ぼくらは存在しない


「ちょっと…、寒いな」
 ひんやりとした風が頬を撫で、少しくすぐったいほどだった。襟元に舞い込む冷気に首を竦めて僕が呟くと、ユウイも無言で頷く。
 終秋の夜は、月の光が空気を冷やす。
 月は冷酷な優しさを帯びた星だと思う。月下美人と呼ばれるものが狂気と無縁でないように、背中に降る光が突然痛々しくなる瞬間を僕は知っている。それは何処か後ろめたい感覚だ。月が地上の僕らから背中を見せてくれないように。
 人は意識して綺麗な部分だけを見がちだが、世の中、綺麗に生きていける人ばかりではないし、綺麗に生きていけるものばかりでもない。それを知る人だけが、綺麗に死んでいくものを見つめることが出来るのだろうと僕は思う。
「煙草をくれない?」
 僕の住むマンションの一室を出て歩き出し、最初にユウイが発した言葉がそれだった。
「煙草?」
 ジャケットのポケットを探ると煙草の箱が見つかったが、取り出してみると生憎、それは空き箱だった。
「…ああ、ごめん、持っていない」
 くしゃりと空き箱を握り潰し、僕たちはまず煙草を買いに行くことにした。
 てくてくと静かな街並みを行く。視界に隅がぼやけて見えるのは、うっすらと霧が出ているからだろうか。『霧』というのは秋の呼び方で、『靄』と呼ぶときは春なのだということを知ったのはつい最近のことだった。…そういえば、この寒さは秋雨の降った次の日のものに似ている。
 僕の歩調に合わせ、白い少年が横を歩く。軸足の長さの問題で、時々少年の歩調は狂う。だがそのことについては彼は何も言わない。だから僕は歩調を緩めない。靴音が奇妙な協奏曲を演じる、その演目を自ずから聞こうとするためかもしれない。
 道の脇を藍色をした猫がうろついているのに視線を合わせていると、ついと袖を引っ張られた。
「ねえ、カズミ」
「また。カズミと呼ぶなって――」
 言いかけて、その夜はもう諦めることにした。
「――ああ、もういいさ…、好きに呼んでくれ」
 一瞬大きく落胆した表情を作ったユウイだが、僕が折れて呼称を承諾すると、途端に嬉しそうな顔つきになった。それは例えば、それまで苗字で呼び合っていた知人に名前で呼ぶことを許された瞬間のような。
 それはまた、違う意味で反則だろうと思う。
 僕は正直、笑顔というものに慣れていない。自分が見せるのも、他人のそれを見るのも。
「頼むから…、そういう顔をしないで欲しい」
 眉間をちょっと抑えて僕は言った。
「どうして」
「眼が合わせづらい」
「それだけ?」
「ああ、それだけ」
「変なの」
「変でも構わない」
 どうせ僕は人とは違うつくりをしているんだ、などとぼやいてみた。
 するとユウイは試すような上目遣いで僕の顔を覗き込み、
「照れてるの、カズミ」
「…そうじゃない」
 ぶっきらぼうに答えて天を仰ぐと、肩の下から少年の笑い声が聞こえた。ユウイはいつも声を出さずにくすくすと笑う。それを聞いているうちに何故だか可笑しくなってきて、僕も笑った。僕はいつも喉でくつくつと笑う。言動不一致の典型だな、と自分でも思った。二人とも、自分の感情を表に出すことに正直ではないところがある。それも一つの生き方だ。
「それで…、なんだい」
 どうして呼び掛けられたのかと改めて問いただせば、
「うん。手、握ってもいい? 寒いから」
 僕が答えるよりも前に、ユウイの指が僕のそれと絡まった。
「カズミの手って、暖かかったんだ」
 新しい発見をしたみたいな声で彼は言った。
 そんな彼の指は…、冷たかった。彼の手は細く、少年特有の硬さを持つと同時に柔らかいのに、冷たい。
「手が暖かい人は、心が冷えている、って言うけれどね」
 誰かに言い訳をするみたいな声で僕は言った。
 そんな僕の心は、…冷たいのだろうか。
