気づいたとき、私は見知らぬ部屋の中にいた。
目に最初に映ったのは、白、という色だった。
僅かに視線を動かすと、それは四角い輪郭で出来ていて、壁かと思ったが、そうではない。
それは、真っ白の天井だった。次第に焦点が合ってくる。
傷一つ、汚れ一つい、見知らぬ天井。
瞬きをする。視界に変化はない。眼を動かす。真四角の天井。
私は、何かの上に横たえられていた。自分が仰臥していることすら、そのときの私は気づかなければ分からなかった。
身体に力が入らない。身体の動かし方を、私は忘れている。
思い出せ。
息を吸って、吐く。
「思い出せ」
声が出た。自分の声。
しかしこれは、私の声なのだろうか。それも思い出せない。
指の動かし方を思い出す。神経が震える。指が動く。
指に触れた、ざらりとする感触。これは、布だ。敷布。
身体の関節が少しずつ動くようになる。
首を横に捻り、真っ白の壁を眼にする。
天井と同じだ。真っ白で、何の変哲もない壁。
何の変哲も、無さ過ぎる、壁。
一つ、息を吐く。他には何も聞こえない。
自分の息遣いと、血管の脈打つ音だけが脳裏に響く。
回りには、白い色と、その輪郭以外何も見えない。
このまま寝ていてはいけない、そう思う。
何故だろう。今直ぐに、私は起きなければならない。
ゆっくりと、ゆっくりと身を起こす。
俯いて、自分の手を見る。傷一つない、汚れ一つない、綺麗な手だ。
私の手だ。他の何者でもない。
袖口から、肘、肩、胸、腹、と順々に見遣る。
私の身体だ。確かに、私はここにいた。
私はリンネルで出来た上衣を着ていた。やはり白だ。
腕の横に視線を巡らせると、白く塗られた白い棒が見えた。
何故だかは分からないが、私は寝台の上に寝かされていた。
私の見たのは、その支柱だった。
何故寝台に寝かされていたのか…。
分からない。何も分からない。
思い出せないのか、知らないだけなのかも分からない。
私は白い部屋の中の白い寝台の上で眠っていた。私に分かるのはそれだけだ。
そしてつい先刻、眼を覚ました。
そう、私は目を覚ましたのだ。
けれど、部屋の装飾と同じで、私の気持ちは真っ白なまま。
上半身を捻って、後ろを見る。
視線の先に、私は扉を見つけた。
小さな扉だ。硝子の窓が付いた、引き戸。
私は目覚めて初めて、白以外の色を眼にした。
透明という名の色。けれどその向こう側も白。
私は思う。ここは何処だろう。
私は何故、ここにいるのだろう。
私はゆっくりと躰を動かし、片足ずつ床に降り立った。
真っ白な床。真っ白な天井を映している。裸足にヒヤリとする感覚。
ふらふらとして、真っ直ぐに立っていられない。
私は寝台の角に掴まって、ようやく立つ。
意識はもうはっきりとしている。けれどその他は曖昧だ。
床に固定された真っ白な寝台から手を離し、私は歩き出した。
何もかもが白い部屋の中で、白い姿をした私は扉に向かう。
思うように真っ直ぐ歩けない。
私は真っ直ぐに歩きたくないのでは、と思うくらい。
何度も倒れそうになりながらも、私は扉の前まで辿り着いた。
目と鼻の先の距離なのに、かなりの労力を必要としたように思う。
私はまず、硝子窓から扉の外を見た。
透明な硝子窓の外は、思った通り、白以外の色は見えない。
天井と壁、床の境の違いが分かるのみだった。
扉を通して、何も音は聞こえない。
私は扉の把手を握る。手の中にヒヤリとする感触。
部屋の中央を振り返る。私が寝ていた寝台。
把手を引いた。音もなく滑らかに扉は開いた。
私は部屋の外に一歩、踏み出した。
そこは、白い廊下だった。右から左に、真っ直ぐに通路が伸びている。
背中で、カチャリと扉が閉まる音が響いた。それきり音はしなくなる。
硝子窓は、外側からは白い色しか見えなかった。
私は改めて回りを見渡す。白の心象は変わらない。
ここは、何処なのだろう…。
右と左、どちらに進もうかと考える私の耳が、音を捉えた。
誰かの話し声。私にはそう聞こえた。
気のせいだったかもしれない。人の声ではなかったかもしれない。
それでも私はその音が聞こえた方向に歩き出していた。
私の他に、誰かいるのだろうか。この白い空間に。
一歩、一歩、私は歩いた。
白い廊下を暫く行くと、その先に扉があるのが見えた。
私がいた部屋と同じ、真っ白な扉。
そこに向かって、私は歩いた。段々と扉は大きく見えてくる。
気づけば、私の心臓は早鐘を打っていた。
