機械仕掛けの少年

 螺旋仕掛けのメロディ


 陽が沈み始めた頃に降り始めた雨は、日没の後に小雨となりつつも、地上を濡らすのを止めようとはしない。石畳の道を黒く覆うように、雨霧は小さな拍手のような音を立て続けている。
 太陽が山の向こう側にすっぽりと隠れてしまうと、街は途端に演劇舞台の緞帳が下りたかのように闇に包まれた。夜の帳(とばり)、である。それと同時に、街の家々の窓からは、ランプやランタンの淡い光が零れてくる。それらは太陽の光にはとても敵わないが、人々がこれから夜という不安な時間を過ごすための拠所を作り出す指針になっているのであって、昼間の光とは違った暖かみがあるようにも思える。
 この雨の中、窓の灯が入るずっと前から、多くの建物の中では暖炉に火が点けられているはずだ。季節は既に冬に足を踏み入れ、最近の寒さでは、いつ雪が降ってもおかしくない冷え込み様だ。誰もが赤々と点る暖炉の傍に陣を取り、ささやかな団欒を過ごしていることだろう。
 ただでさえ暗い冬の夜の街は、雨の軌跡が描き出す線によって更なる鈍さを醸し出している。空はまるで煤煙のような色をしていて、何も見えず、時の進むのが普通よりも格段遅く感じられるのは気のせいだろうか。
 雨の降る夜は、不思議と気分が落ち着かない。何か不安な気持ちにさせられるのだ。雨は自然界に恵みをもたらす一方で、天災と呼ばれる災厄を与えることもある。人は、自分の思い通りに出来ないものに対しては常に不安を隠し切れない生き物なのだ。
 幼かった頃は、空から水が降ってくるという自然現象がどうして起きるのか、不思議で仕方がなかった。だが、時を経るうちに何時の間にかそれは日常の中の『当たり前のこと』の一つとして、興味の対象から外れていった。今では無論、雨がどのようにして降るのか、という機構についての知識は持っている。 しかし、訳の分からないものは『訳の分からないもの』として放っておく方が、つまり、その正体を知らずにいる方が、自分たちにとって利益が大きいことも、ある。 人間がこの世界を支配している、そんな幻想が成り立つように。
「彩(アヤ)、何を考えている?」
 ぼんやりと取り留めのないことを脳裏に巡らせていたアヤの耳に、雨音に溶け込むような静かな声が届いた。アヤはその響きで自分がいる部屋に意識を戻される。
 端的に形容するなら、広い部屋だ。粗末な家屋が一軒、そのまま入ってしまう程の空間である。富豪の所有する豪邸の応接間ならば、これくらいの広さは求められるだろう、という感じの。
 だが、奇妙に空虚さを感じさせる場所でもある。それは、この部屋の装飾の無さのせいだと容易に見て取ることが出来るだろう。三面の壁は勿論、床も見事に白い。それも絨毯ではなく、冷たい大理石の床である。一般に清廉無垢を表す白い色が、ここでは単純に奇妙な静けさを際立たせるのにのみ、役立っている。
 精神を病んだ者が、その療養のために通う医院の中には、その建物の基調が何もかも白で統一されているものがあるという嘘のような話があるが、同じ『白さ』というだけのことで言うならば、この部屋の『白』はあまりにも綺麗な白さであるために、かえって無機質な印象で終わってしまう。
 抑揚に欠けた声は、そういう意味では白い空間に相応しいとも言え、真っ直ぐにアヤの中に染み入ってくるように感じた。
「いや…、別に何かを考えていたというわけでもない」
 そう言ってアヤは目の前の少年に微笑み掛けた。
「ただ、雨は何時でも優しいものではない、と思ってね」
 アヤの返事に少年は頷いて、
「優しい雨は心に柔らかく触れるというが、詩的な表現をする者は自分勝手で、他の部分に気配りをする余裕がないらしい。…ぼくは、雨が降る日には耳が痛むだけだ」
 そう応える。テーブルを挟んでアヤの向かいの椅子に座る少年は、言葉通り、物憂げな視線をアヤに向けた。そうして、小さく溜め息をつく。
 窓の反対側、壁の中央に設らえられた暖炉の骨組みである煉瓦にも、壁と同じ配色の砂礫を混ぜたものが使われている。その中で今も赤々と燃えている炎や、部屋の隅にある扉、少年の寄り掛かる大きな窓枠の焦茶色が余計に際立って見える。組み合わされた薪が放つ鮮烈な赤は、少年の白い頬を僅かに朱に染める。