「カズミの心は、冷えてる?」
 思うと同時に、見透かしたようなユウイの問い。
 そうかもしれない、と僕は思う。僕は聖人君子じゃない。聖人君子は心が暖かいのだろう。ならば――、
「じゃあ、ぼくがカズミを暖めてあげよう」
 僕が答えを出す前に、ユウイが僕の腕を抱き寄せた。
 少年の身体は…、仄かに暖かかった。硬質な少年の骨格から発せられる熱は少しだけ無機的であるようにも思え、『人の暖かみ』なんて言葉は欺瞞に過ぎないのだという半信半疑な思いを抱かせる。
 ならば人は骨格標本にすら、言葉の上だけでの暖かさを見出すことが出来るだろう。けれど、僕は作りものの救いに頼って生きようとするほど貪欲な精神の持ち主ではない。
 そのときふと、泣きたいような気分になったのは、きっと気のせいだ。
「照れてるの、カズミ」
 僕の腕を抱いたまま、ユウイは訊いた。
「…そうかもしれない」
 僕が答え、今度はどちらも笑わなかった。二人とも、自分に嘘をつくのが巧い。


 それから二度息をする間に、煙草の自動販売機が見えた。
 空いた腕で財布を取り出し、販売機に効果を数枚放り込む。「中南海」か「セーラム」か迷ったが、最初に眼に映った後者に決め、ランプの点灯したボタンを押した。コトン、と軽い音を立てて煙草の箱が受け口に落ちる。ユウイは僕の腕を離し、屈んで箱を取り出し、僕に掲げて見せた。
「開けても?」
 僕は頷き、釣り銭を取り出す。
 英語の商品名を訳すと『血清」となる名の煙草だった。僕がいつも吸っている銘柄でもある。明らかな毒物であることは周知の事実なのに『血清』とは、物凄い皮肉であるように聞こえるのは否めない。
「火、ある?」
 早速一本口に咥え、催促するようにユウイは言った。
 先程と反対側のポケットを探ると、ライターがあった。万一、ガス切れであったらがっかりさせるだろうな、と思ったが、今度はちゃんとガスも入っている。
「ほら」
 言って、火を点けてやった。ジジ…、と白い棒の先が赤く染まる。聖火のキャンドルだって、これほど鮮やかに眼には映らないだろう、といつも思う。
 箱を受け取って僕が一本取り出す間に、ユウイは一息吸って、ゆっくりと吐き出した。煙草の煙を吐く仕草は、緊張を解きほぐすための深呼吸の手本にしてもいいくらいに自然な動作に見える。
「どう、気分は」
 訊くと、唇の端だけを持ち上げて微笑まれた。
「悪くないよ」
 僕も微笑み返してライターを自分の口元に近づけると、
「あ、待って」
 ユウイに制された。
「火の直移し、っていうの、やってみたい」
「いいけど。どうして急に」
「一人じゃ出来ないでしょう」
 成る程。単純明快だ。
 ライターを仕舞い、顔を突き合わせた。お互いに咥えた棒を突き出し、先端を触れ合わせる。ユウイの白い顔が、煙草の微かな火に照らされる。少年の火がほんの少し強くなり、僕は己の棒を軽く吸う。ジ…、と小さな音。 僕の煙草に火が移る。
 煙を吸うと、凍みたのだろうか、奥歯の古い虫歯の跡がしくりと痛んだ。喉に草の香りが舞い込んで、意味もなく、これは煙草だな、と判断する。
 儀式のような数秒が終わると、ユウイはニィ、と相好を崩した。
「なんだか、キスしてるみたいだったね」
 僕は危うく咳き込みそうになる。煙草を咥えたまま、
「恥ずかしいことを言うなよ」
「恥ずかしい? 別に、ホントのキスをしてるわけじゃないんだから」
「想像力が豊かなんだと言ってもらいたいな」
 クスリと少年は笑む。
「その言い方も結構、恥ずかしいよ」
「なら…、普通に『恥ずかしいこと』を言おうか。こんな遊びのようなことをしていると、――どうせならちゃんとしたキスをしたくなる」
 からかうつもりで僕が言うと、ユウイはきょとんとした表情になった。流石に僕のその返答は予想外だったらしく、そんな反応に笑いたくなる。
