ぼくらは存在しない


 ――眠れない。
 喧騒の消え去った街の空気は、人の気配をも伝えることを止めている。夜の、原色に乏しい視界は、電気を消したがために作られたものではなく、本来なら元からあったのに、人が恣意的に照らし出そうと加担していたに過ぎない。
 そう、これが夜の街の、本来の、正しい姿なのだ。
 月は闇と共にに陽を喰い、陽は光と共に月を喰う。
 光は闇を侵すことが出来るけれど、闇は自分から光を侵さない。そういうときは、いつも光が闇から逃げているだけ…。
 確信はあっても根拠はない、そんな不明瞭な真実味がそこにはある。
 僕は、暗闇の中でじっとしていた。窓が開いていれば微かにカーテンを揺らすだろう細やかな風の音と、擦り切れるような秋の虫の声が、外から室内に漏れ聞こえている。本当は音でしかないそれらの声は、僕の全身を包み、不快感は感じないのに、何故か不意に切なくさせるのだった。
 固いベッドの感触が背中に意識され、自分の呼吸音が聞こえる。それに気付いた瞬間から、自発呼吸は意思に寄らなければ出来ないものになってしまうから不思議で、不便で、理不尽だ。
 眠ろうと思い続けることは、一番眠りを遠ざける要因となり得る。眠りに落ちる瞬間を記憶に刻みつけようと意識すると、その間は眠りにつくことは適わない。それと同じだ。
 毛布を無造作に肩に引き寄せ、何度も寝返りを打つ。この苛立ちにも似た感覚は、熟睡から突然に目覚めさせられた瞬間の感情によく似ていると思う。タチが悪いのは、後者にある救い、即ち再びの眠りが前者には約束させられない現実の辛酸だ。
 そしてまた、どうして眠れないのかと考え始めると余計に眠れないことを知っていてなお、どうして今更そんなことを考えるのかと、己の学習能力の不足に皮肉を投げ掛けたくなるのはこんなときだ。
 ふと思い立って、羊の数を数えてみることにした。眼を閉じると緑の草原が広がる長閑な背景、脳裏に浮かぶスクリーンのように四角いその枠は、いつか見た紙芝居のそれのよう…、その中央には、柵が奥に向かって伸びていて、右側には無数の羊の群れ。
 一匹ずつ羊が柵を飛び越えていく。カウントを始めようとしたその時。
 羊の群れの反対側には誰かがいて、何か細長いものを抱えていた。柵の左側にいる何者か――背の高い、多分男だ――は、羊が飛び越えてくる度にそれを振りかざし、羊の首を一匹一匹刈っていく。細長いものは大きな鎌だった研ぎ澄まされて光を帯びたそれが、赤く光る。
 それでようやく、彼が死神なのだと分かった。
 一匹目が、あっさりと。
 二匹目も、手慣れた様子で。
 三匹目を、テンポ良く。
 音がするはずもないのに、生々しい斬首音まで耳に聞こえるようだった。死神は黒い上着を被っていて、それがどんどん赤黒く染まっていく。
 四匹。首が落ちる。
 五匹。白と赤の奇妙なコントラスト。
 六匹。羊は鳴きもせず、ただただ刈られていく。
 頭で何かを思い浮かべるときに、色を想像することは簡単に出来ないというけれど、その場面は至極鮮やかに映っていた。牧場の緑色は幼稚園児がクレヨンで絵を描いたときのようにポプシカルで、濃い緑色の芝に血が吹き掛かる様は妙に綺麗で。
 視点が動かないからその表情は窺えないが、死神は楽しそうに笑っているのが、不思議と分かった。まるで夢を見るような恍惚とした顔をしているに違いない。
 ――血と肉しかない、カーニヴァル。何が楽しいんだ。僕はちっとも楽しくなんかない。
 気分が悪くなりそうだったので、死神の足元に四十匹ほどの羊の首と、それ相当の血溜まりが出来た辺りで諦めた――勿論、眠ることを――。眼を開けると、あっさりと中途半端な闇が戻ってくる。四十匹の羊の死体も、四十匹分の血溜まりも、四十匹分の血を浴びた死神も、あっさりと消え去って何処にも姿を残さない。ただあるのは僕の不快感。
 どうして羊は飛んだのだろう。わざわざ死神に首を刈られる必要はないのに。どうして死神は羊の首を刈ったのだろう。そんなことをする必要はないのに。僕は羊の死体の山など、望みはしなかったのに。
 もういない死神は、僕に答えを教えてくれない。そもそも、どうして死神は牧場にいたのだろう。どうして僕は羊を止めなかったのだろう。死神を止められなかったのだろう…。
 反則だ。
 羊も死神も、最初からいなかった。それだけのことなのに、僕は何故か騙されたような心地に捕われる。
 ああ、けれど…、もしかしたら死神の瞳は青くて、素敵だと思えるほど綺麗なのに、血に染まったせいでそれを怖くて見ることが出来なかっただけだったのかもしれない。
 部屋の明かりは随分前に消した。だが、真の暗闇はここにはない。何処の光が漏れているのか、暗さに眼が慣れてしまった。部屋の輪郭や傍らにある家具の形がうっすらとだが分かり、急に可笑しくなった。人の恐れる闇なんて、この程度のものなんだ。わざと、そう思う。
 真の闇は、実は闇の中で瞼を閉じたときくらいにしか感じられない。一度眼を閉じ、光を遮断し、…だが次に眼を開けようとするとき、それでも眼の前に闇があったら。何処まで思い込むことが出来るかが肝だけれど、そう考えると、眼を開けるのが怖くなることがあるのだ。
 光のある世界が当たり前の世界。それがどの瞬間に反転するものか、それこそ僕らは夢にも見ない。夢の覚める瞬間が、夢の中の自分には分からないように。
 永遠に戻らない時の中、きみは何を願った?
