秋桜


 実際には、それはほんの僅かな刻の間の出来事である。
 当事者以外にとっては、本当に意味のないことだと、後になって史城は思う。
 ひとりの哀れな男がいたのだ。それだけのことだった。

 街外れの遊園。
 その桜並木の一角に、彼はいた。
 一本の桜。夜の闇に照らされて、月の光に浮かび上がり、紫煙のような色が空気に溶けて漂っている。
 花はそれほど散ってはいない。英気が十分に養われていることを感じさせた。木としては、まだ若いのだ。
 強い風が吹いたわけでもないのに、ざわざわと桜が騒いだ。
 ぞくり、と何者かの強い気配を感じ、史城は身構える。
「――誰だ?」
 研いだような鋭い口調で、誰何(すいか)する。
『――そちらこそ、どうして私が分かる』
 声だけが、聞こえた。史城は肩を竦め、
「それは、持って生まれた才覚だからな。今更、とやかく問われても仕方がない」
『何の用だ? こんな辺鄙なところへ、丑三つ時に一人でやってくるとは、正気を疑われるぞ』
「そう思われても仕方がないな。お互い様だ」
 小さく笑みを漏らす。そうしてひとつ、尋ねた。
「柚木、という男を知っているか?」
『知らんな』
 その返事と同時に、木の陰から一人の男が現れた。
 藤麻や優作と同じくらいの年恰好の男である。闇色に映える黒の羽織袴を纏った青年は、口元を歪める笑みを史城に向けた。
 史城は直ぐ様理解した。奴が、柚木の案ずる相手だと。そして、
 ――奴は、既にこの世の者ではない。
『苦もせず私に問うところを見ると……、お前、拝み屋か?』
「まあ……、似たようなものだ、な」
 逸話のように、向こうが透けて見えるだとか、足がないだとか、そういった、外見でそれと分かる特徴はない。
 だが、彼を見れば、それだと一瞬で分かる雰囲気を、男は持っていた。
 彼が、何らかの形で桜に取り憑いていることは確実だった。
『悪いが、私は目的を果たすまでは、消えるわけにはいかぬのだよ』
 男は言い、はっ、と史城は吐き捨てた。
「お前の目的など、俺には関係がない。俺はただ、自身に課せられた命を果たすだけだ」
『辛辣だな。若いようだが、意気がると良いことはないぞ』
「説教は必要ない。来るなら早くしてもらいたいな。俺にはあまり時間がない」
 正直なところ、拍子抜けしていたのだ。
 或いは魑魅魍魎の類が現れたのではないかと、彼の中にもある好奇心が足を急がせたのは確かで、実際に現れたのは男の残心である。
 だがそれが、一瞬の油断を呼んだのは確かだった。
『この身体では少々不遇と見える――』
 何を思ったのか辺りを見る男の視線が、ある一点で止まった。
 こちらに、ふらふらと野犬が一匹歩み寄ってくる。
 飢えていると分かったのは、その体躯に似合わぬぎらついた視線が射るように史城の身体を貫いたからだ。
 血を、求めている。
 男にも、犬の感情が見えたらしい。にやりと笑むと、
『丁度いい。利用させてもらおうか』
 すう、と男の姿が消えた。
 直後、びくりと犬の身体がひくついたかと思うと、眼の色が変わった。
「……!」
 理性を持った生き物のように睨み付ける。人間が別の生物に憑依する様を、流石に史城も見たことがなかった。
 それが可能であったことは眼の前で実証されたが、……恐らくは、あの犬は行き続けることは出来ないだろう。
 一声吼えると、『彼』は敏捷な動きで史城に飛び掛かった。
 先程まで死に損ないの動きをしていた犬とは思えない。
 恐らくは全ての不要な感覚が遮断され、通常でも出来ぬ筋肉運動を余儀なくされているのだ。
 自壊せぬよう、生物は皆活動に際し、ある程度の制限がされているものなのである。
 紙一重で洋衣が裂かれる。
 犬の敏捷さで史城に襲い掛かる男は、地面に前足が付くや否や、そのまま反転して跳んだ。
