堕天使の原意


 購買部で一番人気のクラブサンドを入手するために、樋口峻は持ち前の健脚を活かして、それこそ言葉通り、廊下を疾走したことだろう。開け放たれたドアの敷居を丁度飛び越えるようにして屋上にやってきた峻は、ふう、と一度息をつく。
 大抵、屋上に走って上がってくる者は、売り切れ必死のクラブサンドを大急ぎで買った足で、昼食の席となるベンチを確保するためにそのまま階段を駆け上がってくる、というケースが殆どだから、軽く額に汗を掻いていた彼も、恐らくはそうなのだろうな、と予測がついた。しかし……、傍目に見ても、微かに息を切らし、これから昼食を摂るという人間の様子には見えないかもしれない。
 手にパンの入った紙袋を手にして、峻は屋上を見渡す。既に休憩時間が始まって久しい。フェンスに沿って並んだ殆どのベンチは既に残らず埋まっていた。ベンチの延長線上、床に座って輪になり弁当を広げる男子生徒も少なくない。
 ほんの少し肩を落として、それでも進まなければ始まらない、とでもいうようにゆっくりと歩き始めた彼の視線が、あるところで止まった。
「あ」
 ラッキィ、と呟きを聞かせて、峻はそちらに歩み寄る。視線の先には、一人の生徒。給水塔の横、フェンスが丁度背凭れになる好所だ。適度に日が当たり、ランチタイムには悪くない。
「茜」
 ベンチの一つに、峻の友人の塚本茜(アカネ)が座っていた。一人で背もたれのないベンチのひとつを独占しているその脇は、都合、二、三人分空いている。既に食事は終えたらしく、紙パックのコーヒーのストローを銜えていた。
 ぼんやりと、青過ぎるくらいに青い空を眺めていたその視線が、ゆっくりと下がり、峻のそれと交差した。
「ん……、いいとこみっけ」
 口からストローで繋がった紙パックをぶら下げたまま、茜は峻に片手を持ち上げて掌を向ける。峻はにんまりと笑みを浮かべて、茜の隣を指差した。
「ここ、座っていい?」
「どうぞ」
 三人掛けになっているベンチの両側に、彼ら二人は座り直した。
 開いた真ん中の空間は、改めて弁当置き場となった。そこには峻が購買部で買い込んできた調理パンが幾つか、それに新製品だったのでつい衝動買いしてしまった、というのが見え見えのメロン牛乳のパックが一つ。
 ふと風に吹かれて小さな音を立てるのが、ベンチの裏に誰かが置いていったのか、空き缶が一つあった。少しだけ、風の音がそれだというような錯覚を受ける、微かな金属音が辺りに響く。
 二学年、樋口峻。風に吹かれて軽めの茶髪が寝癖にも似た乱れを見せているが、運動好きで好天的性格の少年は意にも解さず風を感じるに任せている。
 学校指定のブレザーとスラックスにワイシャツ。ただし、ブレザーはもう脱いでしまって、ここに来たときには腕に引っ掛けていたし、ワイシャツの裾は数回折ってあるし、ライトブルーのタイは襟元まで締まっていない。
 ……まあ、ワイシャツの裾は兎も角、タイの緩め加減においては他の男子生徒とそう大差ない。昼休みという時間帯、良い塩梅の陽気のために、締めていない者もいるくらいだから、そう窮屈さを感じることはないだろう。
「随分と遅くに来たね。何かあったの」
 扇子に見立てた掌で顔を仰ぐ峻を見て、茜が訊く。
 茜も、ブレザーは着ていない格好だ。衣替えにはまだ少しあるが、今日のような日に外に出る場合は、流石にジャケットは多少暑苦しさを感じる。
 一見、ショートカットか、それより少し長いくらいか…、短く切られた黒髪が陽に当たって、紫紺に近い赤紫色に見える茜は、今はホワイトシャツの上にグレイのベストを着ている。タイは当然、最初から付けていない格好だ。
「あはは……、そう、一悶着」
「……ま、いいけどね」
 自分の教室から逃げでもしてきたのか、峻は、しかしそれをそのまま話すこともせずに笑って誤魔化した。
 遅ればせながら、と峻はサンドイッチのビニールパックを開き、ふわふわの三角形を取り出した。レタスとハムが少し飛び出たサンドイッチが峻の口に噛まれようとした時――、キャッチボールをしていた一団から、ボールが転々と転がってきた。
「ふむっ」
 両手が塞がっていた峻は、座ったまま足先でそれを掬い上げ、一度バウンドさせて蹴り返した。ボールは見事に遠くの手の中に納まる。別に大した曲芸ではないけれど、サッカー好きが興じた彼の足技は評価に値するものがある。
「相変わらず、そういうの得意だね、峻は」
 少しの驚きと関心を交えた声で茜が言うと、一口目を飲み込んだ峻は、
「え? 今の? 今のは偶然、たまたまだよ」
 そう笑ってみせた。
「へえ……、そう」
 それは無邪気な笑顔とでも呼べそうなもので、自然と茜の表情に笑みは感染する。峻のそんな態度は子犬みたいで、時折見せる子猫みたいな表情が見ていて飽きない。
 しばらく笑っていた茜は、――やがて急に真顔に戻り、さながら自問でもするように、こう呟いた。
「ひとつだけ叶う神への願いに、何を願う?」


