猫耳工房綺談


 耳に届いているはずなのに、その奥までは響いてこない。
 けれど、それは世界と共鳴するように聞こえてくる――。
柊(ひいらぎ)はいつの間にか、深々と降り続く雪の奏でる透明な旋律に耳を傾けている自分に気づいた。
 日が落ちる間際に降り出した雪は、日付が変わってもなお、止む気配を見せない。
 どんな生き物の翼を構成するよりも軽やかな羽根は、地上を白銀に埋め尽くすという、残酷にして崇高な目的のためだけに地面に降り注ぐ。
 地上に舞い降りた瞬間に、天からの贈り物は一時(いっとき)、姿を消す。
 降り始めの雪は直ぐに水と融けて消え、後に氷となり、次にやってくる雪々のために犠牲となっただろう。
 不思議と暖かみのある冷たさが、そこにある。
 柔らかく、軽く、それでいて冷たく。荒い土の剥き出した地面にも、硬い土瀝青(アスファルト)の地面にも、等しく優しく舞い降りてくる、白という名の舞踏。
 例えば雨の発する音は、一律の音律に表すことが容易でないだけに、よく聞く音なのに、そのどれもが違う楽器によって奏でられるもののように思える。雲の種類、その厚み、降り始めと雨上がり。風がその勢いを唆し、引き留め、協奏曲に変わっていく。
 …それが雪になると、独奏にも満たない囁き声を聞くようなもので、じっと耳を澄ませていると、節奏(せっそう)ではあるが音ではない音が、そこにはある。心臓の鼓動の方が大きく聞こえるようで、つい耳を塞いでしまいたくなる。
 降雪音が、冬一番の幻なのかもしれないと思わせる理由はそこにある。
 窓の外では、もう幾らかは積もっているのだろう。
 普段ならば墨よりも深い色で彩られるはずの夜の闇が、地面から仄白く照らし出されている。
 雪自体が発光しているはずはないだろうに、不思議と光り輝く結晶の集いは、天然のスパンコールだ。
 だが、金属特有の鋭角さはそこにはなく、ひたすら緩やかに層を成す。
 柊は、片手に持った洋杯(カップ)に口を付け、しかし既に中には何も入っていないことを思い出し、軽く苦笑した。
 自分でも気づかぬうちに、洋杯を満たしていたはずの珈琲(コーヒー)は喉を通り過ぎていったらしい。
 彼は無意識に舌で歯齦(しぎん)をなぞり、飲み干してしまった苦味を思い出そうとしていた。
 部屋の内部は、暖房の余熱でおぼろげな暖かさに満ちている。部屋の隅に置かれたストーブには赤々と火が点(とも)り、時折思い出したように石炭(コークス)が爆(は)ぜる音が聞こえる。殆ど動かない部屋の空気に遠慮するかのように。
 壁際に置かれた骨董家具や食器棚に並べられた皿や器が、淡く赤い光を映している。赤茶けた、煉瓦(れんが)色の入り口の扉が開けられる度に透き通った音を立てるウィンドベルも、今は揺れることなく眠りに就いている。
 いつだったか…、静謐(せいひつ)さに満ちたこの部屋を指して、誰かが『幸せの迷う空間』だと称したのは。


