死神たちの断章


「ぼくを訪ねてきたの? 出迎えが出来なくて申し訳なかったね」
 両手を少し広げる姿勢を取り、少年は自身の周囲を示そうとする。行灯の火がたゆたう、その部屋は狭く、薄暗く、檻としての印象が固まった。
「ぼくはこの通り、この部屋から出ることは適わないから」
 口元だけで薄く微笑みを浮かべる少年の顔が、人形のように艶めいて見える。まるで幻覚を見せられているようで、しかしこの上なく明確な鼓動が発せられているようで。
 そんな感情は、とうに闇の中に葬り去ってしまったはずなのに、怜依は背筋が微かに粟立つ錯覚すら感じ、密かに右手で左の肩を抱く。
「俺は、お前の名しか知らないが…」
 彼は、自身の持つ情報を整理しつつ、
「お前は、この屋敷の主ではないな」
 当初から想起していた考えを口にする。彼は、屋敷の主の灯火を消すために現れた存在なのであり、…屋敷に留まるものが少年一人だけであるというのならば、それはすなわち怜依の標的は彼であるということになる。
「それは、ぼくではないよ。ぼくは、囲われていただけ」
 怜依の胸中を推し量る余地があるのか否か、梓は笑みを絶やすこともなく、淡々と受け答えを続ける。
 そして、その言葉の内容を把握することで、怜依は何故少年が楼閣に幽閉されているのかが分かったように思えた。…これは、監禁だ。
 梓という少年を欲しいままに扱う為、それだけのために、彼の自由を奪う。の事実が既に、少年の精神を陵辱する一歩目となっているのだ。「稚児崩れ、か?」
 彼の呟きは、少年に届いていた。
「…あの人は、優しい人ではなかったよ」
 言わなくても分かるでしょう? と言うように、梓は言う。
「辱めのために、ぼくを生かしているんだよ。自分が傍に居なくても、常にぼくはあの人の責め苦を待ち続けなければならない。その予感だけで、普通の人ならば狂うことが出来る。簡単に」
 目を閉じて、彼は小さく首を振った。
「ぼくは何度も、あの人に殺された。身も、心も、ずたずたに引き裂かれて。何度も、何度も。なわを掛けられ、柱に括り付けられ、身体の自由を奪われ、好きなように傷つけられ、悲鳴を上げさせられた。あの人は、鳥の声を聞くように、ぼくの声を楽しんだ。短刀で血管に穴を空けて、血が噴出す様を眺め、盃に注いで、味わった」
 慈しむように、無数の傷があるはずの包帯をそっとさする。
 沈黙を共に、怜依は少年の独白を聞く。
「あの人の熱は、とても…、とても熱かった。ぼくも、幾度となく吐き出させられた。一人では立ち上がれないほどまで、教示は続いた。一晩中。ぼくの髪も、爪も、肉も、全部、あの人のものだと教え込まされた」
 しかし、それを苦痛だと思わせぬ口調で、梓はそれを口にする。
「朝が来て、あの人が座敷から離れていくと、その時になってようやく、呪縛は解ける。自分が辱められたのだという自覚が、その時になってようやく訪れるんだ。その瞬間だけ、ぼくは自分を見失って、狂乱する。…でも、たった一瞬」
「愛情の元に飼われるのが稚児の全てだと思ったら、大間違いだ」
 怜依は、冷たい皮肉を口にする。上目遣いで彼を見遣った少年は、
 ここは、砂上の楼閣なんだ。
 ぼくは魂すらも痛みを感じないのかもしれない。
 そう呟く彼は、…それなのに、その顔から淡い笑みが消えない。
「あの人以外に、誰も現れない」
 梓は、語った。
 長いこと、使用人の姿すら目にしていなかった。
 誰かに、助けて欲しいと願ったことも数知れない。
 でも、救いの手は差し伸べられなかった。
 あの人が気紛れに座敷に足を向けた際に、僅かな慈悲で与えられる食事と、部屋の隅に備えられた一組の茶器。それだけが、少年の身体を保たせていた。
 茶の点て方が巧くなったのは、そしてそれを教授したのがあの人であることは、皮肉意外の何物でもない。舌先が鋭敏になり、彼の主の小さな望みに応えることも厭わなくなったことすら、仕組まれたことのように思えた――。
 呪われた物語。次第に、梓は人形となりつつあった。
「…でも、ぼくは狂わなかった。今もね。だからこそ、ぼくはこうして囲われている」
 一片の理性が、破棄されることなく梓をこの場に留まらせる理由となり得ていたのだろう。現状は、現実味がないこととはいえ、理解するに難しくはなかった。しかし、その中には綻びが多過ぎる。
「お前の主は、今、何処にいる?」
