秋桜


 桜の花が散り始め、緑の息吹が香り立ち始める、終春の夜。
 その旧家の離れの一室には、深更にも関わらず行灯の淡い灯火が点っていた。
 それは日を問わずいつものことだったが、少なくとも盗人の足を踏み入れさせない程度には役に立っていると言えた。
 屋敷の主、樋野藤麻(ヒノ・トウマ)の書斎は、書庫を兼ねた文献の宝庫である。
 ただし、宝庫とは文脈上の成り行きのようなもので、実際には先代の家主、つまり藤麻の祖父と父のものであった遺産である。
 要は本嫌いの者にとっては紙屑の集合体に過ぎない。
 その意味では運良く……、或いはそれは、幼い頃より本に囲まれた生活を当たり前としていたお陰でもあるのだろうが――、藤麻は、本があれば他の娯楽を必要とせぬほどに読書好きで通るほどだったから、読む本に困らないことは幸せでもあった。
 古書から新書、和書、洋書を問わない本の数々は、部屋の二方を覆う本棚にも納まり切らず、床にまで小さな山を作っている。
 何せ、本好きの藤麻ですら、生まれてこちら二十と数年掛けても尚、その全てを読破するには至っていないほどなのだ。
 日に二冊三冊と眼を通していく。様々な物語が脳髄を駆けて行き、先人たちの残した思いが胸に染みていく。
 その快さを知ってしまうと、彼は年月を掛けてでも走破してやろうと思ってしまった。
 それはまた人の妙である。
 屋敷の書斎の真ん中の、書き物机の上に置いた湯飲みに注いでおいた茶は、とうに冷め切っている。
 それに眼を遣った藤麻は、小さく溜め息をついた。新しい茶が飲みたくなったが、立ち上がるのが面倒だった。
 退屈な本を読んでいるときに限って、それが深夜であっても一向に眠くならない。それはある意味において、彼の悩みだった。
 最終的に『詰まらない』と判断されることが予測出来そうな本であったとしても、作者に対する礼儀として、最後の一行まで意識に読み入れる。それは藤麻の信念と呼べるだろうか。
 対照的に、それがどんなに彼の興味を惹き付ける要素を含んだ書籍であっても、睡魔には絶対的に勝ち目がない。
 この癖が災いし、物語の要点として肝心な部分を素通りも同然に読んでしまい、後になって後悔したのも一度や二度ではない。
 その日の読書も、確かに藤麻の好奇心を満たす助けになりつつあった。が、不文律は絶対なのである。
 部屋の灯が揺らめくに伴い、頁の中に意識が沈みこんでいくような錯覚を覚える。
 次第に身体が軽くなるような剪断を感じ、……その頃には藤麻の意識は霞の中に埋もれかけていた。
「――羽織り落としだな」
 火鉢の横に座って書物に視線を落としていた藤麻は、声を掛けられたことに気づき、顔を上げて名を呼ぶ相手を誰何しようとした。上半身を振り向かせようと付いた手が、小さく丘を作る古書に触れた。途端に小山は崩れ、その表紙にうっすらと積もっていた埃(ほこり)が不意の煙幕を担う。
「――……」
 喉が掠れたらしく、直ぐ様に声を響かせることが出来ず、一度咳き込む。
 彼に同調するように行灯の火が仄かに揺れ、相手の姿を何処か朧げに照らし出していた。
 羽織っていたはずの上掛けが、膝元に滑り落ちていた。肌寒いということはなかったが、反射的に藤麻は背筋を伸ばし、指を着物の衿に添えている。藍色の内衿は彼の白皙たる容貌を表から隠し、しかし姿勢の良さはその細身を際立たせてすらいる。
 彼の傍らに、一人の青年が膝を付いていた。白い上着に黒い襯衣、といういつも通りの姿が、藤麻の眼に映る。
 薄い髪と瞳の色が、藤麻の視覚を微かに刺激した。
 古書の埃特有の黴臭い粉塵に、けほけほと咳を続ける藤麻を見て、青年は書き物机の湯飲みを手に取り、彼に握らせた。
 ゆっくりと一口、嚥下すると、微かな苦味が鼻に抜けると同時に、それは喉をするりと流れていく。
 調子を確かめるように喉を二、三度撫でた後、藤麻はやっと声を出した。
「……、史城(シキ)。どうしたんだ、こんな夜更けに。何か用」
 書斎を外界から隔離する障子は、ぴっちりと閉められている。
 一陣の風の侵入も許さずに訪れた青年に、けれど慣れた口調で尋ねた。
「どうしたんだ、とは心外だ。第一声がそれでは悲しくなるな。貴方のそんな様を見せられて、声を掛けずにいられると思うのか?」
