ぼくらは存在しない


 近所に在来線の駅があり、高架線の脇を行く。既に終電も運転を終えていて、駅舎からも、線路に響く音もない。線路の上を歩こうか、という少年の誘いはやんわりと断った。
 吸い終えた煙草の殻を、二人ともそれぞれぶらぶらと持ち歩く。携帯灰皿を忘れてきたので、ゴミ箱を探していた。僕は、道端に落ちた吸殻を見ると苛立ちを覚える種類の人間で、また吸殻を空き缶に押し込む仕草を嫌う人間でもある。
「どうして?」
 ユウイが尋ねたことがある。まだ出会ってそう経っていない頃だ。そのときも、二人で周囲に紫煙を浮かべていた。
「理由はないよ。僕も煙草は吸うし、隣で誰かに吸われるのも嫌じゃない」
 少年は首を傾げる。
「何かを嫌いになるのに、理由はいるかい? 煙草を吸ったこともないのに、煙草が嫌いだという人、沢山いるだろう?」
「そうだけれど」
 でも、そういう人は煙が嫌いなんだと思うよ。ユウイは言った。喉が痛くなるとか、服に匂いがつくとか、副流煙の影響とか――。
 成る程、意外とよく知っている。そういうことはよく知られている。頷いて、僕は答えた。
「ユウイの言う通り、煙草は毒にしかならない。でも、喫煙者は世界で優に数億に上る。どうして煙草が好きなのか、という問いに対する大抵の答えは、吸わない人にとっては何の意味もないものだ。煙草を吸うことに際して、好きか嫌いかは『相手』にとってはどちらでもいいことなんだよ」
「そう…、なのかな」
 僕は指に挟んだ吸殻で、ユウイの指に挟まれたそれを示す。
「きみはそれ、誰に教わった?」
「教わっては…、いない」
「だろう? 煙草っていうものがもうそこに存在するからには、それが好きか嫌いかに向かって人の意見が分かれるのは自然の成り行きだ。だから、それから起こり得る事象にも、好き嫌いの理由は必要ない。当人にとって、好きか、嫌いか、だけがあればいい。そして僕はただ、そのどちらでもないだけだ」
 少年は首を傾げたままだった。そこで、言い方を変える。
「僕はね、偽善者なんだ。煙草のポイ捨てに不快感を覚えるけれど、喫煙をしながら灰を落とすことに躊躇いを覚えたことはないし、道端に落ちたそれらを拾って歩こうとは思わない」
「それは、ぼくだって同じだよ」
「うん。つまり…、僕は自分に素直に生きられない奴だってこと。上手に生きられない奴だってこと。自分を可哀相な奴だと思っている。誰かに慰めて欲しいと思っているのに、平気な顔をするようなものかな」
「カズミ」
 咎めるように、そのときの少年は声を発していた。
「駄目だよ、全部を嫌いになったら」
 そのとき、彼は俯いていただろうか、表情をよく覚えていない。
「何かを嫌いになるのに理由がいらないなら、好きになることにも理由はいらない。嫌いになるよりは、好きになることを…、好きになろうと思うことを選ぶ方がいいよ。…カズミは、煙草の好き嫌いじゃなくて、煙草を嫌いに思う人が好きか嫌いか、を考えているよ。それっておかしい。勝手な思い込みと紙一重だよ」
 ユウイは、駄目だよ、を繰り返した。
「カズミが優しい良い人だって、ぼくはよく知ってる」
「そうかな」
「カズミは自分のことが嫌いなの? そうじゃないでしょう? そんなカズミ、ぼくは好きになった覚えはないもの」
 いつになく強く言われて、思わず吐息が零れた。
「うん…、そうだね。ありがとう」
 そのときは、それきりだった。また、なんということもないいつもの遣り取りに戻るのは直ぐだった。
 本当のことを言えば、僕は煙草が好きで吸っているわけではない。それこそ、余計な理由はないのだ。止めようと思えば、今直ぐにでも止められる。
 敢えて根拠を求めれば、結局…、僕がユウイに求めるものと、彼が僕に求めたものが等しい価値を有していた、ということになるのだろうか。煙草は、その橋渡しに過ぎない。好きと嫌いの境界線も、その程度であれば、楽でいい。
 もしかしたら、ユウイは尋ねたかったのかもしれない…、こんな風に。