 怜依は、目の前の少年に問うた。
 誰も少年の傍に近づけなかった彼の主が、ならば何故自分を…、屋敷への侵入者が梓の元に辿り着くことを無言にて許容したのか。
「それを知って、どうするの。ぼくを差し出すように言うの?」
 出会った瞬間から未だ、その場を動かす気配すら見せない梓は、逆に尋ねる。
「半分は的を得ている。だが、了承を得るつもりはない」
 ようやくにして、怜依は少年の前に一歩、歩みを進めた。
「下手人風情が問うには珍妙だが…、これ程の屋敷にも関わらず、使用人の姿が全くない。どういうことだ?」
 逡巡するように一度頷いた後、梓は応える。
「貴方が誰とも会わなかったのならば、…誰も、いないよ、きっと。この屋敷には今、ぼくしか居ない。…あの人には、ぼくしか要らなかったんだ。だから、皆、離れていったんだよ、きっと」
 しかし、彼は表情を変えなかった。
「でも、あの人も、もう居ない」
「何があった? お前はお気に入りだったのだろう?」
「久しく、ぼくはあの人の顔を見ていないよ」
 忘却の陶酔を思い返そうとするかのように、少年は包帯に隠された左目に触れた。
「ぼくよりもあの人を引き付ける誰かを、手に入れたのかもしれない。ぼくのことなど、どうでも良くなってしまったのかもしれない」
「稚児とは、そういうものだがな」
「分かって、いるよ」
「それなのに、お前は生き存えているんだな。断食僧でもあるまいに」
 怜依が比喩すると少年は、ふふ、と自嘲気味に笑う。
「言ったでしょう。ぼくはもう、何度も殺されているんだ。ぼくの魂はきっと、本当の死の感覚も忘れてしまったんだよ。人は死ぬために生きているけれど、ぼくは生きるために死に続けたんだ」
「お前の主が存命であるという保証も、ないだろう。稚児がその後を追うという話も、よくある逸話だが…、お前は、何を待っている?」
 梓は、再びかぶりを振った。
「ぼくは、あの人に無断で死を図ってはならないと教え込まれた。本能よりも強く。だから、ぼくは誰かに殺されるまでは死ぬことが出来ない」
 それがぼくの罪かもね、と彼は呟いた。
「ならば…、お前がここを離れても、誰も行方を案じないということだな」
「それは、出来ないよ。言ったでしょう? ぼくは、ここを離れることが出来ないって」
「主人は絶対者というわけか? 笑わせてくれるな」
「そうじゃないよ。確かに、ぼくはここから出ることを許されなかった。けれど、出たくても出られなかったのも事実だから」
 檻の中に囚われているという事実。
 それを悟ったとき、怜依の内側に湧いた、一つの感情があった。少年の罪を裏から支える、禁じられた演技。
「――これか?」
 怜依は、牢の枠に指を掛ける。キシ、と鉄枠が微かに悲鳴を上げた。
「ここから、出たいと思ったことはあるか」
「勿論。けれど、それは一番に許されなかったこと…」
 かつて禁忌に憧れた者の熱視線が、そこにはある。
「この屋敷は、ぼくが居るべき場所であり、あの人の戻るべき場所でもあったから」
 彼が縛られているのは、紛うことなく、彼のその全てなのだ。
 自堕落なその考えは、そのまま少年の堕落した精神を裏付けすると共に、真っ直ぐな視線で夢を見続ける純粋な観念でもあった。
 だが、楽屋と舞台を履き違えて…、混合させて受け止めてはいけない。
 再び、怜依は問う。
「この扉が開いたら、お前は下界に出る勇気を持っているか」
「無理だよ」
 即座に、梓は言い切った。
「あの人以外には、その鍵は開けられない。鍵は一つしかないから」
 ふと…、目を細めて、彼は過去を思い起こす面持ちをする。
「無理矢理に、鍵を銜えさせられたこともあったよ。これがなければ、お前と永遠にこの部屋で二人きりだな、と言われて。必至に奥に飲み込むのを堪えて」
 くく、と怜依は喉で笑みを起こした。
「何が、可笑しいの。壁でも壊す気になった?」
 少年の軽口に、青年の笑みは更に深くなる。
「その口振りでは、まるで彼と居ることが苦痛で仕方なかったと言っているに等しいな」
「それは、違う…っ」
 微かに、梓の口調が変わった。
「そんなことは、ないよ。貴方の言う通りならば、あの人もぼくを生かす理由を持っていなかったことになる」
「分かっているじゃないか。確かに、お前は生かされていたんだ。だが――」
 錠前に、手を伸ばす。それが解かるまでは、ほんの数秒だった。カチャン、と呆気ないほどに易々と、牢の鍵は外れた。少年の顔から笑みが消える。