 藤麻の意思に左右されず、彼は度々、藤麻の元に姿を見せる。
 小さく苦笑いをしていた余韻の空気があった。藤麻は茫々とした面持ちのまま、史城の顔を見る。
 十七、八と見て取れる見掛けに寄らず、大人びた笑みを漏らした青年は、そんな藤麻を見て、
「子供のような顔をしているぞ」
 と冗談めかして言った。
「僕は、……どうかしていたかな」
 史城は、藤麻の背中を擦ってやりながら、
「気づいていなかったのか? そこまでいくと、感動したくなる――」
 言葉とは裏腹に、呆れたような視線で、
「本を開いたまま寝入っていたぞ。……今も実際、物凄く眠そうに見える」
 藤麻本人には全く身に覚えがなかったのだが、障子の開閉する音を聞いた覚えがないのはそのせいらしい。
 本に埋もれるようにして転寝をしていたことにようやく気づいた藤麻は、瞬きを繰り返しながら、ぼそぼそと答えた。
「いや、眠るつもりはなかったんだが……」
 実はつい先刻まで、不機嫌なほど眠かった。それは事実だ。
 それがふと、和らいだものだから、これ幸いと読書を進めていたつもりだったのだが、どうやら夢の中でまで読書をしていたか。
 直前まで読んでいた本の続きを、そちらでも読んでいたのではないかと思い出し、藤麻は笑いそうになってしまった。
 彼の笑みを自嘲と取ったのか、嗜めるような口調で史城は告げる。
「眠いときに、素直に寝ておかないから、そういう無防備なことになるんだ。いつも言っているのに、貴方は一向に俺の言うことを聞いてくれない。俺の側が飽きてしまうぞ、そろそろ」
「それは、……いつも済まないと思っているよ」
「思っているのなら、行動に移してくれ。……それから、こんな埃の多そうなところで、一晩中、本を嗜むのも良くないと、再三忠告している。嗜みなら嗜みとして、もっと悠々と楽しんでもらいたいな。――喉だけでなく、仕舞いには肺を病むようになるぞ」
 忠告を受け、藤麻は愁傷に頭を下げた。
「ごめん」
「聞くだけなら、誰でも出来る。俺は貴方の心配をしているんだ」
「ごめん」
 同じ言葉を繰り返す藤麻に、
「……そう、何度も謝らないでくれ。俺は責めているわけじゃないんだ」
 史城は小さく溜め息をついた。
 この場に第三者がいたならば、その口調は人に物を頼むときの色ではないと思っただろうが、藤麻は頓着しない。
「貴方の言葉は、他の者とは響きからして違うんだ。貴方の――寝顔だって」
「寝顔?」
「無防備過ぎる、と言っただろう。賊の侵入にでも会ったら、直ぐにでもあの世が見られる」
 起伏に欠けた曖昧な表情のまま、藤麻は史城を見つめる。
「それは……、史城がいてくれるじゃないか」
 自分の頭に手を遣り、髪に指を絡ませながら、史城は困ったような複雑な顔で、
「ならば……、俺がいなかったらどうするつもりだ」
「そんなことは、ないと思う」
 額に掌を置いたまま、史城は疑問の意思を口にする。
「どうして」
「今まで、助けが必要だと思ったときに、お前がいてくれなかったことは、ないから」
 当たり前のことのように藤麻は返す。
「敵わないな……、そういう言い方は勘弁してくれ」
 丸きり諦めた口調で、顔を隠すように史城は藤麻から視線を背ける。
 袂に両腕を納めながら、藤麻はそのとき思ったことをそのまま口にした。
「ところで……、羽織り落としって何だったかな」
「――……それを、今頃聞くのか」
 呆れた顔をしながらも、
「歌舞伎の演出用語だ。役者の羽織りが知らず知らず脱げ落ちる仕種で、魂の抜けた町人の有り様を表現している」
 律儀に史城は質問に答える。
 思えば書斎に訪れた際、最初に眼に留まった羽織りを皮肉のつもりで指摘したのに、効果は上がらなかったのだ。
 まったく、魂が本に抜かれたような顔をしていた……。
「成る程……、妙なことに詳しいな」
 案の定、奇妙なほど素直に藤麻は小さく頷く。
「実は羽織り芸者に習った――、という経緯はどう思う?」
「嘘っぽい」
 素直だと思った矢先に、手厳しい言葉で即座に言い答える。
「史城の嘘は分かりやすいよ。もう少し勉強をした方がいい」
「嘘の勉学を?」
 笑って史城は答える。
 次第に、藤麻は本当に眠いのか、眠い振りをして自分をからかっているのか、史城には自信がなくなってくる。
