きみに至る病


 翠、ミドリ――、

 自分の名が呼ばれる錯覚を覚え、彼はふと周囲を見渡した。
 蝉の啼く声が聞こえる。
 透き通るほどに薄い施盤を擦り合わせるようにして発せられる音は、生涯の大半を地中で過ごした成虫の、唯一の存在証明でもある。その短い命であっても精一杯生きてやろうという強がりにも聞こえ、その強調された存在感が帰って夏の熱気をも強調しているように取られてしまうのが虚しくもある。
 蝉の一匹もいない森があれば、完全な静寂の中に人はむしろ、その耳の中だけで彼らの騒ぎ声を聞き取ろうとする。それは一種の強迫観念であり、逆に言えば『夏』という、名前だけで結局存在しない想念の代わりを、やはり目に見えては存在しない蝉たちの鳴き声に替えて作り出そうとする頼りない縋り方の一つなのだろう。
 翠緑の匂いが漂う空間に、追奏曲の如く一定の音律が繰り返されている。それは聞く者の感情によって時には協奏曲にもなり、やがて小夜曲となるのかもしれない。
 狭き森の中、乱立する木々の中。
 日中、銃弾のように激しく地面に叩きつけられていただろう陽射しはとうに緩み、蝉時雨が辺りを占めている時間だ。梢の隙間から地面に注ぎ込む夕焼けが眩しい。その赤色に縁取られた緑が埋める葉群れの下を、翠はゆっくりと歩いていた。弛緩した暑さが、夢心地のように曖昧な身体の物憂いさへと誘導する。
 二人の少年たちが、木の陰から木の陰へと暗躍しているのが見えた。彼らの視線の先には、常にその甲高い音が響いていた。蝉の声は、あまりにも生への渇望を表打ちしているが故に、木々の下を忍び行く少年たちによる捕獲のための格好の的となってしまっている。
 彼らは耳を大袈裟に塞ぎつつも、鼓膜を明瞭に刺激する弦楽器の在処に、確実に視線を向ける。蝉の背を向けているのをいいことに、彼らは絶好の機会を探り続ける。
 そしてふと音の止んだ時。その木の根元には二人の少年が息を殺して潜んでいるのだろう。
「――ほら、いた」
「ホントだ…」
 小声で囁き合いながら、虫取り網と小さな籠を握り締め、行動に移る時機を狙う。
 不思議と、森の中を完全な沈黙が支配する。数秒前の喧しさが嘘だったかのように、枝葉の風に揺れる音すら聞こえた。全ての蝉たちが突然眠りに落ちてしまったのではないかという錯覚を覚える。
 少年たちに狙われた一匹の蝉が見えた。他の蝉たちは、その蝉が窮地に追い込まれていることを伝えることが出来ない。それはすなわち、ほんの少しでも声を出そうものなら、次の標的が自分に移り変わることが確実だから…。
 幹に一番近い、虫取り籠を持った少年の靴がジリッと地面を擦る。 彼らを視線の先に捉えながら、翠も身動き出来ずにいた。まさにこの瞬間こそが、彼らの求めていた絶好の機会。夏の空気に似合わないこの沈黙を、無様に破るわけにはいかない。翠もじっと息を詰めて彼らを見守る。この緊張感は、そう味わえるものではないだろう。
「右から回って…、ゆっくりね」
「分かってるよ…」
 やがて、少年はそろそろと網を掲げ、ゆっくりと、だが確実に狙いを定める。動物特有の本能が獲物を狩れと脳に伝える。距離感の照準さえ合えば、勝負は近い。
 しかし決して気を抜いてはならないのだ。油断をしていると、手痛いしっぺ返しを被ることになる。
 パシッ、という音が響く。網枠の針金が硬い音を立てて、…次の瞬間、ジジッという蝉の声。
「うわっ」
 小さな叫び声を上げて少年は木から飛び退いた。網の中は真っ白。
 それを見て翠は苦笑した。失敗だ。彼が思うと同時に、再び蝉たちの合唱が始まる。まるで少年たちをからかっているかのようだ。彼らは自らの自由を危険に晒してでも、短き命を楽しもうとしているのだろうか。そこには、つい数秒前の緊迫感は微塵も伺えない。