 柊は、『猫耳工房』という名の喫茶店の主人を務めている。
 店というよりは間取りの広い書斎、もしくは陳列室と呼ぶに相応しい、この空間の管理を任されているのが本当のところなのだが…、この建物の所有者、つまり『猫耳工房』の本来の主は、現在、この国にはいない。
 もはや表向きは柊が店の持ち主として営業をしているに等しく、実際、客の多くは彼がそうであると信じている。
 元から口数の多い方ではない柊は、説明をしないことで不利益が出ない限りはそのままで通している。
 元主人である楓(かえで)が、柊に店を預けたのは数年前のことだ。その頃は柊も他の常連客と同じ、訪問者の立場でしかなく、店の営業と管理を頼まれたときには驚いた。趣味が実益に高じた店とはいえ、それを他者に任せるとなると、多少の信頼では決心には行き着かないだろう。
 しかし、一も二もなく承諾した自分は、確かに楓と似た気質の持ち主であったらしい。楓の判断は正しかったようだ。
 工房には日常生活が十分送られるだけの設備があり、それを預けられた柊は、この場で寝食をなしている。
 それは彼にとって、小さな喜びでもあった。
 長い間、様々な刻(とき)の詰まったこの独特の空間に身を置いていたせいで、いつしか柊自身も工房の空気を吸うことが当たり前のこととなってしまっていた。今や、この空間は彼の一部であり、彼の一部が『猫耳工房』という店でもあるのだ。
 楓は当てのない旅を続けていると、稀(まれ)に届く便りで知ることが出来たが、一体何処で何をしているのかは、柊の知るところではない。会うことが出来るのも年に一度あるかないかといったところだ。
 柊自身にも、放浪癖とまでは言わずとも、習慣付いてしまった旅への衝動は時折やってきて各地を飛び回っている事実があるだけに、無駄な干渉は慎(つつし)んでいる。
 彼は現在、大学の博士課程に在籍している。選考は考古学なのだが、地域研究を目的とした旅に時折足を伸ばす。店にある膨大な収集品の多くは、時折楓が送り届ける荷物であったり、柊自身が旅から持ち帰ってきたものだ。


 壁際の古い時計が一度だけ鐘を鳴らした。
 西国の骨董品だが、柊が知る限り、彼よりも永きの刻を刻み続けているはずだ。鐘の音は多少錆び付いてはいるものの、定期的に油を差し、螺子(ねじ)を巻いているおかげで、故障もなく動き続けている。
 工房は一階と二階が吹き抜けになっていて、天井が高く、入り口近くの螺旋(らせん)階段で分かれている。
 一階は喫茶室として、二階は図書庫として利用されている。
 欄干や壁の彼方此方(あちこち)には、猫を主体とした絵が多く掛けられている。楓からの便りにも、猫の絵柄をあしらった絵葉書が多く、この店の名が『猫耳工房』である由来は、その辺りに起因しているのかもしれない。
 もっとも、柊は楓から直接に話を聞いたことはなかったが。それはこの店の諸要素は『好きだから』という一言で全てが説明出来てしまうからだ。
 入り口正面のカウンターは、椅子が数脚並べば幅がなくなるほどの長さしかなく、多くの客を招き入れることが目的ではないこの店に相応しいとも思えた。柊は普段、その奥側に座り、客の相手をする。
 客商売には素人であったはずの柊が、茶の準備に手馴れてしまったのには、それ相応の訳がある。
 様々な国を渡り歩けば、当然に各地の茶の種類も多岐に渡る。気に入った茶を手に入れて持ち帰るのは楓も柊も癖で、楓がいた頃には二人で淹(い)れ方の研究をしたものだ。巧く茶が入ったときには、茶器から立ち上る湯気が当地の空気と成り代わり、遠き地の雰囲気を醸し出してくれた。それが楽しくも嬉しくもあり、幾種もの茶を点(た)てた。
 向き不向きもあったのだろう、柊が主人となってからは、その経験を活かして客の要望に応えているうちに、自然と技術が向上していた。更に、元来珍しいものが好きだった性格が幸いし、茶種の揃えは客の要望を裏切らないまでになった。目的と手段が一致したのである。
 常連客の少年の一人などは、柊の茶を飲める自分たちは余程の幸せ者だと思わなければいけない、などと恥ずかしくも嬉しい言葉を掛けてくれる。それだけで柊は、小さくも自分が工房に存在している意義を見出すことが出来ているのだ。

