堕天使の原意


 これは、後で皆から聞いた話――。

 その日、樋口峻(シュン)は、彼の一日の中でそう小さくはない楽しみとして占められているランチタイムを、危うく空腹のまま過ごす破目になる苦難の試練に変えるところだった。
 三限目の授業が終わり、多くの生徒がそうであるように彼は大きな溜め息をついて、教科書やノート、筆記具を机の中に押し込んだ。授業が終わる十分前には既に、壁にかかった時計をチラチラ見ながら昼休みへのカウントダウンを始めていた峻である。もう少しで、ただでさえ苦手な数学の、本日の宿題の範囲を聞き逃すところだった。
 先生の授業終了の合図は、峻にとってはいわゆる『パブロフの犬』にて実験対象とされた犬に向けて発せられたベルの音のようなもので、彼に尻尾があったら条件反射的にぱたぱたと振っていたかもしれない。
 無論――、昼休みまであと十分、という頃合になれば、ましてや『退屈な』数学の授業の最中とあっては、峻に限らず多くの生徒が彼と同じような思いで昼休みを待ち望むのも無理はない。ましてや、今日の数学は冒頭に小テストを行った。誰しもの脳細胞は休息を求めて回路を切り替えたがっている。
 ……これが昼休み終了直後の授業であったなら、昼寝を始める生徒が溢れ出しかねないことを思えば、五十歩百歩とはいえ、まだマシだというものだ。
 ともかく。校舎は直ぐ様、賑わい始める。
「さて、昼だ昼ッ」
 軽く伸びをして、自分でも少々わざとらしく、愛すべきオヒルゴハンを求めに出掛けるべく、峻は、机の横に引っ掛けたデイパックを探った。峻は弁当派でなく、購買派である。小銭を握り締めて売店に駆け出す……、なんともお子様な光景が重ねられてしまいそうだが、学校の購買部というのは幾ら品揃えが豊富なところであっても、昼休みの生徒の波には受注が追い付かないのが常。少し急ぐくらいが、自分のお目当ての品を得るのには丁度いいのである。
 というわけで手っ取り早く財布を取り出すべく手首を動かしていた峻の表情が、
「あ、あれ…?」
 俄かに曇り出す。デイパックの底に押し込めておいたはずの財布が見つからない。
 峻の口がぽかんと開き、平仮名の『へ』と『あ』の中間を発声しているようになった。朝、教材やら筆記具やらとデイパックに一緒くたに放り込んだと思っていたのだが、
「嘘ぉ――」
 彼の動きが急に慌しくなる。一人身体検査だ。ワイシャツの胸ポケットをスタートに、スラックスの前ポケット、後ろポケット。脱いで椅子に引っ掛けてあった制服の上着、内ポケット。ない。机の中を覗き込んで、それからさっき押し込んだ教材たちを全部、机上に取り出す。再び覗き込む。ない。教材を戻す。デイパックをもう一度見直す。開けられるボタンとファスナは全て開け、中身を引っ掻き回す。ない。その時点でようやく、峻の脳裏に一つのフレーズが浮かんだ。
 財布、家に、忘れてきた――。
 思った瞬間、背筋がざわざわとした。血の気が引いたのだ。
 不覚にも落下するような衝撃を受けたのは、もしかしたら大袈裟ではなかったのかもしれない。それくらい、峻にとっては『美味しい昼休み』は大切なものなのだ。
 ――例え、ものの三分で腹の中に食べ物を詰め込んで、その後で好きなサッカーをするような場合であったとしても。
「樋口、なに慌てて探してる?」
 諦め切れずに、ジャケットから床に落としたのではないかと殆ど教室の床に膝を突いて辺りを見回していた峻の頭上から、級友の少年が半ば呆れたような声で言うのが聞こえた。
「飯、買いに行くだろ?」
「俺、今日、金持ってない」
 肩を落としつつ峻は答える。
「忘れたのか」
「忘れた、ぽい」
「『ぽい』って。覚えてねえのかよ」
 苦笑混じりに、彼は上着の内ポケットから財布を取り出す。
「貸してやろうか、昼飯代」
 そう言う彼に、峻は飛びついた。願ってもない申し出。
「借りる借りる。貸してっ」
 有り難き幸せ、御主人様っ、とでもいうように、峻は両手で受け皿を作り捧げ持つ。彼はまだ床に膝をついたままで、傍目には情けないことこの上ないのだが、そんなことには構っていられない。
「持つべきものは親友」
「よきに計らえ――」
 と調子に乗って答えながら財布を開いた少年の表情が、一瞬にして重くなる。それは或いは、先程財布がないことに気づいた峻の表情とそっくりだったかもしれない。旬は思う。……まさか。
「……悪い樋口。俺、貸してる余裕ねえや」
 そのまさかだった。
「ほれ、この通り」
 彼が財布をひっくり返せば、峻の掌に落ちてきたのは昼食二人分には到底足りない金額分の小銭だった。そのまま固まってしまう峻の手の皿から、
「残念でした」
 少年は硬貨を摘み上げ、
「札は? 札ッ」
 峻は訊き、
「そんな貴重なもの、あったら財布引っくり返してねーし」
 そっけない答え。あはは……、と二人分の空笑いが響いた。
「そんなァ。そこをなんとかしてよ。出世払いのトイチでちゃんと返すからさあ」
 無理な相談を持ちかける峻。いつ返すのかも分からないのに十日で一割の利子勘定では、出世払いなど出来やしない。
「仕方ねえな」
 仕舞いには自分たちの情けなさに失笑しながら、少年は精一杯の譲歩を示すように、一枚の硬貨を峻の掌に乗せた。
「百円あれば、ちっこいパンくらい買えるだろ」
「む、無理だって。夕方まで持たない。俺、絶対死んじゃうよ」
 小銭を財布に戻す少年の袖を掴み、峻は訴える。
「二人揃って野垂れ死ぬより、どっちかが確実に生き残るべきだ。俺はまだ死にたくない。そもそも財布を忘れたお前が悪い。これは俺の金なんだから、意義があるなら返して――」
「ヤダ。俺もまだ死にたくない」