 だが…、
「――いいよ。しようよ」
 あっさりと頷かれたので、丁度その時煙を吸い込んでいた僕は、今度こそ咳き込んでしまった。
「ユウイ?」
「ちゃんとしたキス…、しようよ」
 何を言い出すのだと、思わずまじまじと相手の顔を見つめてしまう。少年はいかにもわざとらしく、真面目な顔をしてみせた。溜め息が出てしまう。
「言っておくけれど、僕にはそういう趣味はないぞ」
「分かってるよ」
「分かってるなら――」
「でも別に、遊びのキスくらい、カズミならなんでもないでしょう?」
 言われてしまった。そんな言い方をされたら、僕も簡単に拒否出来なくなってしまう。
 まさか、期待されているのだろうか…、そんな考えすら脳裏を過ぎる。
「遊びのキス、ね…。言うね、きみも」
 全く、いつもながら何を考えているのか分からない。
「分かった。一度だけ、ね」
 煙草を片手に持ち、もう一方の手をユウイの肩に添えた。ピクンと少年の肩が震える。
「言っておくけれど、僕はやるといったらやるから」
「相手がぼくでも、でしょう」
「勿論」
 僕は答えて、手を肩から顎に移し、添える。つい、と斜め上を向かせて止めた。
「冗談で終わらせるなら、今が最後のチャンスだけれど」
「――いいんだよ。遊びなんだから」
 僕の眼を見返し、ユウイは言う。ただの強がりなのか、それとも本気なのか。その眼が先刻からずっと瞬きをせずにいることに気付いた。その緋色を、僕は正直綺麗だと思った。
「意外と強情だね」
「カズミこそ…、ぼくなんかとしていいの」
「僕のこれは、安いんだ」
 口唇を指差した。煙草を一息吸って、少し肺に溜める。
「怖い?」
「…どうして? カズミがしてくれるんだもの、怖くないよ」
「それは光栄。…いい子だ」
「やめてよ、そんなことを言うの」
「悪い」
 微笑んで顔を傾け、そのまま少年の唇を塞いだ。
「ふ…――」
 反射的にユウイは眼を閉じる。
 思ったよりも滑らかで柔らかい少年の唇に、自身のそれを触れ合わせながら僕は、あまり楽しくはない遊びだな、などと考えていた。
 悪戯心に、僕は彼の唇を少しだけ己の舌で割り開く。彼の身体に少し、力がこもるのが感じられたが、そのまま舌先から、先程吸った煙を相手に送り込む。
「ん…ッ」
 こくん、と喉が動き、ユウイは僕の煙を飲み込んだ。煙草を吸うことに慣れているから、多分苦しくはないはずだ。…これこそまさに、間接キス。
 ユウイの指に挟まれたままだった煙草の灰が落ちるのを、眼の端に捉える。煙草自体を落とさないのは流石だと誉めてやりたかった。
 唇を離し、顎に添えた指を離した。
 眼を開けて何度も瞬きを繰り返すユウイを見ながら、僕は、初めてしたキスは塩辛かったことを思い出していた。その時はいきなり口付けをしてしまって、相手を泣かせてしまったのだ。直ぐ後で、それは突然で驚いたのもあったが、一番に嬉しかったから、と言われたのだけれど。
 小説を読んでいて、綺麗なキスシーンに会うことがある。そのとき、その場面が好きだな、と思うときには、僕は何故か泣きそうな思いに包まれるから直ぐに分かる。
 もしかしたら、僕の心にはキスに関する何か先天的に致命的な障害があるのかもしれない。恋愛に経験があるといっても、それが例外的なものだったことはちゃんと自覚していた。だからこそ、思い出す度にそれは少し悲しい。
 それを心の隅に押し遣りながら、僕は言った。
「ね、恥ずかしいだろう? キスなんて、遊びでしようなんて考えるものじゃないよ。つい余計なことをしたくなる」
 本心から、僕はそう思った。
 そもそも、僕は遊びでのキスなど、これまでに人差し指で数えられるほどの経験すらなかったのだ。倒錯めいた思いがないわけでもなかったことを告白しなければならなかったが、黙っておいた。