 少年は、その炎のような濃い赤を基調とした色の上衣を身にまとい、薄い外套を羽織っている。白い外套に覆われた細身の輪郭から伸びた上衣の四肢部、二の腕と膝下を絞るように結ばれている、これも赤い色のリボンが眼を引く。
 抜けるような白い肌と亜麻色の髪、暖炉の火を碧眼の瞳が反射する。彼の背景にある雨の舞いと重なって、ふと、アヤは彼に水際の睡蓮のような印象を受けた。
 アヤは、問う。
「――有斗(アルト)は、雨が嫌いかい」
 少年は、首を振った。
「嫌いではないよ。けれど」
「けれど?」
「あれらが奏でる旋律は、今日のような静かな夜に限って、途切れのない一つの音に聞こえるんだ。まるで、ただ同じ一言を、ぼくに伝えようとするかのように」
「雨の伝える一言、か…」
 窓際に揃えられたテーブルとティーセット。クロスが掛かったテーブルの上の陶器のカップを手に取り、アルトはその中に注がれた琥珀色の液体を一口、喉に流す。両手でカップを弄びながら、
「…そしてぼくは、それをただ聞くことしか出来ない。それまで知らなかった国の者が唐突な一言を訴え続けるみたいなものだ。ぼくはその音律を理解することも出来ない。雨の音の調べは、だから聞いていると物悲しくなるんだ」
 吐き出すようにそう言うと、彼は紅茶のカップをテーブルに戻し、椅子に身体を預けた。手を伸ばして、傍らにある寝台を囲うヴェールに指を掛ける。人差し指に薄い幕を巻き付けながら、
「その鬱陶しさから逃れるために、始終、気を紛らわせていなければならない焦燥に駆られる」
 少年は半ば悄然とした顔つきで言うのだった。アヤは伏せた少年の睫毛の長さに暫く注意を引きつけられていたが、
「…僕に、何か出来ることがあるかい」
 そう訊いてみる。
「何も望まない。ただ、しばらく、ここにいてぼくと話をしていて欲しい」
「分かった」
 一つ頷いて、アヤはアルトの脇の窓ガラスの外を一目眺めた。雨の音は殆ど変わらないが、それは先程よりは、やや鈍く窓を叩いているようにアヤには思えた。
「アヤは、そういうことは感じないのか?」
 アルトはじっとアヤの眼を見て言う。彼はいつも相手の瞳を真っ直ぐ見て話す。それは相手の視線を捕らえたいという能動的なものではなくて、視線を逸らされることを怖がる子供のようなものだとアヤは感じていた。
 少し考えて、アヤは答える。雨の言霊について。
「僕にも、きみと同じ音が耳に届いているのは間違いない。けれど、それがきみと同じ音として聞こえているのかは、僕には分からない」
「どういう意味?」
「音というのは、空気が振動して発せられるものだ。そして、どんな場所にも空気はある。だから、どんなものであっても、それが動いて空気を震わせることがあれば、そこに音は生まれるんだ。…例えば、今まさに、きみの指先で発せられている衣擦れであっても、それは確かに音の一種。意識しなければ聞こえない存在だけれど、僕が指摘したことで――聞こえるようになっただろう?」
 アヤはカップに口を付け、もう片方の手で彼の手元を指差す。アルトは指に巻き付いた黒灰色の幕をまじまじと見遣った。何か言い掛けた彼を柔らかく制し、アヤは続けた。
「壁時計の裏で絶えず動きを続けている巻きネジのように、普段は気にも留めない音の発生源というのは、何処にでもある。音というのは、いつでも何処にでもあるものだけれど、同時に、聞く側が認識して初めて、その音があったということにもなるんだ」
「うん」
 再び、二人の眼が合った。暖炉の中で、パチンと薪の爆ぜる音が、一つ。
「僕には、きみのように雨の調べを聞き取ることは出来ないけれど、逆の考え方をすればそれは羨むべきことかもしれない。言わば、きみは普通の人には作り出せない、しかも感じることも出来ない自然の響きを捉えて感じることが出来るのだからね」
「そうか」
 ヴェールから指を解いて、アルトはビスケットを盛った皿に添えられたハーブの一葉を摘み上げ、口を開けて僅かに覗かせた舌の上に落とした。そして口元を上げ、一言、
「背中の引っ掻き傷が、誰かに言われるまで気づかないのと同じだな」
 それを聞くアヤは、不覚にも顔が熱くなるのを感じる。
「――それは違うような気がする」
「どうかな」
 言葉に詰まるアヤを見て、アルトはほんの少し笑った。
 雨の日となると決まって抑制されるアルトの感情が、少し緩んだようにアヤにも感じられた。これくらい役に立てるのなら、話し相手も悪くないと思う。