 ――それは確かに、場にそぐわない突然の発言だった。
 昼食時に合わせた思考回路にこの問い掛けである。それが峻でなくとも、タイミングとしてはかなり悪かったに違いない。
 飼い主から餌の『お預け』の命令を受けていた犬に、『よし、……っていうのは冗談で待て』なんて中途半端な言い方をしたら、犬はこんな表情をするのだろうか。そんな顔で、彼は茜を見る。峻は一瞬、自分に向かって声が発せられたことに意識を向けることが出来なかったようだ。
 それは、それが丁度、先程買ってきたばかりのサンドイッチにかぶりついたところだった、という一因にもよるところがあるのかもしれない。
「はむゅ?」
 もぐ……、と中途半端な咀嚼をしたところで妙な声を出して茜に応えてしまい――『なに?』とでも本人は言おうとしたのだろうが――、何となく気恥ずかしそうな顔をして口を動かすのを止め、峻は隣に座る人物に問うた。
 唇の端からレタスの葉が少しはみ出していた。彼はそれをパリパリと噛み直す。
「ゴメン。なに?」
「く……、だからね……」
 茜はしばらく俯いて肩を震わせていたが、先程の問いを繰り返した。
「『ひとつだけ、どんな願いでも叶えられる機会が与えられたとき、貴方は何を願いますか?』っていう問いに、峻だったらなんて答えるか、って」
 こくん、と口の中の物を飲み込んで、峻は応える。
「何でも? どんなのでもいいの?」
「そう」
 頷く茜、一時、食事を止めて空を仰ぎ見る峻。
「そうだなあ……。考えたこともないからなぁ」
「そうだろうね」
 とかく人間は不自由な生き物だ。そして、人は常々自由について語りたがる。自由を求めたがる。しかし『自由』という言葉は、他のどんな言葉にも増して不自由な存在で不自由な意味しか有しない。
 この世に『現実』がある限り、『リアルな』という形容詞が何に付随しても違和感を隠し切れないのに何処か似ている。『言葉』の意味を言葉で説明するのには意味がないように。
 どう多めに見積もっても『どんな願いでも叶えられる』という状況など、一生に一度出会える可能性が、一億人に一度、あるかないか、といったところが現実だろう。そんなものは言葉通り、現実離れしていて普通は考えない。
「うーん……」
 そんなことを思ったのかはともかく、いざ与えられた問いに考え込んでしまった峻に茜は、
「御飯、食べに来たんじゃなかったの?」
 と当たり前のことを言う。
 脳裏に色々巡らせていたのか、はっとした表情で峻は、
「あ、うん。食べる食べる」
 と再びサンドイッチにぱくつき始めた。そうしながら、
「なんでそんなこと訊くの? って訊いちゃ駄目?」
 少し篭った声で切り返した。
 茜は口元でストローを振りながら二秒程考える様子を見せ、
「最近読んだ本に載ってたんだ、そういう問いのある場面」
「うん」
 五百ミリリットルのメロン牛乳のパックを開けて、パックの口から直飲みしながら、峻は相槌を打つ。メロン牛乳はいかにも甘そうで、しかし甘党の峻は、「明日もコレ飲もうかな」などと呟いている。
「とても信心深い男の下に、あるとき神様が現れて、たったひとつだけ、何でも願いをかなえてやると言った。男は考えた末にある答えを言うんだけど……、それが、ちょっと変わってて」
「神様が? それとも男の人が?」
 峻の言葉に、茜は首を振る。
「そうじゃなくて、男が答えた『彼の願い』が」
 二つめのサンドイッチの封を破りつつ、峻は思いついて、
「男の人、変なこと、答えたんだ?」
「そういうこと」
 茜は軽く微笑む。
「そう、そんな場面で普通なら――神様に願いを叶えてもらうなんて場面事態、普通じゃないけど――、絶対に言わないようなことを男は言ったんだ」
「ふんふん」
「その本を読んで、ホントにびっくりしたんだ。こんな考え方もあるんだ、って。自分でもそんなこと思いもつかなかった……、というか、峻の言った通り、変だと思った。『普通じゃない』って思ったんだよ」
 螺旋を描くように人差し指を立てて宙をくるくる回しながら、茜は説明を続ける。
「そこで。普通なら滅多に話題に出るものじゃないこの質問を、きみなら何て答えるんだろうと思って、こうして問い掛けてみました。……以上、説明終わり」
 一息ついて、茜はコーヒーの紙パックにストローを突っ込んで一口飲んだ。
「なぁるほど……」
 峻は、今度は俯いたまま船を漕ぎ始めた。そして、