 少年の捕獲より一瞬早く、蝉は別の木へと飛び移った。それと同時に、少年はささやかな反撃を受けたのだろう。
「ちぇ、逃がした…」
 濡れた腕を拭いながら悪態をつく少年に、虫籠を持っていた少年が慰めの言葉を掛けてやっているようだ。しかし、その顔は明らかに今の小さな試合を楽しんでいた。意味ありげな微笑ましさを感じる。
 憮然とした顔の少年は、網で虚空を一振りし、もう何もいなくなった幹を一睨みして、溜め息をついた。草々、思うようにはうまく行かないのが現実というものだ。誰であっても、理由もなしに捕らえられようとしていることに気づいたら、どうにかして逃れようとするだろう。
 七年もの長きに渡る刻を地中にて過ごしてきた蝉たちの目的は、その数百分の一の間であっても、こうして地上で生きることなのだから、蝉の生き方を決定する権限は少年たちにはない。
 とはいっても…、少年たちの存在もまた、今という瞬間のためにこれまでの長い刻を経てきたのだと言えるのかもしれない。翠と彼ら――つまり『少年』とは、違う生き物なのかもしれないと思える瞬間が時にある。子供でもなく、大人でもない、未成年でも、未青年でもない、ただ『少年』と呼ばれる特殊な生き物。
 これは、彼らだけに許された特権なのかもしれない。しかし、免罪符とは違う条件付の契約だ。地上での時を経た蝉が直ぐに短い命を終えてしまうように、彼らはいつ自分が『少年』でなくなってしまうのか、心の奥底で怯えなければならない。少年が大人になるとは、そういうことでもあるのだ。
 未だ、からかうような蝉たちの声を頭上から受けながら、少年たちは歩き出した。どうやら捕獲作戦に一時撤退の指示のようだ。僅かな落胆の表情に、しかし諦めの雰囲気は感じられない。この底意地の悪さにも似た意欲感情は大切なのかもしれない。
 翠の向かう方向とは逆に歩を進める少年たちは、再び歩き始める彼とすれ違った。
「残念だったね」
 そっと翠は声を掛ける。それも殆ど耳を素通りといった感じで、返事はなく、こちらを見ることもなかった。俯き加減の顔と握った拳に、悔しさが滲み出ているのが伺えた。
 ある欲望には、それを満たすための条件として何かしらの代償があるものだ。求めれば必ずその対象が与えられるという、決まりきった、しかも間違った思想が世にまかり通ってはならないだろう。ましてや、一つの命あるものを手に入れようとするのならば、余計に。
 籠を下げた少年は腕時計に目を遣り、相方の少年に帰路に就くことを促した。緊張感から開放された二人の少年は帰路に就くのだろう。さくさくと草の生い茂る森の中を遠ざかっていった。その頭上では絶えず葉が揺れて、百色眼鏡のような情景を作り続けている。
 気づけば、確かに残っていたはずの夕日の明るさは身を潜め始めている。葉群れの隙間から覗く橙色には、闇色とも言える藍が混ざり込んできた。夏の長い日中がまた一つ、終わろうとしている。
 振り返れば、少年たちの姿は木々の陰に再び消えていった。それは、夜になると彼らは活動が出来なくなるという幻想を暗喩するように、染まる闇色から逃れるように。太陽電池で動く自動人形か、と翠はその思い付きに少しだけ可笑しくなった。
 少年たちが彼の視界から消えたのと同時に、辺りはまた、しんと静まり返った。彼以外の刻が一瞬止まり、翠は身体に酸素が足りないような、切ない気分にふと捕われる。夢か現か不明瞭な、あの感覚がまたやってくる。
 蝉の啼く声は、いつのまにか聞こえなくなった。


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