 そこで一つ、申し出てみた。
「詐欺師の心得が纏められた本でも蔵にあれば、読んでみてもいいがな」
「探してみようか」
「……いや、構わない」
 一方、藤麻の方は他意なく、殆ど反射的に相手の言葉に返事を続けているだけなのだから、この会話は始末が悪い。
「貴方こそ、これほど本の虫と化しているのに『羽織落とし』程度の言葉も知らぬようでは、古書道楽の享受が少ないと思われてしまうぞ」
「本を読めば博識になれる、というのならば、この世から本はなくなっているさ」
「どうして、そんなことになるんだ?」
「だって……、そのときには、皆が皆、本を読むようになって、書く者がいなくなるだろう?」
 全く利に沿わない論を平気で口にする辺り、藤麻は睡魔に侵されているのだと史城にもありありと見て取れた。
 本当に今更だが、藤麻は惚けているわけではない、筈だ。
「舞踏を達観する者の言葉とは思えないな」
「達観なんて。僕のそれは、音を形に表しただけに過ぎない」
「それを苦もなくしてみせることが、見事だと言っているんだ。見えないものを見えるように表現することは、その逆より難しい」
「それは……、褒められているのかな」
 藤麻は扇子を懐から取り出す。
 何気ない仕種で口元に添えながら、聞き慣れない賛辞の言葉を胸の内で反芻する。
 ぱたぱたぱた、と扇が開かれ、藤麻の笑みを隠した。
「褒めて、いるんだ」
「――今のは、嘘じゃなさそうだね」
「当たり前のことを言わないでくれ。俺は、嘘は嫌いなんだ」
 くすりと藤麻は笑みを零す。所在なさげに、史城は夜の有閑青年に申し出る。
「茶を煎れようか、目覚ましに」
 それに藤麻は、ふわりと答えた。
「ああ、頼むよ」
 彼が続けて何か言いたそうな顔つきをしていることに、史城は気づく。
「温めにね」
「温めにな」
 言ったのは同時で、史城は即座に言い足す。
「いつも通りに」
「……有り難う」
 藤麻の好みは、重々心得ていた。今更確認するまでもないが。
「では、居間にて少々お待ち下さい、主殿」
 使用人の口調で彼は告げ、古書の卸問屋『白鳳堂』の四代目は、その歳に似合わぬ柔らかい笑みを史城に向け、頷いた。
 羽織りを肩に掛け直し、火鉢の炭を鉄箸で一掻き掻き回し、藤麻は立ち上がった。


 庭に面した廊下に出ると、あまやかな風が羽織の内に舞い込んできた。
 板張りの廊下は素足の裏に硬く、冷たい響きを伝えてくる。
 藤麻は無意識に肩を竦めていた。
 連日の晴天続きで、雨戸を閉めていない廊下は開放感が普段より増して見える。
 屋敷より庭が先に作られた樋野邸は、庭園のために家屋が付随して建てられていると表現してもいい。
 藤麻の曽祖父の代に建てられた建築は、それから一世紀以上が経った今でも尚、その重厚さを空気に漂わせている。
 しかしそれは、単なる固陋さや荘厳さを主張するのみでなく、様々な姿を見せる四季折々の優美さ、絢爛さをも同時に有している。木造建築特有の、細胞の核が空気を自然と通すような、刻の流れに身を任せるような境地があるのかもしれない。
 庭の中に、石灯籠が幾つか設えられている。その一つ、書斎に一番近いところのものに、油が入った皿が置かれていた。
 散った桜の花弁が軒下に奇妙な小道を作り、その配色は廊下の隅にまで及んでいた。
 敢えて掃除をしようと思わなかったのは、そうしたところで数刻後には再び桜色の絨毯が出来てしまうことが眼に見えていたからだ。
 水分がなくなれば萎れ、風に吹かれて地面に落ちた後は土に帰っていく薄片は、それがそのまま小さな命の欠片のようにも思え、美しくも儚いものは皆、死と新生が背中合わせにあるときにのみ存在するのだと思う。
 藤麻は暫く、静かに呼吸を繰り返しながらその場に佇んでいた。
 ぱん、と扇子を開き、前髪に付いた一片を宙に舞わせる。
 そのまま、落とさぬよう、そっと……、そっと、上向きに仰ぎ続けた。
 ひらひらと不安定に揺れていた花弁は、すっと藤麻の起こす風に逆らうように脇に退いたかと思うと、彼の足元に音もなく滑り落ちた。
 それでも藤麻は数秒、扇を揺らめかせる。
 彼の前髪が微風に揺れて、墨に藤色を溶かし込んだような艶の照り返しが月夜に映えた。