「茜、……こういうのってさ、俺より拓弥とかと話すことじゃないのかなあ」
 と、つい、というように零す。
「その拓弥くんがいないから、代わりにこうして峻に話しているわけでしょう」
 茜も切り返す。
「一悶着、あったんでしょ?」
「……あう」
 十秒間、二人して黙って喉を潤す。
 次に口を開いたのは峻だ。諦めたのか話が正規のルートに乗る。
「『何でも』って言われても、困るよね。どうしても、沢山考えちゃう。そこから何か一つ選ぶのって凄く難しい」
「そう、そこが難しいところ。お金でも、地位や名声でも、極端な話、『世界を我が手に!』でも叶うものは叶う。だって相手は神だから」
 対象の範囲は問われないのだ。望めば叶う。不可能はないのだ。万物生成の祖には、人間が想像する全ての物……、いや、それ以上のものを創造することが出来るのだから。
 ――だから、かえって願いづらい。無限の可能性をたったひとつに凝縮することなど不可能だ。だから、そこには妥協が必要となる。ゼロを一にするよりは簡単なはずなのに、簡単には出来ない。
「ひとつ、かぁ……。ひとつ、ひとつ」
 段々、真剣に考え始める峻。
 そんな彼の様子を見て、茜はクスリと笑みを漏らす。
「そんなに真剣に考えなくても、思いついたことを言ってみればどう? 『神様の願い事』なんて、ないはずのことを話しているんだから」
「? どーいうこと?」
 キョトンとした顔で峻は訊く。
「これは結構有名な話なんだけどね。『魔法のランプ』の話、知ってるでしょう?」
「アラジンの?」
「うん……、そうだったかな。まあ、それでいいや。魔人が三つまで願い事を叶えてくれるんだけど、これだけは暗黙の了解でタブーになっている、っていう願い事があるんだ。何だと思う?」
 腕を組んで、考える仕種をする峻。が、少しもせぬうちに、
「駄目。分かんない」
「考えてないでしょう」
 茜は一度意地悪そうな微笑を見せ、
「まず一つ目と二つめの願いは叶えられる範囲で自由に叶えてもらう。そして三つめに『私の願いをあと三つ、叶えてください』っていう願い事をする――」
「うわ……」
 峻が、感心とも呆れともつかない呟きをする。
「それは卑怯だ」
 茜は一つ頷いて、
「そうかもね。『どんな願いでも叶える』はずの魔人様も、自由な願いを叶え続けさせられることに対してだけ拒否が出来る……、いや、そうじゃないな」
 今度は茜は首を振る。
「様々な物語を作る人々の間では、了解事になってる。『三つまで願いを叶えてくれる』っていうファンタジーが矛盾しないようにするためのお約束。パラドックスってヤツだね。だから、今回の『神と男の話』にもそれが言えるんだ。『私の願いを叶え続けてください』という願いは、願うことは出来ない。これを突き詰めて考えると、『私の願いを全て叶えてください』と言っているのと同じだからね。『どんな願いでも叶える』という最初の問い掛けにも、そもそも無理があることが分かるでしょう? つまり……、言ってみればそもそもの命題、前提があやふやなのであって、『神様の願い事』なんて、物語の中でも本当は存在してはいけないものなのだ、とね」
「卑怯だなァ」
 先程の言葉を峻は繰り返す。茜は、
「けど、夢は持っていたい、という人はいて、そういう物語を作るわけだ。『こうだったらいいのにな』っていう、ね。ファンタジーはファンタジーでいいじゃない、って。何でも論理的に考えるのは、時には触れてはいけないこと、という意味もあるように思えたね……。何も知らない方が幸せでいられることも多いのかも」
「そっか……」
 茜の言ったことが全て分かったのか分からないのかは定かではないが、頷きつつ峻は三つ目ののサンドイッチの封を切った。……まだ食べるのか。
「そういう……、パラドックス? それを導くための話を作ったのも、元は人間に言葉を持つことを認めた神様のせいなんだから……、結局のところ、神様って意地悪ってことだよね」
 茜は膝の上で頬杖を付こうとしていて、掌から顎を落とした。その言葉は、神の存在を半ば認めている。感心とも呆れともつかない呟きを茜は押さえきれないようだった。
「……峻らしいね」


<<前編 後編 >>

目次


Copyright(c) Kazui Yuuki all rights reserved.

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送