 ユウイが僕の言葉に同意したかどうかは口にしなかったが、彼は小さく頷いたように見えた。


「歩こう」
 それでも、行動を起こすのはいつも少年が先なのだ。ユウイはまた僕の腕を掴んで先導した。
 気分の切り替えが早いというか、物事にこだわらないというか。そんな表層は見習いたい。
 煙草を吹かしながら、並んで沈黙の街並みを行く。深更の散歩は幽玄でなければならないような強迫観念にも似た目標のようなものがあり、僕たちはそこで楽しさを求めるのではなく、ただ夢の代わりになるような何かに出会えることだけを望む。
 夜は、長い。
 こうして夜道を歩きながら、僕は何も考えない代わりに何かを考える。
 人間は眠らなければ生きられない生き物で、人生の三分の一は睡眠に充てられる。八十年生きた者は、すなわち単純計算で二十七年以上は眠って過ごしたということで…、つまり彼は五十三年しか自分が生きていることを自覚出来なかったということになる。自身の『生』について自覚出来るようになるのは物心が付いてからだろうから、実際にはそれより十年間ほどは短くなるだろう。…とすると、人が『生きている』と明確に自覚出来るのは、人生の半分ほどにしかならないのだ――。
 まだ二十歳を過ぎたばかりの僕は、そうすると『自覚出来る人生』は未だ数年分しか過ごすことが出来ていないことになる。いわんや、ユウイにおいてをや、だ。
 そう考えてみると、このひとときも、そう無碍に、無駄に出来るものではないようにも思える。だからこそ『夢を見るようなひととき』と形容出来るかどうかは分からないが、自身が作ってしまった論理の逃げ道に駆け込むかどうかは一概に決めかねるというものだろう。
 現実の夢と、微睡みの夢とでは、言葉の意味が異なる。多くの希望や願いが非現実的であるように、空想世界や反転時空が不存在であるように、『リアルさ』を決めるのは己の五感だけが頼りだ。眼の前に掲げられたパズルを解きたくないと断れる勇気は、臆病の逆ではない。
 夜は、三次元で構成される螺旋型の迷路のようなものだ。そうでなければ、夜に潜む少年たちが螺旋の形の内側に秘めていて、僕はそのイデアを見たことがあるのかもしれない。
 時折、腕に掛かる力加減が変わる。それが弱くなるときには、決まってユウイの視線は天空に向いていて、その先には僕には見えない星が瞬いている。焦点の曖昧な瞳は、僕が一番好きな彼の表情に貢献している。
 ふとした隙に見せるアンバランスさが、彼を放っておけなくさせる。僕とユウイがこうして歩くのは、たったそれだけの理由であるのかもしれない。本人に向かっては絶対に言えないことだけれど。
 互いに内側への干渉を求めない代わりに、表立った隠し事は、なしだ。それは、いつしか出来上がっていた僕と彼の不文律だった。
 僕は、ユウイの多くを知らない。『ユウイ』という名前を始め、せいぜいが、彼は砂糖を入れないコーヒーとミルクだけのカフェオレ――それは厳密には『カフェオレ』ではないのだが――が好きだとか、何故か長袖のシャツしか着ないとか、極度の方向音痴で、知らない道を歩くときには必ず同伴者を求め、場合によっては相手の裾を握って離さないとか、だ。
 彼は現実に不慣れなのだと僕は思う。夢の中に迷い込んだみたいに、不安定な足取りをするのだ。
「まあ…、アレだよね」
 何の気なしにそう呟くと、
「アレって、なに?」
 案の定、少年は聞き逃してはくれない。
「うん…、えっと、…そういうことだよ」
「どういうこと?」
 人差し指を唇に当て、僕は答えなかった。最初から意味なんてない。


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