 僕は、夢の世界の僕に問い掛ける。無論、未だ眠れずにいる僕は、『彼』の返答を期待してはない。
 だから、僕は結局眠るのを諦めた。音のない世界で音を聞こうとするような無力さはとうに自覚していて、僕はただもう一人の僕に寄り縋っているだけなのだ。

 辺りの無喧騒に変化はなく、僕はまた意識して呼吸をした。寝床に仰向けになったままの姿勢は相変わらずで、壁に掛かった時計の針を刻む音が今更のように聞こえてきた。呼吸と同じで、意識をすると聞こえ始めるものが実は沢山あり過ぎると思う。
 一分間に六十のテンポと、耳の奥で小さく響いている心臓の脈動と。ペースを合わせてみたい衝動に駆られ、僕はしばらく息を止めたり、手を強く握り締めてみたりを繰り返していた。
「――また、眠れないんだね」
 場違いのように細長い声が聞こえたのは、そんなときだった。
 同時に、何者かの気配が伝わってくる。
 闇に慣れた眼で辺りを窺うと、部屋の中ほどに置いたテーブルに行儀悪く腰掛けて、一人の少年の輪郭が僕を見下ろしていた。
「こんばんは、お久しぶり」
 そう言って、輪郭は僅かに頷く仕草をした。
「ああ…」
 眼だけをそちらに向けて、僕は短く返す。
 つい先程までは確かに僕しかいなかった空間に、突然少年は現れた。
 窓にも、部屋の扉にも鍵は掛かっているはずだ。
 闖入者に、しかし僕は驚かなかった。ゆっくりと上半身だけ起き上がり、彼に正面から視線を向ける。
「久しぶり。…その通り、どうやら今夜も眠れそうにない」
「だからこそ、ぼくはここにいるんだけれど」
「ああ、分かってる」
 いらっしゃい、と僕は言外に含めて頷く。
「結局、人は眠ろうとして眠るんじゃなく、眠いから眠るのでもなく、実は気付いたときには既に眼覚めている…、そういうことだよね。眠って当たり前だし、眠れなくても当たり前」
 今日は天気が良いね、とでも言うように、そんな観念めいたことを彼はあっさりと言った。
「そうらしい」
 月の光が窓から斜めに差し込み、少年の上半身が仄かに照らし出された。その髪はグレイに近い白銀で、真っ直ぐに僕を見つめるその瞳は、光の加減で琥珀色にも真紅にも見えた。後ろ髪が寝癖のように跳ねた彼の小さな姿の影は、まるで街ではぐれた仔猫か白狼のようだ。左の耳に付けられた銀細工のイヤーカーフが常に第一印象に結びつき眼を引く。その中に嵌め込まれた石は、彼の瞳と同じ色の石榴石(ルビー)。
「相変わらずのようだね」
 何が『相変わらず』なのか、自分でもよく分からないまま言うと、少年は僕の声を聞くだけで嬉しい、とでも言いたげな、薄い笑みを浮かべる。僕に余計な錯覚を抱かせる、嗜虐的な微笑み。
「元気だった?」
 今、彼が元気であろうとなかろうと、この問いは全くの愚問だな、と思いながらも続けて口にすれば、
「ぼくは変わらないよ。カズミが変わらないのと同じだ」
 肩を竦められた。「ユウイ…、そう不意にカズミと呼ばないでくれ、って何度も言っているだろう」
 僕は軽く眉をひそめて言う。僕にとって『相葉一海』なんていう名前は何処か記号めいていて、人にはあまり口にして欲しくはなかった。けれど、『貴方』でも『きみ』でもない、僕のことだけを示す呼称で少年は僕を呼びたがったから、結局彼には『カズミ』であることを名乗っている。
 だから彼――ユウイという名の少年は眼を細め、
「いいだろう、カズミはカズミなんだから」
 そう応えた。その口元が心持ち持ち上がっているのに気付き、溜め息を禁じ得ない。
 僕が『カズミ』と言う名前に対する思いにあまり前向きでない思いを持っていると知っているのに、少年は僕のことを名前で呼びたがる。それは悪戯心というよりも、一歩遅れて僕を切なくさせるから感情のやり場に困るのだ。
 何度僕が柔らかく拒否しようとしても、彼は改めようとはしなかった。
「それとも、カズミはカズミじゃないって言える?」
「いや…」
「どっちなのさ」
 言い争っても仕方なく、黙ったまま立ち上がり、部屋の明かりを点けた。パチン、とスイッチを入れると天井の蛍光灯が青白い光を照射する。咄嗟に僕は眼を細め、少年も猫のように瞳を薄くする。