 そう言う峻の片手は、既に百円玉を硬く握り締めている。
「だったら文句言うな」
「薄情者」
「結構。今だけ俺は、世界で一番薄情な男になるのだ」
「人でなしーッ」
「ではではー」
 捨て台詞を残し廊下に飛び出していった少年に悪態をつき、そして峻はなんとなく気恥ずかしくなる。普段ならたかが昼食の算段なのだ。百円玉一つ手に入れるのにこの騒ぎで、周囲の笑い声も一つや二つではなかった。そうなってしまったら今更、他の友人に金を無心して回るわけにもいかない。このままでは本当に、菓子パン一つで手を打たねばならなくなりそうだ――。
 ふと……、後ろから声を抑えて笑う音を聞き取って振り向いた。同時に声が掛かる。
「御愁傷様」
 峻の机から前に三つ離れた席に着いて峻を見遣っているのは、楠木拓弥(タクミ)だった。くっくっと喉で笑う彼は、上半身を半分捻り、椅子の背もたれに肘を付いていて、どうやら先程の遣り取りを見られていたらしい。
「拓弥――」
 名を呼びながら、もう少しで峻は拓弥に泣きつくところだった。実際、足を踏み出しかけた瞬間、けれども彼にそれを躊躇わせたのは、その時の拓弥の表情が如何にも面白いものを眺める傍観者のそれであったからだ。時折彼が浮かべるそれは、相手が彼の考えた通りの反応を見せたときのものだ。額の真ん中で分けられた前髪がメタルフレームの眼鏡に触れ、レンズの光る角度が微妙に変化する。その中の細い瞳が、はっきりとそれを物語っていた。
 峻だとて、考えあぐねることなく誰彼構わず絡む人格の持ち主ではない。同じ部活の部員であり、親友の一人である拓弥であっても、やたらと頼るのは格好のいいものではない。悪意のないものとはいえ、ただでさえ峻は拓弥の手玉に取られることが多い。人に飼われるだけの犬だって、学習能力は低くないのだ。
 教室には既に、昼食は購買で買い求めるらしい者の姿はない。皆、それぞれの目当てを他の生徒よりも早く手に入れるために購買部に向かったのだろう――、もしくは、先程の峻たちの遣り取りを見聞きして、あの少年のように巻き添えを食うのを避けたのかもしれない。『持つべきものは友人』なんて格言は所詮、財布の厚みがない学生風情にはいつも通用するものではない。
 だからこの場合、結局、拓弥を頼ることになる峻である。どうしたらこの悪友から昼食代をせしめることが出来るのだろう。拓弥の眼鏡は伊達のイメージを作るだけのものではない。そうそう諦めのよくない少年である峻は、
「……拓弥、あのさ」
 百円玉を手のうえで転がしながら、峻は拓弥の傍に歩み寄った。彼に話し掛け――る前に、
「行かないぞ」
 拓弥は峻の内心などお見通しだと言わんばかりに、端的に告げた。
「え? ……うわっと」
 不意を突かれて硬貨を床に落としそうになり、慌てて飛びつくように掴む。そして中腰の姿勢で峻は座ったままの拓弥を見上げる。
 口元だけで笑みを浮かべた拓弥と目が合った。
「金ないんだろ」
「聞いてたんだ」
「聞いてたじゃないよ」
 拓弥は肩をほんの少し持ち上げ、掌を上に向ける。
「あれだけ騒いでれば、ここにいれば誰だって聞こえるさ」
 そっけなく答えながら、眼鏡を外し、ゆっくりとした動作で上着のポケットからハンカチを取り出し、レンズを拭いた。裸眼の視線を廊下に向ける。
「だから、御愁傷様、さ」
 チラと峻は廊下を一瞬見て、拓弥に視線を戻す。
「拓弥、昼――」
「だから。昼食代は貸せない」
 文節一つ分も言い終えないうちに、直ぐに言い返された。明らかに面白がっているのが、言葉の端で伺えた。
 一旦、口を尖らせるも、峻はまだ食い下がる。
「いいじゃんか、パン代くらい。…俺と拓弥の仲じゃん」
「パン代くらい?」
 拓弥は眉根を僅かに寄せて、一本立てた人差し指を峻の眉間に突きつける。
「そのパン代、僕はお前に何度貸したと思ってるんだ。全額合わせたら豪邸が建つ」
「……それは言い過ぎ」
「冗談だよ」
 あからさまな冗談にも全く笑えず、仕舞いには、うー、と唸るしかない峻。
 眼鏡を掛け直した拓弥は、
「そうだなあ…、お前の態度によっては少しくらい貸してやらないこともない」
「ホント?」
「僕とお前の仲だろ?」
「止めろよ、そーいうの。で、どうすれば貸してくれる?」
 拓弥の痛烈な皮肉に顔をしかめる峻。拓弥は彼の右手を指して、
「僕へのツケ、取り敢えずその百円分だけでも返してもらおうか。そしたら――」
「そしたら?」
 妙なことを言い出す拓弥に、それでも金を貸してもらえる望みを捨てずに峻は問い返す。
「百円くらいなら貸してもいいかな」
「……莫迦。それって何も変わらないじゃん。茶化さないでよ」
「真面目な話だけどな」
 言葉とは裏腹に、拓弥の顔面が笑いでほころんだ。
「友人が餓死するかもしれないのに、拓弥はそれを無視するんだ。死んじゃったら拓弥のせいだからね」
 声を震わせて峻は訴えたが、
「お前、朝御飯食べてきたか?」
 と拓弥は見当外れなことを訊く。彼の意図が掴めなくなり、
「え? あ、うん、食べてきたけど…」
 キョトンとして素直に峻は答えた。
「なら、少なくとも今日中に餓死することはない。そういうときのために、人間は体内に熱量を蓄えるように出来てるんだ。よかったな」
 ぽん、と拓弥は峻の肩を叩き、
「人情に訴え掛けても、お前の場合、説得力ないから」
 最後には本当に泣き真似でもしてやろうと思っていた峻に、拓弥は先手を打った。
 拓弥って、血も涙もないね――。
 そう言おうとして、峻は危うく思い留まる。中途半な捨て台詞はどんな反撃を食らうか知れたものではない。
「……薄情者。人でなし」
 峻は再び、そう呟くのだった。