「どうしてみんな、何かを好きになることに理由をつけたがるのかな」
 僕は、物事の全てを好きか嫌いかの二者択一で観念付けようとする人が、あまり好きではない。好きと嫌いの中間を定めることが苦手だから、と言い訳も出来るし、嫌いなものを好きになるためには努力が必要だが、好きなものを嫌いになるのはある意味便利で簡単だ、と反論することも出来る。しかし、それもやはり当事者以外にとっては詭弁を振りかざすに過ぎない。
 灰色の壁に、白い塗料で色々と描かれている。それは誰にでもない誰かに宛てた、言葉ではないメッセージであったり、何を描いたのかは本人にしか分からないであろう絵であったりする。
 高架下の短いトンネル、その壁際に、スーツ姿の青年が座り込んでいた。残業からようやく解放されての帰り道なのだろうか。僕たちの足音にも反応せず、そっと近づいてみると、眼を閉じて眠っている風だった。つんと安いアルコールの匂いが漂う。相当飲んでいたらしい。
 屑篭を見つけて、二人の吸殻を放り込んだところで、ユウイに腕を引かれる。見知らぬ青年と反対側の壁に並んで腰掛けた。
「どうした?」
「ん…、ちょっと、疲れたかな。煙草、一本もらっていい?」
 要望通り、箱を取り出し、一本渡して火を点けてやる。僕も吸いたくなって箱を振ったとき、
「はい」
 言われて横を向くと、ユウイが彼の咥えていた煙草を差し出した。小さな赤い点に眼が止まる。
「半分こしよう」
 僕は苦笑して、相伴に預かった。吐き出した煙は、溜め息を誤魔化すために使われる。
 ふふ、と少年は笑う。
「今度は、ちゃんと間接キスだね」
 じっと眼を見つめられて、僕にはやはり返す言葉がない。今度は本物の溜め息をついた。
「何事も、遊びが一番怖いな」
「本当だね」
 ユウイの視線から逃れようとしたわけではないが、僕の視線は前方へと向く。くたびれた雰囲気すら漂わせる青年。朝にはきちんと整えられていたのかもしれない格好は、ひたすら雑然として見えた。ネクタイは無造作に首に絡まり、だらしなく唇が半分開いている。無防備にも程がある。上着から財布を抜き取ることは、幼児にも簡単に違いない。身動き一つしない生身の彫像を眺めながら、僕はそこに虚しさを見出す。
 その瞬間、胸がツキンとする感覚。痛みではなく、圧迫感。
 僕は、昔見た映画のワンシーンを思い出す。いつものように平穏な一日を終え、暖かなベッドに潜り込んだ主人公は、間もなく夢を見る。それは自身が寝床から眼覚める場面から始まって、ベッドの脇に立っていた男が開口一番、こう言ったのだった。
「おはよう。よく眠っていたね」――。
 あの青年も、ひょっとしたら今頃『現実の世界』にいるのかもしれない。そう思うと哀れな苦笑を禁じ得ない。人が現実を自分で決めることも出来ないのだ。アイデンティティーなど二の次で…、
 そう思った瞬間、ようやく、気付いた。
「行こう」
 僕は短く言って、立ち上がった。ユウイの手を引いて、その場を立ち去る。煙草の火が、すっと細長く軌跡を描いた。自動車のテールランプのようだ。
「カズミ、どうしたの」
 早足で行く僕に引きずられるように歩きながら、少年は問う。
「気付かなかったのかい」
「なにが?」
「あの男」
「男の人? 眠り込んでたね」 僕は首を振る。「眠ってなんか、いなかった。あれは――」
 死んでいた。殺されていた。
 言い掛けて、僕はその言葉を飲み込んだ。
 暗がりで、ユウイには見えなかったのか、去り際に見た青年の首に絡まったネクタイは、シャツの襟にではなく、直接彼の首に巻きついていた。彼を絞め殺すのに充分なほどきつく縛り上げられていたのだ。口からは白い泡が溢れているのが見えたし、彼の顔が紫色がかって見えたのも、月の光が薄い青色を帯びていたからなどでは決してなくて、軽侮圧迫による窒息状態の典型的症状だということくらい、専門家でなくとも知っている。
 青年は、既に人ではなく死体という名のもの、それ以外のなにものでもなくなっていた。 