 しばらく沈黙があり、
「彩」
 ふと、アルトは彼を呼んだ。 急に自分の名前を彼に呼ばれると、アヤは何故かはっとしてしまう。ものの言い方に刺々しさを感じるのは否めないが、確かに彼の声の響きは淀みがなく潺湲としているように思われた。アルトの声は綺麗だと、アヤはいつも思う。
 そしてそんな余計なことを考えていたために、その後で彼が発した言葉を、アヤは予想だにしていなかった。
「有り難う」
「え」
 一瞬、アヤは何を言われたのか判断できず、頭の中で彼の言葉を反芻する。
「どうした? 突然」
「いや…、ただ、そう思ったから、そう言っただけ」
 アルトは珍しく、アヤに対し自分から眼を逸らし、座り直すと窓枠に頬杖を付いて窓の外に見える景色に顔を向けた。多分に、今の一言は本当に思わず口から出た言葉だったのだろう。だから自分でも安易に気を許した失言だったと極り悪がっているのだ。それが見て取れて、アヤは彼に気づかれないよう喉の奥で笑った。
 人を諭そうとするとき、大人は社会の中での『大人』の正当性に付いて言及し、そうあらねばならないとする。子供は自分というただ一人の存在をその中で正当化しようとする。人が誰のために生きているのかについて正しく把握出来ている者は、意外と少ない。意志を言葉に出来るのは人間だけだが、だからこそ真っ直ぐに感情を言葉で表すのは、言うほど簡単なことではない。
 滅多に他人に礼を言ったり謝罪したりしないアルトを見ているアヤは、彼の珍しい言葉を聞いてそんなことを思い出した。アヤは、そんな少しばかり正直でないアルトが決して嫌いでない。
 小雨は、何時の間にか小雪に変わっているようだ。深々と降る雪は、先程までの暗い世界を僅かばかり白銀の光で染めようとしているところだった。積もり始めるにはまだ時間が掛かりそうだが、アヤには雪の降る音が陶器の縁が奏でる音楽のように澄んで聞こえるように思えた。
 アルトには、雪の降る音も彼にとっての『音』として聞こえているのだろうか。彼の横顔もその雰囲気と等しく静かで、なかなか感情は読み取らせてくれない。
「一曲、聞かせようか」
 思い立ち、アヤはカップを置いて立ち上がり、振り返る。彼の背後には一台のピアノが演奏者を待っていた。ランプに黒く輝く姿は、真っ白な部屋と対比して堂々とその存在感を示す。意識しないと、思い出せば白いばかりだったはずなのに、何時しか色取り取りの装飾品が部屋を占めている。
 椅子に座り、鍵盤の蓋を開け、キーの上に軽く指を滑らせる。白と黒のキーの鋸状の並びは、光と影の配置のようだ。どちらが上で、どちらが下なのか分からない。特に密やかに、時に荒々しくキーは叩かれ、いつでも連れ合って半歩の間隙を置いて駆け抜けていく。
「そう――」
 少し考え、そしてアヤは鍵盤に触れず、膝の上で手を組み、目を閉じて身動きを止めた。ただ沈黙を引き連れ、座ることにする。
「どうした、アヤ」
 頬杖を付いた姿勢のまま、アルトは怪訝そうな表情と視線をアヤに向けた。
「弾かないのか?」 アヤは応えなかった。小さな考えを元に、ただ一度口元を微かに持ち上げた他は動きを見せない。雨の夜から雪の夜への移行、まさに白という名の静寂が彼らの周囲を巡る。そこに配置された、暖炉の中で木が燃える音。
 それきりアルトも動かず、じっとアヤを見つめている。それは傍観というよりもまさに熟視だった。アヤが再び自分に向かって声を掛けるのを待っているようだった。
 やがて、アヤは目を開けてアルトに視線を向けた。同時に悪戯めいた柔らかい笑みをする。
「――これが今夜の曲だ」
 そう言うと、椅子を立ってテーブルに戻って来てしまう。
「何も弾かなかったじゃないか」
 アルトは半眼になりアヤを睨んだが、彼は首を振る。
「それこそが、この曲なんだ」
「アヤの頭の中だけで弾いていた、なんて言うんじゃないだろうな」
 冗談めかしてアルトが言う。自分のカップに紅茶を継ぎ足しつつアヤは応えて、
「いや? 僕は確かに演奏をしたよ」
「だが、鍵盤には全く触れなかっただろう。それどころか物音一つ立てなかった」