「拓弥くん、そんな血も涙もないようなこと言わないで貸してあげればいいじゃない」
 峻が言い掛けた言葉を用いて思わぬところから彼の弁護に現れた者がいた。生きるか死ぬかの瀬戸際に女神が現れたかのような視線で、峻は彼女の上着の裾を掴んだ。
「……香くん」
「かおるー……」
 峻の背中をぽんぽんと叩いて、彼女、深山香は溜め息をつく。
「毎度毎度、よくも飽きずに似たような押し問答を続けるね」
「それはどうも」
「誉めてないよ。……拓弥くん、今のわざとでしょう」
 香の突っ込みに、拓弥は笑みだけで答える。
「貴方も貴方でね、峻くん。相手を選ぶべきだよ」
 ちょん、と猫にするように峻の鼻先を弾きつつ、香は彼に向き直って言う。
「じゃあ、香――」
「そうくると思った」
 香は再び鼻を弾いて峻の言葉を止める。鼻を両手で覆って顔をしかめる峻。
「まだ何も言ってないよッ」
「『じゃあ』だなんて、『拓弥が駄目なら香に頼もうー』以外の意味に取れないよ。見え見えなの。だから相手を選べっていうのよ」
 拓弥は黙って二人の遣り取りを見つめている。
「なら俺はどーすればいいのさ」
 結局敵が増えたのだと判断した峻は、恨みがましく香を見上げる。今日は人の前にかしずいてばかりだ。
「さあ……、学校中、誰かお金を貸してくれる優しい人を探して走り回るしか手はない、かな」
「そんなことしてたら、購買部、売り切れになっちゃうよ」
「あら、ホントだ。じゃあ急がなくっちゃね」
「そんな殺生なぁ」
 先程から堂々巡りをしているような気がしてきた峻は、実は拓弥と香が連携して自分を玩具にして遊んでいるのではないかと疑心暗鬼に捕われ始めている。
「――冗談だよ。ホラ。ちゃんと返してね」
 だが香が懐から小さな財布を取り出し、更に千円札を一枚取り出したのを見て、直ぐ様、峻の顔はほころぶ。
「あっ、ありがとう!」
 数分前とは打って変わって飛び切りの笑顔を見せた峻を見て、拓弥がたまらず吹き出した。
 峻はそれにも気づかず、紙幣を両手で捧げ持ち、
「香様、この御恩は決して忘れませんッ」
 大袈裟な言い回しに呆れた声で香は、
「そんなに改まらなくていいから。でも恩だけは忘れないでね」
「了解ですッ」
 峻はそう言い残し、廊下に駆け出していった。
 ――そういったわけで、友人に出世払いで昼食代を借りることが出来たのは、何も腹を空かした子犬のような悲痛な顔をして峻が拝み倒したという理由のみの産物ではない。
 これもある種の、運だろう。

