猫耳工房綺談


 ――雪は、まだ止んではいないのだろうか。
 柊は、カウンターの脇から部屋の入り口の方に進み出て、窓から外界を覗いた。西国の庭園を縮尺して造ったような庭は殆ど白に覆われ、見上げれば空は対照的な濃い灰色で、怖いくらいの綺麗さで雪は未だ、地を染め続けている。
 振り返り、カウンターのこちら側に座り、眠り続けている少年たちの姿を眼に捉える。
 暖かな部屋の中で、もしかしたら雪の平原の中で遊ぶ夢でも見ているのかもしれない。
 そう考えると、微笑ましくも少し可笑しくなった。
 以前にも、似たようなことはあった。
工房の二階は書庫として使われ、文芸書から科学図鑑、政経文書に各国辞典まで、種類を問わず本棚に収められている。小さな図書館のようなこの空間で、宿舎に戻らず、本を読む柊を本棚一つ挟み、湊と拓はやはり本を開き、物語の前で夜中まで尽きず語り通した。
 ふと、急に静かになったなと思った柊が本棚の角から覗くと、二人は棚に寄り掛かって眠っていたのだった。可愛いものである。
 柊は苦笑して、少年たちの身体に毛布を掛けてやり、一人読書を続けた。
 二人が眼を覚ましたのは、朝になって、柊が彼らのために珈琲を淹れていた、その香りが漂い始めた頃のことだった。
 柊自身も、工房に泊めてくれるよう、楓に頼み込んだ過去が幾度もある。
 そんなとき楓は彼に言った。
『今夜だけは、きみはここに帰ってきたのだと思うといい』
 と。そのときの声は、聖なる眠りに捧げる花のように、優しい色をしていたことを覚えている。
「優しい眠り、か」
 柊は、そう呟いていた。
 眠りと死は紙一重のもので、かといって両者は表裏の観念ではない。熱射線が視界の先に陽炎を浮かび上がらせるように、虚構の天使が冬の地面に舞い降りるように、どちらが本物の夢なのかは誰にも分からないことなのだ。
 人が求めるのは、ただそれが優しく慰めてくれること。
 そして、夢を見ている者は、今更、そんな願いを夢見ないのだ。


 部屋の暖房は十分に利いているが、夜が明ける頃には少し冷えるだろう。
 柊は念のため、湊と拓、二人の外套をそれぞれの背中に掛けてやる。
 そうしてまた元の自分の席に戻ろうと歩きかけたとき、…彼の視線はカウンターの上の洋盃(グラス)に留まった。

     □   □   □

 焼いた麺麭(パン)にバターとジャム、三色洋麺(パスタ)には鶏のクリームソース煮、チーズとトマトのサラダ。
 簡単に作った夕食を平らげ、食後の珈琲も済ませ、三人はまたそれぞれの夜を過ごす。
 湊は螺旋階段の途中に座り、機械仕掛けの絡繰(からく)り箱を弄(いじ)り回している。
 時々唸り声が聞こえてくるのは、箱を開けるのに手間取っているためだろう。幾つかで組になった仕掛け箱の中、その内の一つは実はただの飾りで、どう足掻(あが)いても開くことはないのだが、彼はもしかしたらそれに当たってしまったのかもしれない。
 一方、拓は、以前来たときに読みかけだった本を二階から持ち出し、カウンターに広げて読んでいる。
 月に住む猫少年が地上で迷子になる話で、柊はこの本の作者が好きだった。
 柊は依然、なかなか進まない本を膝の上に広げているが、それは拓の本と同じ作者によるものである。
 部屋の中では、ゆっくりと時間が流れている。
 物語の作者というのは、自分の中に異なる時間の流れを持っていて、それは彼、或いは彼女の描く物語の登場人物それぞれに当てられた世界を統治する一要素でもあるのだろう。
 柊は『猫耳工房』の支配者、とは言えないが、その中に居続けることによって、外界と異なる刻の流れを持つことになろうとも、惜しくはない。
 柊の読む本の中には、就寝の時間が勿体無いと言って、眠らずに好きなことをし続ける者と、現実には有り得ない事柄を体験することが出来るからと眠り続ける、二人の人物がいる。果たして、どちらが幸せだと言えるだろうか。
 人が生まれたときから持っている欲を、最大限に求めるか、それとも別の欲望にすり替えてしまうか。物語では結局、二人ともそれぞれの理由により死んでしまうのだが、…柊は彼らが身勝手かもしれないとは思うが、愚かだとは思わない。
 考えることは人それぞれ、とは一般論だが、幸せな生き方を模索する絶対の正しさなど、有り得るのだろうか。
 根拠のない信心は苦手な思想だが、生きることを幸せなことだと言い換える考え方の方が余程卑怯だとは思う。
 完璧な解答がなくても、いい答えに対し、答えを捻り出すことの無意味さを、柊は『猫耳工房』で学んだ。
 それは多分、何も考えずに済むこと、という単純なことで、難しいことを考えようとするから苦悩めいて聞こえてしまうだけだ。
 少なくとも柊は、工房で珈琲の香りを楽しむ間は、場所も時間も忘れてしまえるし、…つまりは、何処まで自分自身を中間値(ニュートラル)に置くことが出来るか、ということなのだ。