 月の満ち欠けに興味があるわけではないが、天空に月が昇っているのを目にすると、つい首を傾げて見つめてしまう。
「どうした?」
「いや……」
 声を掛けられて、自分で思っていたよりも長くにその場に留まっていたことに気づく。
 腰の隠しに無造作に手を突っ込み、史城が様子を窺いに戻ってきていた。
「茶の湯の用意が出来たが……、勝手に一人で月見でも始めるつもりだったのか?」
 自分に倣って空を見上げる史城を見て、
「秋にするだけが月見じゃないさ」
 藤麻はそう言い返した。
「悪い癖だな。……いや、悪いのは月の側か」
「それは、僕を贔屓にし過ぎだ」
 謙遜するつもりはなかったが、そんな言葉が口をついて出る。
「どちらも同じさ。……ただ、貴方に風邪でも引かれては、俺が堪らない」
「なら、悪いのは僕だろうな」
「以前に風邪を引いたことがあるような口振りだな」
「分かるかい」
「詮索するまでもない、か」
 史城は、やれやれ、と肩を竦めた。
 その唇の端が持ち上がっているのを見て、藤麻は、彼の機嫌はそう悪くないものであることを見て取る。
「史城」
 背を向けて廊下を歩き出そうとする青年に、声を掛ける。
「花弁が」
 言って、着物の袖を崩さぬよう片手を袂に添えながら、青年の背中にしがみついていた一片を、そっと摘み上げた。
 二人して、まじまじと見詰め合う。
「風雅だな……、一つの命の終わりだ」
「だが、直ぐにまた新しい刻が始まろうとしている」
 成る程、彼らの間近に見える桜の枝々にも、翠緑の色の予感が浮かび上がって見えた。
 もう暫くすれば、その梢には多くの緑が生い茂るのだろう。
「甘い、かな」
 ふと、藤麻が呟き、史城は彼を横目で窺う。
「何がだ」
「これがさ」
 そう言う藤麻の人差し指に、桜の花弁が一枚、付いている。
「口にしてみればいい。少なくとも馬肉の味はしないだろうさ」
 言われるままに指先を口に含み、舌先に乗せた。
 ああ、そう言えば馬肉は桜肉とも言われるな、と藤麻はどうでもいい部類に入る遣り取りの解釈をする。
 こくり、と藤麻の喉が小さく動き、一枚の花弁が青年の身体に取り込まれる。
 甘酸っぱいような、渋苦いような、不思議な味がした。言い表わすなら、妖艶な味である。
「旨いものじゃないだろうに」
 複雑な表情をする藤麻を見て、半分呆れたような顔で、史城は腰に手を遣る。
「旨いものしか食べられない人は、ある意味不幸だよ」
 藤麻はそんな負け惜しみを言った。
「だが、好き好んで桜を食う男も、そう居るまい。生の桜を採って食う奴を、俺は初めて見た」
「僕も、今日初めて口にしたよ」
 唇の隙間から舌を少しだけ出して、悪戯をした後の子供のような顔で藤麻は答える。
「けれど……、その様子だと知らないね。桜湯というものがあるんだよ。塩漬けした桜の花に、湯を注いで飲むんだ。これもなかなか趣があって良い。僕は最初にこれを聞いたとき、柚子湯なんかと同じように湯船に花弁を浮かべるのかと思ったんだが、詰まらない勘違いだったね」
「それとて、桜を食うわけではなく、桜の移り香を楽しむものだろう。同じことだ」
 共に経験がないため、それは想像にて補うしかなかったが、兎も角、菓子のように気軽に食すものではないという結論に落ち着いた。
 居間へと廊下を歩みながら、藤麻は史城に呼び掛ける。
「桜餅を買いに行こうか、明日。急に食べたくなった」
「好きにするといいさ。……全く、気紛れな主殿だ」
「嫌いだったかい、史城は。桜餅」
「そんなことは、ないけれど。――少なくとも、あの香りは嫌いではない」
 意図したものか、素っ気無い口振りで答える史城に、藤麻はうっそりと微笑んだ。
「良かった。ああいうものは、一人では味気ないんだ」


 史城の手回しだろう、居間の火鉢には既に火が入っていた。それには鉄瓶が掛けられていて、時折蓋がかたかたと揺れて鳴る。
 ぱちり、と炭が弾ける音がそれに混ざり、何やら音頭の調子を取っているようだ。
 沸騰した湯を急須に注ぎ、幾度かゆっくりと円を描くと、ついで温めた湯飲みに茶を注ぐ。
 一連の動作を、史城は慣れた手つきで行った。茶の作法としては決して正しくはないことを藤麻も承知しているが、彼は作法が呑みたいのではなく、茶が飲みたいと思うから、史城にそれを任せるようにしている。
