きみに至る病


 白い建物が見えた。と同時に、
「眩し…っ」
 翠は思わず、そう口にしていた。
 極彩色の遊戯が彼の視界を埋め尽くす。音もないのに空気を震わせる。奇妙な反響を伴って。その日によって描かれ方が異なるに違いない真っ白なキャンバス。本物のそれの、麻布に塗られた亜麻油や亜鉛華、密陀僧が陽に当たり続けることによって変色するように。
 その建物は…、病院だ。全ての可視光線を反射する色で外壁が塗られているが、今は藍色の混じる橙色や、濃い緑が移って微妙な照射の妙がある。翠の白禄の上着に薄くそれらが映り込んでいた。
 白という名の静寂が建物の周囲までを取り囲んで、壁の塗装は実は幻惑であると思わせる。それは、街の喧騒から少し離れた位置にこの病院があることにも起因するのかもしれない。何故か、静謐めいた空気の冷たさを彼は脳裏に思い出す。まるで、その建物の外観全てが、実はスクリーンに映った一枚の絵に過ぎないことを知らされた瞬間のような。
 病院の敷地の多くが、翠が先程歩いてきた林を含む森林公園に分布されている。夏といえども多くの木々が作り出す木陰には、日中は多くの患者たちが静養、そして清涼に訪れるのだろう。
 今はもう殆どの者が院内に戻ってしまっているらしく、人の気配も疎らだ。完全な沈黙でない人の存在は、かえってこの開放空間の静けさを感じているから不思議なものだ。翠は、その微かに寂しい小風を感じながら、小路を歩いていった。
 煉瓦の角塊に囲まれた花壇には、色とりどりの夏の花が咲き乱れている。厳しく差し込む太陽の光にも負けず、むしろそれを嬉々として享受しているようにも見える。それは何より、病院という場に相応しい生きることへの前向きな姿勢を思い出されるものであるのに違いない。 夕闇の効果もあってか、少し色合いが暗く見えるのが残念だった。これから夜になって、この公園に夜間照明が灯れば、暗闇の中に映える色彩が昼とは違った趣で見るものを迎えるだろう。翠も、後に機会があれば、再び花たちの表情を覗きに来よう、と思う。
 園内には何本もの小路が重なり、院内各棟への連絡通路としても成り立っている。彼はその中でも一番幅が広い道を目指す。それは公道から園内へ、そして中央棟の正面玄関へと続くものだった。その道には人工の小川が流れ、段差のあるとこでは空気と攪拌されて軽やかな音を立てているのが聞こえる。
 林の側には小さな池があり、中央棟側には噴水があった。天空に向かって吹き上げる水圧が、時折地面にも零れて黒い染みを作っている。視覚的な清涼は、必ず何処かにあるべきものだ。水面に漂う花弁がゆらゆらと浮き沈みし、静かな波紋を作り出す。
 その傍らに置かれている木製の長椅子に背を預けて、一人の青年が眠っていた。
 その場の空気に相応しい、と言っては可笑しいだろうか、院内庭園という静けさに溶け込むような沈黙をまとって、この瞬間において、翠と彼とは違う世界にその精神を置いているのではないだろうか、などという考えが不意に浮かぶ。
 瞼を閉じ、しかしその中にある瞳は、確かに彼の世界を見つめているのだろう。それが、一般にいう夢であっても現実であっても、そんなことは問題ではない。大切なのは、ただ彼にとっての真実が夢の中にもあるのかということだ。そうであるのならば、彼の夢が、彼という存在に係る事実となるだろうことは間違いのないことだから。
 現実的な夢を見て、幻想的な夢をもやはり見るのは人間だけだろう。少なくとも人間はそう認識している。けれど、それが正しいかなんて本当は誰にも分からないのだ。現実で見る空想的な願望が、睡眠中に持つ非現実的な錯覚や幻覚と何処が違うというのだろうか。
 青年の正面に置かれた同じ形の椅子に座り、翠は少しだけ彼を眺めていた。ここで翠がふと望むのは、ただ目の前にいる青年の夢が安らかであることのみだ。
 彼は何の病でここにいるのだろうか。余計な詮索は無用だと知りつつも翠は思う。青年の身に付けているリンネルの上衣が、俗世との境界線となっているのは明白だが、もともとの彼の身体を造形している線の細さは、雰囲気の柔らかさと背反して鋭利な刃物のように冷たい印象を受ける。闘病生活は、人の外的印象を変えるのだろうか。それとも、彼の病に対する心の表れが、翠の視線に反応したのだろうか、とも思う。