     □     □     □

 少年の常連客、と言ったが、店には物珍しいものが数多く陳列されている。
 『大きな陳列室』の異名を持つ工房の一番の所以(ゆえん)は、部屋の中に幾つか置かれた洋卓、そしてその上に整然と、または殊更(ことさら)に雑然と並べられた収集品を見れば一目瞭然である。
 無論、元、そして現主人の二人が世界各地から寄せ集めた品々だ。
 中でも、鉱物の類が多いのが眼に付く。
 宝石に至らない成長途前の幼い美しさと、そこに秘められた歴史。
 鉱物図鑑を見れば目次の目立つところにあるものから、一般の図書には掲載されていない鉱物まで。
 一つの石に閉じ込められた時間は、柊(ひいらぎ)たちよりずっと長いのだろう。
 硝子瓶(ガラスびん)に入った、喘息(ぜんそく)を治すという蒼色の鉱石の欠片。
 その隣の鉱石は、地下深くから掘り出されたものなのだが、地面が吸収した太陽の光を吸ったおかげで真黄色に染まっている。
 密閉された硝子容器の中に水が満たされ、一見、氷のような白い鉱物が沈んでいる。これは空気に晒(さら)されると見る間に融けてしまうからだ。
 柊の茶をよく賞賛する少年は、鉱石売買の常連客でもある。柊も彼のことを気に入っていて、少年の気に入った石は破格で、時には無料(ただ)同然で譲る。こういった石は主人を選び、また同時に主を転々としたがる意思を持つ。『石』と『意思』の音韻(おんいん)は、さながら言葉の表面をなぞっただけではないのかもしれない。

 刻(とき)を示すのは、石ばかりではない。自然は様々な形でそれを現わす。
 飴のように固まった樹脂の中に閉じ込められた、数万年前の昆虫。
 少年と少女が手に手を取って踊っているように見える、小さな切り株。
 丸一年の間、月の光を浴び続けた雪融け水。飲む者によって毒ともなり、不老長寿の薬ともなる、運命を司(つかさど)る一品だ。
 中には子供の玩具(がんぐ)としか思えないのに、柊たちが手に取って眺めているだけで心休まるようなものも沢山ある。そういったものは、市場を歩いていても自然と眼に飛び込んでくる。
 氷のように薄い半透明の金属で出来た栞(しおり)。
 風に乗せると一定の速度で低空飛行をする、特殊な紙で出来た折鶴。
 月まで届くという触れ込みで一時話題になったという、鉛筆の形をしたロケット花火。
 その月の兎の箱庭劇が収められた映画のフィルム。
純粋な心の持ち主にしか、貼られた写真の映像が見えないというメダリオン。
 洋墨(インク)が外側から透けて見て取れる、硝子筆(ガラスペン)。
 海蛇(サーペント)の涙を乾燥させたという粉。水に溶かすと、四色の彩りに変わる。
 匣(はこ)の中の少年を象(かたど)った、仕掛け箱。立方体の上下二箇所に覗き穴があり、一方からは中にいる少年の人形が見えるのに、もう一方からは空にしか見えない。
 数え上げればきりがない、そんなものたちが展示されている。
 一応、売り物として置かれているのだが、柊に限らず客の多くはそれらを観賞して楽しむ。そのための喫茶室でもあるのだ。
 誰が買い求めるのやら、検討も付かないものも、稀に隅に置かれていたりして、柊自身、いつそれを手に入れて展示したのか思い出せないこともあり、時に奇妙ではあるのだが、いつ見ても新しい発見がある。
 部屋の隅には、大きな硝子戸棚がある。その中には、工房でも特に取り扱いに気の使われていたものが収められている。棚には楓(かえで)が預かる鍵が掛けられていて、柊にも扉を開くことは出来ない。ある種、異様な雰囲気がそこだけには漂い、空気の壁があるようだ。
 棚の表の方には、鳥や動物の剥製などの、通常の観賞にも耐え得るものが並んでいるが、奥には回虫(かいちゅう)や黴(かび)や菌が入っているという表示がされた茶色の壜(びん)、得体の知れない塊が浮かんでいるホルマリン漬けの姿などが窺える。
 好奇心旺盛な客は、奥を覗いた瞬間に小さく叫び声を上げるのだが、流石の柊も無理をして奥の闇を知ろうとは思わない。
 『猫耳工房』には、現在の主人である柊にも分からない、数多くの秘密が隠されている。
 それは同時に、この店が人々を惹(ひ)きつけて止まない、何よりの理由であるのかもしれない。