 少なくとも、藤麻は史城の煎れた茶が他の誰が煎れたものより旨く感じる。
 それは彼にとって偽りのない事実であり、そこに材質、形質が入る余地はない。
 桜湯の真似事をしたくなった藤麻が、宙を舞う花弁をこっそり受け止めてきていて、それを湯飲みに浮かべたときだ。
 眼を細めた史城が口を開いた瞬間、
「樋野、いるか。夜分に申し訳ない」
 第三者の声が居間にまで聞こえた。
「本当に、誰だ、こんな夜更けに」
 よく通る声は、玄関から聞こえてくる。
 悪態をついたのは史城で、その声に聞き覚えがある藤麻は、すっと立ち上がり、小走りで廊下に向かった。
 何をそんなに慌てることがあるのかと、小さくなる背中をゆっくり追いながら史城が思う。
 先に玄関に着いた藤麻が、明るい声で相手の名を呼んだ。
「柚木」
「ああ、樋野。遅くにすまない」
 藤麻と似た紺色の着物に身を包んだ青年は、柚木優作という。藤麻行きつけの、和菓子屋兼茶店の主である。
 藤麻の愛想がいいのは、半分そのせいであると言っても差し支えないだろう。
 甘味好きの藤麻は、彼の経営する『柚子屋』の常連客である。
 その優作も本好きが高じて、しばしば『白鳳堂』にやってくる。店の休日などに、試作品を試して欲しいと季節の和菓子などを持参する彼は、藤麻の個人的な上客だった。
 菓子作りという繊細な仕事をしていることに加え、客と対面しての商売を勤めていることもあり、常々、人当たりが柔らかい青年である。歳の頃も同じである藤麻にとっては、彼は級友のようなものだった。
「構わないよ。まだ寝ていなかった」
「一度起こされたからな」
 史城がこっそり横槍を入れ、藤麻は横目で睨む。
「残り物で悪いが、土産だ。季節者だからと思って、持ってきたんだが」
 そういう優作が掲げて見せたのは、屋号の紋が入った小さな風呂敷包み。
 中から餡子の匂いが微かにした。
「ひょっとして……、桜餅」
「ああ。……よく気づいたな」
 驚いた顔を見せる勇作を横に、史城と顔を見合わせて藤麻は軽く吹き出した。
「いや……、残り物で、かえって良かった」
 勇作は不思議そうな顔をする。こちらの話だよと手を振って、
「話があるんだろう。上がって」
 藤麻は、ひらりと掌を家内に向けた。


 居間に改めて座り、茶を啜る。
 元より真夜中のこと、世間話が似合う雰囲気ではないが、
「頂いてもいいかい」
 断って、藤麻は包みを解いた。中には成る程、菊塵色をした葉が八つほど並んでいる。桜餅を包む桜の葉である。
 包み紙が薄桃色をした桜紙というのも、また風情があるように感じられた。
 桜餅は、桜の葉の香りが命である、と言われる。
 餅の皮は香りの染みやすい小麦粉地の白い薄焼き。これに小豆の漉し餡を挟んで二つ折りにする。これが桜餅の本体となる。
 そして、何より人の眼を引くのは、しっとりと濡れた塩漬けの桜の葉だろう。
 白い餅が隠れてしまうくらい深々と包んであるのが大抵で、それは桜の葉の香りと塩味を十分に染み込ませるためだ。
 また同時に、餅が干からびたりするのを防ぐ役目もある。
 桜餅を味わう際には、まずはの香りを味わってもらいたい――。
 そう優作が以前言っていたことを、藤麻は思い出す。
「昔は、この葉っぱも食べなければいけないような気がして、一生懸命食べた時期があったなあ……、泣きそうになりながら。お陰で、あまり桜餅は好きになれなかったんだ」
 子供心の教訓を生かし、餅から葉を剥がしながら、彼は言った。
「名の通り、葉だから、繊維の固まりだ。大きな葉で包んであるようなものだと、食べるだけで至難の業だよ。葉は剥いで、移り香を楽しむくらいにしておいた方が無難だ」
 頷いて、優作は答える。
「――だから言っているだろう、『桜』は食うものでないと」
 史城がまるで訳知り顔で言うのを無視して、藤麻は餅に噛み付いた。
 餅特有の弾力と、それが千切れる瞬間の歯に伝わる感触が良い。直後に舌に広がる優しい甘味も、藤麻は好きだった。
 優作の作る和菓子は、どれも優しい味がする。
 『残り物』だからこその餅の固さも、むしろ一興であろう。
「うん、美味い」
「それは、……何よりだ」
 あまり表情を表に出さない優作だが、この時ばかりは流石に眼を細めた。
