始まりは、多分何でもないことだったと思う。
それがどんなことであっても、始まりは突然だし、終わりもまた突然なのだ。
そのときも、だからぼくにとっては突然だった。
ぼくが画用紙に向かって一心に描き続けていると、
「ねえ、いつまでそうやって続けるつもり?」
退屈そうな表情を貼り付けたまま、彼は言った。
いつもそんな顔をしているわけじゃないけれど、特にそのときの彼は退屈そうで、
「さあ、それはぼくにも分からないよ」
でもぼくも素っ気無く答える。描くことに夢中だった。
真っ白だった画用紙と格闘するぼくに、溜め息をついて彼は、
「まったく、仕様がない子だね、きみは」
何か見知ったようなことを言う。
「きみだって同じじゃないか」
ぼくは少しだけムッとして言い返した。
「何がだい」
「そうやってさっきから、刃を出したり引っ込めたりするだけで」
その手に持った、小さな小さなカッターナイフ。
「何も切ろうとしない?」
「そうさ。だったらぼくだって、こうして続けていたって構わないだろう?」
「否定はしないさ、何事もね」
「まったく…、きみだって仕様がない奴だよ」
「何か言ったかい?」
「言ったさ、何か。ただそれをきみが聞いていたかいなかったか、それだけの違いだ」
「成る程、全くその通り」
「感心してもらったって、ちっとも嬉しくないよ」
ぼくは画用紙に向かって一心に書き続ける。
それはまるで、母親の真似をするように小さな子が口紅で顔を塗るように。
だから当然のように、彼の茶々が入った。
「絵心がないなあ」
禄に見ないで、分かったようなことを言うのだ、彼は。
「そんなことないさ」
「そんなこと、あるかないかは、ぼくが決めることだよ」
「なに、それ」
「絵っていうのはそういうものだろう? 描く人は、その絵の中に自分の描きたかったものを全て注ぎ込むだけでいい。後は見た人がどうとでも解釈してくれる。ただ、その解釈が、絵の作者の思っていたものの通りだったかどうかは、そのときになってみての運としか言いようがないけれどね」
「そんなの、きみの勝手な意見だろう。きみはその、『見た人』に過ぎないんだから」
「そうとも言えないんだけれどねえ」
「どうして」
ぼくが聞き返すと、呆れたような顔で、
「どうして、だって? 誰のものだと思っているんだい、そのクレヨン」
言われてみて、ぼくはようやくそれに気付く。
どうして気付かなかったのだろう、と思ってしまうくらいに、当たり前のはずだったこと。
「これは…、これは、きみのクレヨンだ」
そう、彼のクレヨンだ。ぼくのものではない。
「そう、きみのものではない」
「ぼくのものではなくて、きみの」
「そう。きみのものではないんだ、決して」
彼はきっぱりと言う。まるで世界が始まった時から、それは決まっていたということを知っていたみたいに。
「どうして…」
だから、ぼくの声は多分震えていた。
「なんだい」
そして、彼の声は不思議なくらいに凛としていた。
「どうしてきみは、そんなことを言うの」
ぼくの声は、震えていて、
「そんなこと、だって? まだきみはぼくに『そんなことを言う』のかい?」
彼の声は凛としていたから。だから。
「……」
ぼくはこぶしを握り締めていた。
その瞬間。
「あ」
ぽきり、と妙に軽い音を立てて、ぼくの手の中で折れる音。
「あ」
ぼくの手についた、色。
それを目にしたとき、
「ごめんなさい」
ぼくは、彼に謝罪していた。
これまで彼と一緒にいて、そんな言葉は一度も口にしたことはなかったのに。
そんな必要に駆られたことなど、なかったのに。
「ぼく、ぼく、そんなつもりじゃ」
ぼくの声は、震えていた…、
「ごめんなさい? 何を言っているんだい、きみは」
彼の声の色が変わったのは、そのときだった。
今までに感じたことがない、全く色のこもっていない、色。
透明なようで、半透明なようで、この世の全ての色を混ぜたようで。
それは混沌と呼ぶのだろうか。黒よりも暗い、色。
「何をって…、だって、ぼく、」
「今更言い訳のつもり? 駄目だね」
「ごめんなさい…」
謝っても、無駄だ。ぼくはそう悟っていた。
けれど、口から出たのは、謝罪の言葉だけで。
だから、
「駄目だね。きみがいけないんだよ」
彼の口から出たのも、断罪の言葉だけだった。
チキチキチキ。
「本当、きみがいけないんだよ」
何がいけなかったのだろう。
チキチキチキ。
「きみがぼくの金色クレヨンを折ったりするから」
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
チキチキチキ。
チキチキチキ。
ぼくが、彼のクレヨンを使ったから?
「ぼくは、きみを許す――」
チキチキチキ。
『許すわけにはいかない』。彼は冷たく、そう言ったのだろう。
チキチキチキ。
けれど、実際には聞こえなかった。
チキチキチキ。
カッターの刃が出し入れされる音だけが、ぼくの耳に届いた。
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