 古時計の鐘が、十、鳴った。
「雪、止まないね」
 階段をトントンと降りながら、湊が声に漏らす。
 木の段と靴が奏でる音が眠気を誘ったらしく、拓は相槌の代わりに軽く欠伸をした。
「…少し、眠くなってきた」
 そう呟くと、湊と入れ違いに拓は本を抱えて二階に向かい、柊は二人のために紅茶の準備を始めた。
「湊、それでも小降りになってきたみたいだよ」
 洋杯の触れ合う音に混じって、上から拓の声が聞こえてきた。
 薬缶を火に掛けてカウンターに向き直ってみると、少年は肘を付いて、両手で顎を包み、ぼんやりとした表情で食器棚を眺めていた。違うことをしていても生活の周期が等しい少年たちは、眠くなる時間帯も似通っているらしい。
 もうそろそろ、活動時間の終了は迫っているのだろうか。
 ゆっくりと階下に戻った拓は、席に着くとこんなことを口にした。
「雨とか雪とかの音って、時や場所によって聞こえ方が違うような気がする」
「そうかな」
 少しだけ瞼を落とした湊が、それでも興味を惹かれたようで、相槌を打つ。
「うん。今も、ここと二階とでは、雪の降る音が違って聞こえたもの」
「それは、音が彼方此方(あちこち)に反射したからだろう」
 茶器に茶葉を落としながら、柊は湊の代わりに答えた。
「ここは吹き抜けで、音が響くようになっているからね」
「学校の、音楽室みたいなものかな」
 拓が訊く。
「まあ、そういうことかな」
「でも、雪の降る音って不思議だよね」
 口元に笑みを浮かべて湊は言う。
「どんなに耳を澄ませても、羽根が舞い降りるみたいに、雪が地面に降りる音はしないけど、ちゃんと耳では聞こえるみたいな気がするもの」
「ホント。『どんな音?』って訊かれても、雪の降る音って、言葉では言い表せられないよね」
「敢えて言えば?」
「氷で出来た、銀の鈴」
 まさに天上の音楽、と少年たちは頷きあう。
「それだけ、雪は優しく舞い降りるものなんだよね。湊が雪を好きなの、よく分かるな」
 二人の会話を聞いていると、柊は、いつか楓が要った言葉を思い出した。
 雪は、天が大地に捧げる、冷たく儚い妖精の、優しい接吻なのだと。
 少年たちの前に、薄めに淹れた紅茶を置き、柊は口を開いた。
「雨でも、雪でも…、自然の現象は、全て音階で現すことが出来るのを、知っているかい」
「そうなんですか」
 洋杯に口を付けつつ応えたのは、拓だ。
「雨風に限らない。こうして僕らが話す言葉も音で出来ているものだし、きみたちの洋杯を触れ合わせたときに鳴る音も、勿論当てはまる」
 それを聞くと、二人は顔を見合わせて、互いの洋杯を触れ合わせた。
 リィン、と陶器が音色を奏でる。どちらからともなく、彼らは微笑を浮かべた。
「そうか…、ぼくらが耳にするのは、みんな音だものね」
「そうしたら、やっぱり雪の音って、不思議」
 思いは立ち返る。柊にも、雪の音についての知識はなかった。
 …だが、思いつくことはある。
「いいものを聞かせてあげよう」
 彼はそう言って店の奥に行き、洋酒盃(ワイングラス)を幾つか取り出してきた。
 首を傾げる少年たちの前で、横に並べて、段になるように水を注ぎ、乾いた布で手を拭いた。
「耳を澄ませて…」
 そっと洋盃の淵(ふち)に指を触れさせ、円を描くようにゆっくりと撫でる。
 ほんの少しの間が空いて、…やがて、硝子の笛の奏でるような、澄んだ綺麗な音が零れ出す。
 ――グラスオルガン。柊の数少ない特技の一つだ。
「わあ…」
 歓声を上げそうになり、慌てて息を殺す拓。眼を細めて、柊の指先を見つめる湊。
 水のせせらぎのようにも、木々の合間を吹き抜ける風の声のようにも聞こえる水琴は、楓から教わり、自己流に音域を広げたものだった。
 洋盃に入れた水の量の違いで、音色の高低が変わる。洋盃を爪の先で叩くことで、類似の楽器とすることが出来るが、こちらは水を細かく震わせることで繊細な音を作り出すことが出来る。
 その余韻が脳裏に染みていき、…やがて、形のない、心の方に向かって直接に響いていく。