 真夜中の茶菓子としては胃に重い桜餅だが、藤麻は意に介せず、といった面持ちで二つ目に手を伸ばす。
 ――最近仕入れた古書の話をしながら、更に世は更けていく。
「ほどほどにしておけよ」
 史城はこっそりと主に進言する。
 餅ふたつを腹に納め、茶を啜る藤麻を見ながら、優作は残った葉を摘み上げ、彼の眼の前でひらひらと振ってみせた。
「この葉なんだが…、樋野は、妙なものを感じたりしないか?」
「話って、これだったのかい」
 流石に訳知り顔とは行かない藤麻に、優作は話す。
 ――『柚子屋』では、『狂い咲き』と称して、少し早めの桜餅を売り出したという。菓子屋の慣例としては公明正大とは言えないが、古くからの客の強い要望があって、今季だけの試作としてみることにしたらしい。
「けれど、今年の桜はまだ散っているところだろう。僕の所の桜も、葉桜には早いようだが」
 当然の疑問を藤麻は口にする。
「ああ、そのようだな」
 優作は頷く。
 答えは単純なものだった。昨年から保存していた葉の塩漬けの残りがあったため、今回はそれを用いているという。
「だから、塩味が少しきつく感じたんだな」
「……いい舌を持っているじゃないか、樋野」
 多少皮肉を交えてのものだろう、優作の口元が上がった。
「二年物だから、な」
 丁度、昨年の今頃の桜の葉を使っているのだ。塩漬けとはいえ、そう保存が利くものではない。残り香を楽しむには一年が限界だろう。それ以降となると、『漬物』としての役を担うことが出来るようになる代わり、桜餅を包むには主張が強すぎるようになる。
 その『二年物』を十分に楽しんだ藤麻は、再び浮かない顔になる優作を見て、
「その葉が、どうしたんだ? 食中毒でも出たのかい」
「……そう思ったのなら、ふたつも食って平気な顔をしないでくれ」
 額を押さえて史城は呟き、
「それならば、問題の品を食えと持参したりしないさ。友人に毒見させる趣味はない」
 仏頂面で優作も答える。
「ごめん、冗談だよ」
「僕が言いたいのは……、臆病な話だがな、何か……、常然ならざるものが、この桜の葉から漂うような気がしてならないんだ」
「常然ならざる――」
 つまりは、異形の存在――物の怪の類――の存在の予感、である。
 優作に霊感の類があるのか藤麻は知らなかったが、普段から亡羊と過ごしているのではない限り、日常に離反する空気を感じることは、誰にしも可能であることは確かだ。
 しかし、桜の葉に憑く負の念など、聞いたことがない。
「また、唐突だね。桜餅を食べたことで、客に何かが取り憑いた、とでもいうのかい?」
「それは、ない。今のところだが。……だから、言っているだろう。そんな事実があったなら、お前のところにそ知らぬ顔をして問題の品を持参したりしないと。ただでさえ、お前は嬉しそうに菓子を食う奴だ」
 褒めているのか、貶しているのか、どうも分からない。
 そう藤麻が言い返すと、
「ああ、済まない」
 苦笑いを一つしておいて、
「じゃあ、どういうことなんだい」
 藤麻の問いに、優作は湯飲みを取り上げ、ひと口茶を啜ってから、
「実質、影響があるのは僕だけだ。というより……、僕以外に、それを感じた者はいない、という程度の話でしかないんだが」
 つまりは、根拠のない不安感。実際の被害者は……、零。
 繊細な性格をしている優作ならではの悩み事であった。
 日常から乖離した出来事の予感が身に降り掛かると、それにどう対処していいのか分からない……、そんな雰囲気だ。
「だが、何かを感じたのは確かなんだ。姿のない視線、声のない呼び掛け、空気のない影……、そんな気配を時折感じる。実害がないだけに、却って気味が悪い」
 袂で腕を組み、優作は微かに肩を震わせた。
「今夜も……、ここに来る途中で、幾度か覚えのない気配と視線を感じた。追われているような雰囲気ではなかったが、それが度々となると気が気でなくてな」
 さり気無い仕種で、藤麻は火鉢の炭を掻き混ぜる。
「……いつから、その『何か』を感じるようになった?」
「保存しておいた桜の葉を全て使い切った頃……、一週間ほど前か」
「この葉は?」
 藤麻は、自分の食べた餅を包んでいた葉の茎の部分を摘んで、くるくると回してみせる。