 彼の言う通り、鍵盤に手を触れなければピアノの演奏をすることは出来ない。まさかピアノの本体を叩いて打楽器にしたり、弦を直に弾いて音を出したりすることを称して音楽とする者はいないはずだが…、そんなことを差し置いても、自分が一体何を言っているのか、アルトには分からないだろうとアヤは思いつつ、訊く。
「…きみは、人に演奏を聞かせることは、楽器の音を聞かせることだと思っていないかい」
 少年は少し身を前に傾け、
「そうだろう? 違うか?」
 僅かに眼を見開き、問い返した。
 冷め掛けた紅茶から漂う残り香を惜しみつつ、カップに口を付けて唇を湿らせ、アヤは僅かばかりの説明を始めた。
「音楽というのは、人間の思想や感情を音で表現する芸術だ。音を素材として、一定の形式で組み立てた作品を、現実の音として聞き手に伝えるもの。自然界の音を音楽と呼ぶときは、必ずそこに音を選び取る者の意思が介入する…、ここまでは分かるだろう」
 細かく頷きつつアルトは聞いている。
「演奏者の奏でる音楽は、聞き手だけでなく当然弾き手、つまり演奏者自身も聞いている。つまり、その時にある演奏というのは、演奏が聞こえる範囲の空間に伝わる音、そのもののことだと言い換えられる」
「空間を音が支配するわけだな」
「そう。では、もう一つ訊こう。奏者の『演奏』とは何処から何処までのことを言うのだろう?」
 考える素振りを見せるでもなく、アルトは、
「曲の始まりから終わりまでだろう?」
 アヤは首肯して、
「それが例え未完成なものであったとしても、それが演奏された時点で一つの作品として楽曲が成立していると認められることがある。そうである以上は、それには始点と終点がある。そして奏者はそれに則った演奏をする。それが普通で、当たり前のことだ」
「当たり前でないものもあるんだな?」
 アヤはカップを揺らし、小さな波紋に灯火の反射を映す。アルトの直ぐ横に見える雪の群れは、それぞれが一粒ずつの光の反射を煌かせている。
「結論から言えば、そういうことだ。一つの曲に始まりと終わりがあっても、そこで奏者の持つ『音楽』が終結すると決めることは、聞き手には決して出来ない。先刻、きみが言ったように、空間を音が支配する瞬間がここで言う演奏なのだとするなら、奏者の導き出した音楽こそを、彼の音楽作品だとすることが出来る。
 ――そこで、先程の僕の演奏だが」
 彼はほんの一息分の間を置いて、アルトに尋ねた。
「僕がピアノの前に座っている間、きみはどんな音を耳にした?」
 アヤの不意の質問に、アルトは宙に視線を向け、思い出すように言う。
「音、か? 雪の降る音や、せいぜい、薪の爆ぜる音しか聞こえなかったが。…強いて言えば、僅かな絹擦れや、自分の心臓の鼓動。そういう気がする、という程度でなら」
 それがどうしたんだ、と疑問の声を出す彼に、アヤは説明を加えた。
「奏者が演奏をしなくとも、空気がある限りはその空間には必ず音が存在する。そして聞き手は必ず何かの音を感じるはずだ。それは本人には音楽と思えないかもしれないが、その場所に、その瞬間にしか存在しない、一つの作品であるように思えないかい」
「それは…」
 アルトにも、アヤの言いたいことが分かってきたようだ。
「奏者がピアノの前に座り、そのまま何もせずに時を過ごし、やがて立ち上がり帰っていく。そんな作品が発表されたことがあった。その間にその空間にあった音は、確かにその時にしか聞くことの出来ない、ただ一度の作品であり、それを演奏したのはピアノ奏者であると同時に、その聞き手でもある、というわけさ。
 聞き手は、奏者の作品を聞いていただけではなく、奏者と一体となって作品を作ることに参加していたんだ。二度と同じ作品を耳にすることが出来ない、貴重な時間を過ごしたのだ、とね」 しばらく呆然とアヤの眼を見ていたアルトは、やがて憮然とした表情になる。
「それをふと思い出してね。今夜はそんな曲を奏でてみようと思った」
「…詭弁だな」
「そうとも言える。だが事実だ。アルト、特にきみにとっては恐らく、誰よりもそう感じられることじゃないのか? 普段は意識せずとも感じていることだ」
「否定はしない。…考えたこともなかったよ」


 夜は更に深けていく。雨から交代した雪は、やはりそれまで雨がそうだったように、いつまでも止む気配を見せない。白い部屋に白い肌の少年、そして白い雪。赤い衣服に赤いリボン、そして赤い炎。そうやって、世界のあらゆるものは、常に対比している。