     ■     ■     ■

 ――ちなみに。
「慌しい奴だな」
 拓弥は溜め息を零し、廊下を駆けていく峻を見送った。
「拓弥くんは行かなくていいの?」
 香は訊く。拓弥は机の横に吊っておいたバッグから巾着を取り出し掲げた。
「今日は弁当持ち」
「ふうん……」
 小さく頷いて、そして香は言った。
「それで、拓弥くん」
「うん?」
 窓の外から見える中庭に視線を移し、香は拓弥に問い掛けた。
「貴方……、峻くんに本当に貸す気がなかったの? それとも……」
「それとも?」
「貸せるお金自体、持っていなかったんじゃない?」
 その時の香の視線は、多少拓弥に対して挑戦的な感情を含んでいたかもしれない。だが拓弥は、口元をほんの少し持ち上げて、上着の内ポケットから、財布を取り出した。
「僕はこの通り、人の無心に応えられるくらいは持ち合わせてる」
 彼の財布から確かに見えた紙幣を一瞬だけ見遣り、香は眉根を寄せた。
「じゃあ、最初から嫌がらせのつもりで――」
「人聞きが悪いな」
 拓弥は言う。彼の手は、再度、内ポケットに入れられた。その手が出されたとき、香の目は僅かに見開かれる。
「それって……」
 拓弥が掴み出したのは、もう一つの財布。
「そう、アイツのだ」
 ニコリと笑って、拓弥は答えた。
「さっきの数学の授業が始まる前、僕の横で話をしてたときに、バッグのポケットからレジュメやら何やらを出し入れして落としていったんだよ。今日は小テストから始まっただろう、その最中に気づいて拾ったんだけど、カンニングなんかの疑いを掛けられるのは心外だから、返すのは後にしようと思って預かっておいた。中身は見なかったけれど……、落ちたのに本人が気づかないくらい薄そうだと知って、少し気の毒になった」
 くつくつと拓弥は声に出して笑う。
「直後にあの様子だ、素直に返すのが可哀想になってね」
 それで、あの言動か。
「だから、今日のアイツは御愁傷様なのさ」
 心からの溜め息をついて、香は言った。
「本当、人が悪いな、拓弥くんは」
 拓弥は、ただ微笑むだけだった。
「全くだ。自分でも思うよ」
 香には、確かにそれが意地の悪い笑みに見えたのだが、同時にそれは悪意を含むものではないことも分かっている。最終的に香が現れなければ、なんだかんだで彼は峻を支援することを躊躇わなかっただろう。
 気のせいかもしれないが、楠木拓弥は『そういう』笑顔の似合う少年である。それは少し勿体無いことをしている、そう香は思うのだった。


<< 幕前中編 >>

目次


Copyright(c) Kazui Yuuki all rights reserved.

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送