「それは、南部から取り寄せたものだ。南の地方では、桜が散るのも早いだろう? だから必然的に、葉が出るのも早い」
「成る程」
 全く普通の葉なら、藤麻が何も感じずとも当然の話である。
「……なら、僕が食べた餅の葉には、最初から問題はなかったということじゃないか。それ以前に、二年物だとか、いい舌をしているだとか――、随分な冗談だよ」
「まあ、そういうことだ」
 優作は、この引っ掛けを最初から意図していたのだろう。意外な意地の悪さに、藤麻は彼を小突いてやりたくなったが、史城の視線がちくちくと痛かったので止めておいた。先程から黙りっぱなしであるだけに、後が怖い。
「だが……、ついには昨夜、夢にまで見てしまった。相手の姿は朧にも見えないんだが、そいつがそこにいるという実感だけがまざまざと感じられるものだから、始末が悪い。単なる被害妄想であれば、それに越したことはないと思うが、どうしても気になってな」
 優作は、ふう、と溜め息をつき、
「こうして話しているのが二人だけだから、まだいいんだが。その筋の者に相談しようにも、本人がひとりで騒いでいるだけでは、医者にでも行けと忠告されるのが落ちかもしれないな」
 児戯に等しいからな、こんな錯綜は、と彼は呟く。
「お前ならもしや、何か知らぬかと思って、こうして訪ねてきたわけだ。……済まない、なかなか言い出せなくて」
「いや。僕が役に立てるのなら」
 軽く両手を振ると、和菓子屋の主は頭を下げた。
「有り難う」
 気を取り直すように一度天井を見上げた藤麻は、少し考える。
「桜の葉、か」
 桜の葉。桜の葉があるのは……、桜の木。
「聞き忘れていた。それは、何処の桜の木なのかな」
「ああ、それは――」
 優作は、二人もよく知る遊園の名を上げた。この辺りでは最も広大な回遊式庭園で、
「確かあそこは、昨年の初めからこちら、改築のために大部分が閉園となっているはずだが」
 今は業者の人手が入る以外は、立ち入りが制限されているはずだ。
「許可を貰ったさ。葉を頂くだけだからな。籠に一杯の桜の葉くらいで目くじらを立てることもなかろうと、あっさり入れてもらえたよ」
「どのくらいの大きさの木なんだ?」
 藤麻が訊くと、優作は思い出すように斜め上に視線を持ち上げ、
「二十尺は優にあったな。樹齢は確か、十四、五年。人間で言えば少年だが、結構な大きさだ。花見をするには丁度いい」
「精霊が宿るにも頃合の年頃、というわけか」
「……そういうことだ」
 まるで、御伽噺の分析をしているような会話である。
 現実味のないことを話しているな、という実感はある。が、それでは話が進まない。
「僕が不安に思うのは、柚木の不安感を煽る一番の原因が何処にあるのかということだ。桜の葉なのか、それとも花なのか、それとも」
 すると、優作はこんなことを口にした。
「怪談めかして言うだろう、……桜の木の下には死体が埋まっていると。まさか、僕がそれに当たってしまったのではないかとすら思えてな」
 よくは、言わないがな、と史城が呟く。
「そんな話を、信じているのかい」
 代弁して、藤麻は問う。
「信じたいわけじゃないさ。けれど――」
 優作は一瞬、言いよどんだ。
「真っ向から否定出来る根拠を持っているわけでもない」
 本当に自信がなさそうに言う。確かに、どんな抗弁も対抗には厳しい。
「それは御尤もだ。僕だとて、木の下を掘った経験はない」
 藤麻は頷き、物語の現実性の証明が難しいことを悟る。
「きみの話に、何処まで信憑性があるのかどうかは分からない。けれど……、折角だから、その桜に関し、何か探らせてみようか」
 そっと史城に目配せをする。
「頼めるか」
 俯き加減だった優作の視線が上がった。
「ああ。何なら柚木は柚木で、今から直接、書庫を探ってみてもいい。僕も手伝おう」
「頼むよ。自分でも何かしていないと落ち着かない」
 首肯する青年に、藤麻は言ってみた。
「その強迫観念こそが、相手の企みなのかもしれないね」
「……その結論にだけは落ち着きたくないな」
 つい零れた笑みは、諦めにも似ていて、藤麻は少し苦しくなる。
「書斎から鍵を取って来るから、先に行っててくれるかな」
「分かった」


 ――『白鳳堂』の書庫は、母屋とは反対側の離れにある。