 ユウイもようやく気付いたのか、ただでさえ白い顔が雪のように冷たい色になってしまっている。ふっと表情が消え、能面のような顔になった。それは少し怖くもあり――、しかし、綺麗でもあった。
 不謹慎だ、そう思った。
 僕は面倒ごとに巻き込まれるのは御免だったから警察に通報する気は起きなかったし、それきり、そのときに見たものを極力忘れるように努力した――ある出来事を忘れようと思うことは、思い出すことに等しいのだけれど――。けれど、僕が真に慎みのないことだと思ったのは、そのとき見たユウイの冷たい表情を忘れまいと思おうとしている自分自身だった。
 そう…、実は、最初から彼は、青年が死んでいることに気付いていたのだ。だからこそ、あの表情を顔に貼り付かせたのだ。知っていて、あの場所で休もうと僕を引き留めた。トンネルから数百メートルも離れてから、やっとそのことに思い至った。
 そのときの証はたった一つ――、微かに、うっすらと浮かぶ、ユウイの口元だけの笑み。
「ユウ――」
 声を出し掛けて、止めた。問い質し掛けて、止めたのだ。
 それは僕の領分ではない。青年が何者かに殺されねばならなかった理由、ユウイが青年に気づいていなかった振りをしてまで、その場の空気を煙草の煙と共に感じたかった理由…。ここでもまた、結局僕は無意識に理由を求めたがっている。
 何のためか、それは僕には分からない。少なくとも、ユウイにとっては何らかの意味があったのだと思いたい。ただ、それを僕に隠していたことが、僕を僅かに苛立たせたのだろう。
「カズミ…、怒ってるの」
 途惑いがちにユウイは話し掛けてくる。その表情は心配そうに僕を見つめる、いつものものだった。その腹の中に黒く思い裏側の人格を有しているのか否か、僕には判別出来ない。
「どうして」
「ほら…、答えずに『どうして』って問い返す。それ、カズミが怒ってるときの癖だよ」
「ああ…」
 不意の指摘を受け、頬を掻いた。別段、起こるような気分ではなかったのだが。
「ごめん」
「ユウイが謝る必要はない」
「うん」
 死体を置いて、僕たちは歩いた。何分も、何十分も。時には、何時間だって。
 あの青年がその後、どのような扱いを受けたのかは、ユウイはともかく、僕は知る由もない。

   □   □   □

「ただいま」
 玄関のドアを開けると、僕よりも先にユウイが部屋の奥に向けて声を掛けた。
「僕の家だけれどね」
「ふふっ」
 ユウイの結んでくれた綺麗な結び目の靴紐を解き、僕らは薄いカーペットの部屋に戻ってきた。少年はデイパックをテーブルに置き、ベッドの縁に腰を下ろし、ふう、と溜め息をついた。僕はそれを横目で眺めながら、コーヒーとカフェオレを煎れる。
 夜中の散歩から戻ってきたら、こうして二人でコーヒーとカフェオレを飲んで、…それで、お仕舞いだ。眠れぬ夜にユウイは現われ、二人の別れは、僕がベッドに戻るとき。
 ユウイは、一体、何者なのか…、疑問に思わなかった日はない。
 どうして眠れぬ夜に僕の元に姿を見せるのか。
 本当の目的は何なのか。それ以前に、目的など、あるのだろうか。
 そんな数々の問いを、本人に遠回しに投げ掛けたこともある。けれど、ユウイは答えなかった。ただ眼を細め、眉をちょっと下げ、
「答えたくない」
 そう呟くのだった。自分のことを口にした瞬間、自分は消えてしまう、とでもいうように。
 そして、僕は訊くことを止めた。
 だから、僕は本当のところ、彼の名前が『ユウイ』なのかどうかも知らないのだ。彼と話すうちに、そして共に行動することによって知った、幾つかの好みや癖、それだけが、僕の中の『ユウイ』という少年の基礎を形作っている、あくまで便宜上の名称なのだ。
 僕にとっての彼は、形のはっきりした残像のようなものだ。本体が存在しない、影の方が表に見えているような存在。触れることも、言葉を交わすことも出来るのだが、先にも後にも僕の外側には何も残らない。
