 空を見上げて有斗は応えた。
「だから――」
「分かってる。一緒に待つよ」
 彼が最後まで言う前に彩は言って、笑い掛けた。最後の一欠けのパンを口に放り込み、有斗の後ろから鞄を回し抱きかかえた。「こうすれば二人とも暖かいよ、きっと」
 有斗は照れ隠しに、無言で彩の腕をギュッと掴んだ。
「変なことするねえ」
 青ざめた月の光が射し始める。少年たちの顔を白く映し出し、地面に黒い影を映し込む。月の光を届けるために、闇の天使は自身の姿を隠して夜を暗躍する。彼らの白い翼は、そのためだけに存在する。それを見て取る少年たちは思う。白い翼を手に入れる代わりに昼を失うのならば、天使になんてなりたくないと。
 幼き日の夜、眠るのが怖いと感じるときがあった。瞼を閉じると、その裏の毛細血管が見えるようで怖かった。瞼の裏に自分の黒目が映っていて、ずっと自分を見つめ返しているようで怖かった。眼を閉じた後で、何度もう一度瞳を閉じようと試みたか知れない。
 過去を逃れて人々は今を生きている。けれど過去という道を歩んできた以上は、誰しもが決して眼に見えない夢の在処を探し続ける、嘆きの天使と同等の地位に立っているのだ。
 有斗の息遣いが微かに聞こえた。有斗の身体は自分より少し冷たいと彩は思う。先刻一緒に指を温めたときにも、有斗のそれは彩よりも白くて冷えていた。その代わりに、彼の心がとても暖かいのを彩は知っている。
 手の冷たさと心の暖かさは反比例するものだという話を彩は聞いたことがあるが、陶器で出来た人形の持つ本当の心は暖かいのだろうかとふと思った。そして、もしかしたら自分は有斗よりも中身が冷たいのだろうかと、少しだけ不安な気持ちになる。
 それを振り払うように、彩は体温の暖かさを有斗に分け与えた。同じ暖かさになれば、そんな不安は消えてなくなる。
「彩?」
 ギュッと腕に力をこめる彩を感じて、有斗は頭だけで振り返り彼を見る。
「大丈夫? 寒いの?」
 不安そうな声を出す有斗に、彩は首を振って応えた。
「ううん、大丈夫。ちょっと考え事をしていただけ」
「ならいいんだけど」
 彩は有斗の顔を覗き込んで、
「有斗こそ大丈夫? 手だって冷たいし。それで心配になったんだ」
 有斗は殊更にしっかりと頷いた。
「うん、ぼくは大丈夫だよ。有り難う」
「何が?」
「心配してくれて」
「たまにはね」
「やっぱり、寒いだろう?」
「そっちこそ」
「うん、本当は」
「ぼくもさ」
「痩せ我慢?」
「そうかもね」

 パンを包んでいたハトロン紙を折って、彩は飛行機を作った。薄い紙で出来た飛行機は、いかにも頼りなさげに見える。そっと手から放つと、飛ぶというより殆ど落ちるように宙を舞って滑っていった。
 学芸会で背負った作り物の天使の羽根を思い出す。自分の意志で動かせない羽根は、消せない烙印のようにあってもつらいだけの存在。鳥はその翼で空気を下に押して飛んでいるのではないと知ったのはいつだっただろう。
 翼がなければ飛ぶことが出来ないと信じていた幼い頃、翼があれば飛べるというわけでもないと大人に教えられたとき、どうして簡単に納得してしまったのだろう。飛ぶということは、羽根を動かすことではないと知っていたはずなのに。
 けれど、それを認めてしまったわけではないはずだ。何故なら、少年たちはいつだって空へ飛び立つ準備を進めているのだから。大人たちには秘密で行われている、最高の計画。それを口にした者は天使になれない。だから、まだ誰にも伝わっていない。 でも、彼らは天使になりたいわけではない。鳥になりたいわけでもない。大人たちが天使の遊戯と名付けている、天空を舞う者同士の翼の約束こそが彼らの目的なのだ。
 作り物の羽根が剥がれていくように、本物の羽根だとて確実に抜け落ちていく。最後に残った骨格が示すものは少年の儚さにも似た存在の危うさだ。だがそれすらも求められた結果なのかもしれない。
 枝にしがみついていた葉が舞っていった。彩の紙飛行機よりも弱々しく、何処までも飛ぶでもなく地面に落ち、地を這う風に引き摺られていく。
 彩は立ち上がり、紙飛行機を拾いに行った。その傍を、また木の葉が滑っていく。紙飛行機を手に取った彩は、それをまた一枚のハトロン紙に広げて戻し、丁寧に四角に畳んでいった。薄荷飴の包み紙でパンが包めないように、パンの包み紙では天空を飛翔させるには足りない。
「そうさ、そういうことだよ」
 鞄に紙を仕舞い込んで、彩は呟いた。同じように、自分たちは本当の天使にはなれないんだ。
 けれども、紙飛行機は、また直ぐに作ることが出来る。
 有斗の元に彩が戻ると、有斗は立ち上がってまた空を見上げていた。何かを探すように目を細めている。彼と一緒に空を見上げた彩は、思わず息を漏らした。
 青白くも黄色くも見える月が、普段よりずっと大きく見えた。それがもしかしたら錯覚ではないのかもしれないと思わせるほど。手を伸ばせは触れられるのではというくらい、同じ天空にある星や雲よりも近くに見えた。
「凄い…」
 彩が言い、同調するように有斗も頷いた。綺麗な真円が闇の彼方に光り、浮かび上がっている。
 そして彩は気づいた。月の裏側から現れ、こちらに向かってくるもの。それこそ、二人がずっと待っていたものに違いなかった。それを見つめながら、彩は有斗に訊いた。
「有斗は、天使になりたいと思う?」
「天使?」
 突然の質問に有斗はキョトンとした顔で彩を見たが、彩は視線を上げたまま有斗の返事を待っている。やがて微笑み、
「天使を見たことがないから分からない。けれど…」
 他意のない澄んだ声で彼は言った。
「天使のように空を舞う鳥になら――」
 少年の言葉を掻き消す機械の音。
 二人の前に、バスが止まった。


 ――放課後の有斗の一言で、全ては始まったように彩は思う。
「彩、月の兎を見に行こうよ」
 地図を片手に、彩と有斗は足を踏み出した。


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