「どうして…?」
「問われるまでもないな」
 怜依は、冷たく応えた。
「意思があるか否か、それだけだ。お前の意識は既に、外側に向かっている」
「ぼくは…」
 怜依の指摘に梓は言葉に詰まり、…それは無意識の肯定を示していたのかもしれない。
 青年は扉を開け、檻の中に足を踏み入れた。少年は未だ、戸惑うような顔付きのまま、…しかし、その腰は僅かに浮こうとしている。
 畳の上に無造作に置き捨てられた茶器が、怜依の足に触れ、軽い音を奏でた。
「どうして貴方は、ぼくの所に来たの」
 今更のように、少年は訊いた。
「本来ならば、この場でお前を殺すのが俺の役目だが――」
 一度言葉を切り、彼は囁いた。
「興味が湧いた。来い、梓。…お前に、偽りではない死を見せよう」
 数秒、呆然とした顔で怜依を見つめていた少年は、
「まるで…、死神だね」
 クスリと笑った。
「そう呼ばれても構わない。望みは同じだからな」
「望み?」
「死神は、そういうものだろう?」
 茶化すように、怜依はそう口にする。
「どうする? 封鎖は、解かれた。後は、お前の望みがあるかどうか――」
 梓は――、怜依の手を取った。ゆっくりと膝を伸ばし、頼りない足元ながらも、しっかと畳の上に自身の存在を明らかにする。
 青年を見染めた瞳が、再び真っ直ぐに彼の視線を捉えた。
「俺は、お前を救いに来たわけではない。それを忘れないでくれ」
 少年の冷たい指が、怜依の掌を刺激した。
「まだ、聞いてなかったよ。貴方は――」
「怜依。お前の主の死が、俺の務めだ」
 ハッとしたような顔で、梓は怜依を見る。
「お前には、それを見る権利があるだろう?」
「どうして、そんなこと言うの」
「決まっている。お前が真に望んでいたものは、お前自身の死ではなく――」
 暫し、雲に隠れていた月の光が、再び天窓から降り注ぐ。それはさながら雪の煌きのように、はらはらと彼らの頬に舞い散り、薄く開いた少年の唇に飛び込んだ。
「――どうした?」
 怜依がそう声を掛けたのは、少年の頬が光るもので濡れていたからだった。
「何でも、ないよ。気にしないで」
 半分掠れた声で梓は応え、青年は黙って彼に背を向けた。
「ナゥ」
 その視線の先に、彼は先程出会った黒猫の姿を見る。
「――成程。独りではなかったな」
 彼は呟いて、檻の隙間を通り、少年の足元に辿り着く猫の様子を眺めていた。人になれているらしい猫は、無慈悲な装飾に埋もれた少年にも頓着せず、静かに寄り添っている。
 目許をそっと拭った少年は、膝間付いて猫の背に指を滑らせた。
「お前の、猫だな、名前はあるのか」
 包帯だらけの手で、猫を抱き上げた梓は、ぽそりと、
「白」
 一つの単語を口にした。
「黒猫なのに、か」
「空白の、白だよ。ぼくと同じ。虚無の白、闇に埋もれた光りの、白」
 少年の腕の中で、猫が僅かに身じろぎし、赤く汚れた胸の包帯が少し緩み、剥がれた。
 その下の、傷一つない滑らかな白い肌を目にして、怜依は細く息をついた。不実な陶酔に似た感情が、疼くように頭を痛くしていたが、…それももう、どうでもいいことだ。
 自分はただ、淡々と務めを果たせば良い。
「行こう」
 目の前の少年が、梓ではないとしても、それは変わらない。
 それも、分かり切っていたことだ。
「この子は――」
 大事なものを抱き締める少年の声に、
「好きにしろ」
 やはり感情の薄い声で、怜依は応える。
 世界は、嘘で満ちている。それに、彼は気づきつつあった。
 何が、虚構か。それはもう、考える必要のないことだ。彼にとっては『芹沢梓』という少年の器に足る存在である、偽りの装飾に彩られた目の前の少年が得られた事実だけで十分だった。
 座敷楼を出れば、そこは既に半端は自由が満ちた世界となる。精神的に囲われた少年が、檻から出ることで直ぐ様自由が得られるとは思いたくもないが、しかし、怜依とて偽りの自由の中に見を浸し続けている。
 やがて朝霧の中に、彼らは消えていく。後に残されたのは、畳の上に一つだけ、小さな鍵だけだった。掌に握り込めるほどの小さな鍵でも、人を一人、籠の中に閉じ込めておくには十分な力を代行する。それが少し、物悲しくもあった。


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