「それは確かに、僕は僕だけれどね」
 憮然として言えば、
「じゃあ、いいじゃない」
 細めた視界の中で少年は微笑む。…そうなのだろうか。
「それとこれとは問題が違うだろう」
「違わないよ。ぼくだってぼくだもの」
 深夜の無意味な禅問答のように、僕と少年の言葉は微妙に噛み合わない。まるで、僕が未だ、夢の中にいてそれから冷め切っていないのを揶揄されているようで、…勿論、それはお互いにからかい半分であるのだが。
「これは僕が望んで、決めたことなんだから」
 そう言われると、僕にはいつも返す言葉がない。
 やがて明るさに眼が慣れて見てみれば、少年は白いハーフジャケットに同色のセータ、白のパンツというお決まりの格好だった。暗がりの中で妙に姿がはっきりとして感じられたのはそのせいだったようだ。決まって白を基調にしている風貌を、なり損ないの堕天使のようだと――勿論、本当なら『なり損ないの天使』だと言うべきところを――僕は賞したことがあり、それを意外にもユウイは気に入っている。
 以前に会ったときも同じ外見だったと覚えている。今は更に左の肩に引っ掛けた銀色のデイパックから、これだけは黒色のショートブーツが覗いている。
 僕はといえば、昨夜から同じままでいるダークブルーのセータにブラックジーンズという格好で、彼とは丁度対照的な色合いの配置だった。 ユウイの『堕天使少年』的衣装は、僕に対した皮肉であるのかもしれない。彼が僕を称して曰く、『邪悪な聖人君子』。堕天使のパートナーとしては、悪くないだろう。
「さ、行こう」
 僕の焦点がはっきりと定まるや否や、ユウイは声も明るく言った。
「何処へ」
 僕は短く問い、
「何処でも。何処へでも」
 少年は短く答えた。
 テーブルから床へ降り立つと、ユウイはすたすたと玄関に向かった。彼の言動はいつも、夢の終わりのように突然だ。僕はセータの上からウインドジャケットを羽織り、机上の財布を掴むと少年の後を追った。
 狭い玄関にしゃがみこみ、同じ色の靴に紐を通す。少年は紐を結ぶのが得意で、左右の結び目が全く同じ大きさになる。僕が彼に頼むよりも先に、彼は僕の前に屈み込んで僕の靴紐を結んでくれた。同じ形の蝶が四羽になる。その礼に、細く軽い少年の髪を荒っぽく撫でてやった。彼は猫のするように頭を振って、それに応えた。

 時折僕たちは、不安定な夜を不安定な動機で、不安定に過ごす。それは多分、眠るときに夢を見るか見ないか、という程度の意味合いしか持たないことが殆どなのだけれど、言ってみれば夢を終わらせるための夢に出会うために、全てはあるのだと僕は思う。
 そんなことを僕が言えば、きっとユウイは、
「うん、なかなか詩的だね」
 そう言うことだろう。そういうとき、彼は決して『素敵だ』なんて言わない。
 今も世界の何処かでは破天荒な出来事が蔓延していることだろう。けれど、少なくとも、僕とユウイの周囲には平坦な過去、現在、未来、が連なりを見せる。どれらも普通で、どれらも非生産的な原因を秘めていて、当事者である人々はそれに気付くための要因を有しない。
 僕とユウイの関係は、いつも簡潔な瞬間の連続により成り立っているのだと思う。僕は一人でいても全然平気だけれど、彼と一緒にいても特に悪くはないな、そう思う…、その程度の感情があるだけなのかも知れない。
 ユウイが僕に、同時に僕がユウイに向ける言葉は、優しさとはきっと違う種類の感情なのだろうが、限りなくそれに近いとは思う。それはきっと、幼子が眠りに就く間際に母親にねだる一幕の物語のような淡い願いを含むもので、正体の分からない安堵を手探りするようなものだ。
 僕もユウイも心に森があり、そこには普遍的に幸せと呼ばれるようなものたちが群がり、彷徨っていることだろう。けれどそこから純朴な童話はとうに姿を消した。
 僕たちは残酷な心の持ち主ではないけれど、僕たちに中途半端な優しさは似合わない。


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