猫耳工房綺談


 その日の夕方、丁度雪が降り始めた頃だっただろうか。
 今と同じように食器棚に背を預け、柊が本を読んでいると、湊(みなと)と拓(ひろむ)が連れ立って『猫耳工房』を訪れた。
 柊の姿を目に留めると、拓が直ぐショコラを所望したから、きっと最初からそれが目的だったのだろう。
 洋杯一杯のために木枯らしの吹く中を来てくれたことに嬉しく思う。
「ついさっき、雪が降ってきましたよ」
 脱いだ外套(コート)を隣の椅子に置いて、そう拓は言う。
 その声には明らかに喜色が混じっていて、柊でなくても彼が雪を嬉しく思っているのが分かっただろう。
「積もると好(い)いよね。楽しみ」
 湊も拓と同じ思いでいるようだ。今年の初雪を憂える思いは共感出来るので、柊も頷いた。
 湊は既に雪の冷たさを味わったようで、眼を細めて相方の少年にそれを話す。
 食器棚から洋杯を二つ取り出し、チョコレートを火に掛ける。
 横目で少年たちの姿を窺うと、拓が湊の髪に付いた雪を払ってやっているところだった。
 微笑ましい光景ではあったが、湊の黒髪と雪の粒の対比は綺麗なものであっただけに、少し残念にも思えた。雪は雨よりも儚いのだ。
「湊、雪が大好きだものね」
「うん」
 パッと眼の前に散る粉雪を湊は掌に受け止めている。
 彼は雪が大の好みらしく、毎年この季節になると呆れるほど生き生きしている、そう拓から耳打ちされたことがある。
 木も草も、地面も覆い尽くすような、多くの雪が降った後の銀世界は、柊も感嘆の思いで眺める景色の一つだ。
 雪夜の明けた朝、早い太陽の日差しを浴びて輝く銀色は、眼に眩しくも、そのまま脳に透き通っていくような清涼な響きを帯びている。丁度、洗練する前の金剛石(ダイヤモンド)のように未熟な光が視界に飛び込んでくるとき、他にはない澄んだ余韻が身体中を駆け巡っていく。
 そんな光景を眺めていると、湊はなんだか嬉しくなってしまうのだと話した。
 彼にとっての雪は、拓や柊が思うよりも余程慈(いつく)しみを与えられているに違いない。
 微かに積もった雪の静謐な刻。膝下まで埋まるほどの雪の中に靴を踏み込むときの、不安定さ。
 そんなものまでが、何処か儚くて、しかし綺麗だ。
 チョコレートが暖まるまでの間、少年たちは柊に学校での一幕を話した。教室のストーブ当番だった拓がその日、遅れて理科室に湊を呼びに行くと、湊は一人、顕微鏡で何かをじっと観察していたのだという。扉をそっと開けたくらいでは気づかないほど、夢中になっていたらしい。
「湊ったら、ぼくが呼び掛けるまで、ずーっと、顕微鏡を眺めてるんだ。それで実際、声を掛けたら飛び上がるかと思った」
 拓が笑いながら言うと、
「…だからって、息を殺して忍び寄ることはなかったじゃないか」
 湊は頬を膨らませて言い返す。しかし拓は、
「それは、湊を驚かそうとしたからに決まってるじゃないか」
 悪戯っぽい笑みを浮かべて、当然のことのように言うのだった。
「湊の意識が何処かに行ってしまったかと思ったから、その後で『お帰り』って、わざわざ言ってあげたのに」
 更に拓がそう言うと、湊は真っ赤になって俯いてしまう。
「――だって…」
 言い訳が思い付かないのか、彼は沈黙する。
「湊のそういうとこ、ぼくは結構好きなんだけどね」
 拓のそんな言葉も、今は少し可笑しい。
「何を見ていたんだい」
 苦笑を堪えながら、柊は訊いてみた。湊を夢中にさせるものにはおよその見当が付いたが、敢えて自分から指摘せずにおく。
「水。プレパラートに薄く切った氷の欠片を乗せて、それを」
 少年は俯いたまま答えた。
「成る程」
 柊は頷く。如何にも湊らしい観察実験だった。この季節に相応しいとも言える。
 きっと本当は、雪の結晶を見たかったのだろうが、氷で我慢した、といったところだろう。
 柊も、湊たちくらいの年の頃、よく顕微鏡を使った。川の水の中の微生物や植物の細胞、鉱石の含有物といった微小の発見は、対象一つ一つによって異なり、少しも飽きることがなかった。
 『猫耳工房』の何処かにも、顕微鏡はあったと記憶している。湊のために探してやってもいいかもしれない。