 膝の上に置かれた片手の、やはり細い手首を包む包帯が目を引いた。まるで当然のように翠の脳裏に映写される、ある一つの情景――手首から肘に伝い、地面に滴る、鮮やかなほどに赤い液体――。
 それは、この夏の幻想であると言い換えても差し支えないであろう。まさに人を幻惑するには十分なほどの清楚なまでの白と、その内側に秘められた消えない過去の在処を求めんとする、余計な心情の産物だったのかもしれない。
 時に、眠っているのか死んでいるのか傍目には分からない眠り方、とか、死んだように眠る、といった表現の仕方がされる。しかし、そういった表現を用いる人は大抵、死にゆくものを目の当たりにした経験の持ち主であることはない。死という現象は殆どの人にとってはある一つの概念に過ぎず、それは同時に日常生活の中では『死』は言葉の上でしか存在しないものだと錯覚されていることを意味する。死んだ者に向かって『死んでみて、今どんな気持ち?』と訊くことが出来ないように。
 砂利を踏む靴の音がして、誰かがこちらに近づいてくるのが分かった。
「?」
 顔を上げれば、こちらに白衣を着た看護士がやってきた。翠は彼に軽く会釈をする。腕時計を軽く見遣った彼は、そっと青年の傍らに立って彼の肩を揺すった。青年はうっすらと瞼を開く。
「部屋に戻りましょう」
 年で言えばそう離れていない、青年の兄くらいの容姿に見える看護士は、そう声を掛けて微笑んだ。相手を安心させるような柔らかい笑みだった。その場に居合わせただけの翠にまで、その雰囲気の柔らかさが伝わってくるようだった。
 はい、と小さく応える青年の表情も、相手を信頼しての穏やかなものだった。こういった信頼関係は、主従関係に至らず、親密な間柄にも至らず、という均衝の難しさがあるのだろう。医師は客観的な立場で患者と接する必要があり、患者は病から回復へと向かわなければならない自分をどれだけ信じられるかに掛かっている。
 それでも、寄り添うようにして病棟に戻っていく二人は、傍目にはやはり兄弟のように翠の目に映った。それでいいのかもしれない。現実という夢を見るための場所で、優しい嘘は時には必要だけれど、気休めだけでは人は生きていられない。
「夢を…、見ていました」
 青年は呟くようにそっと言った。立ち上がり、追うように彼らのすぐ後ろを歩く翠の耳にも、その声は風に乗って届いた。そう、と看護士は相槌を打つ。
「どんな夢です?」
 頷いて、青年は言葉を紡ぎ始めた。聞けば、天然水を凍らせて、それが融けていく様のように、澄んでゆっくりとした口調だった。彼に童話などを語らせたら、綺麗かもしれない。
「夢の中でぼくは少年でした。…最初は、土の中で眠っていました。長いこと、ずっと、薄暗くて、でも暖かくて、心地良かった。…そう、子供が愛しい人に抱かれて、毛布の中で丸くなっているような感覚でした」
「うん」
 青年の歩調に合わせ、看護士は歩を緩めた。自然、その後ろでは翠の歩調も幅が狭くなる。実は聞き耳を立ててしまっているのが気づかれないだろうか。彼はそんなことを思う。
「やがて、どうしたものか、地面の上に出なければならないという衝動に駆られたんです。いつまでも自分だけの楽園にいるのも適わなかった。けれど、何故か地上に出たいという好奇心が抑えられなかった。それに、誰かが呼んでいるような気もしたから…」
「それで、地面の上に」
 無意識にか、右手首の包帯を左手でさすりながら彼は続ける。
「――はい。地上は…、外の世界は、夏の季節でした。そこは森の中で、緑陰に射す光が眩しかった。弦で弓を引くような歌声が聞こえて、目を細めながら辺りを見ると、木の幹に寄り添って、一人の少年が唄を歌っていました。透き通った綺麗な衣装をした彼は、ぼくの姿を見て取ると、仲間を見つけたように嬉しそうに微笑んで、『こっちへきて、一緒に歌おうよ』と言いました」