 しなやかな筋肉が鳴る音が聞こえ、咄嗟のことに史城は反応が遅れる。
 不覚だった。予想外の動きをされ、史城は避けきれずに攻撃を被る。
 次の瞬間、びしり、と手の甲に鋭い痛みが走った。
 見れば、牙が刺さったのだろう、それでもざくりと赤い穴が空いている。
 骨までは見えていないが、浅い傷ではない。
 数秒後にようやく血が浮き上がり、滴り、地面に落ちた。
「く……ッ」
 数歩、身を退く史城を満足そうな眼で眺めながら、彼は小さな史城の血痕の脇に寄る。
 赤い液体をぴちゃりと舐め、……直後、驚いたのが分かった。
『貴様……、?』
 犬の口から、男の声が響いた。それは直接史城の脳裏に届く。
 顔をしかめて、史城はそれを耳にした。
『……分かったぞ。お前も、同じ、なのだな?』
 史城は、答えない。それは男の言葉を肯定するものであると同時に、
「――……」
 感情の消えた視線だった。それがゆっくりと移動し、犬の姿を取る男に向けられる。
『……! な、に……ッ?』
 相手の動きが微塵も出来ぬものとなった。史城の視線が、『彼』をその場に縛り付けるものとなっているのである。
 同時に、犬の本能が、その場から動けなくさせている。
 それには全くの予想外だったようで、男の声に明らかな狼狽の色が混じった。
「そちらに移ったのは、失敗だったな」
 抑揚のない声で告げると、史城は腰の隠しから、細いひと巻きの糸を取り出した。
 青年の殺気は今や、完全に相手を無意識の萎縮とさせている。
『……ッ、ま、待て!』
「駄目だ。もう遅い」
 史城の腕が小さく弧を描き、その手から糸が放たれた。
 絹糸よりも細いそれは次の瞬間『彼』の首を二重三重に拘束し、……その喉を裂いた。
 同時に、その首は胴体から分断させられる。
 野犬と完全に同調した悪意は、離脱する隙を許されず、そのまま分散した。
「……やれやれ」
 ぱちん、と指を弾く。
 と、糸は突然発火した。紫色の火を吐き出して。
 犬と糸はほんの数秒で焼却され、灰も残らず風に散った。最初から何もなかったかのように。
「児戯だな、全く。――そう思わないか? 全部、見ていたろう」
 ようやくそれに気づいた史城が呼び掛けたのは、……桜、そのものだった。
「今更無視をすることは、許されない。この男と同じ目に会うぞ」
『それは、やめて欲しい』
 ざわりと桜の枝がなびき、再び、史城の脳裏に直接、声が響いた。
 だがそれは先程の男の、恨みの混じったものとは違い、儚くも凛とした声音である。
「柚木優作に呼び掛けたのは、貴方だな」
 史城は問う。
『……そうだ。根元に埋められた死体の持つ残留思念が、苦痛だった。だから葉に意識を分け、彼に呼び掛けた』
 とんだ芸当だな、と史城は口元を歪める。
「随分、一人で悩んでいたようだな。何せ、一介の和菓子職人だからな」
『それは、済まなかった』
「もう、その必要はないだろう。彼の代わりに、俺がこうして奴を排除したから。……残るは栄養だけか? 旨そうには思えないがな。肉と骨があれば、桜には皆同じか」
 史城が言うと、どうやら相手は笑ったようだった。
『そのようだな。……例を言う』
「例には及ばない。これは俺の務めだからな」
『成る程。あの青年には悪いことをしたようだが、……その代わり、来年の葉に期待するよう伝えて欲しい』
「ああ……、それは、面白そうだ」
 きっと、来年には更に美しい花が満開となるだろう。
 そして、その後には、瑞々しい翠緑の葉が一面に姿を見せるのに違いない。
 それは清々しい香りを含んだ桜餅の飾りとなり、優作を、そして藤麻を喜ばせることになるのだろう。
 来年の桜を藤麻と見に来られたら良いがな、と思いながら、史城は遊園を後にした。