 鍋の中でチョコレートがふつふつと存在を主張し始める。
 柊は白い陶器の洋杯に暖かいショコラを注ぎ込んだ。彼らにはいつものようにマシュマロを二つずつ浮かべてやる。
「どうぞ」
 少年たちの前に洋杯を置くと、二人は声を揃えてありがとう、と言った。どうやら本当に、その一杯を求めて店を訪れたことが、その様子で窺い知れ、柊は嬉しくなる。
 辺りに漂うショコラのほろ苦い香りは、独りで飲むときには少し寂しいのに、こんなときには優しく少年たちを包み込むだろう。
 そこで、彼らには取って置きの付け合わせを御馳走(ごちそう)することにした。
 冷蔵庫の中から小さな箱を取り出す。その中には、ハトロン紙に包まれた菓子が入っている。バターのような白い塊で、柊はそれをふた切れ切り出し、小さな皿に乗せてカウンターに差し出した。
「これは?」
 言葉もなくショコラを楽しんでいた二人は、物珍しいのだろう、柊の出した菓子を見つめ、次いで彼の顔を見遣った。
 拓がこれは何なのか訊くので、
「それを齧(かじ)ってから飲んでみてごらん」
 とだけ、柊は答えた。二人は怪訝(けげん)そうな表情のまま、菓子を軽く齧る。湊が、
「あ、甘い…」
 そう呟き、同時に拓も菓子の正体に気づいたようだ。
 白い菓子はホワイトチョコレート、そしてその中に胡桃(くるみ)の欠片を固めてある。
 チョコレートの甘味に胡桃のほろ苦さ、ショコラの甘さ、と感覚が反復し、重複する。
 オーナーからの直伝である、冬だけの特別の一品だ。
 ショコラをまた一緒に口に含み、やがて二人は感嘆の息と満面の笑みを零した。
 柊は軽い満足を覚えると、椅子の上に置いておいた本を手に取り、その場に腰掛け、再び本を開いた。
 『ほんの一瞬の幸せであっても、それを自分の手でもたらすことが出来る幸せ』
 それも元主人の口慣れだった。幸せの在り処も、幸せの正体も、形のないものだから、ふと感じる『幸せ』の欠片を共有したい、そう言い残し、楓は柊に店を預けていったのだ。
 だから柊は、自分なりの『幸せの欠片』を探しているのだろうと思う。
 楓の言った『幸せ』が骨董という形の歴史の中にあるのか、鉱石や玩具という夢の中にあるのかは、まだ分からないが、漠然とした感慨が時にふっと感じられること、それが『欠片』なのかもしれない、とは思うようになった。
 どんな賞賛の言葉よりも、少年たちの真っ直ぐな嬉しさの笑顔の方が、今の柊には喜ばしく感じられるように思う。
 そして、どんな言葉よりも沈黙の方が優しさを持つときがあることを、柊は知っている。
 それとも、ショコラの美味しさという一瞬の魔力の中にも、真実は紛れているのかもしれない。
 いつだって事実は現実の隣にあり、捜し求めるものは身近過ぎるところから見つかることが往々にしてあるのだ。
 そういう意味では、自分より眼の前の少年たちの方が、自分なりの幸せを見つける手段と手腕に長けているはずだ…、そう柊は思うのだった。