書斎とはまた別の書庫には、それこそ無尽蔵に、しかし種別ごとに整頓された本の数々が収納されていて、個人所有の図書館と化している。客が掘り出し物を探そうとするときには勿論、更には街の図書館で見つからなかった文献を探しに学生が時折やってくるくらいだから、傍目にも大したものだ。
 廊下に優作が出ると、それを一旦見送った藤麻は障子を閉じた。
「ふむ……」
 ちらりと史城を見遣った後、彼はこんなことを口にした。
「こんな話、聞いたことはないかな。――土中に埋められた死者が生を諦めるまでには、それから季節が四つ巡る必要があると。最初は地上の空気を肉体が渇望するために、魂も生き延びようとするんだが、夏の腐敗と冬の凍結により身体は朽ち、霊魂も諦観するようになる……」
「聞いたことはないな」
 あっさりと史城は答える。
「そうか……、僕の覚え違いかな」
「色々な本の逸話が混ざっているように聞こえるな」
「けれど……、桜の木の下に死体が埋まっている、という寓話は、あながち作り物だと切って捨てるわけにもいかないと思うんだよ」
「というと?」
 史城が問うと、如何にもといった表情で藤麻は笑った。
「あるだろう? 幾本も桜が並ぶ中で、一本だけ妙に美しく花を咲かせる木が。成長に好条件となっただろう色々な偶然が重なったのだと思う傍ら、僕などはどうしても、もしかしたらと思ってしまうんだよ」
 怪(アヤカシ)の木々。
 その存在は確かに恐ろしいが、それは人間を糧にして桜が美しく育つという現象を、人間が己の視点から怯えるだけである。
 人間だとて、他者の命を奪って生き永らえる生物であることには変わりがない。
 つまりは、それが死体であるという彼岸の情景が、現実味を失わせているのだ。
「どうだろうな。埋まっているところには、或いは本当に埋まっているのかもしれないが……、誰が好き好んで、死体が埋まっているかもしれないところに死体を埋めようとする?」
 それはまた、妙な言い方だった。
 人の行為には、その以前に何者かが同じ行為を行った可能性を常に孕んでいる。ならば、ある者が桜の木の下を掘ろうとしたとき、その下に既に死体が埋められている可能性は否定出来ない……、それは論理的に、心理的に正しいのかもしれないが。
「そういう考え方は、狡いと思う」
 つい藤麻は反駁している。
「そう思うのは、貴方の勝手だ。だが、無闇に否定も出来ないな」
 結局、明確な答えは聞かれない。
 不貞腐れそうになりながらも、藤麻は己の考えを口にする。
「気づいて欲しかったのではないかな。人々が散る桜の花に意識を向ける中で、柚木は既に桜の葉に眼を向けていた。彼ならば、他者と違った視点で桜を見てくれるのではないかと」
「違う視点?」
「桜の木、そのものだよ。つまりは……、ただでさえ、あの遊園は現在凍結中だ。人通りは極端に少ない。残留の思念なのか、桜の精霊なのかは分からないが……、その誰かが、何かを伝えようとしているのかもしれない」
「――探ってみる意義はありそうだな」
「行ってくれるかい」
 ゆっくりと頷いて、史城は言った。
「もしやすると――」
「もしやすると?」
「今、貴方の話したこと、全てが、夢物語ではないかもしれない」
 その瞬間の史城の眼は妙に冷えていて、藤麻は思わず息を呑んだ。
 それはとても沈痛な内情を秘めた感情の現われのように思えたからだ。
「一番厄介な結論は……、柚木が何者かを殺め、桜の木の下に埋め、その木の葉を菓子に使った――という展開だが。これなら、なぜ過剰に彼が危惧するのかにも、彼を脅かすのが何なのかにも、容易く説明がつくんだがね」
「……勘弁してくれ」
 先刻のお返しだ、と藤麻は笑う。
「それはないと信じてもいいな?」
「――ああ、僕の友人のことだ。僕だって、信じている」
 優作の優しさは、よく知っていた。知っている、つもりだ。それを信じたい。
「あまり、先走り……、深追いはしないように」
 藤麻の言葉に、
「分かっている」
 立ち上がり、史城は頷いた。
 屋敷の裏口へと向かうその背中を見送ってから、藤麻は待たせている友人のために、書庫に足先を向けた。


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