 短い演奏を終えて、柊は軽く息をついた。
 少年たちを見遣ると、拓が音を立てずに両の掌を触れ合わせ、拍手の代わりの仕種をした。
 一方の湊はといえば、カウンターにうつ伏せている。
 どうやら、水琴に耳を傾けるうちに心地良くなって、眠ってしまったようだ。
「湊ってば、子供みたいだ」
 拓はクスリと笑って、囁いた。
 そう言う拓自身の瞼も下がり気味で、柊はそっと苦笑した。


「ねえ、柊さん」
 悪戯を考えるときのような、けれど甘えるような視線で、拓は言った。
「なんだい」
 空になった洋杯を受け取って流しに置き、湊を起こさぬよう、囁き声で柊は返す。
「融けない氷って、作れるのかな」
「融けない、氷」
「そう。箱の中に入れておいても。水になってしまわないような」
 拓がそう言うのに、柊はしばし黙考した。
 水が凍った氷は、普通、常温にあれば、やがては融けて水に戻ってしまう。
 これは自然の摂理とも言えるもので、そうでないものとなると、人工のものとなるのだろうか。
「湊が、氷を万華鏡に入れてみたい、って言うんだ。ぼくも無理じゃないかなとは思うんだけど、…もし作れたら、凄く綺麗なんだろうなと思って――」
 二人で随分考えたんだけど、良い方法が見つからなくて。
 そう拓は言った。「そうだな…」
 柊は、慎重に考える。院生の彼にも、融けない氷の作り方は専門外だ。
「作ることが出来るかは分からないが、…ないこともないよ」
「本当?」
 少年の声が、俄かに明るくなる。
「確か…、北の海から採ってきた氷が、何処かに仕舞(しま)ってあったはずだ」
「北の氷」
「そう。長い年月を掛けて、硬く凍った氷だから、常温でも簡単には融けない」
 握り拳ほどの大きさの、水晶のように透き通ったものだ。
 柊も試したことがないので保証は出来ないが、万華鏡を一度覗くくらいの猶予は与えることが出来るだろうと思う。
「倉庫の冷凍庫にあったと思うから、後で探してみよう」
「ありがとう」
 柊が請け負うと、拓は礼の声を上げ、慌てて口を塞いだ。
「良かった」
 再び、囁くような声で拓は言う。
「なにが?」
「ぼく、湊の喜ぶ顔が一番好きなんだ。それが楽しみで」
 拓は嬉しそうに答えた。
 湊が眠っているからこそ、ふと漏らした本音だったに違いない。
 …もっとも、湊が同じ立場だったら、同じ言葉を口にしたのかもしれないが。
 拓に釣られて、柊も淡い笑みを返した。少年の笑みは真っ直ぐで、綺麗だと思う。
 汚れのない粉雪の煌きを感じさせる瞬間がそこにはあり、思わず彼は拓に背を向ける。
 ――やがて、二人分の寝息が聞こえてくるまでには、そう長い時間は掛からなかった。

     □   □   □

 外界に、静寂が満ちた。どうやら、雪は止んだようである。
 柊は、庭の倉庫の隅に置かれた冷凍庫の輪郭を思い出していた。
 今のうちに氷の姿を確かめに行ってもいいが、少年たちより先に初雪を踏むのは躊躇(ためら)われる。
 朝になって、彼らが眼を覚ました後でも遅くはないだろう。そう思い、彼は食器棚を背に、眠気に身を任せることにする。
 微かに聞こえる少年たちの寝息が、子守唄のように辺りを包み込もうとしていた。
 ほんのひと時の白亜(はくあ)の城を楽しむのは、もう少し後になってからにしよう。
 永久に戻らない一瞬の情景、その場限りの見えない願い。
 雪の朝に続く思いは、言葉に現すのが難しい。
 睡魔に揺らぐ脳裏の陰で、柊は、その日の夕方、少年たちが『猫耳工房』を訪ねてきたのが、あながち偶然ではないように思えてきた。
 しん、と鋭い静けさの中で、彼は遠くない過去を思い起こす。


 …柊が、まだ客の一人だった頃、楓が冷凍庫から氷の塊を取り出したとき、柊は最初、それで酒でも飲むつもりなのかと思った。
 しかし、それを主人に問い質すと、彼は微笑んで首を振ったのだった。
(――貴方も、そうだったのですか)
 柊は、そう楓に問い掛ける。
 自分よりずっと年上のくせに、子供心に似た遊び心を忘れない楓は、湊や拓と同じことを考えて、北方にまで氷を探し求めに行ったのだろうか。
 目的のためには手段を選ばない人間だったことを、改めて柊は感じた。

「それも、兄さんらしい」
 そんな彼に似ているらしい自分は、やはり彼の弟なのだということも。
 眼を閉じ、その場にはいない兄に向かって微笑み掛け、柊はそっと呟いた。
 暖かい部屋の中に持ち込んだ雪の欠片のように、柊の意識は霞(かすみ)の中に融けていった。



 ”SNOWMIRAGE’S BLUE ANOTHER” Closed.


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