 空になった洋杯を流しに置くと、柊は溜め息を一つついた。
 耳が痛くなるほどの静寂が満ちた空間は、それを意識しなければ心地が良いが、気にしてしまうと寂しさばかりを覚えてしまうものだ。
 机代わりのカウンターの向こう側に眼を遣ると、二人の少年が寄り添うようにうつ伏せて眠っている。
 黒髪の少年が湊(みなと)、亜麻色髪の少年が拓(ひろむ)という。
 二人とも、近所の学校に通っていて、少し前からよく工房を訪れるようになった。特に拓はこの空間がお気に入りのようで、どうやら彼の側が積極的に足を運びたがっているらしい。湊はいつも、拓に手を引かれるようにしてやってくるのだが、本心ではやはり彼も楽しんではいるようだ。
 常連客の少年たちの中でも、特に頻繁(ひんぱん)に工房に訪れるのがこの二人だ。
 そして、柊の淹れる茶を楽しみにしてくれているのは他でもない、拓である。
 あるときなど、柊が旅行から戻ってみると、店の入り口に紙が挟まっていた。誰かの言伝だろうかと見てみると、案の定、拓からで、そこには帰宅を楽しみに待つ言葉と、旅の苦労の労いが、斜め気味の文字で書かれていた。…勿論、その隣には湊の文字も。
 何が彼に気に入られてしまったのか、どうやら柊は拓に随分と懇意にされているらしい。
 それを思うと柊はいつも苦笑したくなるのだが、それはまるで昔の自分が楓に向けていた視線と似たものを彼から感じるせいなのだ。
 柊の見る限り、二人はいつも行動を共にしている。互いが互いを親友の代名詞として見ているのが明らかで、彼らが学校の生徒宿舎で同室であると聞いたときには、それが当然のことのように聞こえたものだ。衣食住を共にする仲であれば、趣味を分け合うにも都合がいいだろう。
 大勢でいるよりは孤独を好む柊も、流石に二人の仲の良さを見ていると、羨望にも似た思いが胸の内を掠(かす)めたものだ。それは或いは彼と楓の交流にも似た心の通いがあって、別れのつらさを知る柊は、二人の前途が良きものであるようにと願わずにはいられない。


 『猫耳工房』の営業時間は一律ではない。主人である柊の気紛れでもあるのだが、彼が大学に出向く間や買い付け目的の旅行に出たときなどは、当然休みになる。
 よって、店を開くのは夕方から夜が多く、柊が二階の書庫で読書に耽(ふけ)るようなことになれば、必然的に一晩中、店には明かりが灯(とも)る。
 そうであるから、柊と親しい常連客の中には夜通し話をしていく者もいる。柊はその聞き相手になり、また、旅行で体験した話を話し、その反応を聞き、貴重な秘話を知識に取り入れる。幻想めいた物語が実は真実であったり、かと思えば常識だとばかり思っていたことが、客の学者の一言で反転してしまったりと、興味深いことは多々ある。
 客が少年であっても学者であっても、柊の応対は変わらない。他人に無駄な干渉を求めず、また他人にそれをしないのが彼の信条で、主人と客という立場であっても、空間を共有する以上は対等でありたいという彼なりの考えからよるものだ。

「ぼくは…、今夜は、戻りたくない」

 だから、その夜、少年の一人がそう呟いたときにも、柊にはある種の予感があった。静謐のように朝まで変わらぬ姿で存在し続けるであろうこの空間で、雪が世界を塗り替える様子を感じていたい、そう思ったのだろうと。

 ――柊はしばし、記憶の時計の針を巻き戻した。


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