「少年が」
「そう。彼の側に寄り、差し出した手を取ると、背中に一瞬、鋭い痛みがはしってぼくは顔をしかめました。少年は『少しだけ我慢して』と、強く手を握ります。暖かい彼の手の熱が腕を伝っていき、…しばらくして、自分の背後に何かが広がるのを感じて振り向くと、少年は先刻よりも嬉しそうな満面の笑みを浮かべて、『これできみも僕らの仲間入りだよ』と言います。
 どういうことなのか分かりませんでしたが、彼が再び歌いだすのにつられて、ぼくも歌いました。気づけば、同じような虹色の羽根を持った少年たちが、他の木の下でやはり歌っていた」
 たどたどしい口調で話す青年の言葉を聞きながら、看護士の青年は頷きを繰り返す。まるで、ある天使にまつわる創作物語を話しているようだと翠は思う。
「いつしか日は暮れて、辺りは暗くなっていきました…、丁度今のように。ぼくはまた、あの心地良い地面の中に帰りたくなって、元いた場所に戻ろうとしました。けれど、ぼくの隣の少年は、ぼくの腕を掴んで、『駄目だよ』と言います。『もう、中には戻れないんだ』そう言って、首を振りました。『どうして?』ぼくは訊いたけれど、彼は何も言わずに、悲しげな表情をするだけだった。
 やがて夜の闇が回りを包み、ぼくたちはその場に寄り添って、座り込んで眠りました。別の木々の少年たちも、同じように木の根元に座って夜を過ごすようでした。
 気がつけば夜が明けて…、辺りを見れば、少年たちは皆じっとしていて、まだ眠っているようでした。けれど、その誰もが、何かが足りないような、抜け落ちているような印象を受けました。首を傾げながら、傍らの少年を起こそうと彼を揺り動かしました。けれど…」
 そこまで話し、彼はふと口をつぐむ。
「けれど」
 先を促すのではなく、待つ態度をあくまでも崩さずに看護士は青年の言葉尻を反復する。声を出さずに一つ二つ呟いた後に、青年は話を続けた。
「――彼は、目を覚まさなかった。それどころか、少年の身体は冷たく、生きているとは思えませんでした。それに気づいたとき、遠くから鎮魂歌のように悲しげな少年の歌声が聞こえてきました。その少年に捧げられた追悼の曲でした。
 そう…、少年の虹色の羽は消えていました。これが、地上で自由に歌える代償なのだと。少年たちはその僅かな自由のために長い間、地面の中で刻を過ごし、地上に出て、唄を歌う。それが彼らの定めなのだと。
 あの時、少年が見せた悲しげな表情を思い出して、けれど、ぼくにはどうすることも出来なくて、…ぼくはただ歌いました。多くの少年への葬送曲を」
 青年はそれきり言葉を続けようとはしなかった。彼の夢は、その場面を最後に意識を現世に引き戻すことによって終焉を迎えたのだろう。正確には、看護士の手に揺り起こされることによって。
 看護士は、何も言わずに青年の横を歩いた。それは彼による何よりの優しさに違いない。…しかし、彼には、青年の夢の意味するところが分かっているのだろうか。少年たちが何者で、彼らの唄が何を象徴するのか。
 少なくとも、翠はそれに気づいていた。一夏の挽歌を命と引き換えに紡ぎ出す、小さな存在たち。彼は追先程まで、その儚さに思いを馳せていたのだから。
 一夏しか生きられない少年たち。そんな成句が脳裏を過った。自由と引き換えの生は、しかしたった一瞬のものでしかない。それはまさに細い喉から鳴り響く絶対的な少年の音律の儚さに等しい。
 ある青年が生きているのか死んでいるのか。それは、当人にとっては実は関係のないことだ。彼が今生きていれば、自分が死んでいるとは思わないだろうし、死んでいたならば生き死にについて今更考えはしないだろう。
 そこまで考えて、翠はふと思う。
 ――では、僕は生きているのだろうか。それとも実は死んでいるのだろうか、と。
 生者とは至極不可思議な生き物だ、と彼は当たり前のように思った。 白い建物は、彼らがその中に入ることによって、その白さの意味を失う。


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