 会話が一段落してしばらくすると、少年の瞼が少しずつ下がり始めた。彼の脇に寄り、
「今夜はもう休むといい」
 立ち上がり、アヤは短く声を掛ける。アルトは小さく頷いた。
「長いこと、付き合わせてしまったね」
 アヤが言うと、彼はかぶりを振って、
「アヤが悪く思う必要はない。貴方がいてくれてよかった、いつもそう思っている」
 素っ気無い口調にも、アヤはその言葉の端々に暖かいものが混じっているのを感じた。少しの沈黙の後、
「…有り難う」
 少年の髪を撫でる。彼はくすぐったいような表情をした。
「どうした? 突然」
 傍らに立つアヤを見上げて言うアルトに、アヤは応えた。
「いや。ただ、そう思ったから、言っただけだ」
 アルトがアヤに言った言葉を、そのまま。
 眼を閉じ、アルトは力の抜けた上半身をアヤの腕に預けた。アヤは彼をそっと抱き留める。覗き込めば、ほんの僅かに開いた唇からは直ぐに微かな寝息が漏れていた。
 ゆっくりとアルトを抱え上げ、アヤは彼を寝台に運んだ。華奢な身体が毛布の中に隠れる。
「良い夢を」
 少年の寝顔をしばらく眺めた後、アヤは自分の座っていた椅子に戻る。
 鈴の音のように、雪の降る音は、窓の外に意識を向ければ途端に聞こえてくる。あれは天使の羽根が零れる姿なのか、それとも涙の凍てついた姿なのだろうか。
 自分には聞こえない音を感じ取る少年の意識を、アヤは俄かに計り知ることは出来ない。
「しかし…」
 アヤは一人、呟いてみる。
 この声も、アルトには音階の繋がりとして聞こえているのだろうか。
 アルトは、その耳に聞こえる音全てが、オクターブに配列される音階として聞こえるのだという。彼が雨に対し憂鬱な眼差しを向けるのは、同じ一つの音が、雨が降り続ける限り止むことなく聞こえ続けるからなのだ。
 自分でもさほど達者とは言えないと分かっているピアノの演奏をアヤがしなかった理由は、そこに起因していた。曲によっては、周囲の音と混ざり、アルトにとってのみ、耳障りな不協和音を奏でかねないのを知っているからだ。 彼の独特な喋り方…、いつも眠そうにしている、と誤解されかねない話し方も、周囲の不協和音から出来るだけ違和感を逸らしたいから。まだ年若いアヤが終日制の家庭教師などという役を負っているのは、その声が少年の聴覚を無駄に刺激しないからに過ぎない。過ぎないのだが…。
 アルトは自身のその能力を嫌っている節がある。彼にとって音とは音階の並びでしかなく、記号でしかない。自然なものとして捉えるにはそう意識する必要があり、つまり常人とは音に対する感覚が逆なのである。
 アヤには、彼の能力が果たして、忌むべきものなのかどうかの判断は出来ない。例えば音楽家は少なからず音を音階で捉える才能を持ち合わせているものだし、素人でも譜面を見れば分かる、美しい音楽の持っている整列な音階はそれだけで一つの芸術だと思う。
 しかしアルトのそれは極端だ。ある程度まで自身で抑制…、つまり、自分の意思で『雑音』を意識から排除出来るようになったとはいえ、完璧過ぎるな音感、という能力に関する知名度の低さから、始終、幻聴が聞こえるとの精神の病ではないかとの疑いもあった時期があった程だ。天賦の才なのだろうが、これが有益な才能なのかどうかは分からない。かろうじて人並みに心理学や精神学の知識を有しているアヤでさえ、その対処の法は講じられていない。
 回りから影響を与えられない以上、その能力と共にアルトが巧く時を過ごしていかれるのか否か、に全ては収斂する。彼の気持ち次第で、彼にとっての世界の捉え方そのものが変わってしまうのだから。
 そして、ある程度、その指導を任せられている形になっているアヤは、彼と長い時間を過ごすうちに、アヤの知らないアルトの捉える世界の在り方を共に知っていくことになった。そして彼の内面も。

 ――アルトと同じ能力が『絶対音感』と名付けられ一般にも評価されるようになるまでには、かなり長くの時の流れを必要としている。世界の著名な音楽家の多くも、この絶対音感を有しているというが、それにまつわる話はまた別の世の物語である。
 雪は、いつまでも、無音で、降り続けている。


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