 湊と拓は、洋杯(カップ)を両手で包み、しばらく取り止めのない話を続けた。
 その日学校を休んだ級友の心配事から、冬の星座の日取りの確認へ、やがては六つしかない生徒宿舎の『七不思議』などというものまで。彼らの日常にはいつも津々(しんしん)とした興味が混在しているのだろう。
 始めのうちは聞くつもりなどなかったのに、いつしか彼らの話に耳を傾けている自分がいることに柊は気づき、こっそりと笑みを漏らした。視線は本の同じ部分を何度も辿っており、意識はすっかり盗まれている。
 その中に、柊も興味深いと思う話があった。
 先程も湊が顕微鏡で氷の結晶を観察したという話をしたが、どうやら彼は氷を入れた万華鏡を作れたら、と考えているらしいのだ。放っておけば融けてしまう氷で百色眼鏡(カレイドスコープ)を作ることが出来るのか、それが今日の湊の一番の関心事らしい。
 確かに、そんな玩具が作れたなら面白いと柊も思った。角度を変える度に微妙に形が変わる氷の結晶遊戯。手元にあれば欲しいと思うだろう。
 しかし、そのためにはまず融けない氷を作らなければならないことになる。港にそれが出来るのだろうか。
 それでも、不必要な口出しはすまいという信条は働き、少年たちの話し声を素通すに努めた。
 気心の知れた相手だと思われているのなら尚更で、それこそ大人の出る幕ではない。
 ひとまずは検討を保留することになった二人は、話を止めて洋杯を手に立ち上がった。
 次に彼らがすることといったら、工房の部屋中に並べられた品々から新しく仕入れられたものを探し出し、仔細に観察することだ。新しいものに対する発見の楽しさを知る柊は、洋卓や陳列棚への入荷品は古新の区別を付けずに並べる。いつ見ても新しいものがある、そんな雰囲気を空間に置き続けたい。
 直ぐに二人は洋卓の一つに、見慣れない鉱石の姿を見つけ出す。その様子を柊は横目で見ていた。
 案の定、硝子箱を指差したのは拓だった。彼は、こと鉱石に関しては鼻が利く。
「これ…、見たことがない石だ」
 湊も横から覗き込んで、首を傾げた。
「本当だ、初めて見る」
 拓の見出した石は、実は本物の鉱石ではない。
 では何なのかというと、柊の聞いたところでは、竜の骨…、なのだそうだ。火山の火口に住むという竜が老い力尽き、その亡骸(なきがら)の上に噴火による溶岩が流れ、骨は融け、やがて冷え、再び固まったものがその石であるという。
 しかし、そもそも生きた竜の姿を見た者がいないことや、溶岩に触れて灰にならない骨があるのかという前提から、それが竜の骨であるという骨はなされず、しかし『竜の石』という名だけは伝わり続けていたのだ。
 実際、柊がそれを見つけたのも街の骨董市で、しかも箱入りで大量に売られていたのだから、学術的な根拠を探る必要もないだろうと、彼は何食わぬ顔で工房に展示しているのである。
 少年から、これは何の石なのかと問われたとき、けれど柊は悪戯心に、それは竜の石だと答える。
 その石の価値は、そんなところにあるのだろうと思う。
 訝(いぶか)りつつも驚きの表情を浮かべる少年たちを見るのは楽しくて、その後に『石の正体』を明かすときにも、大きな落胆をさせないよう、少しばかりの味を付けてみる。
「本当に骨なのかは分からないが、あながち否定も出来ないな。――裏から光を透かしてごらん」
 柊の言う通りに拓は箱を洋灯(ランプ)に翳(かざ)し、湊と顔を寄せ合って石を透かし見た。
「…中に、赤い斑点(はんてん)が見える」
「もしかして、…竜の血なのかな」
 小さな歓声を上げる少年たちに、
「或(ある)いはね」
 柊はそう答えた。
 どちらが真に本当なのかは彼は確かめようとは思わないが、どちらを願うかと問われたら、…答えるまでもないと思う。
 何の変哲もない石かもしれない鉱物が、ありふれた水晶よりもずっと輝いて見える瞬間がそこにあるからだ。


 やがて、壁際の古時計が鐘を六つ鳴らした。
 少年たちのショコラはとうに飲み干され、洋杯は冷えてしまっただろうが、彼らの熱は下がりそうもない。
 工房の外は、既に闇が幕を下ろしてしまっただろう。
 暗い窓の外を見遣り、雪の勢いが増すのを眼に留めると、柊は少年たちにそっと言った。
「もし帰るのなら、早いうちがいい。今夜の雪は、大分積もりそうだ」
 自分の言葉に二人の動きが止まってしまうのを確認するが、しかし柊は彼らを帰そうと急かしたわけではなかった。こんな夜に湊がわざわざ雪の中を歩きたがるとは思えなかったし、ならば拓も彼と共に留まることを望むだろうとの確信があった上での一言だった。
 湊が深く息をつくだけの間があった。
 ストーブの中で炭がパチリと音を立て、柱の一部がカタンと鳴った。
 柊は、二人を交互に見遣り、返事を待った。
「ぼくは…、今夜は、戻りたくない」
 だから湊がそう呟くように言ったときも、むしろ柊には安堵にも似た思いを感じたのだ。
 もしかしたら、彼は少年の小さな望みを求めていたのかもしれない。
 それに続けた、
「ぼくも。御迷惑は掛けませんから、居させてくれませんか」
 という拓の言葉に、友人を思う気持ちと、工房に融け込む願いを感じたほどだ。
 彼らの保護者役を担うには自分は未熟だが、空間の保有者として彼らを受け入れる義務が自分にはある、そう柊は思う。
 …しばらく、沈黙の中で、外界の雪が降る深々(しんしん)という音が響いていた。
 柊は溜め息をつき、僅かに笑みを見せて、告げた。
「きみたちが居て迷惑だとは思わない。好きにするといいよ」
 最初から、咎めるつもりなど微塵(みじん)もない。
 おいで、と二人を呼び、鍋に残っていたショコラを温め直し、二人の洋杯に注いだ。少年たちを椅子に座らせて、
「何か、夕飯の代わりになるようなものを作ろうか」
 そう提案すると、二人は一度顔を見合わせた後で、柊を見て一緒に頷いた。


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