 玄関には、黒藤色の髪をした青年が立っていた。
 いつから佇んでいたのか、その顔色は陶器のように滑らかで、白檀の様相を思わせる。
「終わったのかい」
「……ああ」
「柚木には、一旦帰ってもらったよ。また明日、話をすることになっている。どうやら…、色よい返事が聞けそうだね。何よりだ」
「どうして――」
 分かったんだ、と史城が言おうとしたとき、
「藤麻、その手は……」
 彼の右手に包帯が巻かれているのに気づく。
 藤麻は咄嗟に隠そうとしたが、史城の手が伸ばされるのが先だった。
 手を取り、血が僅かに滲む部分が、先程自分が怪我を負った部分と同じであることを見て取る。そして同時に悟った。
「これまでも、そうだったのか。俺が傷を負うと、……貴方も」
 史城が訊くと、藤麻は小さく微笑んだ。
「気にしなくていい」
「そうはいかない。分かっていたら、俺は――」
 余計な言い訳には意味がないと思った史城は、
「……済まない。俺の失態だ」
 直截に謝罪の言葉を述べた。
「僕は、大丈夫だよ。けれど……」
 傷が剥き出しになった史城の手を、眼を細めて見遣り、
「言った筈だよ、無茶はするなと」
 嗜めるように藤麻は言う。
 本当は傷が痛まない筈はないのに、穏やかな顔をして史城の心配をする。その優しさが、彼の心を痛くさせた。
「済まない……」
「過ぎたことには、僕は一々言明しない主義だけれどね」
 史城はかぶりを振った。
「そんなことを言っているんじゃない。……俺は、知らなかったんだ」
 拳を握り締める。再び、じわりと血が滲み出た。
「――こんなことは、本当は信条に反することだ。主と痛みを分ける、などと。貴方は、拝み屋でも、祓い師でもない。ただの、一介の、古書店の主だ。だから本来なら、俺を使役などにする必要もなかったんだ」
 史城――『式』は、藤麻以外の人間には認識出来ない存在だ。
 主のためだけに存在し、主の命のあるまで、彼の傍らで淡々とそれを待つ。それが式神というものだ。
 しかし、藤麻はそれだけでよしとしなかった。彼を一人の友人として、また家族ともして共にいようと申し出た。
 だから史城はここにいる。藤麻を介して、人と接する。
 だが……、その盟約の上で、主と式が痛みを分かち合う、などといったことを取り決められていたとは知らなかった。
 己のことであるのに、だ。
 これまでにも、自分の知らぬうちに藤麻を傷つけていたのではないかと、史城は歯噛みしたくなる。
 自分は、見てはいけないものを見てしまったのではないだろうか。
「分かっているよ。本心にそぐわないことだというのは、重々承知している」
 でもね、と藤麻は史城の肩を抱く。
「でも、だからこそなんだ。僕は、お前を失いたくないから。自制の意味もあるけれど、僕もお前を失うことは考えたくもないんだ。ずっと共に来たから、尚更、これからも、と」
 藤麻の一言一言を噛み締めながら、史城は答えた。
「貴方が俺を貴方と同じ位置に見ようとしてくれることは、嬉しい。だが俺は本来、主に遣われるだけの存在だ。それが俺の存在する意義だからだ。……だが、貴方の前では、それは出来ない」
 分かっているよ、と再び藤麻は言う。
「先代も、先々代も、ずっとそうしてきたんだ。いや……、それこそが、盟約なんだよ」
 するりと、彼は更なる真実を口にした。
「彼らの式たちだって、それを受け止めて、受け入れてきたんだから。……僕も、その考えを改めるつもりはない」
 離れるつもりはないんだ、と彼は告げた。
「――まさか」
 血の気が引く思いがした。藤麻の先代も、先々代も、式神持ちであったことを、彼は藤麻から聞いている。
 そして、彼らの死期も、また同時であったと、史城は知っていた。
「言っただろう? ずっと一緒にいようと」
「ああ……――」
 そういうことだったのか。
 主の死は、式の死。
 そして、式の死もまた、主の死に結びつく。
 樋野家の盟約とは、耐え難い宣告だった。
 しかし、甘んじることなく、それを当然のものとして受け入れる勇気を、彼らは有していた。
 それがどんな意味を持つのか、今更問う必要はなかった。
 式は、死を代弁する人形ではない。
「本当に、済まない。……けれど」
「うん」
「ひとつだけ、言わせて欲しい。有り難う、――藤麻」
「うん」
 史城は――、藤麻の式は、彼の腕を引き寄せて、祈るように額に当てた。
「朝冷えがしてきたね。中に入ろうか。お前の手当てもしたい」
 そっと史城の腕を取り、彼の主である青年は屋内に入るよう促した。
「話、聞かせてよ」

 門柱の脇に咲いた桜から、ひらひらと花弁が彼らを包み込むように舞ってくる。
 それは薄くなりつつある月の光を透過させ、薄紫色の絹の欠片のように地面に散っていった。
 夜は、間もなく明けようとしている。



("Crystal mind's Cosmos" is closed. Original Illustration's from "山口ユミ")


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