 湯気の立つカップが二つ。亜麻色の液体を入った方を差し出し、少年は嬉しそうな顔をしてカップに口をつける。
「美味しい」
 一口飲んだ後に、必ず彼は言う。
 ユウイは、自分に素直な少年だ。ちょっとした表情や仕草を見て、そう思う。だからこそ、言葉には裏があり、心には闇があるのかもしれないと僕に思わせてしまう。さり気無く探ろうとしても、彼はするりと掻い潜ってしまう。
 部屋の空気の中に混じるコーヒーとカフェオレの湯気のように、あっという間に正体の在り処が消えてしまい、どうでもよくなりそうになる。メビウスの環の表と裏が同じ色で、繋ぎ目が見えなければ、環を切ることに意味がない。僕とユウイの関係は、そんなものなのだ。
 僕はそれが少し悔しい。つまり、何も知らないのは、一方的に僕だけなのかもしれないのだ。お互いの干渉を求めないという無言の提携は、実はフェアではない。知り合った相手を知りたいという感情が偽物でない限り、心に疼く思いはなくならないだろう。
 それでも僕は、彼を困らせたくないのだ。
 それとも、本当は全てが同でもいいことで、ユウイが僕の前に現れるという事実の不連続性に僕は怯え、一人の少年に縋っているだけなのかもしれない。
 …全く、僕は正直でない。聖人君子が泣いて呆れる。
 しばらく、互いに黙って飲み物をすすった。
「カズミ、眠そうな顔してる」
 ふと顔を上げて、ほんの少し顔を傾けてユウイは言った。同時に、脳裏に鈍痛に似た重みを感じる。身体の動きが緩慢になるのが分かった。
「コーヒー、飲んでるんだけどな」
 そう言うと、少年は擦り切れそうな声で笑った。
「いいよ、眠ってしまっても」
 眠りへの誘いのようだった。
 大丈夫だよ、そう言おうとする思考とは裏腹に、僕の身体はベッドに行こうと催促を始める。僕はそれに抗うことが出来ない。眠ってもいいよ、そうユウイが言うと、僕はいつも途端に眠気を催す。
 ユウイの横に、僕は腰掛けた。
「添い寝、してあげようか」
 冗談めかした声で少年は言い、
「添い寝で満足出来るほど、人格者じゃないよ」
 僕も冗談で返した。
「知ってる」
 ユウイは頷く。
「おやすみ」
 そう彼が呟くと同時に、急速に僕の意識は薄れていった。
 蜃気楼のような、現実が、
 あっという間に…、
 消えて、いった――。


 眼を覚ますと、朝だった。
 街に喧騒が戻るにはまだ早かったが、闇のみだった気配は光の浸食を受け始め、その座を明け渡そうとしている。夜は幕を閉じようとしているのだ。
 奇妙な夢を見ていた感覚は、そのまま、眠れぬ夜のささやかで密やかなひとときを呼び起こした。
 ユウイ。
 意識の欠片が持っていた少年の微笑みが、図らずも寝覚めの気分を曖昧にさせる。不定期に出会い、別れ、現れては消えていく彼の。
 身を起こし、朝霧のような思考回路を奮い起こす。いつもの朝が、いつものようにやってきた。僕の周りでは、何も変わりはしないし、それはちゃんと分かっている。
 ただ、胸に疼く奇妙な感覚はこんな朝にしか感じられない。正体の不明な症候群。その原因があの少年だということだけは分かるのに、答えを求めてはいけないような小さな不安を抱えている。彼が夢だけの存在であるなどということはないと分かっているのに…、いや、ちゃんと彼は存在していたと思えるのに、判然としない思いは、何度経験しても慣れることがない。
 けれど、思った。
 僕は、そして人は誰でも、夢から覚めるために、夢を見るのだと。
 ユウイという名の少年は、その橋渡しをするために現われ、そしてその役目を終えるとき、僕の前から姿を消すのだと。
 少年が幻想に過ぎないのではという考えを打ち消す証拠は、テーブルの上に残された二つのカップがしっかりと物語っていた。

 ――これは、そんな少し不思議な、眠れない夜の、僕たちの夢の話だ。


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