あの扉の向こうに、誰かがいるのかもしれない。
それは、先刻私の耳が捉えたように思う、人の声の持ち主かもしれない。
その人に合えば、ここが何処なのか分かるかもしれない。そう思った。
ここは一体何処なのか訊きたかった。
私が何故あの部屋にいたのか訊きたかった。
いや、それよりもまず、私は誰なのか確かめたかった。
思うように動かない身体を動かし、私は扉の前に立つ。
硝子窓からは、やはり白い色しか見えない。
意を決して、私は扉を開けた。
そこはやはり白い部屋だった。
くすみもない白い壁、白い天井、白い床。そして部屋の中央には白い寝台。
しかし、私のいた部屋にはなかった存在がそこにあった。
いや、そこに、いた。
寝台の上に並んで座って、私を待ち受けるかのようにこちらを見ている二人の少年。
リンネルの上衣と、それと同じ色の半ズボン、揃いの服装をした二人。
少年たちは私を見てゆっくりと微笑んだ。
私は把手を握ったまま、動けないでいた。
刹那、どうすればいいのかの判断が出来なかった。
考えていた言葉が出てこない。
「どうしたの。入りなよ」
青い色のリボンを上衣に結んだ、黒髪の少年が言った。
姿に見合った少年の高い声が部屋の中から響く。
その隣の赤い色のリボンをやはり結びつけた、亜麻色髪の少年もこちらを見て頷く。
私は怖々と足を踏み入れ、彼らに近づいていった。
数歩分の距離をおいて、私は彼らと対峙した。
少年たちの微笑みは消えない。それは私の心の不安を少しだけ和らげた。
きみたちは誰? そう訊くと、黒髪の少年が応えた。
「僕たちは、僕たちだよ。貴方が、貴方であるように」
それは、そうなのかもしれない。
彼らが彼らであることは、それ以上の意味を持たない。
けれど、私は私自身のことを何も知らない。
そう言うと、亜麻色髪の少年が応える。
「貴方は、貴方だ。それはぼくたちが応える必要はないはずのこと。貴方が一番よく分かっていることのはずでしょう? 貴方はそれをただ忘れているだけ」
忘れているだけ? でも、私はそれを思い出せない。
青いリボンの少年が言う。
「誰しもが皆、ここへ来るときには自分を忘れた真っ白な人として現れる。今の貴方のようにね。僕たちは彼らに自分自身を思い出させて、そして彼らの世界へ帰してあげている」
彼らの世界? ならば、ここは違う世界なのだろうか。
「それは、知らなくてもいいこと。知る必要のないこと」
何故? 黒髪の少年に問う。
「僕たちと、貴方は違うから」
違う? 私ときみたちが?
「そう。僕たちはこの世界の住人だけど、貴方は貴方の世界に帰らなくてはいけない」
けれど、私は何も覚えていない。
「本当に、何も覚えていない? ぼくたちのことも覚えていない?」
亜麻色髪の少年が言う。赤いリボンの、少年。
「思い出して…、僕たちのことを。そうすれば、貴方は貴方を思い出す」
黒髪の少年が言う。青いリボンの、少年。
白い部屋の下、二人の少年を、私は見つめる。
少年たちは、私を見つめる。
そのとき。私の脳裏に過る影があった。
忘れていた映像が映り込む。
それは私の記憶だったのか。
瞼の裏に過ぎ去っていく、幾つもの残像。
白い部屋の中で、一人の少年と青年。
雨の匂い。雪の気配。
過去に向けた想い。
舞う一葉。啼く雫。
音のない曲。
音ではない音。
他にない謝儀。
少年の淡い希み。
叶わない夢の在処。
また、白い月明かりの下で、二人の少年。
飴の残り香。月の予感。
未来に放つ想い。
踊る枝葉。鳴る梢。
翼のない天使。
あるのに飛べない翼。
代えられない礼。
少年たちの長い夜。
叶えたい夢の隠し場所。
ああ…。
私は溜め息を漏らしていた。
「そう、貴方はちゃんと見ていた」
亜麻色髪の少年がそっと言った。
私は、確かに私だった。間違いようのない真実を見つけた感覚。
そう、だからこそ、私はここに来たのだ。
私という全てを悟った瞬間、私の存在はその空間から消える。
最後に、少年たちの柔らかい微笑が私の眼に映った。
――そして、少年たちの前からその人はいなくなった。
少年は、隣の少年にそっと囁く。
「次は、誰がここへ来るんだろうね」
相方の少年は微笑んで頷いた。
("Sweet tear's azure" is closed.)
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